良心と苦しみ          2004年12月5日 寺岡克哉


 「良心」は、「苦しみ」を増やすように私は思います。

 それはつまり、こう言うことです。たとえば、ある人が自分の「良心」を育てて大きく
したとします。そうすると、その人の感じる「苦しみ」も増えて大きくなるように思うの
です。
 というのは、他人の不幸や苦しみを、自分の苦しみとして感じるようになるからで
す。その人の良心が大きくなるに従って、それまでは苦しみに感じなかったものが、
苦しみとして感じるようになるのです。

 たとえば良心が大きくなる前は、殺人事件や大惨事などのマスコミ報道を見ても、
ある種の驚きや興奮を感じるだけです。つまり「すごいものを見た!」と、心の中で
喜んでいるだけです。
 その事件や惨事に対して、胸の詰まるような痛ましさや悲しみ、恐れ、不安、ある
いは胸のムカつくような憤りなどをまったく感じないのです。それは、むかしの私の
経験からも言えます。
 しかし良心が育って大きくなると、殺人事件や悲惨な事故に対して、かなりの不愉
快さを感じます。つまり「苦しみ」を感じるようになるのです。

 また、良心が大きくなると、「苦しみの視野」が世界的に広がります。
 遠い国で起こっている戦争や貧困、差別、残虐な殺戮・・・。
 それまでは、自分にまったく関係ないこととして何も感じていなかったのに、それら
に対しても「やりきれない苦しみ」を感じるようになるのです。

 あるいは良心が大きくなると、いままで気づかなかった身近な他人の苦しみにも、
気がつくようになります。たとえば体の不自由な人、目の見えない人、高齢者・・・。
 町を歩いていて、そのような人たちの難儀している姿を見ると、自分も苦しみを感じ
てしまうのです。

 さらには仕事に成功した人や、経済的に恵まれた人であっても、そのような人の
意外な自殺の報道などを目にすれば、その人の隠された苦しみや不幸を肌で感じ
とってしまいます。

 このように良心が育って大きくなると、「苦しみの視野」が広くなり、「苦しみの感受
性」も高くなります。それで、苦しみを感じることが多くなってしまうのです。

                  * * * * *

 以上のような理由から、
 「だから、良心など持たない方が良いのだ!」
 「他人に対して無慈悲になれば、他人の苦しみなど感じなくて済むのだ!」
 「他人の不幸や苦しみにいちいち関わっていたら、自分の身がもたない!」
 「他人なんか、自分とは無関係だ!」
 「私には、他人と関わっている暇などない!」
と、このような考えに取りつかれてしまう気持ちも、分からなくもありません。

 それがさらに酷くなれば、他人の苦しみや不幸を、自分の喜びとしてしまうように
なるかも知れません。そしてそのために、自分から他人に苦しみを与えてしまうこと
さえ、あるかもしれません。
 自分の満足や喜びを得るための、いじめ、虐待、暴行、殺害・・・。そのようなこと
をする人間も皆無ではないというのが、残念ながら人類の現実のように見えます。
 とくに、社会的な閉塞感やストレスが強くなれば、他人の苦しみや不幸を自分の
喜びとしてしまう人間が増えるような気もします。

                  * * * * *

 自分の良心を育てて大きくし、わざわざ自分の苦しみを増やすよりは、無慈悲に
なって他人の苦しみや不幸を喜んでいる方が、たしかに世の中では「生きやすい」
かもしれません。
 しかし私は、たとえ自分の苦しみが多少は増えるとしても、自分の良心を育てて
行くべきだと思います。
 他人の苦しみとともに自分も苦しみ、他人の喜びとともに自分も喜ぶ。
 他人の悲しみとともに自分も悲しみ、他人の幸福とともに自分も幸福を感じる。
 そのような「心」を、ひとり一人のみんなが育てて行くべきだと思います。
 もちろん「完全な良心の達成」など、私も含めてほとんどの人にはむずかしいで
しょう。しかし、少しずつでも良心が大きくなるように、みんなで努力を続けるべきだ
と思います。

 なぜ、そう思うのか?
 残念ながら今の私には、それをうまく説明することができません。しかし私の心の
底では、それが正しいと確信しているのです。
 強いて言えば、それこそが「人間として目ざすべきもの」であると、人間の心の底
にある「神性」や「仏性」が、そのように確信させているということでしょうか。

 私のこの確信は、10代や20代のころと比べて、年をとればとるほど強くなってい
ます。年齢を重ね、世の中を広く見れば見るほど、そして人類の歴史を広く知れば
知るほど、
 「人間の良心を育てることが、人類の最重要課題だ!」
 「それこそが、人間本来の目標なのだ!」
ということが、身にしみて分かってくるからです。
 いくら科学技術や経済が発展しても、いくら情報が多くなり知識が広がっても、人間
の心が悪ければ、人類は決して幸福になれないのです。

 むかし私は、
 「人間の良心を育てるなど、理想の空論であり偽善だ!」
 「他人の不幸や苦しみは、自分の喜びなのだ!」
 「それが人間の現実なのだ!」
というような考えに惑わされ、自信を失いかけたことが多々ありました。
 しかし今は、そのような考え方は幼くて幼稚な感じがします。「良心」を育てる努力
や可能性をはじめから否定し、ただ甘えて、ダダをこねているだけの感じがします。

 「多少の苦しみが増えるとしても、自分の良心を育てるべきだ!」
 これを心の底から受け入れ、日々そのように努力を続けること。
 それこそが、人間として精神の成熟した証であると、いまの私には思えるようにな
りました。



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