唯物論の弊害         2005年3月6日 寺岡克哉


 「唯物論(ゆいぶつろん)」などと言うと、「なにやら堅苦しくて、難しそうな話だ
なあ」と、感じる人が多いのではないでしょうか?
 しかし、そんなことはありません。唯物論は、実はそんなに難しい考え方では
ないのです。

 それを今、とても大ざっぱに簡単に説明すると、次のようになります。
 「この世の全てのものは、”原子”という物質から出来ている。」
 「だから人間も、原子がたくさん集まって出来た、単なる物質にすぎないのだ!」
 「人間性や人格、心、意識、精神などと言ったものは、本当に存在するわけで
はなく、それらは人間が勝手に思い込んでいる錯覚にすぎない!」
 「本当に存在するのは、原子が集まって出来た”人間の脳”という、単なる物質
だけなのだ!」
 唯物論とは、このような考え方です。

 この「唯物論」は、物質科学文明の発展にともない、たいへん多くの人間に深く
浸透してきました。それはもはや、自分では意識できないほどに、心の奥底へ
深く浸透しているのです。
 その証拠に、「唯物論」という言葉をまったく聞いたことのない人でも、無意識の
うちに、唯物論的な考え方や感じ方をしているのではないでしょうか?

 たとえば、
 「人の心より、物と金!」
 「世の中は、物と金がすべてだ!」
と言い切ってはばからない人間は、だいたい唯物論的な傾向のつよい人間です。
 また、「人の心」や「人間性」よりも、経済や物質的な豊かさを第一に考えるよう
な社会は、唯物論の影響をつよく受けた社会です。
 そして人間が、「心をもつ一個の人格」として扱われず、使い捨ての消耗品(つま
り物)として扱われることなども、唯物論の影響をつよく受けた結果なのです。

                * * * * *

 ところで私は、この唯物論的な考え方が、「生きる意味」や「命の大切さ」に対し
て、とても大きな弊害を与えている気がしてなりません。

 それはたとえば・・・
 「なぜ、人を殺してはいけないのか?」
 「なぜ、生きなければならないのか?」
 「なぜ、自殺をしてはいけないのか?」
 このような疑問は、唯物論からすれば当然に出てくるからです。なぜなら人間
は、「ただの原子の集まり」にすぎないからです。

 唯物論では、生きている人間を二つに切り裂いて殺すのも、ただの石を二つ
に割るのも、まったく同じことです。これら両者の違いは、まったくありません。
 なぜなら、そのどちらも、「一つの、原子の集まり」だったものを、「二つの、原子
の集まり」に分けただけだからです。
 このように、人間を「ただの原子の集まり」と考えてしまったら、「なぜ人を殺して
はいけないのか」という疑問が起こるのも、もっともです。

 唯物論では、いくら人を殺そうが、暴行や強姦をしようが、虐待をしようが、そこ
には「原子の離合集散」が存在するだけです。
 ある原子とある原子が、近づいたり離れたり、一つの集団になったり、二つか
それ以上の集団に分かれたりするだけです。それらが「悪いことである!」と主張
できる根拠は、どこにもありません。
 このように唯物論は、愛、思いやり、良識、良心、善悪、道徳、倫理などの
存在基盤を、根底から打ち砕いてしまうのです!

 しかも唯物論では、人間は「ただの物質」にすぎないのだから、そもそも「生命」
とか「生死」という概念さえも、本当は存在しません。
 「単なる原子」に生命の存在するはずがなく、したがって、原子の集まりにすぎ
ない人間にも、生命の存在するはずがないからです。
 いくら、人間の体が活発に動いていようとも、体内で複雑な化学反応が行われ
ようとも、脳の中を電気パルスが行き交おうとも、人間の本質が「原子の集まり」
である以上は、そこに生命の存在する訳がないのです。
 (もしも、「人間に生命が存在する」と主張したいならば、それは単なる物質の
ほかに、「生命」という新たな特質の存在を認めなければなりません。しかしそう
すると、それはすでに唯物論ではなくなってしまいます。)

 人間も、ただの石ころも、全くおなじ「単なる物質」だとしたら、いったい何のため
に人間は生きなければならないのでしょう?
 自分が生きようが死のうが、「原子という物質」としては、まったく同じなのです。
だとすれば、なぜ悩み苦しみながら、わざわざ苦労をしてまで生きなければならな
いのでしょう?
 唯物論では、その理由がまったく分からなくなってしまいます。
 このように唯物論は、人間の生きる意味や目的をも、根こそぎに喪失させ
てしまうのです。


                * * * * *

 現代社会は、いびつで不自然なほど、唯物論に汚染されていると思います。
 人間が、まるで「物」のように扱われ、管理され、そして「消耗品」のように捨てら
れて行きます。そのため多くの人々が、生きる意味や生きる目的を喪失し、生き
がいを感じられなくなっています。

 そしてまた、「命の大切さ」を理解できない人間も、だんだんと増えているような
気がします。
 まるで、物にやつあたりをして壊すかのように、あるいは要らなくなった物でも
捨てるかのように、簡単に人を殺す人間がなかなか後を絶ちません。
 このような「現代社会の闇」は、じつはその根底に、「唯物論」が根深く影響して
いるのではないでしょうか?

 今回の考察で、「唯物論の弊害」がとても大きなことに、改めて気づかされた
次第です。



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