人を見る目を養うには    2005年5月1日 寺岡克哉


 前回は、「人を見る目を養うことの大切さ」についてお話しました。
 しかし、一体どうやったら、人を見る目を養えるのでしょう?
 この前は、そこまで触れることが出来ませんでした。それで今回は、そのことに
ついて少しお話したいと思いました。

                 * * * * *

 まずはじめに結論から言ってしまいますと、人を見る目を養うには、人生経験
を積むしかない
ように思います。

 いろいろと他人の言動にふり回されたり、騙されたり、痛い目をみながら・・・。
 そして、すべての人間が信用できなくなり、孤独に落ち込みながら・・・。
 それでも、「人を信じなければならない!」と思い直しながら・・・。
 しかし、信用してはならない人間を信用して失敗したり・・・。
 その反対に、信用するべき人間を信用できなくて後悔したり・・・。
 あるいは、長いあいだ信用してきた人間に、とつぜん裏切られたり・・・。
 その逆に、まったく見ず知らずの、赤の他人に助けられたり・・・。
 そのような人生経験を積みながら、少しずつ「人を見る目」が養われていくのだ
と思います。

 私も10代や20代の若いころは、他人の言うことをすぐ鵜呑みにして、人生を
ふり回されたことが結構ありました。
 しかしそれでも、いろいろな人間とつき合ってみなければ、そしてある程度は、
他人の言動にふり回されたり騙されたりしなければ、「人を見る目」は養われない
と思います。人とつき合うことを恐れ、それをまったく避けていては、いつまでたっ
ても人を見る目は養われないのです。

 しかしながら、性的な暴行を受けたり、多額の借金を背負い込まされたり、自殺
に追いやられたり、殺されてしまったり・・・。そのような、ひどい仕打ちや裏切りに
は会わないように、人とつき合うときは十分に注意しなければなりません。

                 * * * * *

 ところで、人を正しく見るためには、「正しい心」で人を見なければなりま
せん。


 なぜなら、自分の心のなかに差別や偏見があると、どうしても「歪んだ目」で人を
見てしまうからです。
 たとえば、派手な格好をした若者や、ホームレスのような身なりの人は、どうし
ても疑いの目で見てしまうでしょう。
 また例えば、宗教の大嫌いな人ならば、ある人が何かの宗教を信仰していると
いうだけで、その人をうさん臭く感じてしまうでしょう。
 あるいは逆の例では、尊敬している師匠や先生(サラリーマンならば、勤めてい
る会社の重役や社長)などの言動は、たとえそれが間違っていたとしても、その
言動が正しいように思ってしまうでしょう。

 そしてまた、何かの理由で精神状態が不安定になり、自分の心が正常でない
ならば、やはり人を正しく見ることはできません。
 たとえば、いじめ、虐待、失恋、リストラ、借金、離婚、怪我、病気、事故、大切な
人との死別・・・。これら人生の大きな苦難に会い、自分の心がひどく落ち込んでい
るときは、「人を正しく見ること」などとても出来ません。
 このような精神状態のときは、すべての人間が敵に見えたり、あるいは、優しく
言い寄ってうまい話をもちかける詐欺や、偽宗教の教祖などに騙されやすくなって
しまいます。
 また別の例では、熱烈な恋愛や片思いをしていると、その相手がものすごく
素晴らしい人に見えてしまうでしょう。これもある意味で、人を正しく見ていないの
です。

 このように、自分の心が正しくなければ、人を正しく見ることは出来ません。
 正しく人を見るためには、差別や偏見をなくし、心を正常に保たなければなら
ないのです。

                 * * * * *

 また、「警戒しなければならない人間」を見つける方法として、「人に言って
いること」と、「自分のやっていること」を比較する
というのがあります。

 たとえば・・・
 世界の平和と安全を訴えておきながら、自ら戦争を仕掛けるような国家元首。
 社会の不正を追及していながら、自分自身の不正が発覚するような政治家。
 青少年に性モラルの大切さを説いておきながら、自分自身の性生活がみだれ
ているような大人。
 公衆道徳の低下に憤りながら、自分は平然とくわえタバコで町を歩いたり、
タバコの吸殻をポイ捨てするような人間。
 「信号機を守り、横断歩道を渡りなさい!」と子供に教えておきながら、自分は
信号無視をしたり、横断歩道でないところを渡るような大人。

 事の大小はさまざまですが、このように「言っていること」と「やっていること」が
異なっている人間は、安易に信用してはなりません。そのような人間は、注意深く
言動を監視し、警戒しなければならないのです。

 ところで私は、人を判断するにあたって、新約聖書のつぎの言葉が参考になり
ました。
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 偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに
来るが、その内側は貪欲な狼である。あなたがたは、その実で彼らを見分ける。
茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。すべて良い木は良い実
を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い
木が良い実を結ぶこともできない。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて
火に投げ込まれる。このように、あなたがたはその実で彼らを見分ける。
                       (マタイによる福音書 7章 15−20節)
 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 上の言葉は、「良い人間」は良い結果をもたらし、「悪い人間」は悪い結果を
招いて滅びると言っています。
 つまり、その人間の言論や行動によって、最終的に何がもたらされたのか?
それによって、その人間が判断できるというのです。

 「そんなのは結果論にすぎない!」と言ってしまえばそれまでですが、しかし
人間を最終的に判断するには、結局この方法しかないのかも知れません。
 いくら人生経験を積んでも、いくら差別や偏見がなくても、いくら正常で安定した
精神状態であっても、「一目見ただけで確実にその人間が判断できる」などという
ことは、ありえないのだと思います。
 ある人間を本当に正しく判断しようと思ったら、最低でも3年ぐらいの時間をかけ
て、その人間の言動とそれがもたらした結果を、注意深く見て行くしかないように
思います。



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