私の生命の成長 1     2005年5月15日 寺岡克哉


 前回は、「大生命の木」についてお話しました。

 しかしながら、「大生命の木」という「生命の全体像」が見えたことによって、
いったい私は、何を得たというのでしょう?
 その、いちばんお話したかったことが、前回ではあまり話すことが出来ません
でした。

 私は、「大生命の木」という生命の全体像が見えたことで、「私の生命」という
ものが、ひと回り成長して大きくなったのです。
 つまり、私の考えている「私の生命」という概念。
 そして、私が心の底で実感している、「私の生命」というもの。
 そういうものが、今までよりも一段と成長して大きくなったのです。

 ところで私は、「自分の生命がひと回り成長した!」という実感を体験したこと
が、過去にも何度かあります。そしてそのつど、「私の生命」は段階的に大きく
なってきたのです。
 今回は、それらのことを振り返りつつ、「私の生命」がどのように成長してきた
のか、その過程を追いかけてみたいと思いました。

                 * * * * *

 はじめ私は、「私の肉体」と「私の自我意識」だけが「私の生命」なのだ!
と、考えていました。
 私の物心がついてから、30代ぐらいになるまでは、そのような生命観だったと
思います。そしてこれは、たいへん多くの人が同じように持っている、いちばん
典型的な生命観ではないでしょうか。

 上記の「肉体」と「自我意識」のうち、「肉体」については、とくに説明は要らない
と思います。
 他方の「自我意識」とは、私が目覚めているときに存在する、ごく普通の「私の
意識」のことです。
 それは、「私は生きている」とか、「私は存在している」と、つねに私に感じさせて
いる意識です。
 そしてまた、今日の私も、昨日の私も、1年前の私も、10年前の私も、「同じ私
である!」と感じさせている意識です。
 (この「自我意識」については、エッセイ42で面白い考察をしていますので、ぜひ
そちらも読んでみてください。)

 この、肉体や自我意識としての「私の生命」は、実にはっきりと自覚できる「私の
生命」です。
 これ以上にはっきりと自覚できる「私の生命」は、他にないでしょう。だから多くの
人が、自分の肉体や自我意識が「自分の生命」であると、心から信じて疑わない
のです。

 しかしながら、私の肉体や自我意識は、私が死ねば消滅してしまいます。
 そしてそれが、私の生きる意味や目的を、みごとに奪い去ってしまうのです。
 なぜなら生きる努力のすべてが、結局、「死んで消滅するため」にしか行われて
いないからです。
 これでは、生きることの苦しみや困難に耐えてまで、なんで生き続けなければ
ならないのか、その理由をすべて失ってしまいます。
 (ところで、金や権力や性的快楽などへの欲望も、死ねば無意味になるのは変わ
りません。だからこれらも、生きる理由や目的にならないのです。)

 だから私は「生きるため」に、私が死んでも消滅しない「私の生命」が、どうして
も必要になったのです。

                 * * * * *

 そこで私は、私の子孫も「私の生命」なのだ! と、考えることにしました。

 そしてそれは、「私の生命」という概念が、はじめて拡張された第一歩でした。
というのは、私の子孫も「私の生命」だと心から納得することにより、私の肉体と
自我意識を超える「私の生命」を、初めて得ることができるからです。

 そして多くの人にとっても、
 自分の子供が、自分の命よりも大切になったとき。
 自分の子供が、「自分の命」になったとき。
 つまり「自分の生命の本体」が、自分の肉体や自我意識ではなく、自分の子供
になったときに、「私が死んでも子供さえ生きていれば、私の命は消滅しない!」
と、心から実感できるのではないでしょうか。
 そしてまた、「孫の顔を見るまでは死ねない!」という言葉も、自分の子孫を
「自分の生命の延長」として捉えているのだと思います。

 しかしながら・・・ 私は未だに独身で子供がいません。しかも、(その意思は全く
ありませんが)もしも私が将来に結婚したとしても、私の子孫が永遠に続くという
保障はどこにもないのです。

 なぜなら、
 もし運良く、私が結婚できても、私に子供が授からなかったり・・・。
 もし運良く、私に子供が授かっても、その子供が成人になる前に死んだり・・・。
 もし運良く、私の子供が成人になっても、その子供が結婚できなかったり・・・。
 もし運良く、私の子供が結婚できても、私の孫が授からなかったり・・・。

 このように、たった3代先まで考えただけでも、私の子孫が絶対に続くという
保障はどこにもありません。
 今後、もしも私が運良く結婚して子供を授かったとしても、10代先まで私の子孫
が続いている可能性は、ほとんどゼロに近いでしょう。

 だから私は、私の子孫だけが「私の生命」であるという生命観に、満足できなく
なりました。それで、「私の生命」という概念を、さらに拡張する必要に迫られたの
です。


 申し訳ありませんが、この続きは次回にお話したいとおもいます。


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