大自然の強制力       2007年3月11日 寺岡克哉


 私がこれほどまでに、地球温暖化の深刻さを世間に訴えようとするのは、
「大自然の強制力」には絶対に逆らえない!
 という思いがあるからです。

 一人でも多くの人に、その「ある意味の恐ろしさ」を、実感するレベルまでに
知ってほしいのです。

 たぶん私に、物理学の実験研究をしていた経験がなかったら、これほどの
気持ちにはなれなかったと思います。


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 二酸化炭素には「温室効果」があります。
 だから、二酸化炭素を大量に排出すれば、地球温暖化は必ず進行します。

 事の本質は、これだけです。
 そしてそれは、水が高いところから低いところに流れるように、あるいは、上に
放り投げた石が再び下に落ちてくるように、まったく当然のごとく起こります。

 それは、全ての人間が何と言おうと、そのようになります!
 それが、自然法則的な力、つまり「大自然の強制力」なのです。

 経済発展を止めることはできない!
 今のような便利な生活を、手放すことは出来ない!
 と、全人類がそのように大合唱をとなえたとしても、二酸化炭素を大量にだす
かぎり、地球温暖化は絶対に進行するのです。


                  * * * * *


 今の社会は、ある意味で「人文科学的なセンス」というものに、支配れているよ
うな気がします。そしてそれは、自然科学の分野といえども例外ではありません。

 この「人文科学的なセンス」とは、政治、経済、あるいは宗教などの分野で通用
しているセンスです。

 たとえば、
 みんながそう思えば、そのようになる。
 権威や権力のある者が言えば、そのようになる。
 権力組織が定めれば、そのようになる。
 お金の力で何とでもなる。
 上の者が白と言えば、黒いものも白くなる。
 嘘でも言い続けていれば、そのうち本当になる。
と、いうようなセンスです。

 つまり、大多数の者がそう思えば、権威のある者がそう言えば、巨大な権力
組織がそう定めれば、それが「事実」になってしまうような世界です。

 たとえば「信用貨幣」などは、その典型的な例でしょう。
 「日本国」という権力をもった巨大組織が、「ただの紙」を印刷するだけで、それ
は立派な「お金」になるのです。
 そして日本国民のみんなが、「日本銀行券」という印刷物を「お金」だと思い込ん
でいるので、それが「お金」として通用するのです。

 また昔、ある有名な政治家が「嘘でも言い続けていれば本当になる!」と言った
のを私は覚えていますが、これなども「人文科学的なセンス」の典型的な例だと
思います。
 最初は「事実」でなくても、それを大々的に宣伝し、だんだん皆がそう思うように
なれば、それが立派な「事実」となってしまうのです。

 あるいは、その逆の場合もあるでしょう。本当は「事実」として確かに存在して
も、皆でそれを否定すれば、それは「事実」でなくなってしまうのです。
 その例として、未だに一部の人々は、「進化論」を事実として認識していませ
ん。また、地球温暖化論争などでも、当初はそのような戦術を使って、地球温
暖化の事実を消し去ってしまおうと企む人々もいたように思えます。


                  * * * * *


 ところで・・・
 1999年の9月に、東海村のウラン工場で、「臨界事故」というのが起こりま
した。

 それは、大量のウラン燃料を一ヶ所に寄せ集めたために、核分裂の連鎖反応
が起こったのでした。
 つまり、ウラン燃料にとつぜん「原子の火」がともり、遮蔽物も制御装置も何も
ない、「裸の原子炉」になってしまったのです。あるいは、ゆっくりと進行する
「核爆発」が起こったと言ってもよいかも知れません。

 ちなみに、そのような核分裂連鎖反応が起こる条件、つまり原子の火がともる
条件、核爆発のおこる条件のことを、「臨界条件」といいます。
 この「臨界条件」は、大量のウラン燃料を、一ヶ所に集中させることによって
達成されます。
 例えて言えば、1つの部屋に1個の電球しかなければ問題ありませんが、1つ
の部屋に1000個や10000個もの電球を詰めこんで明かりをつければ、絶対
に火事になるようなものです。

 この「臨海事故」では、工場の外にも放射能が漏れました。半径10キロ以内
の、およそ30万人の住民に、屋内退避の措置がとられました。それは日本で
起こった、史上最悪の原子力事故です。

 こんなすごい事故の起こった原因は、作業の効率を良くするために「裏マニュ
アル」なるものを作り、「バケツ」を使ってウラン燃料を一ヶ所に注ぎ込んだため
でした。


 これなどは、科学技術の分野が「人文科学的なセンス」に支配された結果、
起こった事故といえるでしょう。

 いくら、バケツでやった方が作業効率が良くなると言っても、
 いくら、その方法が経済性に優れていると言っても、
 いくら、上の者が「それで大丈夫だ!」と言っても、
 ある一定量以上のウラン燃料を、一ヶ所に集中させてしまったら、核分裂連鎖
反応(つまり核爆発)が起こってしまうのです。

 それは、誰が何と言おうと、世界中の人間がそれを否定しようとも、臨界条件が
達成されてしまったら、核分裂連鎖反応はかならず起こります。それが、自然法則
的な強制力、つまり「大自然の強制力」なのです。


 また最近は、「科学データの捏造(ねつぞう)」というのが、よく世間を騒がせ
ています。
 これなども、科学技術の分野が「人文科学的なセンス」に支配された結果、
起こっていると言えるでしょう。

 いくら、権威のある科学者であっても、
 いくら、巨大な企業であっても、
 いくら、巨大なマスメディアであっても、
 データの捏造によって「科学的な事実」を変えること、つまり「大自然の事実」を
変えることは、絶対にできないのです。

 そこら辺のことを、しっかりと理解していないと言うか、軽く見て侮っているという
か、そのような感覚でいるから、「データの捏造」などと言うのが起こるのでしょう。


                  * * * * *


 人文科学的なセンスとは、例えて言えば、
 「赤信号、みんなで渡れば恐くない!」
というようなセンスです。

 一方、自然科学的なセンスは、
 「高い崖、みんなで落ちれば、みんな死ぬ!」
というようなセンスです。

 二酸化炭素に温室効果が存在するかぎり、それを大量に排出すれば、絶対に
地球温暖化が進行します。

 みんなで二酸化炭素を出しても、絶対に「恐くなくなること」はありません。
 みんなで二酸化炭素を出せば、みんなが破滅するだけです。
 これはもう、誰が何と言おうと、決まりきったことなのです。

 そのような「自然科学的なセンス」、つまり「大自然の強制力」を重く見て恐れ、
それを絶対に侮ってはいけないというセンスが、今とても重要になっていると
思います。



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