自己愛の落とし穴      2002年9月22日 寺岡克哉


 これまでお話して来た「自己肯定の努力」を行う場合に、ひとつ注意をしなければ
ならないことがあります。
 それは、自己愛にはエゴイズムなどの「間違った自己愛」と言えるものが、多々
存在することです。
 「間違った自己愛」には、エゴイズム、自信過剰、自意識過剰、ナルシシズム、
自己陶酔などがあります。
 エッセイ13で少し触れましたが、「間違った自己愛」を持ってしまうと、周囲の人
間に苦しみと不幸をばらまいてしまいます。そして「生命の肯定」を不可能にしてし
まいます。
 だから、自己肯定の努力を行う場合には、「正しい自己愛」を目指さなけれ
ばならないのです。


 そこで今回は、「正しい自己愛」と「間違った自己愛」について、少し考えてみたい
と思います。
 「正しい自己愛」と「間違った自己愛」は、ニュアンスの差がとても微妙です。だか
ら一般に混同されやすく、気をつけなければなりません。「正しい自己愛」と「間違っ
た自己愛は、「愛の感情」や「心の感覚」としては、非常に良く似ているのです。
 だから自己愛には、「理性」が伴わなければなりません。「正しい自己愛」とは、
エッセイ6でお話した「理性的な自己愛」なのです。
 さらには自己愛だけでなく、もっと一般的に「正しい愛」と「間違った愛」は、愛の感
情としては同じであると私は思っています(エッセイ13参照)。だから、理性を伴わ
ない感情だけの愛は、非常に危険だと考えるのです。
 ここのところ、「愛の実感」や「愛の感情」を強調する話が多かったので、ここで注
意を喚起する必要を感じました。

 「正しい自己愛」のニュアンスを述べてみますと、大体つぎのようです。
 正しい自己愛とは、自分の信念を貫き通すことですが、自分勝手なエゴイズムを
押し通すことではありません。
 正しい自己愛とは、自分の存在を好ましく感じることですが、ナルシシズムや自己
陶酔のことではありません。
 正しい自己愛とは、自分に自信を持つことですが、自信過剰や自意識過剰のこと
ではありません。
 このように、「正しい自己愛」と「間違った自己愛」は、ニュアンスの差がとても微妙
です。
 しかしながら、「正しい自己愛」は人間を「生命の肯定」へと導き、「間違った自己
愛」は人間を「生命の否定」へ陥れるという、非常に大きな差があるのです。

 例えば、「間違った自己愛」は、自己否定の人間にも存在しています。私もそうな
のですが、自己否定の人間はえてしてプライドが高く(自意識過剰)、何でも自分の
思い通りに行かないと気が済みません(エゴイズム)。しかも、あらゆることにおい
て、自分の実力以上のことを出来るのが当たり前だと思い込んでいます(自信過
剰)。そのために、コンプレックスや挫折感、ストレスを多く抱え込んでしまうのです。
 そして、自分自身を憎むと同時に、周囲の人間をも憎んでしまいます。
 自分自身を憎むのは、自分が理想とは程遠い人間だからです。それで自分が
情けなくなり、「生きていても意味が無い!」などと考えてしまうのです。
 また、周囲の人間を憎むのは、周囲の人間の存在が、自分にコンプレックスや挫
折感を感じさせるからです。
 心の底にこびりついたコンプレックスや挫折感は、色々な形で自分の思考に悪い
影響を及ぼします。世の中を歪めて認識し、否定的な思考に凝り固まってしまいま
す。
 例えば、戦争や環境破壊など、人類に対する否定的な理由を色々と挙げて、「こ
の地球から人類など消え去ってしまえば良いのに!」などと思ってしまいます。
 このように「間違った自己愛」は、「自己否定」や「生命の否定」を増大させてしま
うのです。

 また、自己否定に取り憑かれていない人間であっても、「他人などどうなっても自
分さえ良ければいい!」と言うような自分勝手なエゴイズムを押し通せば、周囲に
苦しみや不幸をばらまいてしまいます。そして、周囲の人間から怒りや憎しみを買
ってしまいます。
 常に周囲の人間から憎まれれば、いくら自分では強がって見せても、やはり自己
否定や生命の否定に、だんだんと陥ってしまうのです。

 ところが一方、「正しい自己愛」の人間にも、ある意味でのエゴイズムが存在して
いるのです。しかもそれは、かなり強烈なものです。
 このエゴイズムは、周囲の人間からいくら反対されても、さらには自分の身が危険
にさらされても、人類の理想や平和の実現を追い求めるという、行動や信念として
現れます。
 例えば釈迦は、この世を苦しみから救うための悟りを得ようとして、周囲の反対を
振り切り、妻子を捨ててまで出家をしました。
 またキリストは、自分が磔にされて殺されると分かっていながら、最後まで自分の
主張を取り下げませんでした。
 私はそれらを「正しい自己主張」と呼び、自分勝手な単なるエゴイズムとは区別し
たいと思います。
 このように、「正しい自己愛」の人間にも、強烈なエゴイズムが存在します。しかし
それは、人々を隣人愛や慈悲、つまり「生命の肯定」へと導くためのものなのです。
 以上のように、「正しい自己愛」は人間を生命の肯定に導き、「間違った自己愛」
は人間を生命の否定に陥れるのです。

 ところで、「罪の意識が大切だ」とか「自己否定の精神が大切だ」などと、よく言わ
れることがあります。しかしこれも、自己否定を招きかねない言葉だから注意が必
要です。
 確かに、エゴイズム等の間違った自己愛を持ってしまうと、他人を思いやるという
「愛の心」が持てなくなってしまいます。そして、自制心や謙虚さも無くなってしまい
ます。だから、「罪の意識が大切だ」とか「自己否定の精神が大切だ」と、よく言わ
れるのです。
 しかし私は、「正しい自己愛」を持つことが出来れば、「罪の意識」や「自己否定の
精神」は不要であるばかりか、返って有害であると考えています。
 本当に必要なのは、「罪の意識」や「自己否定の精神」を持つことではなく、「正し
い自己愛」を持つことなのです。

 エッセイ17でお話しましたように、全ての愛は、自己愛から始まります。
 「生命の肯定」は、「自己肯定」から始まるのです。
 これまで延々と、自己愛をもつための考察を行ってきたのは、最終的には、生命
を肯定するためです。
 しかし、「生命の肯定」へ至るための自己愛は、「正しい自己愛」でなければならな
いのです。

 自己肯定を誤解して、「間違った自己愛」を持ってしまうと、自己否定や生
命の否定に陥ってしまいます。
 生命を肯定するためには、「正しい自己愛」を目指さなければならないの
です。




               目次にもどる