与える愛について     2002年10月27日 寺岡克哉


 相手に愛されるかどうかに関わりなく、自分から相手に愛を与えて行く
こと・・・ それが、愛と幸福を増大させる本質でした。
(エッセイ35参照)

 今回は、この「与える愛」について、もう少し詳しく考えてみたいと思います。

 「与える愛」は、相手の思わくに左右されません。
 なぜなら、相手の愛が得られるかどうか、そんなことは全く気にしないで、自分か
ら相手に愛を与えることが可能だからです。
 「与える愛」を実践すれば、相手の気を引こうと躍起になったり、相手の愛を得よ
うと必死になって、ビクビクすることがなくなります。つまり、相手の思わくの奴隷に
ならないで済むのです。
 相手の考えがすごく気になったり、相手の言うがままになってしまうのは、「愛の
見返り」を求めているからです。愛の見返りを求めると、どうしても、相手に依存し
てしまいます。
 「与える愛」は見返りを求めません。だから「与える愛」の実践をすれば、自己の
精神的な独立を守ることが出来るのです。

 「与える愛」は、裏切られることがありません。
 「裏切り」は、愛の見返りの契約を破ることによって生じるからです。
 つまり裏切りは、ギブアンドテイクの約束を守らないことによって生じるからです。
 例えば・・・
 「私がこんなに愛しているのに、あなたは少しも愛してくれない!」とか、
 「あなたは、私よりも他の人を愛している!」
 というのが、「裏切られた!」と感じる時の心情でしょう。しかしこれは、自分が与え
た愛に見合うだけの、愛の見返りが無かったので、このように思ってしまうのです。
 せっかく自分が苦労して愛を与えたのに、それがペイしなかったので、怒りや憎悪
が込み上げるのです。
 しかし、始めから「愛の見返り」を求めなければ、このような感情は起こりません。
 だから、「与える愛」に対する裏切りは、原理的にあり得ないのです。

 しかしながら、「恩を仇で返される」場合もあるかも知れません。
 せっかく相手に信頼と愛情を寄せていたのに、反対に恨みや憎しみを買ったり、
さらに最悪の場合には、暴行や殺害などの危害を加えられることも、あるかも知れ
ません。
 しかしそのような場合でも、「与える愛」に対する裏切りは、原理的に存在しないの
です。
 それを明確に証明してみせたのが、キリストです。
 キリストは、貧しい人、病気の人、体の不自由な人、精神を病んでいる人、社会的
に差別を受けている人に対して、愛と癒しを与え続けました。しかし最後には、磔に
されて殺されてしまいました。
 周囲の人間に愛を与え続けた結果、その報いが磔による死なのです!
 十字架につけられた時キリストは、「父(神)よ、彼ら(自分を磔にした人間たち)を
お赦し下さい。自分が何をしているのか知らないのです。」と、いう言葉を発してい
ます。
 そんな状況下であっても、キリストは決して、「民衆に裏切られた!」というような、
恨みや怒りの感情を持ちませんでした。
 磔にされたキリストは、信頼していた弟子達に逃げられ、周囲からは罵られ、手足
を杭で打ち抜かれた激痛に耐えていました。
 しかし、そんな状況でもキリストは、周囲の人間に愛を与え続けていたのです!
 キリストは、「与える愛には裏切りが存在しない!」ということを、身をもって証明し
てくれたのです。

                 *     *     *

 前回から色々と議論が飛んだので、ここで少し、「与える愛」について整理したいと
思います。

 「与える愛」とは、見返りを求めない愛、つまり「無償の愛」です。
 相手に愛の見返りを求めると、相手の奴隷になってしまいます。
 「与える愛」は、精神的な「個の自立」を確立するために、必要不可欠なものだと
言えます。

 「相手を無批判に信用すること」と、「愛を与えること」は、別の概念です。
 例えば、「私を信用しないのは、私を愛していない証拠だ!」などという言葉は、そ
の人間を操ろうとする詭弁です。なぜなら、信用しない相手に対しても、愛を与える
ことが可能だからです。
 極端な場合では、敵や、自分を殺すかもしれない相手に対してさえも、愛を与える
ことは原理的に可能です。だから、「相手を信用すること」と、「愛を与えること」は、
別の概念なのです。
 確かに、「相手を信用してあげること」は、「愛を与えること」の範疇に入ります。しか
し「愛を与えること」とは、決して、相手を無批判に信用することではないのです。

 「相手から嫌われないようにすること」と、「愛を与えること」は、別の概念です。
 「愛を与える」とは、相手の機嫌を取ることではないからです。
 また、「相手の考えに自分を無理に合わせること」と、「愛を与えること」も、別の概
念です。これも、「与える愛」とは「ご機嫌取り」のことではないからです。
 自分と違う考え方の持ち主にでも、愛を与えることは可能です。そのような人とで
も、お互いの人格を尊重し合うという、「与える愛の関係」は成立するのです。

 なお、「与える愛」とは、「俺は、おまえに愛を与えてやっているんだ!」と、言うよう
な、自分勝手で不遜なものではありません。
 「与える愛」とは、相手の人格を思いやり、相手のことを第一に考える愛だからで
す。

 愛と幸福は、最終的には、自分の心の中にしか存在しません。
 経済的に恵まれ、病気や怪我もなく、外見上はいくら幸福な状態であっても、「自分
は不幸な人間だ!」と思い込んでしまったら、やはりその人間は不幸です。
 周囲の人間からいくら愛されようとも、「自分は憎まれている!」と思い込んでしまっ
たら、その人間は孤独です。

 自分の心の中に「愛」がなければ、結局、その人間は不幸です。
 「与える愛」は、愛と幸福を増大させる本質です。
 「愛を与えること」は、自分の心の中に愛を宿し、それを育む行為なのです。




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