性愛について           2002年3月31日 寺岡克哉


 性愛(セックス)も、大変に強い愛の感情です。

 性愛は、直接の生殖行為です。
 性愛は、子孫を残し、種族を維持するためにあります。
 全ての人間は、性愛によって生まれました。性愛がなければ、人類は絶滅してし
まいます。
 性愛によって人が生まれなければ、科学文明、経済発展、文化、芸術など、これ
ら人類の営みの全てが成り立たなくなってしまいます。過去の偉大な人物も、全て
性愛によって生まれました。
 それほどまでに、性愛は大切なものです。

 しかしながら性愛は、大きな快楽を伴い、また、お金にもなります。そのため、性愛
はコマーシャリズムによって過剰に煽り立てられています。
 この異常に煽り立てられた性欲に振り回されて、無責任な性愛に走る人間も少な
くありません。そして色々なトラブルを招いています。
 不倫による家庭崩壊、望まない妊娠による中絶・・・。
 最悪の場合は、情死、妊娠を苦にしての自殺、生まれてしまった赤ちゃんを殺して
しまうこと・・・などが挙げられます。
 また、異常に駆り立てられた性欲によって、少女買春や婦女暴行、強姦殺人など
の犯罪も起こっています。

 今の世は、
 ドブ川のヘドロのような汚いものを、
 「愛だ!愛だ!」と、騒いでいる。
 家庭を壊して何が愛か!
 胎児を殺して何が愛か!

 性愛は、恋愛の末に到達するのが本当です。性愛は恋愛以上のものです。
 妻あるいは夫、さらには生まれてくるであろう子供のために、自分の人生を捧げよ
うと決意する愛です。大変に大きな責任を伴う愛です。
 恋愛は、性愛に比べるとまだ無責任で良いのです。「生涯を捧げるのにふさわしく
ない相手だ」と、お互いに了解したならば、恋愛の場合は相手を替えてもまだ許され
るのです。
 なぜなら、生殖行為という「生命の契約」が、まだなされていないからです。性愛は、
相手との生命の契約を通して、一生の責任を担う愛なのです。

 しかしながら、恋愛以下の性愛もたくさんあります。単に快楽を貪るだけの性愛や、
金を得るための性愛です。恋愛感情も、相手の人格に対する尊重も、子供を生み育
てる意志もない性愛です。
 こんなものは、動物の交尾以下の行為です。動物の交尾は、子を生み、種を保存
するために行われるからです。動物の交尾の方が、生命の正しい目的のために行
われているからです。

 生きて行くため、自分の子供を飢えさせないために、仕方がなく性愛によって金を
得る女性の場合があります。
 本当に飢え死にしてしまい、それしか生きる方法が無いのならば、この場合の性愛
は生命の目的に適っていると、まだ言うことが出来ます。
 しかしながら、敗戦直後の貧しい時代ならいざ知らず、飽食の時代といわれる現代
において、そのような理由はもはや通用しません。

 ところで、「快楽や金を得るための性愛がなぜ悪い!」とか、「他人に迷惑はかけて
いない!」と、言う人がいるかも知れません。しかしそれは間違っています。
 快楽や金を得るための性愛は、悪いのです!
 なぜならそれは、生命の尊厳を蔑ろにしているからです。生命を弄んでいるからで
す。生命の摂理に背いているからです。生命をバカにしているからです。
 性愛は、「生殖行為」という、生命の生まれる根源的な営みです。
 快楽や金を得るための性愛は、「繁殖」という生命にとって大切な目的を、完全に
愚弄しています。生命の根源的な営みを蔑ろにし、踏みにじり、おとしめているのです。
 生命の根源的な営みをおとしめれば、それは生命の価値もおとしめることになりま
す。ひいては、自分の生命の価値や、自分の存在意義もおとしめることになります。
 だから、このようなことを長く続ければ、生きる意義を失い、生きていても面白くな
くなります。
 生きる意欲が喪失し、生きているのが辛くなって行きます。
 生きることの意味が、だんだんと分からなくなって行きます。
 快楽や金を得るための性愛は、生命の根源的な営みを踏みにじることによって、
生命の存在意義も、生きる意味も踏みにじっているのです。

 この「生命の踏みにじり」は、たぶん無意識のうちに、深層心理に徐々に焼きつけ
られて行くのだろうと思います。
 顕在意識では、性愛による快楽を思う存分に楽しんでいるはずです。
 しかし快楽や金のための性愛を長く続けていれば、生きていても面白くなくなって
行きます。生き生きとしなくなって行きます。目の輝きが失われ、生命が暗くなって
行きます。
 これは、無意識の深層心理の中に、生命の踏みにじり、生命に対する愚弄が、
徐々に、しかも深く焼きつけられて行くからではないかと、私は考えています。
 だから、快楽や金を得るための性愛は悪いのです。自由気ままな性愛は、
生命の尊厳を踏みにじり、生きる意欲を失わせる行為なのです。


 性愛が、男女のコミニュケーションの一種だとか、健康やストレスの解消に良い
とか、スポーツのようなものだとか、性ホルモンの分泌が多くなって美容に良いとか、
ダイエットに有効だとか、等々、そのような無責任な言論を耳にすることがあります。
 しかしそれらは全て間違いです。これらは、「生命の摂理」を理解しない者のいう
言葉です。
 生命の摂理を蔑ろにし、生命の尊厳を踏みにじる行為を長く続ければ、だんだんと
生命が暗くなり、生きる意欲を喪失して行くのは目に見えています。

 ところで・・・
 さみしくて、孤独で、生きている意味も理由も分からず、生きるための最後の抵抗
として、やみくもに不特定多数との性愛に走ってしまう人もいるかも知れません。
 そのような人には、是非とも、もっと高度な愛を目指して欲しいと願ってやみません。
 高度な愛とは、隣人愛や人類愛、あるいは慈悲(生きとし生きるもの全てに対する
愛)などといったものです。
 生きるための抵抗を試みる人たちにとっては、その方が確実に有益です。やみくも
な不特定多数に対する性愛よりも、隣人愛や人類愛や慈悲の方が、はるかに優れて
います。
 そのことは、釈迦やキリストなどの、「高度な愛」の思想家が現われて以来、2500年
もの歳月をかけて、世界中の多くの人達によって証明されて来ました。
 「不特定多数に対する性愛よりも、隣人愛や人類愛や慈悲の方が優れている!」
 この主張に、正当な根拠を持って反論できる人は、まずいないと思います。

 性愛を生きる拠り所にすれば、年をとって性交の能力が無くなれば、生きる拠り所を
も、喪失してしまいます。
 すでに夫婦の間に子供がいるのに、ED(勃起不全症)やセックスレスを問題にするの
は、性愛を生きる拠り所にしているからです。
 性愛は、年をとれば必ず消失します。多少早いか遅いかだけの違いです。
 しかし、隣人愛や人類愛や慈悲は、一生持ち続けることが出来ます。それどころか、
心の修養を重ねることにより、年を取れば取るほど、これらの愛は大きく深くなって行
くのです。


(注) このエッセイでは、「生命」の概念に対して、「動物的生命」と「理性的生命」
   の概念が混同しています。そのために「生命の踏みにじり」という概念が分か
   りにくいかと思います。エッセイ8「生命について」の冒頭に補足説明がありま
   すので、そちらも参照して下さい。 (2002年5月8日書き込み)


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