理性と感性         2003年4月6日 寺岡克哉


 生命の肯定は、「理性」で行うものでしょうか? 「感性(感情)」で行うものでしょう
か?
 私は最近まで、生命の肯定は、意識的な「理性」によって行うものと、ずっと考えて
来ました。というのは、私の「感性」が、生命を否定していたからです。以前の私は、
「無意識的な感性が、自動的に生命を肯定する」という実感を知らなかったのです。
 しかし今では、「生命の肯定」は、理性と感性の両方で行うものだと考えるように
なりました。「理性」によって生命肯定の努力を続けているうちに、私の「感性」が生
命を肯定するようになって来たからです。

 「感性による生命の肯定」を実感すると、「理性だけでは、どうしても真の生命の肯
定には到達できない!」と、いうことが分かります。
 色々と論理的な理屈を並べ、理性で一生懸命に生命を肯定しても、なぜか「カラ元
気のような空しい感じ」がするのです。
 しかし最初のうちは、「理性による生命の肯定」は大変に重要です。まずはじめに
「理性」によって生命を肯定しなければ、「感性」が生命を肯定することはありえない
からです。
 「理性」が生命を否定していれば、生命の肯定は永遠に実現できません。「理性」
が生命を否定しているのに、「感性」がいきなり生命を肯定することなど、普通は考
えられないからです。
 しかし、その逆は可能です。「感性」では生命を否定していても、「理性」は生命を
肯定することが出来るのです。これが「理性」のすごい所です。
 だから「生命の肯定」の第一歩は、「理性による生命の肯定」から始まります。この
意味で、「理性による生命の肯定」は非常に重要なのです。

 しかしながら、心の底から自信が湧き出てくるような生命の肯定は、「感性」によっ
てなされるのです。感性による「生命肯定の感覚」が実感できて初めて、
 「生きることは素晴らしい!」
 「この地球に生命が存在するのは素晴らしい!」
と、いうことが、心の底から納得できるのです。
 そして、
 「自分と宇宙が一体になる!」
 「自分と神が一体になる!」
 「神の光を全身に浴びる!」
 「自分の体が光に包まれる!」
 「自分の体から、愛の光と波動が放出される!」
 「自分の体に聖霊が降りてくる!」
 「神の国、天の国へ入る!」
 「涅槃(ニルヴァーナ)に入る!」
 「永遠の命を得る!」
等々の言葉が、感性による「生命肯定の感覚」を実に良く表し、しかも的確に表現
していることが、実感として理解できるのです。
 「生命肯定の感覚」を実感する前の私には、これらの言葉を知識としては知って
いても、その真意を心の底では理解できませんでした。

 ところが、感性による「生命肯定の感覚」ばかりを増長させると、非理性的で盲
目的になってしまう危険性があります。だんだんと思考が感覚的になり、論理的な
思考が鈍くなって行くのです。
 そして、「生命肯定の感覚」を実感したことのない人間に対して、ある種の見下す
ような感情を起こしてしまうことがあります。
 例えば、
 「あの人間は、真の生命を持っていない!」
 「あの人間は、永遠の生命を持っていない!」
 「あの人間は、死人である!」
 「あの人間は、動物としてしか生きていない!」
 「自分は神に愛され、神に選ばれた人間なのだ!」
と、いうような感情です。
 これは、大変に危険な感情です。
 
私は、感性による「生命肯定の感覚」を実感するようになってから、以前にも増し
て、このような「他人の生命を蔑視する感情」が大変に危険であることを、確信す
るようになりました。
 偽宗教(間違った宗教的概念)に取り憑かれた狂信者が、他人の生命を軽んじ
る気持ちを、自分の実感として理解できるようになったからです。
 感性による「生命肯定の感覚」が強くなればなるほど、「理性の力」も強化して行
かなければならないのです。

 「真の生命の肯定」とは、理性と感性のバランスの取れた無限の向上にあると、
私は考えています。理性と感性がお互いに切磋琢磨し、その両方の能力が限りな
く上昇して行くのです。「真の生命の肯定」とは、そのようなものだと私は思います。
 だから、自分の意思決定を行うときに「理性」の比重が大きな人は、「感性」を磨
かなければなりません。逆に、「感性」の比重が大きな人は、「理性」を強化しなけ
ればならないのです。

 「理性の比重が大きな人」は、感性による感覚的な話を、「根拠のない自己陶酔
に過ぎない!」と、考えてしまいます。そしてそれが、「真の生命の肯定」を不可能
にしてしまいます。
 このような人は、「生命肯定の感覚」を増大させるイメージトレーニングが必要で
す。そして、愛の感情を高め、自然に対して感動できる能力を高めるのです。
 例えば、
 温かさと優しさの「雰囲気」を、自分の身にまとっているような感覚。
 自分の体から、愛の光と波動が放出されるような感覚。
 心の底の泉から、愛が湧き出してくるような感覚。
 自然の恵みに感謝し、「神の愛と光」を全身に浴びるような感覚。
 大生命の「大愛」に抱かれ、包まれているような感覚。
 そして、「地球の全ての生命が大好き!」と、いうような感情。
等々を、育てて行くことが必要です。

 一方、「感性の比重が大きな人」は、理性的で論理的な話を、機械的で感情の
伴わない、非人間的で冷たいものと感じてしまいます。つまり、「理性」に対する嫌
悪感を持ってしまうのです。そしてそれが、盲目的な狂気に走らせてしまう遠因と
なるのです。
 「感性の比重が大きな人」は、常に理性的になるように心がけなければなりませ
ん。感情が高まり過ぎたら、少し頭を冷やして冷静になるのです。
 「理性」をぬきにして、「真の生命の肯定」は絶対にあり得ないことを、常に肝に
命じていなければなりません。
 そして、神は人間に対して、
 殺すな!、姦淫するな!、盗むな!、偽証するな!、貪るな!
と、厳しく命じていることを、心の底に浸透させなければなりません。どのような理
由であれ、「神の言葉」としてこれらが曲げられることは絶対にありません。
 これらの言葉を破った時点で、その宗教は「偽物」であることが、神の義によって
証明されます。つまりこれらの言葉は、「正しい宗教」を維持し、守って行くための
根幹なのです。

 宗教の問題点は、「強烈な感情」を理性によってコントロール出来なくなると、盲
目的、狂信的、排他的になってしまうことです。
 科学的合理主義の問題点は、機械的、効率的、非人間的な「冷たい理性」が増
長しすぎて、「人の心」や「人情」を喪失させてしまうことです。
 「愛の感情(感性)」と「人間的な温かい良識(理性)」の両方を、限りなく向上
させて行くところに、「真の生命の肯定」があると私は考えます。




            
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