経済という宗教       2003年5月25日 寺岡克哉


 今の日本で、「神のために死ぬ!」とか、「神は自分の命よりも大切だ!」などと
公言をすれば、異様で危険な感じがします。このようなことを周囲に言いふらせば、
何やら過激な宗教の、狂信者だと決めつけられてしまいそうです。

 しかし、例えば戦前の日本では、「お国のために死ぬ!」と公言をしても、狂人扱
いをされないどころか、逆に、周囲から称賛されたのではないかと思います。
 つまり、戦前の日本では、「お国」が「自分の命よりも大切なもの」だったのです。

 そして今の日本では、「会社のために死ぬ!」とか、「お金のために死ぬ!」
と、いうようなことが起こっても、ほとんどの人が違和感を持たないのではない
でしょうか?

 つまり今の日本では、「会社」や「お金」が、「自分の命よりも大切なもの」になって
いるのです。確かに、日本人の全てがそういう訳ではありません。しかし、かなりの
数の人が、そのように思い込んでいるのではないでしょうか?
 過労死や過労自殺。リストラや倒産による自殺。借金を苦にしての自殺。このよう
な痛ましい不幸が今の日本でよく起こるのは、「会社」や「お金」を、「自分の命よりも
大切なもの」と、考えている人が多いからではないでしょうか?

 ところで、宗教(特に一神教)を信仰する人が、「神」を、「自分の命よりも大切なも
の」と考えることがあるのは、別に不思議ではありません。
 宗教を信仰する人にとっては、「神」が存在しなければ、自分が存在する理由も、
自分の生きる意義も、喪失してしまうからです。
 神の存在を否定されたり、神に見放されたりすれば、宗教を信仰する人は生きて
行けません。宗教には、そのような性質があるのです。
 そして一方、餓死の危機が全く存在しない今の日本で起こる、過労死や過労自殺。
リストラや倒産による自殺。借金を苦にしての自殺 ・・・。

 私は、これらの痛ましい不幸が起こるたびに思うのです。
 ・・・ 今の日本人の多くは、自分が存在する理由や、自分の生きる意義を、「会社」
や「お金」に求めているのではないか?
 「会社」に勤めず、「お金」も無いような人間は、「生きる資格がない!」とでもいう
ような、激しい思い込みに取り憑かれていないか?
 今の日本人の多くにとって、「会社」や「お金」が自分の命よりも大切なもの、つま
り、宗教における「神」のような存在になっていないか?
 「会社」や「お金」を単なる生活の手段とは考えず、ある種の「信仰の対象」になっ
ているのではないか? ・・・ と。

 例えば、インド難民やアフリカ難民、アフガニスタン難民の人々に限らず、世界中
にいる多くの貧しい人々が、今の日本を見ればどう思うでしょうか?
 日本人は、子供を餓死させるほど飢えている訳ではなく、また、食料の入手が困
難な訳でもありません。
 それなのに、「過労死」をするまで働いたり、「仕事を失った!」という理由で自殺を
するのは、とても理解しがたく、信じられないことに感じるだろうと思います。
 私はこのことを思うたびに、今の日本人は、会社やお金を「宗教」にしてしまったの
ではないか? という思いが込み上げて来るのです。

 経済の発展を、盲目的(無批判)に「善」と信じて、全く疑わないこと。
 そして、「会社」や「お金」のために、自ら進んで犠牲になり、自分の命をもかえり
みないこと。
 このような社会現象を、私は「経済の宗教化」と呼びたいと思います。
 「経済の宗教化」とは、従来から日本人が言われていた、単なる「拝金主義」のこ
とではありません。今やそれを通り越して、経済が命よりも大切なもの、つまり「信
仰の対象」にまで、なってしまったということです。

                * * * * *

 私は、中世ヨーロッパの人々の「宗教への信仰」と、現代の人々の「経済への信仰」
が、大変よく似ているように思います。
 例えば、中世ヨーロッパでは「宗教の権威」が絶大であり、王侯貴族でさえも逆らう
ことが出来ませんでした。「宗教」は政治や国家を動かし、戦争さえも起こしました。
 現代における「経済」もまた、これと同じような状況になっています。「経済」は政治
や国家を動かし、戦争を起こすことも、しばしばだからです。

 また、中世における「神」と、現代における「信用貨幣(お金)」の関係も、たいへん
良く似ていると思います。なぜなら、「神の権威」も、「信用貨幣の価値」も、信じること
(信仰)によって作り出されるからです。
 ところで、「神」は見ることも触ることも出来ません。だから神は、「実在しないもの」
です。
 ところが、中世のヨーロッパでは、「神は確かに存在していた」のです。そして、「神
の権威」が、政治や国家を本当に動かしていました。それが可能だったのは、みんな
が「神の存在」を信じたからです。
 一方、信用貨幣(お金)も、実は「単なる紙切れ」に過ぎません。信用貨幣の
価値は、「実在しないもの」です。
 しかしそれでも、信用貨幣で色々なものが買えるのは、みんなが「信用貨幣
の価値」を信じ、それを守っているからです。

 現代人の、「信用貨幣」に対するこの「信仰」は、文字通り命を懸けて守っていま
す。なぜなら、過労死をするまで働いたり、借金を苦にして自殺をしたりする場合が
あるほどだからです。
 信用貨幣(お金)を、「単なる紙切れ」としか思っていなければ、このようなことが起
こるはずがありません。

 つまり、「神の権威」も、「信用貨幣の価値」も、みんなが信じること(信仰)によっ
て作られたものに他ならないのです。だから、みんなが信じることをやめれば、ある
いは信じることが出来なくなれば、「神の権威」や「信用貨幣の価値」は失墜します。
 それは、現代における「神の不在」や、国家経済が破綻した時の「信用貨幣の失
墜」を見れば明らかです。
 (例えば、第一次大戦後のドイツのインフレでは、1兆円が1円の価値しかなくなっ
てしまいました。こうなっては、信用貨幣も紙切れ同然です。)

 以上のことを逆に考えると、「経済」を信仰している人が「信用貨幣の価値」を実感
しているのと同じぐらいか、あるいはそれ以上に、「宗教」を信仰している人は、「神の
存在」を実感しているのではないかと想像できます。
 つまり、宗教を信仰する人にとっては、「お金で物が買えること」が当たり前なのと
同じぐらいに、「神が存在すること」が当たり前なのです。

 ところで「宗教」は、宗教戦争や異端審問、魔女狩りなどで、たくさんの人々の命を
奪って来ました。それが、宗教の「異常性」を顕著に示しています。
 しかしそれは、宗教を信仰する人々にとって、それほど異常なことではなかったの
かも知れません。むしろ、宗教の権威を保つためには、それらはある程度必要なこと
として、認めていたかも知れないのです。
 というのは、「経済」もそれに負けず劣らずの、いや、それ以上の人々の命を奪って
いますが、しかしそれでも、それがそんなに異常なことには思えないからです。
 例えば、植民地を得るための戦争、鉱物資源や石油を得るための戦争、武器の需
要を促し、軍事産業を守るための地域紛争。これらは全て、「経済」が原因で起こっ
ています。
 また、戦争以外では、交通事故、公害(水俣病やイタイイタイ病)、原子力発電所の
事故、リストラや倒産による自殺、過労死や過労自殺・・・ 等々。
 これら「経済」のために命を奪われた人々は、少なく見積もっても数千万人、もしか
すると一億人を超えているかも知れません。
 しかしそれは、「経済」を信仰する人々にとって、それほど異常なことではないと思
います。むしろ、経済の発展を維持し守るためには、ある程度のことは必要なことと
して、認めているのではないでしょうか。

 以上、これまでお話してきたことを考え合わせると、今や「経済」が、人類で
最大の「宗教」になったのではないかと、私は思うのです。




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