慈悲について      2003年6月29日 寺岡克哉


 「慈悲」は、約2500年前に古代インドの釈迦(ゴウタマ・シッダルタ)が説いた
「愛の概念」です。
 私は、色々とある「愛の概念」の中でも、「慈悲」は非常に理性的でしかも完成度の
高い概念だと考えています。それで「生命を肯定する正しい愛」の代表格として、よく
「慈悲」をひきあいに出すのです。
 しかしながら、「慈悲」の詳しい意味については、今まであまりお話して来ませんで
した。それで今回は、「慈悲」について少し詳しくお話したいと思いました。

 私がいつも「慈悲」という言葉を使うときは、「生きとし生きるもの全てに対する愛」
という程度の意味で使っています。
 また世間一般では、「慈悲」の意味を「いつくしみあわれむこと」としていますが、
一応はそのように理解して差し支えありません。
 しかし今回は、「慈悲」についてさらに詳しく調べて行くことにします。

 以下は、「スッタニパータ」という仏教経典の中で、釈迦が「慈悲」について説いてい
る部分です。
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 あたかも、母親が自分の一人子を命を懸けても守るように、そのように一切の生き
とし生きるものどもに対しても、無量の慈しみの心を起こしなさい。
 また、全世界に対して無量の慈しみの心を起こしなさい。
 上に、下に、また横に、分け隔てなく恨みなく敵意なき慈しみを行いなさい。
 立っている時も、歩いている時も、座っている時も、寝ている時も、眠らないでいる
限りは、この慈しみの心をしっかりと保ちなさい。
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 上の「スッタニパータ」は、仏教経典の中でも最古のものであり、釈迦が実際に話
した内容に一番近いものとされています。
 それによると「慈悲」とは、「全世界と全生命に対する、分け隔てのない無量の慈し
み」、つまり、「この世の全てに対する、平等で無限の愛」と理解してよさそうです。

 ところで、慈悲の「慈」と「悲」は、もともと別の言葉なのだそうです。
 パーリ語やサンスクリット語(インドの言語)では、「慈」とは、真実の友情、純粋の
親愛の念を意味します。そして「悲」は、「哀憐(あいれん)」 (いつくしみあわれむこ
と。なさけ。)や「同情」を意味します。
 また、南方に伝わる伝統的で保守的な仏教では、「慈」とは「人々に利益と安楽を
もたらそうと望むこと」であり、「悲」とは「人々から不利益と苦とを除去しようと欲する
こと」だそうです。
 また、チベットに伝わった仏教では、「慈」とは「あらゆる命あるものの幸福を真摯
によろこぶ気持ち」であり、「悲」は、「すべての命あるものを平等に苦しみから救お
うとする心」だそうです。そして「慈」も「悲」も、無限で普遍的で偏見がなく、しかも努
力することなしにわき起こるものなのだそうです。
 これらをまとめると、「慈悲」とは「生きとし生きるものに対する、平等で普遍的な
無限の愛」となります。

 その他、「慈悲」について言及されていることとして、「慈悲は、男女の愛を超越す
るもの」というのがあります。
 つまり慈悲は、男女の愛よりも高い次元の愛なのです。というのは、男女の愛に
は「執着」が必ず存在し、それが原因で容易に怒りや憎悪へと変わってしまうから
です。
 例えば、男と女が全てをなげうち命をかけて深く愛し合っていても、相手に裏切ら
れれば、すぐに怒りや憎悪へ変わってしまいます。しかも、その愛が強ければ強い
ほど、裏切られたときの怒りと憎悪は激しいものになります。最悪の場合は、暴力や
殺傷事件、自殺、無理心中などの原因にさえなってしまいます。そして実際に、その
ような事件がいくらでも起こっています。
 しかし「慈悲」の場合は、絶対にそのようなことが起こりません。慈悲は、執着や怒
りや憎悪を捨て去ること、つまり、それらを乗り越えることによって得られる「高いレ
ベルの愛」だからです。その意味で、「慈悲」は男女の愛よりも高い次元の愛だとさ
れているのです。

 また「慈悲」には、他者への同情やあわれみの意味もありますが、しかしそれは、
他人に対する優越感から起こる同情やあわれみではないことも言及されています。
 例えば、自分よりも強い者や、金持ち、身分の高い者、そして敵や悪人に対して
さえも、その者たちが人知れず抱えている苦しみを理解し、同情し、あわれむという
「慈悲の心」は起こりえるのです。
 そしてまた、「慈悲」は求めることがない愛、つまり「与える愛」であることも言及さ
れています。

 ところで、なぜ「慈悲」は、人間の生命も人間以外の生命も、平等に扱うの
でしょうか?

 人間は、地球で最高の高等生物であり、その他の生物よりも価値が高いはずで
す。だから人間の生命と他の生命が、全く平等であるはずがありません。
 私は、このような疑問をずっと持ち続けていました。しかし今は、それを次のよう
に理解しています。

 一つは「食物連鎖」の存在です。全ての生命は、食物連鎖によって支えられていま
す。だから植物や動物や、さらには細菌のような微生物でさえも、それらが存在しな
ければ人間も存在することが出来ません。つまり人間の生命は、動物や植物や、細
菌のような微生物によっても支えられているのです。
 ところで人間が存在しなくても、植物や動物や細菌は生きられます。しかし植物や
動物や細菌が存在しなければ、人間は絶対に生きられません。
 このように考えると、植物や動物や、さらには細菌といえども、それらの生命は尊
重されなければならず、軽々しく考えてはいけないと思えるのです。

 そしてもう一つは、現在は下等な生物であっても、未来には人間よりも高等な生物
に進化する可能性があることです。
 例えば恐竜がいた時代には、我々人間の祖先はネズミのように小さくて弱い動物
でした。恐竜たちは哺乳類の祖先を、「なんて小さくて弱い生き物だ!」と、バカにし
ていたに違いありません。
 しかし現在、ネズミのような動物の子孫が「人間」という高等生物に進化し、大発展
を遂げているのです。
 これと全く同じように、現在においてはネズミのような小動物であったり、さらには
ナメクジのような下等な生物であっても、数千万年後から数億年後には、人間よりも
高等な生物に進化している可能性が十分にあるのです。
 このように考えると、いくら下等な生物であっても無益に殺してはならず、地球に
住む全ての生命は尊重されなければならないと思えるのです。

 このように、「慈悲」という愛の概念は、生命の摂理によく適っています。
 だから、「生命を肯定する正しい愛」の代表格としてふさわしく、釈迦の時代
から2500年経ってもなお、十分に通用する概念となっているのです。



参考文献
 ブッダのことば(スッタニパータ)  中村 元訳    岩波文庫
 原始仏教 その思想と生活     中村 元     NHKブックス
 ダライ・ラマの仏教哲学講義   ダライ・ラマ14世  大東出版社



                 
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