神の愛について       2003年7月13日 寺岡克哉


 「慈悲」と「隣人愛」をお話して来ましたら、今度は「神の愛」について少しまとめて
置きたく思いました。というのは、私は「神の愛」も、「生命を肯定する正しい愛」の
代表格にふさわしいと考えているからです。
 しかし「神の愛」を考える場合には、その前にまず、「そもそも神というものが存在
するのか?」という問題を考えなければなりません。なぜなら、はじめから「神の存
在」を完全に否定していては、「神の愛に関する考察」そのものがナンセンスになる
からです。

 これに対する私の立場は、「でたらめな神は否定するけれど、神の存在そのもの
は否定しない」というものです。
 例えば、
 「楽をしてお金が儲かりますように」とか、「宝くじが当りますように」などというよう
な、自分勝手な願い事を叶えてくれる神。
 怪我や病気を一瞬で治したり、死者をよみがえらすような、超自然的な奇跡を起
こす神。
 地動説や進化論などの、科学的な事実を否定するような神。
 宗教戦争や魔女狩り、思想弾圧、テロリズムなどを煽り立てるような神。
 私は、このような神を否定します。これらは、人間の自分勝手な空想か、もしくは
大勢の人間を操作するために捏造された神だからです。

 しかしながら例えば、
 宇宙の根底を支えるもの。(空間や時間や物質の存在と、それらに関する諸法則
の存在。)
 自然の摂理。(自然現象をつかさどる、諸々の自然法則の全て。)
 生命の摂理。(生命現象をつかさどる、諸々の生命の法則の全て。)
 これらのものを、もしも「神」とよぶならば、「神は存在する」と考えても良いと私は
思っています。そしてこのような神ならば、その存在を多くの人にも納得してもらえる
のではないでしょうか?

 ところで私は、新約聖書に書かれている「神の愛」にも、「自然科学的な要素」が多
く含まれているように思っています。そのこともあって、私は「神の存在」を完全に否
定する気にはなれないのです。
 例えばそれは、新約聖書の次の言葉に表れています。

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 空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、
あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。
 野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。し
かし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾っては
いなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこの
ように装ってくださる。 (マタイによる福音書 6章26−30)

 父(神)は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降
らせてくださる。 (マタイによる福音書 5章45)
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 新約聖書のこれらの言葉は、「神の愛」とは鳥を養ったり草花を育てたりする愛で
あること。また、日光や雨の恵みを与えてくれる愛であることを言っています。
 つまり「神の愛」とは、生命を育む地球環境や、地球の生態系のようなものだと言
っているのです。このような意味で、「神の愛」には自然科学的な要素が多く含まれ
ていると私は考えるのです。

 また上記の聖書の言葉は、「神の愛」が、鳥にも、草花にも、善人にも、悪人にも、
生きとし生きるもの全てに対して、分け隔てなく与えられる愛であることを表してい
ます。このような意味で「神の愛」は、仏教で言うところの「慈悲」や、大生命の「大愛」
と、たいへんよく似た概念であるように思います。

 また「神の愛」は、太陽や雨のようなもの。つまり日光や水(や空気)のようなもので、
ことさらに我々をどうこうしようというような、「積極的な意志」を持たないもののように
私は思います。
 つまり「神の愛」を、あえて強引に言語化して表現してみると、
 「私は、お前たちを愛しているのだ!」とか、
 「私は、お前たちに愛を与えているのだ!」
 「私は、植物も動物も人間も差別しないし、善人も悪人も差別しない!」
 「全ての生命は、私の意志に従え!」
というような、「積極的な意志」があるのではなく、
 「お前たちが生きるために必要なものは全て与えてある。」
 「お前たちに、幸福と喜びを感じる能力と、不幸と苦しみを感じる能力も与えてあ
る。」
 「あとは、お前たちが有意義に生きようと、無駄に生きようと、それは全てお前たち
次第なのだ!」
 と、言っているような気が私にはするのです。

 「神の愛」は、我々に必要なものを与え、あとはそっと見守るだけです。
 「神の愛」を生かすも殺すも、その全ては我々にかかっているのです!




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