生命の「肯定」 20
                               2016年4月3日 寺岡克哉


 身内に不幸があり、申し訳ありませんが、先週の掲載を休ませて頂きました。

 ちなみに葬儀の会計を任されたのですが、初めての経験でしたので、けっこう
大変な思いをしました。



 さて前回は、拙書 ”生命の「肯定」” の、第2部の第3章2節まで紹介しました。

 今回は、その続きです。


               * * * * *


3-3 隣人愛へのアプローチ
 さて、これまで述べて来たような自己肯定の努力を毎日続けていると、徐々に
自己愛が持てるようになって来る。そうすると、大愛の存在や自分の絶対価値
の存在が素直に感じられるようになって来る。そして、殺伐とした焦燥や息の
詰まるような不安が消え、自分が何か優しい雰囲気に包まれているような気持ち
になることがある。この時、この気持ちが消えてしまわないうちに、この感覚を
しっかりと心に刻みつけておくようにする。

 さらに自己肯定の努力を毎日続けていくと、この優しい雰囲気の気持ちが何度
か訪れるようになる。この時、この気持ちがなるべく長く持続するように意識を
集中する。私の場合では、優しさといたわりの雰囲気が訪れて消え去るまで五分
から二〇分程度であり、長い時は一時間ぐらいの時もある。もちろんその日の
体調や気分で大きく異なるが、だんだん長くしていきたいと思っている。最低1日
に一度はこの優しい気持ちになりたいと思っているが、なかなか難しい。三日に
一度あるかないかである。ちなみに自己肯定の努力をしていなかった以前の私
は、このような優しい雰囲気の気持ちになれたのは二年間に一度という程度で
あった(注102)

 さて、優しさといたわりの雰囲気をある程度保つことが出来たら、今度は意識
を他人肯定に向ける。この優しい雰囲気を周囲の人に与えるようにするのであ
る。与えるといっても、他人の頭に手をかざすようなポーズをしたり、いきなり抱き
ついたりするわけではない。優しい気持ちを保ったまま軽く微笑みかけていれば
それで良い。無理をして他人に言葉をかける必要もない。しかし話をしたいのなら
ば、話した方がなお良い。また、この周囲の人というのは、自分の家族、会社や
バイト先の仲間、道を歩いている時にすれ違う人(注103)など、自分以外の
全ての人間である。これが他人肯定(隣人愛)の第一歩である。この時、自分は
緊張しないように常にリラックスを心がけなければならない。なぜなら、周囲に
自分の緊張した空気を振りまけば、周囲の人も緊張してしまうからである。だか
ら、はじめにある程度の自己肯定が出来ていないと、他人肯定は出来ないので
ある。他人肯定に取り組んでいる時は、自己肯定を意識的に強め、優しさと安心
とリラックスを保たなければならない。そしてその雰囲気を周囲の人間に与える
ようにする(注104)。そうすれば、周囲の人間は必ずそれに反応してくれる。
私の観察では、赤の他人であっても大抵の人は、無愛想な顔をしつつも内心は
嬉しそうな様子を示す。それがなぜ分かるかというと、私がイライラをまき散らし
ている時と、明らかに周囲の人間の顔つきや動作が違うからである。自分がイラ
イラしていると、赤の他人というものは脅えや警戒心、または憎悪や敵愾心(てき
がいしん)などを結構露骨に出すものである。

 ところで商店街や繁華街などで、私が優しさと安心とリラックスの雰囲気を保っ
て歩いている場合、一〇〇人に一人ぐらいは笑顔をこちらに向けてくれる人が
必ずいる。この反応を見逃すことなく、敏感に察知することが非常に大切である。
これは自分が他人を肯定すれば、他人から自分も肯定してもらえることの確かな
証明と証拠だからである。自分が他人から肯定されていることの実感は、人生
で最高の宝物である。これは自己肯定と他人肯定の増幅循環の始まりであり、
自分が生まれ変わる瞬間である。ところで一〇〇人のうち、九九人が良い反応
を示してくれなくても、不安や自己嫌悪を感じないようにしなければならない。なぜ
なら、不安や自己嫌悪に陥ると、自己肯定と他人肯定の増幅循環が途絶える
からである。常に、優しさと安心とリラックスを保つように心がけねばならない。

 自己肯定と他人肯定の増幅循環を作ることが出来たら、自己愛がどんどん
大きくなるのが実感できる。今までは自分の生命力を奪っていた恐るべき人間
達が、これからは自分に生命力を与えてくれる好ましい存在に感じられる。そう
すると、さらに強い好感と愛情を持って周囲の人間を見ることが出来るように
なる。今まではエゴイズムをむき出しの醜い闘争しか人間関係に見ることが
出来なかったが、これからは母子の愛や楽しそうな恋人同士、親しそうな友人
関係など、自分の周りにたくさんの愛情が存在していることに気づき始めるの
である。好意を持って人間をよく観察するようになるので、良い人間を見分ける
能力もある程度できて来る。良い人間と顔見知りになったら、笑顔や挨拶程度
の言葉が交わせるようになり、自己愛もさらに強くなっていく。

 ところで自己否定に苦しんでいた時にも、愛情のある人間関係は自分の
周りにたくさん存在していた。しかし、自己否定に陥っていた時は幸福な人間
を憎んでおり、あえて愛情の存在を見ようとはせず、認めようとはしなかったの
である。なぜなら、自己否定の人間は幸福な人間を見ると、自分がますます
惨めになり、自分の存在基盤(注105)が脅かされるからである。だから自己
否定の人間は幸福な人間の存在を許さない。また、自己否定の人間は、あえ
て人間の醜い部分しか見ようとしないので、世の中の認識もどんどん否定的
になり厭世(えんせい)的になる。そして、自己否定がさらに強い場合は、幸福
な人間を不幸に陥れなければ我慢出来なくなり、実際にそのように行動して
多大な害悪を周囲にまき散らす。ここまで来ると自己否定も一種の犯罪である。

 前にも述べたが、私は今の日本の社会が息の詰まるように生き苦しいのは、
自己否定の人間が多いからだと考えている。自己否定の人間は本当の自分
に自信がないから、自分を抑えてまで周囲に合わせようとする。また、自分の
存在基盤(同注105)を脅かす独創的な人間を極端に恐れ、毛嫌いし、排斥
しようとする。そして、他人の成功を妬み、足を引っ張ろうとする。だから、自己
実現のための思う存分の行動とチャレンジが、常に抑制され、息苦しい。そし
て、みんなが欲求不満に陥っている。うっぷんばらしは、弱い者いじめという
訳である。自己肯定の人間を自信過剰と非難したり、楽天家と馬鹿にする風潮
も、自己否定の人間が多いことを証明しているように思う。



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注102:
 いま私には、身内に末期ガンを患っている者がおり、緩和ケア病棟で死を
待つばかりの状態となっています。
 そのため少しでも油断をすれば、心配や不安が、私の心の中に生じてしま
います。しかしそれでも、買い物や散歩などで外を歩いているときに「鼻唄」
を歌えば、リラックスした優しい気持ちになれて、心配や不安を心の中から追い
出すことが出来るようになりました。
 本書を執筆していた16年前では、「優しい気持ち」になれたのは3日に1度
ていどでしたが、それから16年の間、自己肯定の努力を続けてきた現在では、
このような状況下であっても、1日に1度は優しい気持ちになることが出来るよう
になったのです。

 (追記: その身内の者は、本記事の執筆中に亡くなりました。)


注103:
 最近では、いきなり切れる人間や、とつぜん何をするのか訳の分からない
人間が増えているように感じます。
 そのため、道ですれ違う「見知らぬ人」に話しかけたりするのは、現在では
すごく危険な行為なので止めた方がよいでしょう。


注104:
 優しさと安心の雰囲気を周囲の人間に「与えるようにする」と、その意気込み
が相手に伝わって緊張してしまいます。
 なので、少しボーッとした感じの「無意識の状態」というか、「優しさを与えよう
などと意識しない状態」の方が良いと、現在の私は思っています。


注105:
 「自分の存在基盤」というのは分かりにくい表現でした。「自分のよって立つ瀬」
という方が適切な表現かもしれません。
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 3章3節の途中で申し訳ありませんが、この続きは次回でやりたいと思い
ます。



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