生命の「肯定」 29
                               2016年6月5日 寺岡克哉


 前回は、第2部の第6章2節まで紹介しました。

 今回は、その続きです。


               * * * * *


6-3 生命肯定の完成
 生命の肯定を完成させることは至難の業である。私も含めて普通の人間には、
ほとんど不可能なことであろう。しかしながら、生命肯定の「努力」は誰にでも
実行可能である。そして、必ずしも生命の肯定は完成させなくとも良いのである。
なぜなら「生命肯定の努力をしていること」そのものが直ちに幸福な状態だから
である。そして、生命の肯定がさらに少しでも進歩することが、直ちに幸福の増大
だからである。

 前に述べたが、生命肯定の努力とは決して苦痛で嫌なものではない。そうでは
なく、生命肯定の努力は安心と喜びと生きがいが感じられる行為である。だから
生命の肯定を完成させる必要は全くなく、常にその努力をしていれば「幸福にな
る」という目的は達成できる。

 生命の肯定を完成した状態とは、灯台の光のようなものである。その光を見失わ
ず常にそれに向かい、ほんの少しずつでも進んでいれば、それで良いのである。
灯台にたどり着く必要は全くない。この灯台の光を具体的にイメージ出来るよう
に、生命の肯定を完成した状態というものを述べてみる。


 「生命の肯定を完成した状態」とは、大生命と大愛の存在を実感し、自分の絶対
価値を信じて正しい自己愛を持ち、隣人を愛し人類を愛し、さらには地球の生命
全体を愛して、愛の進化と発展に貢献している状態である。そして、生命の存在
を心から認めることが出来るようになる。たとえ生命に、怒りや憎悪、闘争、殺人
などの悪の性質があったとしても、これらの全てを含めて「生命」というものの存在
を認め、生命を赦し、生命を愛することが出来るようになる。もちろん悪を容認する
わけではないが、悪の存在をも含めて生命を愛するのである。「生命が存在する
こと」そのものに、幸福と喜びを感じるのである。


 キリスト教における「神の愛」は、「生命肯定の完成」の概念である。これは、
「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせる」
という愛である。万人に対して差別をしない愛である。また、

 「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めようともしない。
だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。野の花がどのように育つのか、
注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。(このように大した価値のない)
野の草でさえ、神はこのように(美しく)装ってくださる。」

 これなどは、神の愛が、動物や植物に対しても差別をしない愛であることを表わ
している。


 仏教の「慈悲」もまた、「生命肯定の完成」の概念である。これは、生きとし生き
るもの全てに対して、害することなく慈しみの心を持つという愛である。

 「あたかも、母親が命を賭けて子供を守るように、一切の生きとし生きるものに
対しても、無限の慈しみの心を起こさなければならない。上に下に、また横に、
憎悪や敵意や分けへだてのない慈しみを行わなければならない。立っていても、
座っていても、横たわっていても、眠らないでいる限りは、この慈しみの心をしっ
かりと持ちなさい。」

 このように慈悲も、生命全体に対して差別をしない愛である。


 以上のような概念だけではなく、実際に「生命肯定の完成」の域に達した人物
も存在している。

 例えば晩年の釈迦は、「自然は美しい、人生は甘美である」といっている。これ
は「生命肯定の完成」の境地である。若い時の釈迦は、「この世の全ては苦しみ
である」という心境から脱するために修行を始めた。そして釈迦は、この「生命
肯定の完成」の境地に達するまでに実に五〇年近くもの努力を行っている。


 また、十字架にかけられたキリストは、自分を殺そうとしている人間たちについ

 「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」
と、神に祈っている。キリストは手足に杭を打たれた苦痛の中で、しかも自分を
殺そうとしている人間たちに対してさえ、憎悪することなく慈悲の心を持っていた。
これはまさに、「生命肯定の完成」の境地である。


 また、晩年のヨハネ(キリストの弟子)は、ただ「兄弟よ、互いに愛し合いなさい」
とだけ言っていたそうである。身を動かすのもやっとの百歳の老人が、目に涙を
うかべ、いつも「互いに愛し合いなさい」と一つことばかり言っていた。晩年のヨハ
ネは耄碌(もうろく)していたそうであるが、しかしこれは生命を肯定しきっている
状態である。晩年のヨハネは、たぶん非常に幸福であったと思う。


 また、晩年の孔子は「七十歳にして心のままに則(のり)を越えず」と言っている。
これなども、「生命肯定の完成」の境地である。ふつう人間の心は、情欲、憎悪、
怒り、嫉妬、見栄、羨望などがのべつまくなしに起きている。いかに人格者といえ
ども、この悪い心を理性によって抑制しているのである。かのキリストでさえ怒り
を爆発させている場面がある。人間は、心を理性で抑えつけることは出来ても、
心そのものを理性に一致させることは至難の業である。だからほとんどの人間は、
理性の制限を全く設けないで心のままに行動すると、則を越えて目茶苦茶になっ
てしまう。

 「心のままに則を越えず」・・・ この言葉は、理性と心の完全な一致、あるいは
善と心の、または愛と心の完全な一致を表わしており、まさに生命の完成された
状態である。


 普通の人間にとって、以上のような「生命肯定の完成」の域に達する必要など
全くない。しかし全ての人間は、生涯に渡り力の限りを尽くして、生命肯定の
努力をしなければならない。なぜなら、幸福になるためにはそれが必要だし、
それが人間本来の生き方だからであり、さらには生命本来の生き方だからであ
(注122)



---------------------------------
注122:
 この節で述べたのは、「人間としての生命が完成された姿」です。

 もちろん本文中で述べているように、(私を含めて)ほとんどの人にとって、
それは実現不可能でしょう。

 しかしながら、それに向かって進むことそのものが、人間としての幸福の
本質であることは間違いないと思いますし、

 また、過去の偉人たちの例のように、生命肯定の完成の域に達した人々が
実際に存在するという事実は、「人間存在」にたいして希望と勇気が与えられ
ます。


 「人間がまったく存在しない世界より、人間が存在する世界の方がましだ」と
言える根拠があるとすれば、

 それは結局、この節で述べたようなことに尽きるのではないでしょうか。
---------------------------------


              * * * * *


 申し訳ありませんが、この続きは次回でやりたいと思います。



      目次へ        トップページへ