「存在する」ということ     2003年8月3日 寺岡克哉


 「存在する」ということは、実に不思議なことです。

 なぜ、宇宙は存在するのでしょうか?
 なぜ、物質が存在するのでしょうか?
 なぜ、太陽や地球が存在するのでしょうか?
 なぜ、生命は存在するのでしょうか?
 なぜ、人類は存在するのでしょうか?
 そして、なぜ自分は存在するのでしょうか?
 これらのことに思いが馳せるとき、やはり「存在する」ということは、実に不思議な
ことだと感じるのです。

 ところで、「存在するもの」は存在するのが当たり前で、別に不思議なことでも何
でもないと思う人がいるかも知れません。
 しかしながら、上で挙げたような数々の疑問は、哲学や自然科学、人文科学など
の主要な研究テーマになっています。人類はこれらの疑問を探求することにより、
宇宙と世界に対する知識を広めて来ました。だから「存在すること」に対する疑問
は、人類の進歩の原動力とも言えるのです。

 しかしそれにしても、なぜ「存在するもの」は、存在するのでしょうか?
 この問題に対する根本的な考え方には、「仏教的な考え方」と「キリスト教的
な考え方」の二つがあります。
(他の考え方もあるのかも知れませんが、私が知っ
ているのはこの二つです。)

 一つ目の「仏教的な考え方」とは、無限に続く「因果関係」によって、あらゆる
ものが存在しているという考え方です。

 そしてこの「因果関係」にはさらに、「時間的な因果関係」と「構成要素的な因果関
係」があります。

 「時間的な因果関係」とは、過去の原因が、現在の結果を存在させていると
いう因果関係です。

 例えば、今ここに私が存在するのは、過去に親から生まれたからです。そして私の
親が存在するのは、そのまた親から生まれたからです。このようにして、「時間的な
因果関係」は無限の過去まで続いて行きます。
 ところで私の祖先は、人類だけではありません。人類の祖先から猿の祖先へとさ
かのぼり、さらには哺乳類の祖先、多細胞生物、単細胞生物、そして地球で最初の
生命体にまでさかのぼります。
 しかし「時間的な因果関係」は、そこで止まるわけではありません。生命が誕生す
る前には、地球が作られなければなりません。そして、地球が作られる前には太陽
系が作られなければならないのです。
 太陽系が作られる前には星間物質が作られなければならず、星間物質が作られ
る前には、ビッグバンが起こらなければなりません。
 そしてさらには、ビッグバンが起こる前の状態でさえも、「時間的な因果関係」は無
限に続いているはずです。
 これら無限に続く「時間的な因果関係」によって、今ここに私は存在しているので
す。

 また、「構成要素的な因果関係」とは、あらゆるものが、それより下層の構成
要素によって存在しているという因果関係です。

 例えば「私」という一個の人間は、脳や内臓、骨、筋肉、皮膚などの色々な部位か
ら成り立っています。そして、それらの各部位は無数の細胞から成り、細胞は無数の
分子から成り立っています。
 さらには、分子は原子から、原子は原子核と電子から、原子核は陽子と中性子か
ら、陽子や中性子はクォークとグルーオンから・・・というように、「構成要素的な因果
関係」が続いて行きます。
 そして、現代科学ではまだ解明されていませんが、さらなる下層の構成要素も無
限に続いているものと思います。
 それら無限に続く「構成要素的な因果関係」によって、今ここに私は存在している
のです。

 一方、「存在すること」に対する「キリスト教的な考え方」とは、「神が在らし
めている!」というものです。

 つまり、この世のあらゆるものは、「神の働き」によって常に支えられているから
存在できるという考え方です。
 これは、例えば発電所と電灯のような関係で、発電所が止まれば電灯も直ぐに
消えてしまうようなものです。
 それと同じように、宇宙の全てのものが「神の働き」によって常に支えられており、
もしも「神の働き」が無くなれば、全てが一瞬にして消え去ってしまうという考え方で
す。
 私が今ここに存在できるのも、「神の働き」が常に私を支えてくれているからで
す。

 この考え方は、少し稚拙な感じがするかも知れません。そして、何でもかんでも
原因を神のせいにして、思考停止に陥る心配も拭いきれません。
 しかしながら、近代自然科学がキリスト教圏で生まれた事実を見逃しては
いけません。

 「この世を在らしめている神の働き」を探求しようとする動機から、近代自然科学
が生まれたことは否定できないのです。

例えば、
 天体や惑星が、いつまでも止まることなく運動を続けること。
 太陽の引力によって、地球が太陽に落ちてしまわないこと。
 太陽を回る地球の遠心力によって、太陽系から地球が飛び去らないこと。
 太陽が燃え尽きないで、いつまでも輝き続けていること。
あるいは、「原子」のような小さな世界においても、
 原子核の周りの電子が、電気的な引力によって原子核に落ちないこと。
 原子核の陽子と陽子が、電気的な反発力によって飛び散らないこと。
 (これらは、原子が原子として安定に存在すること。つまり、物質が物質として存
在できるように、常に「何らかの働き」が支えていることを意味します。)
 このように、世の中のあらゆるものが存在できるのは、何らかの作用が常に働き
続けているからです。
 上でお話したような問題の探求に、科学者たちが大変に強い情熱をそそぐのは、
「この世を在らしめている神の働きが存在するはずだ!」という、「キリスト教的な考
え方」が強く影響しているのは確かです。

 ところで私は、「仏教的な考え方とキリスト教的な考え方のどちらが正しいの
か?」という議論には、ほとんど意味が無いと考えています。

 なぜなら、宇宙と世界に対する「認識の在り方」としては、どちらも正しいと思うから
です。だからあとは、各個人の好みの問題になると思うのです。
 私の場合は、因果関係が無限に続くという「仏教的な考え方」は、何か底なし沼の
ような感じがして、どうしても不安が拭いきれません。
 しかし、「私が今ここに存在できるのは、”神の大いなる働き”によっていつも支え
られているからだ!」と思うと、とても安心することが出来ます。



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