生命について   2002年4月18日  寺岡克哉


 私は前で、不特定多数との性愛による「生命の踏みにじり」とか、理性的な自
己を蔑ろにすると「生命が暗くなる」などの表現を使いました。しかし、これらの
表現も、分かりにくいと感じる人が多いかも知れません。
 というのは、私が「生命」という言葉を使うときは、「本能的な動物としての生
命」と、「理性的な精神としての生命」を、暗黙に使い分けたり、あるいは混同
して使ったりしたからです。

 例えば、性愛は生殖行為であり、不特定多数と何万回もの生殖行為を繰り
返そうとも、受精の確率が高くなるだけです。これは、「本能的な動物としての
生命」にとって良いことであり、「生命の踏みにじり」などと言う概念は生じませ
ん。この場合の「生命の踏みにじり」は、人間の理性を蔑ろにしているという意
味で、「理性的な精神としての生命」を踏みにじっているのです。
 そして、金を得るためや快楽を貪るだけで、しかも避妊もしない、つまり「妊娠
中絶を行うような性愛」は、「本能的な動物としての生命」も、「理性的な精神と
しての生命」も踏みにじっているのです。情欲や嫉妬に駆られて、傷害や殺人
などを起こさせるような性愛も同様です。

 ところで、この二つの生命概念は、私が勝手に作ったものではありません。実
は、紀元前の昔から知られているものです。ギリシャ語で、「本能的な動物として
の生命」を「ビオス」、「理性的な精神としての生命」を「ゾーエー」と言います。
 また、トルストイ(人生論、新潮文庫)の表現では、前者を「動物的生存」、後者
を「理性的な意識」と言っています。
 ここでは、「本能的な動物としての生命」を「動物的生命」、「理性的な精神と
しての生命」を「理性的生命」と略し、これら二つの生命について、もう少し詳
しく考えて行きたいと思います。

 「動物的生命」と「理性的生命」の、いちばん的確な表現は、「動物的生命」
は動物でも持っている生命であり、「理性的生命」は人間しか持っていない生
命だということです。なぜなら、「理性」を持つのは人間だけだからです。
 この表現は実に的確なのですが、しかしながら抽象的にすぎます。以下、も
う少し具体的に考えて行きたいと思います。

 「動物的生命」とは、生物学的、生理学的、本能的、肉体的な生命です。
 食欲を満たして体を成長させ、性欲を満たして繁殖する生命です。つまり、
飲んで、食べて、性欲を満たして、寝る、という、本能的な動物としての生命
です。
 ところで、現代は科学文明の影響が大変に強く、「生命」といえば、DNA、
クローン技術、遺伝子組み換え、細胞、生殖、発生、など、このようなものを
連想します。これらはみな、「動物的生命」の中に入ります。しかも、動物的生
命のうちでも「物質的な部分」です。
 動物的生命には、「本能」という「物質ではない」部分も存在します。本能と
は、「食物を取りたい!」とか「繁殖したい!」というような、ある種の「意志」で
す。この「意志」は、脳を持っていないプランクトンや細菌にでさえ、存在してい
ます。
 動物的生命は、「細胞」や「肉体」などの「物質的な要素」と、「本能」や「意志」
などの「物質ではない要素」から出来ているのです。
 ここで注意を促したいのは、「生命には、物質ではない要素も存在する」と、
いうことです。

 一方、「理性的生命」は、「物質ではない」生命です。理性的生命には、物質的
な要素が全くありません。「理性」や「高度な愛」などの、高次の精神的な要素の
みの生命です。
 理性的生命は、動物には存在せず、人間だけに存在する生命です。ただ単に、
動物として肉体が生きているのではなく、「人間として生きているのかどうか?」と
いう意味での「生命」です。

 例えば、「生ける屍」という言葉があります。牢屋などに閉じ込められ、水とエサ
だけを与えられ、会話や読書を禁止され、仕事や作業も与えられず、人格も認め
られず、思考もせず、ただ肉体だけが生かされている状態。このような状態では、
「人間として生きている」とは、とても言えません。これが「生ける屍」の状態です。
 ところで、この「生ける屍」という言葉は、一見すると矛盾しています。「屍」が生
きているからです。普通は、死んだ肉体のことを屍と言うのであって、屍が生きて
いる訳がないからです。
 だからこの言葉は、肉体としては生きていても、「何物か」が死んでいることを表
しているのです。この「何物か」に相当するものが、人間としての生命、つまり「理
性的生命」なのです。
 「生ける屍」の状態は、肉体は生きていても、「人間」として生きているとは言えな
い状態のことです。「動物」としては生きていても、「人間」としては死んでいるので
す。「生ける屍」という言葉の「屍」は、動物的生命の屍ではなく、理性的生命の屍
なのです。
 このように、「人間として生きている」という概念も、「生命」の概念に含まれてい
るのです。

 「人はパンだけで生きるものではない」という言葉があります。これは、人が生き
るためには、パン以外の要素も必要なことを表現しています。
 人間は、パンを食べるだけでは生きられないこと。つまり、動物的生命を維持す
るだけでは、人間は生きられないことを表しているのです。この、人間が生きるた
めの、パン以外の要素が「理性的生命」です。

 また、「食うために生きるな、生きるために食え!」という言葉もあります。これ
は、前者が「動物的生命」について、後者は「理性的生命」について言及している
ものです。
 この言葉は、「動物的生命を維持するためにだけ生きるな、理性的生命を生
かすために、動物的生命を維持せよ!」と、言っているのです。

 人間は、動物的生命を維持するだけでは、生きて行けません。人間は、単なる
動物ではないからです。人間が生きて行くためには、「理性的生命」の要素が絶
対に必要なのです。
 例えば、「自殺」の現象がそれを証明しています。人間は、餓死や凍死の恐れ
がなくても、自殺をします。動物的生命を維持するのに何の支障もない状態に
ありながら、人間は自殺をするのです。
 これは、動物的生命が維持できても、人間が生きて行くためには、さらに「何か」
が必要なことを明確に証明しています。「自殺」の現象は、動物的生命の状態が
完璧なのに、この「何か」が不足しているために、生命を維持できずに死んでしま
うのです。
 この「何か」が理性的生命です。人間が生命を維持するためには、動物的
生命の他に、理性的生命が必要不可欠なのです。

 「理性的生命とは何か?」を把握するためには、例えば、次のようなことに考え
を巡らしてみれば良いと思います。

 衣食住が満たされているだけでは足りないもの。
 周囲から無視されたり、ひどい「いじめ」に合えば喪失してしまうもの。
 エゴイズムをむき出しの争いをすれば、返って失ってしまうもの。
 性欲などの本能的欲求に駆られた生活を長く続ければ、消耗し、枯渇してし
まうもの。
 助け合いや、利他の精神を起こさせるもの。
 自分のエゴイズムを適度に抑制するもの。
 自分の本能的欲求を適度に抑制するもの。
 「徳性」や「高度な愛」を生じさせるもの。
 他の多くの生命を守ったり、助けたりするために、自分の命をも犠牲にする
という判断を選択させるもの。

 これら、動物には存在しない「人間」に特有の性質の中に、「理性的生命」の
特質が現れているのです。
 人間は、「理性的生命」が消耗し、枯渇して行けば、生き生きとしなくなります。
生命の輝きを失い、生命が暗くなって行きます。生きていても面白くなくなり、何
のために生きているのか分からなくなります。
 生きているのが辛くなって行き、そして最悪の場合は、自殺をして本当に死ん
でしまいます。
 集団による「いじめ」などは、まさに「理性的生命」を強制的に奪い取り、死に至
らしめる行為です。
 傷害や殺害など、「動物的生命」に対する暴行は一般に良く認識されています
が、「理性的生命」に対する集団暴行などは、まだ良く認識されていないのです。

 人間が生きるためには、「理性的生命」を維持し、成長させて行かなければなり
ません。維持するだけではなく、「成長」も必要なのは、「生命」は成長が止まれば、
生き生きとしなくなるからです。何故か、生命はそのような性質を持っています。こ
れは、動物的生命についても、同じく言えることです。


 人間の生命には、「動物的生命」と「理性的生命」の、二つの要素があり
ます。

 人間が人間らしく、いきいきと生きるためには、「動物的生命」を維持する
だけでは駄目で、「理性的生命」を成長させて行くことが、必要不可欠なの
です。




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