健全な精神は健全な身体に宿る?
                               2018年8月26日 寺岡克哉


 健全な精神は健全な身体に宿る・・・ 

 私は以前から、この言葉に対して、疑問というか「反感」に近いもの
を感じていました。



 たしかに、

 怪我をしたり、病気になったりして、身体の健康が損(そこ)なわれ
れば、

 気分が憂鬱(ゆううつ)になって、精神状態が不安定になってしまう
こともあるでしょう。


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 が、しかし!

 身体に障害があったり、不治の病を患(わずら)ったりしていても、

 健全な精神を保って、芸術活動や、学術研究などを行っている人も、

 たしかに存在するのです。



 ちなみに私は、大学院で物理学を専攻していたので、

 身体に障害を持ちながら、精力的に学術研究を行った人物として、

 理論物理学者の「ホーキング博士」が、とても印象深く心に残って
います。


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 ところが、その一方で、

 とても健全な身体を持っているのに、精神が健全であるとは、決し
て言えないような人も、

 たしかに存在するのです。



 それを、いちばん端的に示しているのは、「スポーツ選手の不祥事」
ではないでしょうか。



 スポーツ選手による、

 暴行問題、ドーピング問題、賭博問題、買春問題・・・ 

 などなど、このような問題が次から次へと、けっこう起こっている
ように感じます。


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 以上のことから、

 健全な身体ではなくても、健全な精神を持っている人はいます
し、

 いくら健全な身体を持っていても、精神がぜんぜん健全でない
人もいるのです。



 さらには、

 「健全な精神は健全な身体に宿る」という言葉には、

 「身体が健全でなければ、精神も健全ではない」というニュアンス
も感じ取ってしまいます。



 このような理由で私は、

 「健全な精神は健全な身体に宿る」という言葉に対して、

 疑問というか「反感」に近いものを、ずっと感じていたのでした。


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 ところで、今回のエッセイを書くにあたって、

 「健全な精神は健全な身体に宿る」という言葉の意味を、いちおう
調べてみました。



 そうしたら、この言葉はもともと、

 古代ローマのユベナリスという詩人が書いた、「風刺詩集」の一節

 「大欲を抱かず、健康な身体に健全な精神が宿るようように祈らな
ければならない」

 という、この一節の、さらにその一部が訳されて、広まったみたい
です。



 この言葉の本来の意味は、

 幸せになるために多くの人が神に祈るであろう、富、地位、才能、
栄光、長寿、美貌(びぼう)などは、

 いずれも身の破滅に繋がるので、願い事はするべきではなく、

 もし祈るとすれば、「健(すこ)やかな身体に健やかな魂が願われる
べきである」

 と、いうことなのだそうです。


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 なので、

 「健全な精神は健全な身体に宿る」という言葉の、本来の意味は、

 「不健康な身体には、健全な精神が宿らない」という意味では、
決してありません。



 ところが! 

 近代になって世界大戦が勃発(ぼっぱつ)すると、

 ナチス・ドイツを始めとする世界各国は、スローガンとして「健全
なる精神は健全なる身体に」を掲(かか)げ、

 さもさも身体を鍛えることによってのみ、健全な精神が得られる
かのように、

 わざと言葉の意味を捻(ね)じ曲げて、軍国主義を推し進めたので
した。



 その結果・・・ 本来の意味は忘れ去られてしまい、

 このように間違った意味で捉(とら)えられたスローガンは、

 現在でも、世界各国の軍隊やスポーツ界などの「体育会系の分野」
において、深く根付いているのです。



 恥ずかしながら私も・・・ 

 これまでずっと、そのような「間違った意味」で捉えていた次第です。



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