健全な精神は健全な身体に宿る?
2018年8月26日 寺岡克哉
健全な精神は健全な身体に宿る・・・
私は以前から、この言葉に対して、疑問というか「反感」に近いもの
を感じていました。
たしかに、
怪我をしたり、病気になったりして、身体の健康が損(そこ)なわれ
れば、
気分が憂鬱(ゆううつ)になって、精神状態が不安定になってしまう
こともあるでしょう。
* * * * *
が、しかし!
身体に障害があったり、不治の病を患(わずら)ったりしていても、
健全な精神を保って、芸術活動や、学術研究などを行っている人も、
たしかに存在するのです。
ちなみに私は、大学院で物理学を専攻していたので、
身体に障害を持ちながら、精力的に学術研究を行った人物として、
理論物理学者の「ホーキング博士」が、とても印象深く心に残って
います。
* * * * *
ところが、その一方で、
とても健全な身体を持っているのに、精神が健全であるとは、決し
て言えないような人も、
たしかに存在するのです。
それを、いちばん端的に示しているのは、「スポーツ選手の不祥事」
ではないでしょうか。
スポーツ選手による、
暴行問題、ドーピング問題、賭博問題、買春問題・・・
などなど、このような問題が次から次へと、けっこう起こっている
ように感じます。
* * * * *
以上のことから、
健全な身体ではなくても、健全な精神を持っている人はいます
し、
いくら健全な身体を持っていても、精神がぜんぜん健全でない
人もいるのです。
さらには、
「健全な精神は健全な身体に宿る」という言葉には、
「身体が健全でなければ、精神も健全ではない」というニュアンス
も感じ取ってしまいます。
このような理由で私は、
「健全な精神は健全な身体に宿る」という言葉に対して、
疑問というか「反感」に近いものを、ずっと感じていたのでした。
* * * * *
ところで、今回のエッセイを書くにあたって、
「健全な精神は健全な身体に宿る」という言葉の意味を、いちおう
調べてみました。
そうしたら、この言葉はもともと、
古代ローマのユベナリスという詩人が書いた、「風刺詩集」の一節
「大欲を抱かず、健康な身体に健全な精神が宿るようように祈らな
ければならない」
という、この一節の、さらにその一部が訳されて、広まったみたい
です。
この言葉の本来の意味は、
幸せになるために多くの人が神に祈るであろう、富、地位、才能、
栄光、長寿、美貌(びぼう)などは、
いずれも身の破滅に繋がるので、願い事はするべきではなく、
もし祈るとすれば、「健(すこ)やかな身体に健やかな魂が願われる
べきである」
と、いうことなのだそうです。
* * * * *
なので、
「健全な精神は健全な身体に宿る」という言葉の、本来の意味は、
「不健康な身体には、健全な精神が宿らない」という意味では、
決してありません。
ところが!
近代になって世界大戦が勃発(ぼっぱつ)すると、
ナチス・ドイツを始めとする世界各国は、スローガンとして「健全
なる精神は健全なる身体に」を掲(かか)げ、
さもさも身体を鍛えることによってのみ、健全な精神が得られる
かのように、
わざと言葉の意味を捻(ね)じ曲げて、軍国主義を推し進めたので
した。
その結果・・・ 本来の意味は忘れ去られてしまい、
このように間違った意味で捉(とら)えられたスローガンは、
現在でも、世界各国の軍隊やスポーツ界などの「体育会系の分野」
において、深く根付いているのです。
恥ずかしながら私も・・・
これまでずっと、そのような「間違った意味」で捉えていた次第です。
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