1976年頃から喫茶店に置かれていた、ブロック崩しゲーム
初期は白黒、カラーテープを貼って見せかけカラー、カラー画面になった頃は下火になっていました。
メーカー名は、
 タイトー(大東貿易の最初の漢字2文字から)
記憶にあるその他のヒット作(?)は
電車でGo!
1976年同時期にシーソに乗った人間を交互に飛ばして風船を割るゲームも有りました。
ブロック・シーソーゲームのどちらも裏側に飛ばして大量点数を取るプログラムなので作成者は同じと
思います。
1978年(昭和53年)5月頃、場所はタイトー綱島工場(東横線沿線)の2Fで、4月の新入社員を
集めて、新ゲームの御披露目会新ゲームの名称は、
せまるブロック崩しゲームだったと思います。
ブロックが右に左に動きながら、ラケットに向かって近寄ってくることで難易度を上げていた。
説明の後に新入社員に意見を求めた。

ブロック崩しゲーム

せまるブロック崩しゲーム

スペース・インベーダー・ゲーム

新入社員の私が、私が持っていたアイデアをもとに意見を述べます。 
(せまるブロックでは、面白くなかったから)


@.ブロックを宇宙人のようにする。
A.双方向対戦型にする。

それを聞いた説明者(プログラム作成者の西角友宏さんだったか、どうかは覚えていない)は、
「すぐに作ります。」と回答されました。
約1ヶ月ほどして、私は桶川の修理工場で白黒のスペース・インベーダーゲームを初めて見ました。
綱島工場で一緒に説明を受けた大卒者が、「三浦君のアイディア通りで面白いね。」と発言。
ブロックを宇宙人のように変えて、右左に動きながらせまってくる。
ラケットにで打ち返した回数で玉の方向が変わるのを、打つ回数で出てくるUFOの点数を変える。

これが、大ヒットとなった
スペース・インベーダー・ゲームです。
タイトーは、5000億を超す莫大な利益を得ました。
・シンガポールでは大統領命令で、禁止になったほどです。
・改造5円玉が出てきて、対策が大変でした。(意外と単純な方法で撃退)

・ゲーム機製造が間に合わず、従業員が軟禁される嘘のような事件が発生。
しかし、当時発案者が不明となっていたのか、または発案者に対価を支払うシステムが無かった
のか、発案者の私に報酬は無かった。
私は、1979年(昭和54年)7月に退職し、その後タイト−には匹敵するヒットは出ていない。
「発案者」と「製作者」が違うので当然ではある。

1978年(昭和53年)7月初め〜9月末 タイトー桶川工場で研修中、桶川寮の研修生10名程度でステップダンスを練習して、休日の昼間、原宿
歩行者天国で練習で踊った。(日本初の集団ストリート・ダンス?)
その後(昭和55年頃)竹の子族が一世を風靡します。

スペース・インベーダー・ゲームの発案者 三浦憲治の思い出です。

1978年(昭和53年)4月入社〜6月末までは、タイトー綱島寮で2人1部屋に住んでいました。
毎週末は横浜のウエスト・サイドか横浜ソウル・トレイン、平日でも渋谷、新宿で踊っていました。
綱島工場の西田課長(もしかすると名前は違うかも?)から「君の何かグループが有るのかね?」と訪ねられました。
工場の1Fは、メタルゲームと初期の単純TVゲーム、2Fはフリッパーゲーム、3Fはジュークボックスの補修工場でした。
入社時の記憶では、1977年の当時の売り上げ実績は150億円程度で、インベーダー・ゲームが夏からヒットした翌年は1000億円を突破して、
翌年は冬のボーナスに春の一時金ボーナスが追加して出た記憶が有ります。
スペース・インベーダー・ゲームでは若かったため意見を聞いてもらえるのが嬉しくて、アイデアをぺらぺら喋りましたが、今は特許の出願
をしています。
西角さんの特許調査をしてみるとハード側の出願が多く、ゲーム性では実用新案が2件で「玩具の金魚の泳ぎ方」と「コップの中のコインを
磁石でくっつけて消えたように見せる」です。