クラブ紹介

            

平成17年5月 OB・OG駅伝 (皇居桜田門前にて)


多摩川クラブ(陸上競技・多摩川クラブ)は昭和23年4月1日に創立され、翌24年に東京陸協に正式登録し、今年で70年目を迎えます。メンバーは現在約180名、そのうち約60名が日本陸上競技連盟(日本陸連)の公認審判員(S級からB級まで)の資格を持っています。

クラブの創始者は、阿部 登です。現在では数あるランニングクラブの中でも、多摩川クラブの歴史は古く、戦後まもなく、阿部会長が
「みんなの体力・精神力つくりに役立てば」と始めました。

会長は小さい頃から走ることが好きで、小学生の頃織田幹雄さんの講演を聴いて深く感銘し、よりいっそう走る意欲をかきたてられたそうです。

今では正月の恒例行事となっている
元旦マラソンも当初は、多摩川から池上本門寺(蒲田)までのコースで、ランナーが東急線の踏切を横切るときは,わざわざ駅長さんが来られ、ランナーが渡り終わるまで、旗を振りながら電車を止めていてくれたそうです。今の交通事情から考えると何とも、のどかな話です。

その後、数十年を経て、多摩川クラブには実にさまざまなランナーが集まりました。
今では、東京国際、福岡国際、別府大分等の国際マラソンに出場した選手、市民マラソン大会で優勝した選手等、数多くの
ハイレベルなランナーが在籍しています。

優秀なランナーがいるということは会長も含めクラブの会員にとって大きな誇りになっています。十分に身体のケアをしながら、記録更新を目指してほしいとみんなが思っています。しかし、多摩川クラブではまた別な一面を持っています。

それは
”走ることを楽しむ”ランナーの存在です。ニコニコペースでそれぞれが自分に合った”ラン”を楽しんでいます。毎月第一日曜日は合同練習記録会が開催されますが、5km・10kmのコースを小学生から70過ぎのベテランランナーまで、笑顔でおしゃべりしながら、景色を眺めながらそれぞれ走っています・。

また、多摩川クラブでは自らが走るだけでなく、箱根駅伝を筆頭に、東京マラソン、青梅マラソン、旧・荒川市民マラソン等に多くの役員・会員を派遣し、各大会の運営をお手伝いしています。もちろん選手としても、それぞれがいろいろな国際・市民マラソン大会に出場し、満足する結果を残しています。

      是非皆さんも、一度
多摩川のさわやかな風を体験してみてください。


                 

        
織田幹雄さんと阿部会長(昭和49年10月5日 国立競技場にて撮影)

                 織田幹雄(おだみきお)さん


1928年オリンピック アムステルダム大会 三段跳びで日本で初の金メダルを獲得して以来、3連勝した日本のヒーロー。


                

                   
山田敬蔵さんと共に

                  昭和46年9月12日(日)

       10000m競争に参加。  東京厚生年金スポーツセンターにて

                
山田敬蔵(やまだけいぞう)さん
 
  第57回ボストンマラソン優勝者。 記録 2時間18分51秒は当時の世界最高記録。



   

 
東京陸協(東京陸上競技協会)・東京都体育協会からいただいた表彰状・感謝状などです。


            2010年10月22日午前2時


     陸上競技多摩川クラブ創始者 阿部 登 名誉会長が永眠されました。

     ここに慎んでご報告申し上げます。これまで大変お世話になったことへの

     感謝の気持ちと共に、ご冥福をお祈り致します。

         1970年(昭和45年) 月刊誌「体力作り」4月号より 抜粋

終戦後間もない昭和21年(1946年)夏の頃 ・・・ 東京大田区下丸子の多摩川土手に照りつける太陽をものともせず、毎日やって来ては流れ行く水面を見つめている人物がいた。


その人の名は、阿部 登といった。1919年(大正8年)生まれである。阿部氏は復員したばかりだった。出身は福島・会津若松だが、戦中、下丸子の三菱重工に勤め、復員して再び戻ってきたのであった。


毎日、多摩川土手に立って川面を眺めていた阿部氏の胸中にあふれていたのは、
「国破れて山河あり」の感慨であった。平和はよみがえったものの、この荒廃した国土にあって、日本人は何をすべきかの思いにとらわれていた。

そしてふっと脳裏をよぎったのはマラソン。阿部氏は考えた。「再建するには体がなければならない。しかし、すべての物資のない時代に、どうやって体を鍛えたらいいか? そうだ!
マラソンなら靴さえあればやれる、いや、少々の痛さをこらえるならば裸足でも走れる。という考えがひらめいたんです。私は福島の郷里にいるころ、短距離をやった経験がありました。それを思い出したのがきっかけになったのだと思います。」


翌日から、まず阿部氏自身、毎日、多摩川堤を走り始めた。走ると同時に、職場あるいは近所の人たちに
「一緒に走りませんか?」と呼びかけていった。


翌年、昭和22年に入って10人近いグループとなる。24年、陸協に登録する際、正式に
「陸上競技・多摩川クラブ」と命名した。


昭和29年、1月1日、クラブ結成5周年を記念して、
元旦マラソンを始める。氏の勤務する下丸子の三菱重工門前から、池上本門寺までのコース。距離は約7km(現在は10km)。この元旦マラソン、コースは変わったがいまだに持続され、昭和29年の第1回はわずか13人だったのが、今年(昭和45年)は280人の参加者を数えるまでに成長した。


クラブのメンバーもそのものも150人を超した。阿部氏も今年(昭和45年)でもう51歳。クラブの主催行事としては、この他に
多摩川堤マラソン大会(現在のガス橋マラソン)がある。これも距離は7km(現在は8km)昭和34年の誕生である。こっちもすでに10年を超える歴史がある。全国からランナーが集まり、800人を超す参加者を迎えた年もあったというから、当時のランニングの大会としては大規模なものとなった感がある。


クラブとしては年を重ねるごとに他の大会にも次第に参加していった。一番古いのは3月の狭山湖駅伝。今年で20回目の出場を数え、とうとう本来は持ち回りだった
”所沢市長盃”がクラブに寄贈されることになり、同時に表彰もうけた。


こうした活動を推進してきたのは、現・多摩川クラブ理事長を務める他ならぬ阿部氏だった。阿部氏の
「走る」ことに寄せる情熱はすさまじい。今も毎日走っているが、昭和22年11月、遠く福島市の合併記念マラソンに出場した時は、「賞状とリンゴを何個かもらいました。リンゴの記念品というのは未だに忘れることができませんね。」と阿部氏


昭和22年といえば、まだ食糧もろくに出回っていなかった時代だ。その時にわざわざ東京から汽車に乗って出かけたのである。「汽車の中ではどんなに空腹でも我慢して、向こうに着いてから弁当を食べ、それで走りました。」ちょっとやそっとの打ち込みようではない。


「わたし、長男を9歳で亡くしまして ・・・ しかし生存中も弱かったので、こどもの健康には人一倍、関心を持っていました。それで昭和28年の暮れ、近所の子どもたちが初詣のことを話しているのを耳にして、そうだ!
家族みんなが参加するマラソンを元旦にやったらどうだろうと思いついたんです。」


それが元旦マラソン発足の動機だったとか。そしてまたさらにそこから、阿部氏の青少年対策が生まれた。「次第に経済状態がよくなるとともにだんだん子どもたちの非行化が目についてきたんですね。そこで、学業している者にせよ、勤労している者にせよ、余暇活用に何か手を打たなければと考えましてね。それには、やはり走ること。走ることはお金もかからないし、体力作りにもなって一石二鳥 ・・・」と積極的に勧めてまわった。


「中には、お店の店員さんは走りたがっているのに、主人が出させてくれないというケースもよくあるんですよ。そういうときはそのお店まで出かけていって、ご主人に説明したり ・・・」 走る上のコーチばかりではないから大変だ。


モットーは、各人、
自分の体力に応じてやること。決して無理をしないようということを機会ある毎に説いている。元旦マラソン、多摩川堤マラソンなど、クラブ主催の大会の距離が比較的短いのはそのためである。


クラブの会費は、年間300円。資格制限はない。「会員が多くなって通信費が大変になってきたものですから、一応年間300円ということになっていますが、目的はあくまで自分自身による鍛錬です。ですからクラブとしては月1回の合同練習となっていますが、各人がおりを見て、練習してもらうことをお願いしています。」


最近、クラブ内にOBロードレースクラブを設けた。40歳以上のメンバーが50人を超したからだとか。今年は高年齢者のクラブ育成に力注ぎたいと阿部氏は張り切っている。

 生前のメッセージ

 
皆さんこんにちは。多摩川陸上競技クラブ(東京陸協所属)・会長の阿部 登です。

私が今こうして元気に活動できるのは、役員や多くの会員の方々に支えられてきたおかげです。本当に感謝しています。

私がクラブを創立した頃は、戦争が終わって間もない頃だったので、みんな生きていくのに精一杯でした。でも
私は高橋尚子さんと同じように走ることが大好きでした。そして周りの人たちに、このような時代だからこそ、みんなで一緒に走って元気を出そうと声をかけていきました。

でも、当時はみなさん一日中お腹を空かしていた頃でしょ。「走ったら余計にハラが減ってしまう。家で寝ていたほうがよっぽどましだ。」と言う人が多く、なかなか参加してくれる人はいませんでした。そこで私は、どうしたものかといろいろ思っていました。

当時ガス橋付近は雑草が生い茂っていました。私はこれを見てひとつの考えが浮かびました。その日から私は一人で何日もかけて草刈りをしました。そしてそこにサツマイモ畑を作っていったのです。

サツマイモが実ったころ、近所のみんなに声をかけました。
「走った後、イモをごちそうするから一緒に走ろう。」・・・この一声で、わずかですが走る人が来てくれました。

そして約束どおり、走った後、サツマイモをふかしてみんなに食べてもらいました。
それから徐々にですが走ってみようかなという人が集まってきました。「走るのも結構おもしろいな。」と走った後の爽快感を楽しむ人が増えてきました。私も一緒になって走りました。

”イモづる式”とはまさにこのことだなと思いました。
今ではそのツルも四方八方に伸びて、多くの人たちにしっかりと支えていただいています。

”走る”ということは人間も含めた動物が本来持っている自然の本能だと思います。皆さんも是非その隠れた本能を目覚めさせてあげてください。

また現在一生懸命走られている方もさらにその走りに磨きをかけて下さい。

                 皆さんの御活躍を祈っています。


                     
                        事務局前にて

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