牧師のメッセージ

聖書本文【新共同訳】
旧約聖書イザヤ書
60:1 起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く。
60:2 見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で、主の栄光があなたの上に現れる。
60:3 国々はあなたを照らす光に向かい、王たちは射し出でるその輝きに向かって歩む。
2017年12月23日 キャンドル礼拝

イザヤ60:1−3

「起きよ、光を放て」

皆様こんばんは。津島教会のキャンドル礼拝並びにコンサートに良くおいでくださいました。今年は金城学院高校のハンドベル・クワィアの皆さんをお招きすることが出来ました。楽しんでいっていただきたいと思いますが、その前に、せっかく教会に来られたのですから、キリストが地上に誕生してくださった意味を少しの間、考えましょう。

お読みいたしました旧約聖書のイザヤ書60章2節に「見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる」という言葉がありました。日本も協力している国際宇宙ステーションは、比較的低い所を飛んでいて、見える所を通過して行く時、望遠鏡か双眼鏡があれば、あるいはカメラのズームで引っ張ると形が分かります。逆に向こうからはグーグルのマップを上にギュンと引き上げる途中のような映像として世界を見ているのです。夜撮影したものを見ますと、人口密集地は大変に明るくて、そこから四方八方へと幹線が伸びている様子が良く分かります。星を観測する者からすると、この光がとても邪魔で、光の害と書いて「光害」と呼びます。どこまで本当か知りませんが、大停電になると「空に変なものが見えます」という通報があるらしく、「安心してください。あれは星です」と答えたという話を聞いたことがあります。光に溢れている生活をしている私たちですから、暗黒とか闇と言われても、そんなにピンと来ません。「そんなの自分に関係がない」と言われてしまうのかも知れません。

しかしながら、自覚するかしないかは別として「闇」というのは私たちとかけ離れた所にあるのではありません。闇の世界は結構どこにでもあるものでして、ある日、忽然とそれに飲み込まれているということがあるのです。ある日、自分の中にある深い闇に気が付くこともあります。こういう場合の闇は、もちろん現実の闇ではなく精神的な闇であったり、宗教的な意味での闇であったり、社会病質とでも言ったら良いような闇もあります。皆さんがどういう番組を見ておられるか存じ上げませんが、社会派的な番組を見ておられるのだとすると、最近色々恐いことを言っています。少子高齢化が進むと東京が荒廃してしまうとか、労働人口の急速な減少で会社が成り立たないとか、ただでさえ心もとない食糧自給がますます難しくなるとか、そういう話がなされています。給与は上がらないのに物価があがって実質賃金は低下しているとか、貧困とジャンルされる世帯は四つに一つであるとか、貧しい労働者に対する搾取がちっとも止まらないとか、そんなニュースも聞きます。安心して子どもを育てられない社会であるとか、とても育てて行けないと分かっているからこそ、結婚にも消極的になります。こうしたことも闇の一部です。

20世紀は「戦争の世紀」と言われましたが、21世紀は落ち着いたかといえばそんなことはなく、核シェルターがまた売れるようになって来たのだそうです。いつ、どんな軍事衝突が身近で起こるのか分からなくなって来ました。独裁者に限らず、権力者というのも闇を持っています。権力欲に基づいて権力ゲームをするようになると、大変に危ないものです。誰にも相談出来なくなると、自分のしていることが良いのか悪いのかも判断できなくなり、ますます危険になるわけです。色んな意味で、彼らはとても孤独でありましょう。真の意味での友人はおらず、いつ寝首をかかれるかも知れません。常に誰かがその地位を狙っているからです。脚光を浴びる場にいながら、でも闇の中に捕らわれているとも言えます。

孤独という点で目を転じれば、現代社会に生きている私たちは誰もが孤独であるのかも知れません。もちろん、誰もがスマホを持つ時代であり、誰かとつながっていると言われます。スマホ以前の携帯の時代、ある若い女性にインタヴューをするものの、次から次へと来るメールへの応答のために、目の前の人に応答できない姿を見たことがあります。ラインというアプリにも似た所があるかなぁと思います。一回機械を通すと無機質になると思うのか、同じ部屋にいる夫婦どうしがラインでしかやりとり出来ない姿も見たことがあります。なま身の人の相手が出来ないのでは、人のぬくもりや優しさをどれぐらい理解できるのだろうかと心配になります。だから公共の場所でのマナーも失われ、個人主義化するのではないかと思うのです。名古屋に帰ってきて名鉄に乗ると、少しおしりを動かして座れる場所をあけてあげようとする人が少ないのに驚きます。人が見えていないのだろうと思います。これも自分一人が良ければという闇ではないでしょうか。

そして、誰もが最も気が付かない闇は「宗教的闇」です。現代人は自分が科学的であると思っていますから、宗教心、宗教的帰依、信仰が分からなくなっているのではないかと、私には思えます。でも本当に無神論だったら、宝くじは確率の異常に低いくじですから、当たらないのが当たり前です。運とか幸運はあり得ません。占いにが当たるはずもありません。それなのにお財布の中に宝くじの一枚二枚は入っているのではないでしょうか。スマホのアプリに占いが入っていませんか。それを求める心は宗教心から出ています。しかしながら、聖書は崇めたり願ったりする相手を間違えてはいけないと教えています。主観的、感情的に自分で判断して「これで良い」と思っていても、それではいけないのです。宗教的闇というものを破らないといけないのです。

闇を破るものは何かと言えば「光」しかありません。小さな光でも光は光です。真っ暗闇の中にいて、救出に来てくれた人が持っている灯りがどんなに嬉しいことか、明るいことか想像してみてください。それが本物の火であれば暖かみも加わります。人や社会の中によどむ闇は、人の世に冷たさ、冷酷さ、強情さをもたらします。それを癒すものは灯りであり暖かさです。同じように宗教的闇を打ち破るのも霊的な光なのです。打ちのめされ、倒れ伏している者に「起きよ」と命じ、さらに「光を放て」と命じ、それに必要な力をも与えるのです。実はこの2節は、イエス・キリストの先駆者であった洗礼者ヨハネの父ザカリヤが預言している言葉に引用されています。「この憐れみによって、高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く。」

クリスマスとは、この光であるキリストを反射させる時なのです。ですから、キリストを欠いてクリスマスを見ようとすると、うまく見えません。クリスマスの本体は、闇を払う光であるキリストだからです。キャンドルを使って礼拝するのも、光の持つ意味を強調するためです。ツリーの上の星は、東方の博士たちを導いた星を意味していて、「この下にキリストがいるよ」と教えます。輪っかの飾りはキリストの与える終わりのない喜びを表現しています。せっかく教会に来られたのですから、この日生まれたキリストをしっかり見ていただきたいと思います。