牧師のメッセージ

聖書本文【新共同訳】
新約聖書 ルカによる福音書
第22章
22:54 人々はイエスを捕らえ、引いて行き、大祭司の家に連れて入った。ペトロは遠く離れて従った。
22:55 人々が屋敷の中庭の中央に火をたいて、一緒に座っていたので、ペトロも中に混じって腰を下ろした。
22:56 するとある女中が、ペトロがたき火に照らされて座っているのを目にして、じっと見つめ、「この人も一緒にいました」と言った。
22:57 しかし、ペトロはそれを打ち消して、「わたしはあの人を知らない」と言った。
22:58 少したってから、ほかの人がペトロを見て、「お前もあの連中の仲間だ」と言うと、ペトロは、「いや、そうではない」と言った。
22:59 一時間ほどたつと、また別の人が、「確かにこの人も一緒だった。ガリラヤの者だから」と言い張った。
22:60 だが、ペトロは、「あなたの言うことは分からない」と言った。まだこう言い終わらないうちに、突然鶏が鳴いた。
22:61 主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われた主の言葉を思い出した。
22:62 そして外に出て、激しく泣いた。
18年6月3日説教朝
ルカ24:54〜62、詩編38:2〜9
「あなたはどう生きるべきか−不甲斐なさからの解決」

本日お集まりの皆様、おはようございます。津島教会の特別企画であります集会に良くおいでくださいました。牧師の高内です。しばらくの間、「あなたはどう生きるべきか」という重い問いかけと、その解決についてご一緒に考えてまいりたいと思います。
今回、こういう表題にしましたのは、今年に入ってから書店の入り口に山積みにされていた本があったからです。吉野源三郎という方が書かれ、何と昭和11年に出版された本なのですが、今回、初めて漫画化され、一緒に再版された活字版の方には、あの池上彰さんが巻頭言を寄せているというもので、糸井重里さんも絶賛し、170万部以上のベストセラーとなったものです。「君たちはどう生きるか」という題で、新聞でも半面を使って広告していましたから、この表紙の絵はどこかでご覧になっていたかも知れません。この子はこの本の主人公で「コペル君」と呼ばれている中学2年生です。本名も最初の所で「本田潤一」であると名乗っているのですが、彼の人生の指南役でもある叔父さんが「コペル君」と呼ぶものですから、お母さんまで「コペルさん」と呼ぶようになったと書かれています。この仇名は地動説を唱えたコペルニクスから来ていて、彼がこういう人になりたいと考えたからということが、本を読み進むと明らかになって行きます。
さて、この本は、活字版では暗い始まり方をしていないのですが、漫画版ではコペル君が友だちを裏切ってしまったという言葉から始まり、そのまま病気をしたこともあって寝込んでしまったことがまず出て来ます。実際には三分の二ぐらいの第六章「雪の日の出来事」で出て来るエピソードで、もちろんそちらにもあります。彼には三人の友だちがいました。いかついガッチンと呼ばれる北見君、水谷君、豆腐屋の浦川君です。このガッチンこと北見君が上級生に睨まれ、狙われていたのですが、ついにからまれてしまい、殴られそうになった時、水谷君も浦川君も友人を守るために飛び出します。あれだけ皆と約束していたにもかかわらず、コペル君は身がすくんでしまって一歩も踏み出すことができませんでした。この不義理に対して自分を責め、とても赦してもらえないと毎日身もだえするのです。病気も直って、叔父さんの勧めもあって手紙を出したら、三人が見舞いに来てくれて、ようやくコペル君も気が晴れたというストーリーです。本そのものの結論としては、「後悔することは、人を良くすること」という一般的なものでありますが、本日はここからもう一歩踏み込んで行きたいと思います。
良く似た話だなぁと思ったのは、読んでいただきました新約聖書のルカによる福音書25章54節以下のエピソードです。ペトロはイエス様の弟子の、ごく初期からの中核である「十二使徒」の一人で、その代表でありました。つまり、イエス様にとっては弟子の中の弟子にあたる人です。彼自身がこんな弱さを持っているとは全く考えていなかったのですが、質問され畳みかけられることによって「自分とイエスは関係ない」と三回も言ってしまったのです。実は、このことはつい数時間前にイエスご自身から予告されていたことで、それなのにペトロは「自分にはそんなことがあるはずがない」と言い切っていたのです。自信は平常心を保つために必要なことで、そうでないとつまらないミスをしてしまうと言われます。トップアスリートが試合の前に奇妙に生意気に見えるのも、こういう理屈なのだとある程度は納得が出来ます。しかしながら、根拠のない自信は簡単に崩れ去ります。「お前、あの弟子じゃないのか」という言葉は、いわゆる「いじる」言葉なのだと思います。からかっているのでしょう。でもペトロは過剰反応し、ますますからかわれる結果になってしまったようです。
三度目に「知らない」と答えた直後に鶏が泣き、我に返ったペトロは自分のしたことに打ちのめされます。イエス様よりは少し年上であり、当時であれば壮年バリバリという所でありましたから、イエス様は教えの上では師匠であっても、時には兄のように振る舞い、保護者であると任じていたのかも知れません。実際、直前のゲツセマネの園では、剣を引き抜いて大祭司のしもべに打ちかかり、負傷までさせています。イエス様が立ち去るように促しますから、園からは立ち去りますが、後をつけて大祭司の館の内庭にまで入ってきているのです。こうしたことは勇気が無いと出来ないことですし、だからこそ心臓バクバクになっていて、僅かな刺激にも過敏に反応してしまったのだと言うことが出来ます。
彼は本当にイエス様が大好きであり、深く愛していました。もちろん、これは兄弟的な、師弟関係的な愛でありますが、まさかそれを自分の口で否定するなんて、想像も出来ない事態であったのだと思います。だからこそ、彼はその場を立ち去って大泣きするのです。聖書の中で、男が大泣きするシーンはそんなに多くありません。エジプトで総理大臣にまでなっていたヨセフが家族に会った時、密かに泣いたのですが、家中の者が知っていたのですから、本当に大泣きであったのでしょう。あるいはダビデが泣いたというのもあるのですが、数は非常に少ないのです。新約聖書の中でも、イエス様が泣いたということは書かれていますが、こちらもそんなに数が多くはありません。ペトロが激しく泣いたとあるのは、とても目立つ、また珍しい記録であるのです。彼の気持ちを想像すると、もう謝りたくても謝れない状況なのです。明日にはイエス様は処刑されてしまうでしょう。だから、もう取り返すことが出来ず、自分は裏切り者のままであり、赦してくれる相手がいなくなるのです。他の弟子たちが彼を使徒の代表、団長として接してくることも、彼には負担であり重荷であったかも知れません。
こうしたことがあるので、復活後のイエス様はペトロに「あなたはわたしを愛するか」と三度もお尋ねになりました。ペトロはこのことに傷ついたとヨハネ福音書は語っていますが、それぐらいの大きなことで、そういう意味ではコペル君の体験とは比べものになりません。それは失敗と言うにはあまりにも大きなものであり、とんでもない行為であったのです。古い映画、初のシネマスコープ、撮影する時に横幅を詰め、映写する時に広げて映すという方式のことですが、その初回作品は観客動員が見込めるというので聖書物でありました。イエス様の十字架に立ち会ったローマ兵が、イエス様の下着を得て、数奇な運命をたどって殉教して行くというお話でした。その中盤で使徒ペトロに出会うシーンがあります。主人公は「私がイエスを処刑した」と告白すると、ペトロは「私は主を三度知らないと言った」と応じます。個人的には、そんなにサラッと言えるのかなぁと思いました。ペトロ役の人の演技が妙にニコニコしているように感じたからです。頭をポリポリ掻きながら気まずそうに言うどころか、思い出すたびに涙が浮いてきたのではないかと思います。
人間、誰もが多少の覚えがあるのだと思いますが、謝って来た人を赦すのがひどく難しいことがあります。その人に対して負の感情を抱いている場合、心の底から赦していないために、何度も沸き上がって来てしまうからです。心の奥底に封じ込めているはずなのに、いきなり20年も30年も前のある事柄、言葉を思い出してしまうことがあります。いくら言葉で「赦します」と言っていても、本当にそうなのかどうかは20年30年たってみなければ分からないのだと思います。そういう意味でこの本は少年向きなのでありましょう。色んな心理学の本を見ますと、日本人は「うまく謝れない」という特性を持っているようです。「おわび」という言葉が今の政治家を見ていると、ひどく軽くいのですが、そもそも日本人はあまり得意ではないのです。ですから、どう赦しを受けるのかまで考えなければなりません。単なる道徳的な問いではなく、宗教的な問いとして考える必要があるのです。
ペトロはなぜ赦されたのか。これはイエス様を裏切ったイスカリオテのユダとの関連で語られることでありますが、実は大祭司邸で三度知らないと言った直後のペトロとイエス様の目が会ったと61節の所に書かれています。イエス様はどういう目をしておられたのでしょうか。結局その始末かと怒りに燃える目、さげすむような目なのでしょうか。こういう場面で俳優さんは「目」だけで演技をしなければなりませんから大変ですが、このどちらでもないはずです。もう一ページ戻って、22:31以下を見てくださると、イエス様ご自身が「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」と言われています。実はイエス様はこの罪のためにも十字架にかけられました。だからその目は、あなたのためにも私は死ぬのだという目です。信仰を無くすなと祈る目です。
人はなぜ不甲斐ないのか、思ったことですら出来ないのか考えてみたことはあるでしょうか。聖書は、それが人の罪に理由があると教えています。「罪」は、この場合、具体的な犯罪を言っているわけではありません。英語の授業でsin とcrimeの区別を倣ったことがあるでしょう。クライムは犯罪と訳します。スィンの方は罪と訳すのですが、下手な説明だと「精神的な罪」となっているものもあって、少し驚きました。むしろそれよりは「道徳的な罪」もしくは「宗教的な罪」「神との関係における罪」という説明が欲しい所です。こと神様との関係における歪みがあるために、宗教的にも歪み、対人関係も歪み、本来あるべき姿から遠く離れてしまっているのです。
もちろん、多くの人が気にも留めずに生きていますように、知らなくても生きては行けるわけですが、改めて「生きるとは何か」とか「どう生きる」と問われると、はたと困ってしまうのです。そういう宗教的・哲学的問いを発したことも、その答えを聞いたこともなければ、どう答えたら良いのか分からなくなってしまいます。人によっては言うでしょう。人様の迷惑にならなければ良ければそれで良いと思っているかも知れませんし、自分が良ければそれで良いと考える人も増えているように思えます。そういう意味でこの本が良く売れたというのは良いことだと思いますが、神との関係で罪を知ることを私たちは訴えたいと願っています。
この種のことは、自分の努力で出来るものではありません。教会に行くような人は初めから出来ている人なのだと言われることがありますが、私を含めて決してそうではありません。自分で何とかできる人は決して教会になど来ません。そうではなく、キリストが罪を赦してくださるからこそ希望も期待もできると信じる者たちが教会に来ます。そのための十字架であり、キリストの死があったわけで、この究極の赦しを得ている平安があります。ですから、たとえ誰の目に留まっていなかったとしても、キリストの赦しを得ているのです。孤独であったとしてもなお一人ではなく、孤立していてもキリストという味方います。
どう生きるかという問いに対する答えは、キリストと一緒に歩くことです。それは自分が切り開く道ではなく、キリストと共に歩く道であり、だからこそ安全な道なのです。このことを見いだしてくださるようにと教会はいつもお奨めしているのです。