牧師のメッセージ

聖書本文【新共同訳】
20:24十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。
20:25 そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」
20:26 さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
20:27 それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
20:28 トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。
20:29 イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」

ヨハネ20:24〜31、イザヤ43:10〜11
「主が共にいらっしゃる」

本日は、これまで少なくとも一度、教会に来られたことのある方に案内を差し上げて開いている集会です。教会という場所は、外の世界から見ているとクリスチャンしか行ってはいけないと思われているようです。このため、クリスチャンでない者がフラリと訪れることなど考えようもないと言われます。私たちは、こんな都市伝説みたないことを考えたり思ったりはしません。ただ、いつものメンバーを相手に牧師がいつものように話すと、どうしても分かる者にしか分からない要素が生じてしまうだろうと思います。そこで3月と9月、年に2回だけですが、出来るだけオープンにした礼拝を持つことにし、そこに皆さんをお招きしてまいりました。お越しくださってありがとうございます。

最近はメディアの発達によって、居ながらにして世界のことを見ることが出来るわけで、行ったことのない教会の様子なども知っているわけですが、それでもナマの臨場感とは比べようがありません。コンサートなどは後ろの席にいるより、よほどカメラの方が側にいて大写ししてくれるわけですが、それでもナマの音はやはり違います。同じことは野球にも言えて、テレビで見れば選手の顔も分かるわけですが、球場のスタンドでは遠くにしか見えません。しかし、そこにいる迫力というものはあるのでして、ファウルボールの恐さは自分の側に球が飛んで来ないと体験できないでしょう。ファンと一緒に歌う球団歌や応援の醍醐味は、一人大型テレビの前にいるのとは全く違うものであるはずです。それと同じように、キリスト教会の中で受ける恵みと、そのことを後で聞くこととの間には大変な差があるのです。

イエス様のお弟子の中で、特に重んじられていたのが十二人いました。その中の一人にディディモと呼ばれるトマスという人がいました。「ディディモ」というのは「双子ちゃん」という意味だそうで、普段はそう呼ばれていたのでしょう。師匠であり先生であるイエス様の十字架の死から三日目、墓に行った女性たちからお墓が空っぽであるとか、生きているイエス様に会ったという知らせが入る中、これはもう夕方でありましょう。扉を閉じているにもかかわらずイエス様本人が入って来られました。「突然開けて入って来られたのだ」とか「開けずに入って来られたのだ」ということだろうと思うのですが、つまり奇跡的な出現なのでしょうが、最近の学者の中には、扉は他にもあったのだとつまらないことを言う人もいます。ところがトマスはこの時、その場にいなかったのでした。

どうしていなかったのかは分かりません。厳しく見る人は、他の弟子と一緒にいたくなかったのではないかと良い、同情的な人は、何か外せない大切な要件があったのではないかと考えます。もっとも、エルサレムにそんなに知り合いが多くいたとは思えませんから、「どうしてなんだろうねー」とあれこれ想像されます。分からないことは分からないので、天国でトマスに聞いていただかないといけませんが、彼はこのことで大変な損をしてしまいます。復活のイエス様に会えるチャンスを失い、同僚の使徒たちが「良かった嬉しかった」と言っている中で一人浮いてしまい、回り皆が寄って集(たか)って「信じなさい」と責めてくるようになったからです。

トマス本人がその場にいなかったのは、悪気があったからではありません。何かやむにやまれぬ事情があったからだと思いますが、結局このために一週間、たった一人だけ「分からない」という状態に置かれてしまうことになったのです。教会の礼拝はいつもの通りであり、いつものことが言われているのかも知れません。でも、ひょっとしたら特別の恵みがあり、特別の祝福が注がれていたのかも知れません。私は最近年齢のせいか、夜ドラマを見ていて途中で寝てしまうことがあります。そうすると、なぜ結論がそういうことになるのか分からないことがあります。肝心な部分で寝てしまっているのでしょう。その部分を見るために録画を巻き戻すこともなく消去してしまうのですが、それは多分、「見てもたいしたことではない」と考えているからかも知れません。しかしながら、生けるキリストのナマの現臨の場にいる恵みと祝福を失うというのは、とんでもない損であり、もったいのないことなのです。

このたった一人孤独を貫くトマスのことを、歴史は随分な呼び方をして来ました。日本語訳は色々ですが、「懐疑家トマス」という呼び方が多いでしょうか。「疑い深い人」とか「不信仰者トマス」というのもあります。彼の拒否があまりも徹底しているものですから、カトリックのある枢機卿は「一般信徒が害を受ける心配があるので、彼らに聖書を読ませるべきではない」とまで言いました。聖書にある「悪い例」は真似をしなさいという意味ではなく、反面教師、真似てはいけない例として書かれているわけですが、皆さんはこのトマスをどうご覧になるでしょうか。「同僚であり友人である者たちの言葉を信じられないのは信じられない」という人もいるでしょう。「自分が信じられないことを信じるのは無理な話だ」と彼に同情的になるかも知れません。

実際、教会の中の意見も真二つで、厳しい見方をする人と、一生懸命かばおうとする人とに分かれるのですが、こうなってしまうのは、聖書がトマスの性格についてほとんど何も書いていないために、何とも判断しにくいからです。彼は何から何まで疑ってかかる懐疑家であり、どんなことでも自分が理解できなければ一切信じなかったのでしょうか。もしそうならイエス様のお弟子であることはまず無理であったことでしょう。未来のことを語らないといけないこともありましたし、信じるならば起こると言われている御業をなしたこともあるからです。こうしたことから、ある先生は、疑い深いというよりは、理解が悪いのかも知れないと言っています。私たちは普段の生活をしている時、決して科学捜査のCSIではありません。塩化ナトリウムという結果を受けて塩を振ることなどないからです。ところがトマスのやっていることは、皆から「塩だよ」と言われても、なめないと塩だと認識できないのに似ています。同じ一つのことにしても、人の何倍も時間がかかる人なのかも知れません。

しかし、イエス様はトマスをずっと分からないままに置いてはおかれませんでした。それから八日目、ユダヤ的な考え方ですから一週間後のことです。前と同じようにイエス様が部屋に現れました。「戸にはみな鍵がかけてあったのに」不思議な仕方で入って来られました。そしてトマスに「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさ」とおっしゃいます。これは一週間前に「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と同輩たちに語った言葉をイエス様が聞いておられたということです。

天国に行って、イエス様にお目にかかる時、その手に傷があるのだろうかというのは学者の間では議論になります。私たちの大先輩であるカルヴァン先生は、「完全に栄光化されて無いはず」と断言しますが、イエス様の場合はトロフィーみたいなもので消す必要もないと言えます。手術を受けて切開した方には良く分かる話ですが、10日ぐらい経ったとはいえ、不衛生な釘で刺し貫かれた傷です。自然治癒するには、まだまだなのですが、イエス様の場合は、もう「傷跡」でしかありません。傷跡を通した向こうを見せているのは「サン・オブ・ゴッド」という映画で、ちょっと漫画チックだと思いました。絵画でも映画でも、そう言われたトマスが良く見て、触って、脇腹に手を突っ込んで、その上でようやく納得する場面が多いのですが、私はそこまで彼が鈍いとは思いません。彼が「わたしの主、わたしの神よ」と言ったのは、彼のいたその場でありましょう。

トマスは十二使徒と呼ばれるキリスト教会の中核となる人でありました。こんな人が一人でも「信じない」のであれば、もう教えとして崩壊してしまいます。ですから、わざわざイエス様は会いに来られたわけですが、疑う全ての人のために、こんな風にしてくださるわけには行きません。イエス様は一つの身体しか無いので間に合わなくなってしまいます。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」という言葉を加えられたのは、イエス様を直接見ることのない世代のための言葉であるとも言えます。

しかしながら、それだけでもないのだろうと思えるのは、弟子たちに現れたのが日曜日だからです。最初の出現は日曜日で、トマスへの出現がその足かけ8日後ですから、やはり日曜日です。エマオ途上の弟子のお話も日曜日で、パンを割って分けている仕草から「イエス様だ」と分かったというお話でルカによる福音書24章に出て来ます。こうしたことから言えるのは、日曜日に皆で集まっている時にイエス様にお会いできるということです。イエス様の肉体は天にありますから、生きているイエス様に触り、見ることは出来ません。その声を聞くということもありません。でも霊的な仕方で礼拝にはいらっしゃるということが教えられています。そうでなかったら、トマスの言った言葉はイエス様には聞こえていなかったでしょう。実にイエス様は教会でなされているあらゆる会話の聞き手です。もう一人の見えざる聞き手です。

以前、教会の正面、講壇の椅子についてお話ししました。この少し高めの所を英語でプラットフォームと言います。電車の駅の乗り場と同じですが、要するに「高台」です。ここに三つの椅子が置いてあります。司式者が正面右に座るのは、私が正面左を選んでいるからです。果て、真ん中は誰のためなのでしょうか。この教会はどれも同じなのですが、教会によっては一つだけとても立派なものにしてある所もあります。これは「キリストの席」と呼ばれます。イエス様は「神」とも「主」とも言われる方でありますから、私たちの肉の目では見えません。でも、しっかりおられるのです。その席に座って聞いておられるのであり、見ておられます。「この私を信じられるか、見ずに信じられるか」と聞いておられます。このイエスに会わずに終わるのはもったいないし損だというのが本日の箇所の言っていることです。

ヘブライ人への手紙10:25を開けてください。23節あたりから読みます。「公に言い表した希望を揺るがぬようしっかり保ちましょう。互いに愛と善行に励むように心がけ、ある人たちの習慣に倣って集会を怠ったりせず、むしろ励まし合いましょう。」実際、休んだその日にこそ、解決となり慰めとなる事が語られていたのにということはとても多いのです。何よりも主がいてくださり、祝福を与えてくだいさます。それだけでも、この場にいなければならない十分な理由です。