(2016.11.29 公開)
  ライター高橋による 戦前・日本統治時代の台湾ばなし★ 第2弾


日本中のと、
    かつて 娘だった
たちに捧ぐ―


台湾うまれのヤマトナデシコ 2
 
 ~蘇澳・門司に生きた 竹中信子と その母のはなし~


    台湾・蘇澳の自宅での母・ 竹中春子 (後ろ中央)

◎ 写真はすべて竹中信子さんより お借りしました。
◎ この物語への ご意見・ご感想は ライター高橋(uguisu_0206@yahoo.co.jp)までお願いします。


◇プロローグ 「キオク」 について ◇

  キオクは 人を支える

キオクは  人生の支えになる

キオクは 人生をゆたかにする

キオクこそが・・・・・・ 人生を きらめかせる

ここ数年来、私は幾人かの「湾生」(台湾生まれの日本人)に会い、
お話をうかがっている。
そのたびに「キオク」というものの重要さを痛感させられる。

キオク、記憶。過去の記憶 = 思い出? 

いや、思い出という言葉はどうも「美しいもの」に限定されがちな気がするので、
ここではただ「キオク」としておこう。

俳優の火野正平が自転車で各地をめぐる「こころ旅」というテレビ番組がある
(NHKBSプレミアム)。
視聴者から寄せられる「こころの風景」は かけがいのない人生の「キオク」だ。

まったくあかの他人のキオクなのに、毎回心を揺さぶられるのはなぜだろう? 
きっと、キオクの大切さを知ったせいだ。
齢50を目の前にして・・・・・・。


ここではある1人の女性のキオク、証言をもとに、その方の家族のものがたりを
綴っていこうと思う。

***

どこにでもある、家族のおはなしですよ

竹中信子さんは、きょうも電話でそう言った。

昨年の秋にお会いして以来、すっかりごぶさたしているが、お元気だろうか。
近ごろの長く厳しいこの国の夏は、たとえ南国・台湾育ちとはいえ、
80代(昭和5年うまれ)のお身体には さぞや堪えるであろう。

何度か電話するたびに不在だと、
「まさか・・・・・・」 と悪い予感ばかりが先に立つ。 (ライターは いささか心配性でして,,)

いく度めかの電話で、

はい、竹中でございます」 
とようやく いつもの穏やかな声が聞けると、ひと安心だ。

私が竹中信子さんを知るきっかけとなったのは、
最初の台湾エッセイ『台湾うまれのヤマトナデシコ 1  (ゆきこのはなし)』 を
書いている最中のこと。

それまではライターとしてテレビ批評などの軟派?なコラムを書いていた私が
初めて挑んだ、戦後・台湾からの引き揚げ者の体験記。

戦前の台湾に関する資料をさがしている際に偶然見つけたのが、
竹中さんの著書、『植民地台湾の日本女性生活史』 (明治篇・大正篇・昭和篇二冊の計四冊、田畑書店)。

すぐに取り寄せて読んだ。
(正直、私にはかなり難しくはあった)

そしてほどなく、著者の竹中信子さんが講演のため来阪されると聞きつけ、
「グッドタイミング!」 
とばかりに大阪市内の会場へ駆けつけた。

すばらしい講演だった。
私は講演だけでは飽き足らず、会が終了してから 竹中さんの席まで歩み寄り、
あれこれ質問を続けたが、ついに時間切れ。

どうしてもお話の続きが聞きたくて・・・・・・
その後上京して会いに行くことになったのである。

(いま冷静に考えると かなり図々しい。でも勇気ある行動だった、とも言える)

***

竹中信子さんは明治の終わり、
台湾の
蘇澳(すおう)冷泉」 (世界に二つしかない天然炭酸水の冷泉) の発見者とされる
竹中信景氏の孫にあたる。

何度かお話を聞くうち、著書(『植民地台湾の日本女性生活史』)では語られなかった
竹中さん一家の生き方に心打たれた。

なかでも女手ひとつで四人の子どもたちを育て上げ、
敗戦後は子連れで台湾から内地(日本)へ引き揚げ、貧しくも明るく生き抜いた
”母”の姿勢にいたく感動した。

「これほどすばらしい女性がいたなんて!」


「この家族の話を、ぜひ今の人たちに伝えなきゃ。日本人に、そして台湾の人たちにも」


そんな強い思いに 突き動かされるようにして、書き始めた。

これは昭和のはじめ― 
台湾(蘇澳)と日本(門司)で強く生き抜いた 母と子どもたちの物語である


少々長くなりますが、しばしおつきあいください。




Ⅰ.蘇澳 (すおう へん)


     蘭陽高等女学校時代の信子

1.蘇澳(すおう) という まち

子どものときはほんと、田舎ぐらしでしたよ。
 私の家のある蘇澳(すおう)には海があって山があって、
 庭には木があって木登りばっかりしてました。
 女学校の三年になっても 木登りしてましたからね


島国・台湾。その北東部の海岸沿いに蘇澳(すおう)というまちがある。
当時は台北州蘇澳郡といった。

(現在の正式名称は、宜蘭県
蘇澳鎮 ぎらんけん・すおうちん)


         日本統治時代の台湾略図 (島の北部)

観光で何度か台湾を訪れたことがあるが、初めて聞く地名だった。

「 すおう? そおう じゃないの?」

この呼び名は かつて台湾が日本の領土となった当初、
「そおう」を「すおう」と誤読したのが始まり、という説もあるが定かではない。

古い歴史をひも解くと、十七世紀前半にスペインが台湾北部を占拠していた頃、
蘇澳は「サン・ロレンソ」と呼ばれていたとか。

蘇澳は三方を山に囲まれた港町。
近くの七星山からは蘇澳の漁港や街並みが一望できる。

南には南方澳、北には北方澳と二つの漁港があり、
特に台湾三大漁港といわれる南方澳には、
あの“西郷どん”の伝説がある。


嘉永四年(1851)、薩摩藩主・島津斉彬より台湾偵察の密命を受けた
若き日の西郷隆盛は台湾北部の基隆から南方澳に上陸し、
東海岸を視察した。

約半年で西郷は鹿児島に帰るが、
ともに暮らしていた平埔族(へいほぞく)の娘ローモーはほどなく男児を出産。
この地に「西郷どんの子孫がいた」というのは実に興味深い。


現在は おもにセメント業と漁業で栄えるこの静かな町にはもう一つ、
忘れてはならない“ウリ” がある。

それは七星山のふもとから湧き出る冷泉(摂氏25℃未満の鉱泉)。
「蘇澳冷泉」と言われ、観光の目玉とされてきた。

そこは夏になると家族連れでごったがえし、日本でいえばファミリープールの
様相を呈する。


     蘇澳冷泉の表玄関 (2012年7月 筆者撮影)


    蘇澳冷泉内のプール ( 同 上 )

冷泉といっても、ただの冷たい水にあらず。天然の炭酸水が湧き出てくるのだ。
これは世界でもイタリアと蘇澳だけと言われており、水質もすこぶる高い。

その昔、蘇澳で一人の台湾人が裸足で仕事をしていたところ、
うっかり足を虫にかまれて化膿してしまった。
なにげなく冷泉に足をつけたところ、これが治った。

「まるで魔法の水だ!」
それほどきれいな水であるから飲料水にもなる。


明治時代、この良質な炭酸水に目をつけ、蘇澳でラムネやサイダーの工場を
立ち上げたのが日本人であることは まだあまり知られていない。

この日本人こそが竹中信子さんの祖父、竹中信景(のぶかげ)氏である。




2.祖父 竹中信景 のこと (1)
  以降、登場人物の敬称は 略させていただきます~

信子とその母のことを語る前に、まずは”竹中家のルーツ”をたどらなければならない。

(この祖父のくだりは 少々 小難しくて 退屈かもしれませんが。
 物語の予備知識として しばしお付き合いください)


  自宅の庭で 着物姿でくつろぐ 竹中信景 
(昭和15年前後かとおもわれる)

信子の祖父竹中信景(のぶかげ)は江戸時代の文久二年(1862)、紀州・和歌山に生まれる。

先に言うと、この祖父は「江戸ー明治ー大正ー昭和」 と 四つの時代を生きた人である。


信景の父(信子の曽祖父)は武士だった。
「徳川のお殿様の曾孫(ひまご)」 と伝えられているが、直系ではなかったらしい。

信景の父は明治維新を境に武士の地位を捨て、神社の神主となった。
神主の ”九番目の男子”である信景は成長し、
大阪で軍隊の仕事を手伝っていた。が、みずからは軍人ではなかった。

その後「(新天地である) 満州へ行きたい」という思いがつのり、大阪の仕事を辞めて
遼東半島へと渡った。

その時、信景はすでに結婚しており、子どもが3人いた。
実はこのときの妻が竹中姓で、
戦国時代の軍師として知られる竹中半兵衛の子孫だった。

この家に跡継ぎがいないことから 2人の間に生まれた二女タマ子)を
竹中姓にし、のちに生まれるであろう タマ子の息子を跡継ぎにしようと考えた。

同時に 信景も(どうせ九男であるから... と) 娘の後見人として 
竹中姓を継ぐことになったのである。

この妻はわずか5年で早逝。
信景はどうやらあまり家庭的な人ではなかったようで、
満州へ旅立つ際、3人の子どもは内地(日本)へ置いていった。

長女は他家へ養子に出し、あとの2人(長男と 二女・タマ子)は寄宿舎のある学校に託した。

単身、外地へと渡った祖父は満州の旅順で建築関係の仕事についた。

まもなく日清戦争が始まり(明治27年、1894~)、日本軍がどんどん満州へ入ってくる。
軍隊のもとで さまざまな雑用を頼まれ、働いていた。

日清戦争で日本が勝利し、台湾が日本の領土になると、
今度は
台湾へ行きたいと 強く思うようになる。

(何が祖父をそこまで駆り立てたのだろう。南国の未開の地なら、
 きっと大きな役割を果たせるとでも思ったのだろうか・・・・・・)


とはいえ、そう簡単に台湾へ行けるものではない。
船はすべて軍に徴用されており、民間人が乗れる船などなかったのだ。

「行きたいのなら、日本へ帰ってから行け」 と、軍の人間に突っぱねられる。

しかし、信景も譲らない。
「いや、自分はすぐにでも行きたい」 と熱心に頼み込んだ。

おそらく軍の上層部とも 仕事上の深い付き合いがあったのだろう。
ほどなくお許しが出る。


 「そんなに行きたいのなら、まもなく近衛師団の輸送船が出るから、
 その船の輸送指揮官として乗っていけ」。


こんなふうに、いわば”飛び入り”のような形で
非公式ではあるが「陸軍・近衛師団輸送指揮官」として
北の満州から、
はるか南の島国・台湾へと渡ることに。 

満州でもらった辞令には、
肩書きは「⋆ 兵站(へいたん) 付き」とあった。


兵站(へいたん)部とは 
 = 戦闘部隊の後方にあって、人員・兵器・食糧などの前送、補給にあたり、
   また、後方連絡線の確保にあたる活動機能。




3. 祖父 竹中信景のこと (2)

明治28年(1895)、非公式ながらも近衛師団、輸送船の指揮官(兵站部)として
台湾行きを許された祖父・信景。

船で台湾へ向かう途中、
沖縄から 初代台湾総督となる 樺山資紀(かばやま すけのり) らも同乗、
ともに基隆港に降りたった。


「(近衛師団の)兵站部がまだ到着していないんで、手伝ってくれ」

と台湾に着くなり仕事を任された祖父。
満州での仕事ぶりが 軍の信頼を買っていたのだろうか。

また満州で身につけた中国語が台湾でも大いに力を発揮し、時には”通訳官”としても活躍、
軍からは重宝されていたようだ。

「体が大きかったので、当時としては目立っていたと思います。
 同じように大柄だった 初代の樺山総督に覚えてもらえたのかも・・・」


と 孫の信子は推測する。

「乃木さん(乃木希典= のぎ・まれすけ) たちが 枋寮(ぼうりょう)に上陸したとき、
 祖父も一緒に上陸してるんです」
 (枋寮=台湾島の西部、台湾海峡に面した屏東県西部の村)

近衛師団が基隆へ上陸。そして乃木希典(第二師団)が枋寮へ上陸、といえば―。

下関条約で台湾割譲が決定したあと、台湾を平定するために軍を派遣した「台湾征討」、
俗にいう「乙末(いつび)戦争」のことではないか。

信景がその兵站(へいたん)部の役割を担っていたとは 驚きだ。

まもなく 「台南が無血入城で陥落した」という一報が入り、
信景も台南へ。

今度は樺山総督から(台湾)島内の産業調査を命ぜられ、
信景は兵站部の上司と陸軍将校の3人で 台湾各地をくまなく視察した。


「当時は乗り物がないので、馬を使ったんでしょうかね」

お金を預かり、1年くらいかけて島をまわった。最南端のガランピ近くまで行くこともあった。

 《台湾では 翌明治29年の(1896) 4月1日より、
 それまでの「軍政」から→「民政」に
変わり、
 民間人が自由に台湾に入ってこられるようになっていた

 
信景は蘇澳産業調査もおこない、軍人とともに道路づくりに着手した。
その後、軍籍を離れるが、そのまま「民間人 第1号」として蘇澳に土着することに。

蘇澳は港町だし、おもしろいと思ったんでしょうね。都会よりも手つかずの田舎のほうが
  開発するのは
 おもしろいかなーと
」 (信子 談)

のちに 伯母のタマ子(祖父の娘)は 自分の父・信景のことを こんな風に語っている。

おもしろいか、おもしろくないか? だけで人生を生きた人。お金儲けをして成功しようとか、
 そんな気はさらさらない。金銭的には非常に淡泊な人だった」。

祖父は軍隊を退くとき、(おそらく退職慰労金の代わりだろうか)
軍からこんな提案を持ちかけられる。

蘇澳のなかで― ”原住民の住む山中で物販をしている場所(関所)”の権利と、
”炭酸泉”の権利との どちらかを安値で売る、と持ちかけられ。
祖父は炭酸泉のほうを選択する。

「毒の水が出る、っていうんで誰も欲しがるところじゃなかったですから、
 ほんとに安かったと思いますよ」 (信子 談)


そのうちに「すごい炭酸泉がある」と評判になり、蘇澳に来た軍人がみんな炭酸泉に入りにくる。

当時は 内地(日本)で
⋆ 三ツ矢サイダー ができて まもないこともあり、
台湾のみならず 日本からも事業家が次々と見学に訪れた。


★ 三ツ矢サイダー 
   = 明治17年(1884)に「平野水」として発売。これが明治30年(1897)、
     宮内省から東宮殿下(後の大正天皇)の御料品に指定される。


何人かが この地で炭酸水飲料の開発を試みるが、どれも失敗に終わる。

「祖父のお友だちも失敗して。そういうのを見ていて 祖父はどういうところを改良すればいいのか
 考えていたんでしょうね」 (信子 談)

祖父が試行錯誤した結果、一滴も水道水を使わず 天然に湧いてくる炭酸水を100%使って
飲料水をつくることに成功する。 明治の終わり頃のことである。

「この炭酸泉、いったいどこから湧いているのだろう?」 
と おおもとをたどって掘っていくと、こんこんと沸いている場所を見つける。
この 最も地面から噴き出しているところを「源泉」と位置づけ、
石で囲って工場の真ん中に持ってくる。 (
これが、のちに成功する事業化のスタート地点である)


こうして祖父は私財を投じて工場を建設し、ラムネやサイダーの製造を大々的に展開。

大正11年(1922)に東京で開かれた博覧会では「七星サイダー」などの商品(飲料水)が
銀賞を受賞している。


日本で妻に先立たれていた祖父は 蘇澳に定住してまもなく、同じ和歌山県出身者の紹介により
2度目の妻を迎える。
また、先妻との間に生まれた子どもたち(養子に出した長女をのぞく、長男と二女)も
まもなく台湾へ呼び寄せた。


こうして祖父は家族とともに蘇澳に定住。およそ半世紀に渡って蘇澳に暮らし、
ここで骨を埋めることになるのである。


: 以降、”(信子談)”の表記は省略します。
   当時を回想する「 」はすべて 竹中信子さんの証言によるものです。



4. 父と母の出会い (父 秋三のこと)

祖父・竹中信景が蘇澳で再婚、今度は4人の子宝に恵まれる。

この後妻から生まれた2番目の男子が、
のちに信子の父となる
竹中秋三 〔しゅうぞう: 明治37年(1904) 生まれ〕 である。

なぜ「秋三」と名付けられたかというと・・・

秋のお祭りの3日目に生まれたから」 という説と、また祖父にとっては(先妻の子を含めると)
「3番目の男子だったから」 という説がある。  

★ 当時「秋分の日」はなく、「秋季皇霊祭」が九月にあった。

***

父と母の出会いは、小学校時代にさかのぼる。

「蘇澳は田舎なので全校生徒合わせても10数名くらい。
 だから 1年から6年まで 1つの教室なんです。先生が大変ですよね。
 教室では、ここで1年生、ここのあたりでは2年生、後ろの方で6年生、と。
 それを2人くらいの先生でまわって教える。
 先生はご夫婦の先生と 校長先生くらいでしたね。お裁縫は奥さんの方が教えたりとか」


母・春子明治36年(1903)生まれ〕は基隆からの転校生で 父よりも学年が1つ上だった
当時2人はどれほどの仲 だったのか? 
とは言っても、 2人はまだ小学生の子どもである。

「母に言わせると、父にはどこかさびしい影があったっていうかね。
 おかあさんを早くに亡くしているせいかもしれません」
 

秋三は10歳くらいのときに母親を亡くしている。
祖父・信景は2番目の妻にも先立たれてしまったのだ。

小学校卒業後は蘇澳を出て、名門・台北一中へ進学。
母のいない秋三は腹違いの姉・タマ子に大層かわいがられたという。


「もう とってもかわいがってくれたそうですよ。台北一中の寮に入るとき、着物なんかもね、 
 こ~んな大きな行李(こうり)にね、2つも持たせてくれたんですって」


にもかかわらず。学校側から 蘇澳の竹中家にこんな連絡が入る。

「着替えを送ってください。いつも汚い着物を着ていますから」。

タマ子は愕然とする。
「そんなことありません!」 と言い返しはしたが。

実際に台北の寮に行ってみると、秋三は持たせた行李を開けずにいた。
一着ずっと 同じものを着ていたのだ。
それほど身なりには関心がなかったのだろう。

***

祖父が家業である清涼飲料水業を順調に成功させていく一方で、
秋三は商売にはまったく興味がなかった。
興味どころか、嫌悪感さえ抱いていたという。


「父はバリバリ仕事して積極的に世の中へ出て成功しようなんて気持ち、ないんですよね。
 自分で小説を書いたり、絵を描いたり、牧師になるとか。そういう仕事が向いていると
 思ってたんでしょうね」


経営者や商売人などではなく、作家か画家か牧師のような仕事に憧れていた父。
生粋の芸術家肌だったのだろう。


エリートが集まる台北一中に進んだものの、規則正しい生活は性に合わず、
下宿でひとり 本ばかり読んでいた父。

そのうちに神経衰弱のようになり、中学3年の時には休学して蘇澳へ戻ることに。
結局、台北一中は卒業していない。


 竹中信景に寄り添うのは 末娘のとし子、 その兄・秋三。 
 (おそらく大正末期。蘇澳の工場では毎年、テッポウユリが咲き乱れていた)



5. 母の青春時代 (1)

一方、母・春子は 父とは対照的に活動的な青春時代を送っている。

春子の実家は両親ともに沖縄出身。
基隆から移り住んだ蘇澳で 小料理屋を営んでいた。
そんな環境で育ったせいか、「勉強しなくちゃ」とはあまり思わなかったし、
上の学校へ進む気もなかった。


しかし春子はとても成績がよかった。
蘇澳の小学校の先生が、「第一高女(台北第一高等女学校)を受験しなさい。必ず通るから」
と強く勧めてくる。
その時は受験をせず、とりあえず小学校の上の高等科(2年制)へ進んだ。

すると、そこでも先生から「女学校、受けなさい」と しきりに勧められる。

春子には勉強を続けたい気持ちがあった。だが、父親が進学を許さない。

高等科は2年で卒業。先生は卒業後もしきりに家を訪ねてくる。

「蘇澳みたいな田舎でこのまま手元に置いていても何もならないし、
 上の学校へ行かせたほうがいいのでは・・・?」。


ついに父親が折れた。
「そんなに行きたいのなら、行けばいい」。
春子の母 (信子の祖母)が強く味方してくれたのが大きかった。


母の母親はとっても優しかったらしいです自分は無学だけれど
 娘のことをとっても信頼していたらしいんです


その時すでに台北の第一高女の試験は終わっていた。
台北に新しく開校した私立の「静修(せいしゅう)女学校」だけが残っていたので
春子はそこを受験した。
ここはミッションスクールで当時としてはとてもモダンな教育をおこなったいた。


「母の実家は蘇澳のしがない小料理屋だったと思います。それでよく 娘を台北に
 出してくれましたよね。なんとか お金はあったんでしょうね」


***
蘇澳の家を出て、台北の静修女学校へ進んだ春子。
そのうちに 「もっと上の学校へ行きたい。東京へ行って勉強したい」 と思うようになる。

春子は先生と相談して、東京のミッションスクールでもある「頌栄(しょうえい)高等女学校」、
ここの5年に編入することに。
将来は「東京女子高等師範」(現在の御茶ノ水女子大)を受けるつもりで上京したのである。


しかし勉強に専念するつもりが、テニスに夢中になる。
当時は台湾でもテニスが盛んになり始めていた時代。
毎日あたりが真っ暗になるまで無我夢中で練習し、
なんと 第1回の「硬式テニス女子選手権」の代表選手に選ばれる。


「当時、新聞にも名前が載ったらしいですよ。1回戦で敗退したみたいですけど」

 同じ大会には自由学園の羽仁説子さん(教育評論家、自由学園創設者・羽仁もと子氏の長女)
も選手として出場されていたようだ。

上京して1年後の大正12年(1923)に 頌栄高等女学校を卒業。

しかし先生たちが 「あなたなら だいじょうぶ!」 と太鼓判を押してくれていた
東京女子高等師範の試験に失敗する。

のちに母はこのように語っていた。
「落ちるの当たり前よね。うぬぼれちゃって。テニスばっかりして勉強もしないで・・・」。

東京女子高等師範の受験に失敗した春子は 台湾へ戻る。
目標が叶わなかったことは悔しいが。さいわい その年(大正12年)の9月1日に発生した
関東大震災には遭わずにすんだ、ともいえる。


6. 母の青春時代 (2)

◇ 「母校の代用教員に

母・春子が「東京女子高等師範の受験に失敗した」 という情報は
台北にも伝わっていたのだろうか。

台湾へ戻った春子に、母校・静修女学校から代用教員の仕事が舞い込んだ。
教科は国語と書道。
これはひとえに 静修女学校時代、春子に目をかけてくれていた”小宮先生”のおかげである。


小宮先生とは― 静修女学校の開校時、弁護士として学校の顧問をつとめていた
小宮元之助 (こみや もとのすけ)氏。
その後、静修女学校の
第三代・校長もつとめている。

参考 : 
 現在も存在する台湾・静修女子中学の公式HP内「静修の歴史」のページに
 当時の小宮校長のお写真あり。


春子は女学校時代、小宮先生に毎年年賀状を送っていた。
その春子の年賀状の筆跡、字があまりにも美しかったため、

君は書道を勉強して、将来は書家になりなさい」。

先生はその才能を高く買っていたのである。
こうして小宮先生のはからいで、
春子は母校で書道と国語を教えることとなる。


「母が教師として修学旅行に同行した写真があるんです。
 一人だけモダンな帽子をかぶって、大正ロマンを地で行っているというか。
 当時としては ちょっと ”オシャレさん”だったと思うんですね」



  「洋装の春子」 大正14年11月 修学旅行 記念写真(前列、左から4番目)

モノクロなので色はよくわからないが。白っぽいニット帽にスモックのような
ふんわりワンピースを着た春子は 集合写真のなかでもかなり目立っている。
(他の教師は和装、女学生たちは制服)


当時は教師不足のため、代用教員は多かった。
学校(おもに小学校)によっては資格はなくても女学校を出ているだけで
とりあえず教える者までいたという。


でも春子の場合は違った。

「戦後、東京で静修女学校の同窓会があって、『先生、先生!』 と母のところに
 当時の教え子たちが たくさん集まってきていたようです」

代用教員といえども、生徒たちにもかなり慕われていたようだ。


◇ 「アクマ 入りました?」

 台北の静修女学校はミッションスクール。
キリスト教のなかでは カソリック(=カトリック、旧教)だった。

しかし春子は上京中、プロテスタント(新教)に変わっていた。
頌栄女学校がカソリックではなくプロテスタントの学校だったのだ。

なので台北に戻ってからもプロテスタントの教会に通っていた。
そのことが、ある日、勤め先である学校に知られてしまう。

あなたの心に アクマ(悪魔) 入りました 

と先生たちに言われ、学校をクビになってしまう。

(当時カソリックは プロテスタントを目のかたきにでもしていたのだろうか)

突然、代用教員の職をクビになってしまった春子。
ここでもまた、小宮先生が登場する。
折りしも 小宮先生はある知り合いの役人から、こんなことを頼まれていた。


「こんど総督府の調査課で人口調査などを実施するんだけど、
 チーフになる女性で 誰かいい人を紹介してくれないか?」 


そこでひらめいたのが、かつての教え子である 春子だった。

「ぴったりの子がいる。宮城(みやしろ)という女性なんだけど」

母の旧姓は宮城、「宮城ウト」といった。いかにも沖縄人の名前だ。
ちなみに「春子」というのは のちの通称である。


お役人: 「うーん、沖縄の人でない方がいいんだけどな」

当時は沖縄差別が根強くあった。
しかし小宮先生が動じることはなく、自信を持って こう言った、


「まあ、会ってみなさいよ」

結局春子は採用され、臨時で3年ほど総督府の調査課で働いた、
女性たちのまとめ役として。

お手当(お給料)はその働きぶりから、他の女性たちの2倍くらいは
もらっていたようだ。



7. 母の青春時代 (3)

春子はピアノが弾けた。
小学校時代、蘇澳に音楽の先生はいなかったが、
ある日、宜蘭 (ぎらん: 1章の地図参照。蘇澳の北、赤く囲んだ所)の小学校に
行く機会があり、そこには音楽専門の先生がいた。

春子はその先生が楽譜を見ながらピアノを弾く様子をじーっと観察していたら、
楽譜と指の関係がわかった」といい、自分も真似して弾くようになる。


その後、台北の静修女学校でピアノに触れる機会が増え、
(もちろん音楽の教師もいたであろうし)
かなり上達したようだ。

当時、台北には「新高堂(にいたかどう)」という大きな本屋さんがあった。

「誰それの、『〇〇〇〇』 という楽譜が入荷した」 という情報を聞きつけると、
春子は飛んで買いに行き、その新しい曲をピアノで弾いてみせた。

そして学生たちが集まってくると、それをみんなで歌ったりしたものだ。

あわき光に 波路は霞みて

  月の水際(みぎわ)に さざ波ささやく

  夜のしずけさよ 面影は浮かびて

  切なる思いは 胸の奥に

  波のごとく 揺るる

  あゝ そよかぜ 匂いて

  月影は 夢みる

  いざ 出で来よ 我と共に

  君よ あゆまん

《 『ドリゴのセレナード』 訳詞: 堀内敬三  作曲: R.ドリゴ(イタリア)》

大正時代、女学生の愛唱歌だった『ドリゴのセレナード』。
メロディと歌詞が知りたくてインターネットで探すと音源が見つかった。

目をとじて聴いていると・・・・・・ 春子のピアノに合わせて女学生たちが歌っている光景が
なんとなく想像できる。

台北の静修女学校というところは NHK朝の連続テレビ小説『花子とアン』(2014)で
吉高由里子演じるヒロインが通っていた 秀和女学校のようなイメージだろうか。


母は自分でオペレッタを作詞・作曲して下級生に指導し、クリスマス会の劇(出し物)として
披露したこともあるようだ。

それほど音楽の才に秀でた母であったから。
引き揚げ後、ある同窓生のひとりが、

「あの人の子どもなら、きっと音楽家として大成しているはず!」

と 音楽関係者の名簿のなかに「竹中」姓の音楽家がいないか、必死にさがしたとかなんとか・・・。

書道にしろ、音楽にしろ、そういえばテニスも一流で運動神経もすぐれいるし、
なんて才能にあふれた お母さまだろう。

「母は万能型です」
と娘の信子が言うのも 決して身内の身びいきではないことがよくわかる。


  モダンガールを地でゆく 独身時代の母・春子(右)  (台北にて)



8. ドストエフスキーが とりもつ縁

いつものように春子が台北の書店・新高堂で楽譜をえらんだあと、
こんどは小説をさがしに ドストエフスキーのコーナーへ行くと・・・・・・。


なんとそこには、竹中秋三がいた。
秋三もドストエフスキーの本をさがしにきていたのだ。

互いにびっくり、顔を見合わせて「久しぶり」。会うのは小学校卒業以来だった。

のちに春子は子どもたちに、
ドストエフスキーが とりもった縁よ」 と語ってくれた。

書店で運命的な再会を果たした二人。
その後、ときおり台北で会っていたのだろうか。

ほどなく母は東京の女学校へ進学したため、
しばらくは離ればなれだったはずである。

昔のことだから、ほとんど交際らしい交際もなく 文通くらいであろうか。


惹かれあった二人はいつしか「結婚しましょう」と手紙で約束をかわした。

だが結婚は双方の親に反対される。

まずは父の実家。母・春子の両親が沖縄出身で小料理屋を営んでいたことから
あの家とは釣り合わない」。
”家柄自慢”の祖父をはじめ、父の姉たちもこぞって反対した。


また母の実家のほうでも 「父の家は厳しい。とりわけ祖父が厳格すぎる」
と反対した。



9. 台北で所帯をもつ
 (1)


秋三が親きょうだいをどんなに説得しても、結婚は許してもらえなかった。

春子の実家には、春子の家を侮辱するような手紙が送られてきた。
誰が書いたものかは定かではないが、
おそらく秋三の姉・タマ子が書いたものであろう。

ついに春子は「この話は無理だな」とあきらめ、再び上京。
友人のところに身を寄せ、 府の役所で働き始めた。

当時は東京都ではなく 「東京府」であった (明治元年~昭和18年までの名称)

するとまもなく、台湾の秋三から手紙が届いた。

結婚の話、カタがついたから戻ってきてほしい」。

春子を呼び戻す内容の手紙である。
これを読んだ春子は、
秋三さんも ようやく親から言質(げんち)が取れたのね」 と喜び、蘇澳へ戻る。


春子は晴れて蘇澳の竹中家へ嫁いだ―。かのように見えたが、
現実はそう甘くはなかった。

父の姉たちから、容赦ない “いじめ”を受ける。

「物はお金を出したら買えるけど、家柄だけは買えないものね」

こんな嫌みに始まり・・・ 春子は あの手この手でいじめられた。

舅である祖父はというと、まったく味方をしてくれない。

耐えかねた春子はついに「私は帰ります」と言って、
基隆の実家へ帰ってしまう。
もちろん、まだ竹中家の籍にも入っていない。


まもなく、「自分も すぐあとを追いかけるから」と言っていた秋三が、
その言葉どおり 基隆まで春子を迎えに来た。


嬉しかったでしょうね、母は。父が蘇澳の工場も家も何もかも捨てて
 迎えに来てくれたんですから
」 

結局、双方の親が許さないなか 二人の決意は固く―
そのまま台北で所帯を持つことに。(いわゆる「駆け落ち」ともいえる)

おそらくこの時、母は(宮城)「ウト」という親にもらった名前から、
(竹中)「春子」に変えたのではないかと思われる。

秋三と春子、二人の新しい生活が始まろうとしていた。




10. 台北で所帯をもつ (2)

貧しく暮らしたなかで、姉と私が生まれたんです

台北一中を中退し、蘇澳に戻っていた父・秋三
途中、兵役などを経て、性に合わないながらも家業の炭酸水工場で働いていた。

そんな父が「所帯を持つ」と決めた台北で、
なんとか食べていけるだけの仕事にありつけたのだろうか。


「姉(和子)が昭和3年の1月生まれですから、少なくとも昭和2年くらいには
 結婚してると思います。昭和2年といえば昭和の元年みたいなもんですね。
 大正15年のあとの昭和元年というのは1週間しかありませんから」


調べてみると、たしかに大正天皇は大正15年(1926)の12月25日に崩御している。

この日から元号が昭和に変わり(昭和元年)、翌1月1日からは昭和2年。
すなわち昭和元年はわずか7日間、1週間で終わっている。

(それがどうした? と思われるでしょうが。戦後生まれのライターにとっては 
 これも一つのハッケン、興味深いものなんです)


新婚時代、3年くらいは台北にいたのだろうか。
父と母にとってはおそらく一番幸せな時期だったはずだ。


姉・和子が生まれたのは建成町。《昭和3年1月
建成町は当時の台北駅の北側に位置する新開都市だった。


一方、信子が生まれたのは龍山寺に程近い新富町。《昭和5年11月
ここは台湾人と日本人の両方が住む下町で いわゆるエリートが住むところではなかった。

短期間で庶民的な町へ引っ越したということは、

私が生まれる頃には さらに落ちぶれちゃったのかな?(苦笑)」

そんなふうに想像してしまうのも無理はない。
信子に生まれた家の記憶はないが、あとで聞くと二軒長屋だったようだ。

当時出産のときは産婆さんが主流だった。台北では姉も信子も産婆さん。
信子が生まれる少し前から、病院でのお産が流行り出したようだ。

「そういえば当時 蘇澳で産まれた人は ”タカサキ”という薬局の産婆さんに
 お世話になったと聞きました。今のような産婦人科はなかった。
 町のお医者さんが内科も外科も婦人科も兼ねる― そんな感じでした」

当時は内地(日本)も外地も、医者の事情はほぼ同じであろう。

若い二人は新しい命をさずかり、さらに絆が深まっていった。
貧しくとも希望に満ち溢れていた。



11. 信子2歳、台北から蘇澳へ (1)


 有能だった 竹中信景の二女・瑋子 (ここでは”タマ子”と記します)

秋三の腹違いの姉・タマ子再婚して蘇澳の家を出ることになり、
祖父は困っていた。

というのも、この伯母はとても有能だった。
内地(日本)のカソリックの学校でイギリス人、フランス人の童貞さんに
育てられたおかげで英語とフランス語、さらに台湾語も堪能だった。

祖父の右腕として家業を切り盛りし、
台湾各地へ清涼飲料水の営業に
出かけていたほどの人である。

めでたい結婚とはいえ、しっかり者の娘がいなくなるということで
祖父は慌てた。

他のきょうだい(男子)はというと、日本から呼び寄せた長男は出奔し、
台湾で生まれた二男は早死している。


よほど困り果てたのだろう。
祖父はそれまで息子の結婚には大反対だったはずが、
突然折れて、

「蘇澳に戻ってきてくれ」 と台北まで秋三を呼びに来たのだ。


秋三は、戻りたくはなかった。今のままがいい、と断った。

ところが春子のほうがこう言った。

「お父さんもお一人だから お気の毒ではありませんか。行ってさしあげましょう」。

こうして一家4人は台北から故郷・蘇澳へと戻ることとなった。

若い夫婦と幼い娘ふたり・・・・・・
昭和6年頃、信子がまだ2歳になるかならないかの時期である。 


母・春子にとって、これが苦難の始まりであることなど、まだ知るよしもなかった。




12. 信子2歳、台北から蘇澳へ (2)


  台北から蘇澳へ戻った頃の父・秋三と 母・春子。
  姉和子と まだ乳飲み子の信子。 
母・春子の笑顔がなんとも美しい。

若い夫婦にとって、貧しくも幸せだった台北での日々(3年)が終わりを告げた。

蘇澳の竹中家に入った母・春子は忙しかった。一日働き詰めだった。


まずは食事の支度。朝は6時、昼は12時、夜は6時と決まっていて、
1分でも遅れると 祖父の機嫌が悪い。


「祖父はお冷や(ご飯)はダメ。三度三度、あったかいご飯じゃないといけませんから、
 それを準備するのに 神経使ったと思いますね」


工場には大勢の従業員がいる。
昼と夜は台湾人の「ご飯炊きのおばさん」が手伝いに来ていたが、
それでも舅(祖父)には相当 気を遣った。



また母は祖父の身のまわりの世話もした。
祖父が台湾で再婚した後添い (=後妻、秋三の母)は父が10歳くらいのときに
すでに亡くなっており、祖父はいわば「男やもめ」だったのである。


母は炭酸水工場の仕事もしていた。
父はおそらく経営のほうに携わっていたのか現場にはいなかったが、
母は現場にいた。
女工さんたちが10数名いるなかで、竹中家の嫁として率先して仕事をしないと
示しがつかなかったのだ。


「母は忙しかったんですよね。私たちがギャーギャー泣いても面倒みられなかったし、
 (蘇澳で産まれた)妹や弟にお乳をあげていても 祖父が部屋に入ってきたりするとね、
 なんとはなしに気をつかっちゃって。つらかったでしょうね」



蘇澳に移り住んでまもなく 第三子となる妹・光子が生まれる。《昭和7年》
その3年後には待望の長男・春野(はるの)が誕生した。
《昭和10年》

どういうわけか、祖父は蘇澳で生まれた妹と弟のことをとてもかわいがった。
一方、台北で生まれた長女・和子と二女・信子には何かにつけて厳しかった。

「だから、だいぶあとになって 私と姉は『おじいちゃん、こわかったねー』って
 言うんですけど。妹と弟は『おじいちゃん、やさしかったぁ~』って」

「とくに私は4人のなかで一番、何かっていうと叱られてました。おてんばで
  いたずらばかりしていたせいでしょうか」


「誰もいない部屋で足を崩してたってね。さっと入ってきて、
 帯のところにさしている扇子で ピシッと足をたたくんですよ。
 昔の武士の教育でしょうね。だから誰もいなくても正座していないと
 いけないんですよ」


こんなふうに 信子の記憶にある祖父・信景はとにかく厳格な人だった。

***

蘇澳では小姑=父の姉たちが 懲りずに母をいじめた。
再婚してもたびたび実家に顔を出すタマ子伯母と、父と同じ蘇澳生まれの清子伯母だ。

台湾人の女中さんたちが母に向かって「奥さま」と呼ぼうものなら、
その人は奥さまではありません、女中です!」
と ものすごい剣幕で言い放ったという。


「それほど こわい伯母がいたんですよ。母はずいぶん、いじめられてたみたいです」

まるで、あの”朝ドラ”のようだ。
早くに母を亡くした弟に、母親に代わって愛情を注いできた姉。そこに気に入らない嫁が……。

この構図、ヒロイン(杏)が義姉(キムラ緑子)の強烈な“いけず”に遭う、NHK朝の連続テレビ小説
ごちそうさん」(2013) のようではないか。
ああいうのは現実にあったんだ~ とつくづく。


 
13. 父の死


  信子の父 竹中秋三 (独身時代、大正末期とおもわれる) 
 
昭和10年1月26日、朝のことである。

弟を出産して4日目の朝、母・春子はまだ寝室でふせっていた。
父は朝から娘3人を炭酸水のプールに入れてやり、服を着せた後、
母のところへやってきて、こう言った。


頭がとっても痛い。この頭の痛さは普通の痛さじゃない。これはひょっとしたら、
 ダメかもしれない

と言い残し、自分の部屋へ戻っていった。

母は心配ですぐに起き上がり、追いかけるように父の部屋へ向かった。
すると父はすでに倒れていて 意識がなかった。

ちょうど産婆さんが来たので、父を布団に寝かせ、近くの町医者を呼んだ。

「これは重病じゃないだろうか」 と医者が言う。

そこで急いで 宜蘭から医者を呼びよせたところ、
「流行性の髄膜炎」と診断された。
死亡率が高く、治っても脳に障害が残るという。

流行性ということは、病気がうつる可能性がある。
祖父は母や子どもたちに、「絶対にそばに近づいてはいけない」と言った。

だが母は祖父の目を盗んで看病に行った。
すると、だんだん熱が下がってくる


きっと神様が祈りを聞いてくださったんだわ

と母が喜んでいたら

父の体はどんどん、どんどん 冷たくなり・・・・・・

その日のうちに死んでしまう。

まだ30歳だった。

「弟が生まれたのが 昭和10年の1月23日で、
 父が死んだのが昭和10年の1月26日なんです。
 
 時間を調べると、弟は23日の夜に生まれていて、
 父の方は26日の昼12時くらい。 

 正味2日と十何時間ですよ。それくらいしかね・・・・・・。
 だから、父が弟を抱っこしてあげたのかどうかわかりませんけど、
 弟がほんとにかわいそうで・・・・・・」 


母はショックで、その後40日間寝込んで起き上がれなかった。

「そもそも祖父も父の姉たちも、父と母の結婚には反対でしたから、
 母は非常に苦労するところに 残されちゃったんですよね


最愛の夫・秋三を亡くした母・春子。
しばらくふせってはいたが、立ち上がらないわけにはいかなかった。

なにしろ生まれたばかりの乳飲み子を含め、4人の子どもを抱えている。

しかも祖父の工場を二代目(跡継ぎ)として支えてきた秋三のぶんも
働かなければならなかった。



  父・秋三の葬儀のようす。山のふもとにある工場、川など、当時の工場付近のようす(地形)がよくわかり、1つの資料としても重宝がられている。



14. 炭酸水工場のこと


ここで明治の終わりに祖父・竹中信景が事業化に成功した炭酸水工場
(名称:「竹中天然炭酸水工場」)について 少し触れておこう。

祖父は炭酸泉が最も地面から噴き出ている場所、いわゆる”源泉” を探しあて、
そこを石で囲み、中央に据えるかたちで工場をつくった。

「今でも思い出します。工場のまんなか辺りにね、私たちが“源泉”って呼んでる
 ところがあったんです。

 十畳くらいの広さ・・・… いや、もっと大きかったかもしれません。
 
 石垣に囲まれてるんですが、そこから炭酸ガスが躍り上がるようにパーッと湧いてくる。
 炭酸ガスだから、そこ落ちたら死ぬんです。危険ですよ、酸素がないんで」


残念ながら工場内部の写真は残っていない。
信子は当時の工場のようすを思い出すままにさらさらと紙に描いて、説明をつづけた。


「(便利なように) この水の流れのすぐ横が生産の場。ここにサイダーやラムネの機械を
 置いてました」


「(源泉の)炭酸ガスを機械のほうへ接続して、そこのところからパーッと水が湧くので、
 工場の中から川まで水を通すんです。この水が炭酸泉。ざーっと流れるわけです」


「その流れの両側に女工さんたちが十人くらい向かい合って並んでて、歌をうたいながら
 “ビン洗い”をしている。炭酸水で洗うんですね。
 炭酸水っていうのは生物が住めないから、それだけで殺菌ですね」


「それ(洗ったビン)を伏せて、水切りして、清涼飲料水を製造していくわけです。
 ラムネとかサイダーとかね。
 サイダーは瓶の底の方にシロップ入れるでしょ。そしたら機械がひと回りする間に
 その炭酸水と炭酸ガスが入って、栓をして出てくるんです」


― 先に”シロップ”を入れておくんですか?

「はい、最初にシロップを入れておくんです。そのシロップが決め手でね。
 調合室っていうのがあって、母が責任を持って そのシロップを作るわけですよね」


サイダーの製造工程のなかで最も重要だった「シロップ作り」を任されていた母。
サイダーのシロップには最も品質のいい砂糖が使われていたという。


「シロップをこしらえて瓶に詰めて、香料も入れて。
 それを一人、しっかりした台湾人の若い女性と一緒にやってました」

「ここに3畳くらいの大きさのお湯沸かしているところがあってね。
 そこにできあがったサイダーを浸すんです。そこで弱い瓶は割れちゃうんですよね。
 で、それを台車に乗せて、ここに運んできたら、ラベルを貼るんです。
 『七星サイダー』って書いたものをね」

七星山のふもとに工場はあった。
「七星サイダー」「七星シトロン」「七星炭酸水」……とすべての商品に
この山の名前がついていた。
七星山は信子が毎日のように登り、親しんだ山である。


さらに紙に描きながら信子はつづけた。

「ここは(通路)出荷するときに使ってましたよ。工場のなかから台車が通ってました。
 距離は百メートルくらいだったでしょうか」


ライターは またしてもNHK朝の連続テレビ小説を思い出していた。
ドラマ「マッサン」(2014)の余市のウイスキー工場がちょうど このような通路で台車(製品)を
運んでいたのだ。



工場には一人、優秀な番頭さんがいた。
祖父が軍隊の仕事をしていたときの仲間で、炭酸水を開発する前には
蘇澳や羅東で雑貨屋さんを一緒にやっていた。

祖父に二番目の妻を紹介したのもこの番頭さん、という話であるが
(番頭さんの写真も残っておらず) 詳しいことはよくわからない。


***

大正11年(1922)の新聞 「台湾日日新報」にこんな記事が載っている。
当時の祖父の会社の商品名と価格が載っており 非常に興味深い。


「この炭酸泉を原料として、炭酸水、シトロン、サイダーなど各種清涼飲料水を
 製造してきた竹中信景は、去る六月十七日の台湾始政記念日や東京の
 平和記念博覧会台湾館に出品、銀賞を授与されている。今回は生産者と
 消費者との仲介機関を省略し、最も新鮮なるものを廉価で販売している。

   七星シトロン    一ダース 一円八十銭

   七星サイダー   一ダース  一円八十銭

   七星炭酸水     一ダース  一円五十銭

   七星フレーズサイダー 一ダース 二円十銭 」

《竹中信子著 『日本時代、五十年の台湾ー 台北州 蘇澳郡 年表』より抜粋》


15. 信子の子ども時代 (1)センダンの木

「うちには父が子どものころに植えたセンダン(栴檀)の木があって、
 それが大木になってたんです。
 妹がいつからかその木を “おとうさんの木”って呼び始めて。
 特別な親しみを持って、私たちも年じゅうのぼって遊んでました」


家の門を入ってすぐのところにあったこの木は
父・秋三台北一中時代に植えたもの。

根元のところに石が積んであったので比較的登りやすくなっていた。
おとうさんの木と命名したのは三女の光子である。


「父が死んだとき、妹はまだ1歳何ヶ月くらいで父の記憶がないんですよね。
 まして弟なんかゼロでしょ。それはとても会いたかったでしょうね。
 私はかろうじてあります。お葬式の記憶がね」


信子が木登りをしている様子は 川向こうの官舎あたりから見えていたらしく、
「またあの子、登ってる!」 とよく言われていた。

木の上で本を読みふけったり、また ひとりで山へ行ったり・・・・・・。
おてんばだが、あんがい無口。だまって考えこんでいることが多かった。
でもなぜか危ないことを平気でする癖があり、よく怒られた。


「危ない!と言われると、かえって急な坂をダーッとかけ下りてみたり、
 めちゃくちゃやってましたね」

今思えば、エネルギーがあり余っていたのかもしれない。
のちに蘇澳時代を知る親戚(いとこ)にこんなことを言われる。

「あなたいつも一人だけ叱られてたけど、
 やっぱりそれだけのエネルギーがあるから 本も書けたのね」。


また信子は 動物きちがい」と家族に言われるほど動物好きだった。

町を歩いていても、のら犬やのら猫を見つけると そこから動けなくなる。
抱っこしたり頭をなでたり、とにかくそばを離れられなくなる。
そのうちに日が暮れ、そっと懐にかくし持って、帰宅する。


ところが祖父は動物が大嫌いだった。
夜中に犬や猫が鳴き始めようものなら、「また信子が連れてきたのか!」と怒りだし、
信子は母と一緒に泣きながら町へ捨てに行く・・・・・・
そんなことは十回ときかなかった。


⋆ 不適切な表現ではありますが、当時の表現のまま表記しました。




16. 信子の子ども時代 (2) お母さん恋しい病

昭和12年(1937)、蘇澳小学校に入学した信子。
蘇澳は田舎ということもあり、1年から4年までで1クラス、5年6年が1つのクラス
で授業をしていた。

この年、昭和12年の7月には 盧溝橋事件が勃発し、日中戦争が始まった。

同年12月13日には日本軍が中華民国の首都南京を攻略(南京陥落)。

日本国内ではこれを祝い、あちこちで提灯(ちょうちん)行列がおこなわれた。
もちろん日本統治下における台湾でも同様だった。


南京を攻略し、中華民国は「まいった!」 と降伏するかと思いきや、そうはいかなかった。
その後も戦争は続く。


信子が小1の3学期― 昭和13年2月のこと。
空襲が起こり、学校から帰れなくなったことがある。


信子の記憶では「新竹大空襲」とのことだが、
ライターが調べたところによると、新竹空襲は昭和18年(11月25日)。

昭和13年2月(23日)に起きたのは、
中国空軍による 台北近郊・松山飛行場の空襲― これが史上初の日本本土(内地・外地を含めて)
における空襲であったといわれている。



その日、帰宅できないと知った信子は
なぜか「もう、母と会えなくなるのでは?」と不安になり、大泣きした。

その泣きようがよっぽど激しかったのだろう。
小学校の先生が あきれてこう言った。

竹中、おまえ、バケツいっぱい 涙流しただろ?」。

あり余るエネルギーで、おそらく泣き方も半端ではなかったのだろう。


「あの時、母と別れるのが つらくてつらくて・・・・・・。
 やっぱりね、ちゃんと”乳離れ”ができてなかったんでしょうね」

母が忙しすぎて、幼い信子は母に甘えることができずに育った。
なので、母に対する愛情の欲求不満でこうなったのだ。


それでも、母が好きだったことに変わりありません

***

母が恋しい、といえば。
弟の春野が”マラリア”で入院したときのことが思い出される。


領台当初(明治28年頃)、伝染病のマラリアは多くの死者を出していた。

日本の統治によって台湾のインフラは整備され、
医療や公衆衛生も大幅に改善され(台湾総督府の民政長官・後藤新平の功績)、
マラリアはほぼ撲滅したとされていたが。
昭和14~15年に流行する。


弟は当初、原因不明の高熱で 宜蘭の総合病院でもわからないということで
台北の帝大病院へ― そこで「悪性マラリア」であることが判明する。


「伝染病の個室に入った、と母から連絡がはいって。そりゃ、うちじゅう心配しますよ、
 弟がどうなるかと思ってね」


大事な一人息子が”マラリア”となれば、竹中家の一大事である。

何日か経って、台北の母から 「(春野は)もう大丈夫よ」と連絡がはいる。
家族みんなが安心したその夜、信子は胃けいれんをおこす。


「ご飯をひとくち食べたら胃けいれんで。ああ、“七転八倒”って、このことなんだなーと」

痛くて痛くて じっとしていられずに転げまわった。

次の日、治ったかな?と お味噌汁をひとくち飲んだら、また胃けいれんが始まったので
学校へも行けず。
それが2,3日続いて、母の知るところとなり、

「なんかひどい病気じゃない?」
「おじいちゃんと相談して、台北の帝大病院へいらっしゃい」

と話が進み、翌朝台北駅に母が迎えにきてくれることになった。


あす、台北へ行ける!」

なぜかその夜から、信子の胃けいれんは おさまった。
が、もう切符も手配してあったので 翌朝信子は意気揚々と台北へ向かった。


台北駅では母が迎えにきていた。人力車で病院へ。
母に抱かれるひととき・・・・・・ 

こんなこと、めったとない!) 

信子は大満足だった。


病院では信子にもベッドが1つ、あてがわれた。

そこは帝大病院。ドラマ「白い巨塔」のように院長先生のようなえらい先生が
回診におとずれる。ぞろぞろと若い医者やインターンを連れて。

いざ、診察を受けると―。


どうもない(笑)。胃はなんともない、と。
 先生が言うには、“お母さん恋しい病 ”じゃないか? って」


医者たちがどっと笑った。信子は恥ずかしくてたまらなかった。

マラリアの春野もほぼ回復はしていたが、
信子はひと足先に退院し、ひとり蘇澳へ戻った。



17. 信子の子ども時代 (3) 小学校にて

◇「大人になりたくなーい

書道の時間、新聞紙に字を書いて練習していたら、
突然、ある女の子が泣き出した。

なんでも、字を練習した新聞紙の裏に皇室の記事(
天皇・皇后両陛下の御真影を含む)
が載っていたというのだ。

その子は 「知らずに 両陛下をお墨で汚してしまいました」 と泣いていた。

このエピソードは のちに修身の授業で校長先生から”美談”として紹介された。
これに信子は違和感を覚えた。


「その子は(両陛下の写真があることを)知らなかったから、悪くないのでは?」

「それほど窮屈な世界なのか?  大人の世界というのは」

この時、「大人になりたくなーい!」 と強烈に思った信子であった。  


◇「ライくん のこと

小学校のクラスにただ1人、台湾人がいた。
蘇澳の地方財閥の息子で名を ”ライ・ウテイ” くん といった。

彼は国語の授業中、「おどりをおどりました」というところを
おろりをおろりました」としか言えず、担任の先生に竹刀のようなもので
たたかれては、

「もう一回!」
「おろりを・・・・・・」
「ダメだ、もう一回!」

とみんなの前で厳しく指導されていた。

信子は見ていて かわいそうでならなかった。
台湾人だから発音できなくて当たり前、そんなに厳しくしなくてもいいのに。


戦後、ライくんは蒋介石(国民党)の弾圧を受け、天井から吊り下げられるような
拷問を受けたと聞く。

その後、日本を経由してアメリカへ亡命。カルフォルニアで日本語教師になった。


「それを聞いたときに 私はね、発音を直されてよかったなーと思いました。
 日本語の教師と言いながら 『おろりをおろりました』って教えてたら
 大変じゃないですか」


きっと、ライくんは相当努力したのだろう。
もともと頭もいいはず。というのも当時は優秀な成績でないと
台湾人が日本人の小学校に入ることはできなかったのだ。

その後、宜蘭中学で英語教師をしていたライくん。
20年ほど前に蘇澳の同窓会で再会したときには、なかなかハンサムな紳士になっていた。

そのときに聞いた話。

当時、 皇民化運動が激しくなるなか、
ライくんは(日本人の名前を名乗る)”改姓名”はしなかった。

そのため、中学へ進んだある日、
ライくんは上級生たちの呼び出しをくらう。

ライ、おまえ、なんで改姓名 しないんだ?」


ライくんは上級生たちに取り囲まれていた。

これをたまたま見かけた、蘇澳小学校から一緒だった同級生たちが
「なんだ、なんだ?」と廊下に出てみたら、
ライくんが改姓名していないことでなじられている。
とっさに助け舟を出した。


「改姓名してなくったって、おんなじ日本人じゃないか。
 どうしてそんなこと言われなくちゃいけないんだ?」


蘇澳の子は総じて体格が大きく威圧感があったこともあり、
上級生たちは返す言葉がなかったという。


おんなじ日本人じゃないか! 台湾人だって、内地人だって

そう言って同級生たちが かばってくれたとライくんから聞き、
「みんな、いいことやってくれたなー」
と信子は胸が熱くなった。


皇民化運動= 日本統治下の台湾で推進された、台湾人の日本人化をはかり、
           戦時体制の完成 ならびに戦争の遂行を目的とする施策。



    信子、蘇澳国民学校(小学校) 卒業式の写真。 後方の男子のなかにライくんもいるはず。


   中央のおかっぱ頭、ひとり襟の形がちがう (セーラーじゃない)のが 信子。


◇「おつかいの思い出」 (きょうだいの序列)

「私はいつも“おつかい” に行かされましたよ。姉がいるのに いっつも私。
 思い出すと今でもちょっと悲しくなって、涙が出たりすることもあるんです」

料理好きの母はよく 握り寿司をたくさんつくっては 学校の先生や自分の友人のところへ
届けるよう、信子に言いつけた。


「4回に1回くらいは姉に行かせればいいじゃないですか。しかも雨の夜なのに・・・・・・。
 帰りにぼろぼろ泣いちゃって、泣き顔みられるのもくやしいから、
 涙ふいてから 家に帰ってきましたね」


「大きくなってから、このことを母に言ったんですよ。そしたらね、『そうだったかしらね?』
 
なんて言って、ぜんぜん認識ないんですよ」

そういうこともあってか、信子は常々 自分がきょうだいのなかでは序列が最下等(一番下)
だと思っていた。


まず、生まれたときから「男子ではない」 という間違い(?)があったこと。

というのも、ことあるごとに 家にやってくる人から、

「せめて信子さんが男の子だったらねぇ (お母さんも助かるのに)」 と
言われ続けていたのだ。

そしてようやく4番目に弟が誕生し、もうみんなが大事に大事にして。

では3番目の妹・光子は?というと。母によく似ていて 何でもできる傑作的な子どもで、
信子から見ても本当にかわいくて 大好きだった。

そんなことで 下の2人のことは、祖父もかわいがっていた。

姉はおとなしくて従順だったこともあり、いつも信子ばかりが叱られていた。
おまけに おつかいまで・・・・・・。


こうして、「きょうだいの序列が一番下」という意識が植えつけられた。
だからといって、信子は母を嫌いになることはなかった。



18. 祖父が抱えていた悲しみ


        蘇澳神社にて。  (おそらく月次祭だろうか。祖父は2列目、左から2番目)


「祖父は口ばっかりで何もしないんですよ。昔のお侍さんの習慣ですかね?
 いばってて、口だけうるさくて 睨みを利かせてる、みたいな」 

信子の記憶にある祖父はすでに70超の長老で、しかも炭酸水工場の大経営者
もはや みずから労働しなくて当然だったのかもしれない。


祖父は蘇澳に水産会社が発足したときの初代社長を務めており、
地元の名士として 蘇澳神社氏子総代も務めていた。

また、「蘇澳の今昔を語る座談会」では主要メンバーとして 将来の蘇澳について
真剣に議論していた― という記録も 当時の新聞記事などに残っている。


前にも触れたように(祖父の娘である)タマ子伯母の言葉を借りれば、

竹中信景は “おもしろいか、おもしろくないか” を基準に 人生を生きた人」。

私利私欲なく 地元・蘇澳に貢献していたので 周囲からは一目置かれていたのである。

(なので 家や工場の中で 多少睨みを利かせていても無理はない?)


***
信子にとっては、ただ厳格なばかりの祖父であったが。
実は深い悲しみを抱えていたことをあとで知る。

秋三(信子の父)が齢三十で病死したことは先に触れた。
実はその上に ”2人の兄” がいた。


まずは日本で生まれた(先妻の)長男・ミサオ
台湾へ呼び寄せたものの、祖父と意見が合わず家を飛び出し、
イギリスの真珠会社に就職。シドニーの海にもぐって真珠を採るなど
潜水夫として働いていた。

一度台湾に戻った際、母・春子は会ったことがあるが、
その時もまた祖父とケンカ別れして家を出て行ったらしい。


「わが家の戸籍簿を調べましたらね、ミサオさんは船の上で死んでるんです。
 その真珠会社が所有している船の上で、潜水病かなんかで」



次に、蘇澳で生まれた二男のジロウさんがいた。

明治の終わりで、まだ蘇澳に小学校がない時代のこと。
ジロウさんは宜蘭の小学校の寄宿舎に入れられ、
1年生のときに朝起きてこないと思ったら、夜中に亡くなっていたという。

これには祖父も憤り、
蘇澳に小学校をつくらなくては! 二度とこういうことが起こらないように」。

地元の住民たちと「学校をつくる運動」を熱心に続けた結果、
ようやく蘇澳にも小学校の分校ができ、
おかげで秋三たちは自宅から通うことができたのである。


「当時の資料を調べても 『子どもたちの数が増えてきたから(分校をつくった)』
 としか書かれていない。もちろん、個人的な理由が書かれているはずもない。
 でもうちでは祖父や蘇澳の人たちが何人かで猛烈な運動をしたと聞いています」


祖父は昔かたぎの人なので、当然家の「跡取り」のことを気にかけていた。
なので男子はとりわけ大事にした。

だが、みんな揃いもそろって“早死に”という結果に。
祖父がどれほど落胆したかは想像に難くない。


そんな祖父の悲しみを知っていたからこそ、
嫁である春子は秋三亡きあとも自分が舅を支え、炭酸水工場を切り盛りしなければ・・・・・・
と決意したのではないだろうか。

「考えてみたら、父の母親(後妻)が亡くなってから、祖父はずーっと奥さんいないわけでしょ。
 40から80歳くらいまで40年近く、ずーっと ひとりでね。
 
 子どももみんな怖いから そむいて家を出ちゃってるなかで。
 孤独だったっていうかね。何がおもしろかったんだろう?
と思いますよね。
 私を怒ることくらいしか 生活にめりはりがなかったかもしれません(笑)」

祖父の年齢を越えた今、ようやく祖父の悲しみに寄り添える信子であった。



19. アツァヤ のはなし ( & 月命日の お墓参り)

父の死後、月命日(つきめいにち)の26日には 母子5人で墓参りに行った。
現在、蘇澳鎮公所(蘇澳の役場)があるあたりに日本人墓地があった。


「大きな墓標が高々と立っていて、こんな風に書いてありました。
 『畠山政長 第十七代の 後裔(こうえい)』 って」  


畠山政長(はたけやま・まさなが)というのは室町時代の武将、守護大名である。
そこから数えて祖父・信景が十六代、父・秋三が十七代、
末っ子である弟・春野が十八代だという。

★後裔(こうえい)=末裔、子孫のこと。
(徳川のお殿様や 竹中半兵衛の子孫というだけでなく、そういう血脈もあったとは。
 祖父が家柄自慢をするのも無理はない?   … by ライター



毎月26日になると、信子たちは午後の授業を早退し、リヤカーに乗って墓地へ向かった。

― お母さまが みずから リヤカーを引っぱられてたんですか?

「いえいえ、うち(工場)の使用人が。4人ともリヤカーの上に乗って、
 母は歩いてましたね。そしたら お墓で母が泣き出しちゃうんですよ」


ふだんは明るく気丈な母が、夫の墓石の前では激しく泣き出すのである。

***


あれは信子が学校から帰ってきた時間帯だったか、それとも休みの日だったか。
とにかく ひとりで家のまわりを探検して回っていた。いわゆる”探検あそび”を
しているときだった。


ちょうど母屋の裏のほうへ行った時、ぼそぼそと人の話し声が聞こえてくる。

見ると、母・春子と工場で長く働いていた台湾人のアツァヤが 2人で何やら話し込んでいる。
どうやら母は泣いていて、アツァヤがそれをなぐさめているようだ。


奥さんね、奥さんのこと、みんな わかってるから

アツァヤの日本語はあまり上手ではないが、母をなぐさめているのはわかった。
信子はとっさに「これは聞いてはいけない」 と引っ込んだ。

そして母が泣いている理由をあれこれ考えた。


「祖父のせいだろうか?」 
祖父はとにかくお説教が長かったようなので。


「蘇澳の奥さま連中に 何か言われたのだろうか?」 
蘇澳の日本人社会はとても狭かった。
なので、口さがない日本人が色々ウワサしていたのではないか?
 
たとえば、父が亡くなったのに いつまでも母が竹中家にいるということで。
そういうウワサが耳に入り、母は悲しかったのか。くやしかったのか。

それとも・・・・・
「もしや、タマ子おばさんのせい?」 

結婚して家を出たものの、たびたび実家に戻っていたタマ子伯母。
彼女は母が「何もできない人」だと決めてかかり、
お漬物だって 満足に漬けられないでしょ」 などと 何かにつけていじめていた。

伯母はできれば春子たち 母子家庭を実家から追い出し、
自分が炭酸水工場を仕切りたかったようだ。
(お漬物については、祖父が「なかなかおいしく漬けるよ」と言っていたようである)

結局、母があの時 泣いていた理由はわからない。
とにかくアツァヤは母を必死でなぐさめてくれていた。


気にしないで、気にしないで。奥さん、みんなわかってるから

たとえたった1人でも母のことを理解し、親身になってくれる従業員がいる。
それだけで救われる― 

信子はもちろん アツァヤのことが大好きだった。


 毎月、父の月命日にお墓参りに。(昭和15年12月か)
 後列左が姉和子、右が信子。前列左が弟はるの、右が妹の光子。



20. 妹・光子の 「生きる悲哀」

信子の2つ下には 蘇澳で生まれた妹・光子がいた。
きょうだいのなかでは 一番母に似ていた。

ぱっちりとした目元などの容姿はもちろん、
すぐれた運動神経や勉強熱心なところも光子は母から受け継いでいた。

のちに北九州・門司の女学校での体育・ダンスの授業でのこと。

先生がレコードをかけて振り付けをひとしきり踊り、生徒たちに見せる。
いったん音楽を止めると、先生は光子を名指しして前に立たせ、
お手本として踊らせたという。


「妹は1回見ただけで、その歌と踊りが頭に入るんです。とてもじゃないけど
 そんな能力、私にはないです」


母・春子のテニス選手としての活躍はもちろん、
音楽の先生がピアノを弾く指と楽譜と見比べ、すぐに弾けるようになったという
エピソードを思い出さずにはいられない。


光子にはこんな ほほえましいエピソードも。

「妹がね、“竹中光子”でしょ。小学1年の時に『わたし、かぐや姫だわ』って
 言うんですよ。
竹の中でぴかっと光って、子どもが出てきたのね。

 その時、妹がとてもかわいらしかったから
『ほんとだ!』 と思ったけど。
 もし私が竹中光子だったら そんなこと言えないな~と (苦笑)」

光子は小学校の時から字がうまかった。
お正月の書き初めのとき、(蘇澳小学校の)校長先生が全校生徒の前でこう言った、

ここのきょうだいは、下へいくほど 字がうまくなるな (笑)」。

「姉が一番へたで、その次は私で。妹はとくにうまかったんですよね」

光子が小学校2年生くらいの時だったか。
自分の下敷きに「生きる悲哀(ひあい)」 と書いているのを信子は見つけた。


「そんな難しいことば、私なんか使うこともなかったからびっくりしたんです。
 『みっちゃん、こんなこと書いてるよ』 って母に言ったのかな? 
 妹はいったい何を悩んでいるんだろう? って心配になっちゃったわけ。

 それで妹に『どうしてこれ書いたの?』って聞いたら、
 『新聞に書いてあったから、ここへ書き写した』って。
 意味なんてわかってなかったんでしょうね」


光子は 「ただ、おもしろそうだから書き写しただけ」と言うが。
姉たちが真剣に心配するほど 一時は物議をかもした「生きる悲哀」ということば。

のちに内地(門司)へ引き揚げ、まさにそのような日々が本当に訪れるとは思いもよらない、
無邪気な幼き日々の光子であった。



  祖父を囲んで。前列右から2番目の光子の表情が実に生き生きとしている。(小学校に入るか入らないか くらいの頃か)
  前列左から信子、弟はるの、祖父、光子、姉の和子。



21. 弟・春野 と アヒルのはなし

三女・光子の2つ下に生まれたのが 弟・春野(はるの)。
昭和10年1月、急逝した父と入れ替わるかのように (父が亡くなる3日前に)
生を受けた、待望の長男である。

春野とは男子にしてはめずらしい名前である。
母・春子から一字とったのだろうか。それとも父も母もクリスチャンだったので
聖書に関係しているのだろうか?
(ちなみに信子という名は祖父・信景の信にあらず。父・秋三が聖書からとってつけたもの)


たずねてみると、この「春野」にはちゃんとした由来があった。

領台直後の蘇澳に大久保春野(1846―1915)という軍人がいた。
宜蘭が反乱を起こしたときに平定した将軍で とても立派な人物だと言われており、
祖父がその名前からつけたのだ。

とにかく ただ一人の男子ということで、それはそれは大事に育てられた。


「弟はとっても素直ないい子でね。母があんなに過保護にして育てたから、
 引き揚げたとき、大変でしたよ。まだ小学校の5年生くらいで。
 引き揚げてきたとたんに朝から晩まで母はいないし、日本の慣れない土地で
 ひょっとしたら いじめられていたかもしれませんね」


母の春野に対する“溺愛ぶり” がわかるエピソードを一つ。

ある朝、春野が「消しゴムがいる!」と言いだしたので、
母は春野に小銭を握らせてこう言った。

「文房具屋さんに行って 『消しゴム、1つください』って言うのよ」

「わかってるよ~」
と春野は出ていった。

その直後、なんと母はこっそり春野の後ろからついて行った。

「消しゴム、1つください」 と春野が言うのを店の外から聞いていて、
「ちゃんと買い物してた!」 と喜び勇んで帰ってきた。

それほど一人息子というのは たまらなくかわいかったのだろう。


***


信子が無類の動物好きであることは先にも書いたが。
当時 きょうだいみんなで アヒルを飼っていた時期がある。


「1匹ずつ買って! と言ったら、母が買ってくれて。
 きょうだい4人でそれぞれ名前つけて かわいがりましたよ。
 みんな自分の“アヒル自慢”をしてね」


きょうだいでアヒル自慢、と聞けば 気になるのはアヒルの名前。
どんな名前だったか たずねてみると。


「名前、なんてつけたかしらね~ あの4匹のアヒルは・・・・・・」

まず姉の和子は「ヘイワ」。ヘイワちゃん、と呼んでいた。

信子は「ヒカリ?」だったか。自分のこととなると、かえって記憶が
あいまいだったりする。

妹・光子のアヒルは「サクラ」。

そしてまだ幼稚園児だった弟・春野は「なんて名前にしようかな?」と
真剣に悩んでいた。


ちょうどその頃、「♪雄叫びするどく 血潮を浴びて~」という
勇ましい歌詞の軍歌が流行っていた。


「それで、私が弟に (アヒルの名前は)“おたけびするどく”がいい、
 と言ったんです。そしたら弟が『なんだぁ?』っていうわけね。

 まだ幼いから、うまく言えないから、
 『こんな長い むずかしい名前、いやだ』 
って言ったのね。
 
 でも私はその名前がおもしろいもんだから、弟に、
 『これはすごく元気で勇ましい歌なんだから、いい名前よ』 とか言って。
 ほんと意地が悪いですよね」


結局、じゃあ、それにする!」 と決めた春野。

信子が「ヒカリちゃーん」とか言って アヒルをかわいがっている時、
春野はひとり苦労して呼んでいた、

お、おたけび ○▽×◆・・・」。

そのたびに信子はおかしくて、おかしくて。春野には内緒で笑っていた。


その後、お客さんが来るたびに 「おもしろい話」としてそれを披露したら、
お客さんもくすくす笑い始めて。

そのうちに弟が「みんなが笑うから、これはヘンな名前だ!」と言いだし、

ぼくは絶対に名前を変える。ぼうやと同じ名前にする!」

とアヒルの名を自分と同じ「春野」にして、
はるの、はるの~」 と呼んでかわいがっていた。


信子がずいぶんあとに この話を自分の子どもたちに話したところ、

お母さんって本当にいじわるな人ね。そんな名前つけてかわいそう

と娘が真剣に怒ったという。



人で飼ったアヒルは順調に育っていたが、
ある日 母が子どもたちに内緒で売ってしまう。


「まあ、アヒルの場合はしょうがないんです。アヒルもニワトリも 私たち食べるんですから。
 これらは半分 “食糧”っていうのもあるでしょ」


アヒルを売ったお金は、母がきょうだいそれぞれの貯金通帳に入れてくれていた。



 祖父信景と、一家の宝のように大事にされた 弟はるの (昭和14年の盛夏)



22. 母のうた

母は歌が大好きで 台所仕事をしながら童謡や歌曲、讃美歌などを
よくうたっていた。

早朝には、ぐずぐずして なかなか起きられない子どもたちの布団を順々に
はがしながら、目覚まし時計さながら こんなふうにうたった。


(信子 うたう)

♪ 朝日こ のぼりて 夜は明けたり 
   迷いの夢みてや  いつまで眠る いざ夢さませ
・・・♪

  この歌、よそでは聞いたことないんです。母はどこで覚えたんでしょう」


”よそで聞いたことがない歌” といえば 『人買いのうた』も印象深い。

「♪ 田んぼのかわずも だまった お山のすずめも だまった
   土手をとおるは 人買いか おめめギョロギョロ黒ずきん 
   ごーせてほっほっほー 日が暮れる 早く帰ろう、帰ろう
・・・♪

 って、母がよくうたうもんだから 夕方になると怖くなってね。人買いが出てくると思って」


信子が「お母さん、ずるいな」と思ったことがある。
それは母が決して “恋のうた”をうたわなかったから。


「母はね、♪命みじかし 恋せよ乙女~(『ゴンドラの唄』)とかは一切、
 私たちに聞かせなかった。私はそんな心配することないと思ったんですけど。

 やっぱり母子家庭で子どもが問題おこすと困ると思ってたんでしょうね。
 だから恋愛小説も私たちに読ませなかったんです。 
 
 モーパッサンの『女の一生』なんて、姉が女学校入ったとき内緒で買ってきてね。
 姉が隠している場所知ってるから、私はそれをこっそり読んでました」



この時代、 「口ずさむ歌といえば軍歌でした」
と以前、昭和ひと桁生まれの湾生の女性(「台湾うまれのヤマトナデシコ1」の主人公・ゆきこさん) 
から聞いていたので、
てっきり春子お母さまも うたっていたのでは?
と思ったのだが。

「私の母はあまり軍歌はうたいませんでした。ほとんど聞いたことないですね。
 母の場合は軍歌を覚える時代には もう工場で忙しかったですよね。もともと
 あんまり好きではないのかもしれません」



母の影響だろうか。信子もまた、いつも歌ってばかりいる子どもだった。

日本に引き揚げてずいぶん経った頃。蘇澳時代の知人が母の家を訪ねてきたときに、

「そういえば、竹中さんのところで いつも歌をうたってる お子さん いましたね?」

という話になった。
すかさず母が「この子ですよ、この子!」と たまたま居合わせた信子のほうを指して言った。


歌好きな母の娘がまた歌好きで、
のちに音楽の道に進むことになろうとは、この頃誰に想像できただろうか。


 「母がいい顔してる」 と信子のお気に入りの 母の写真(後列中央)。
 左は姉和子、右に弟はるの、妹光子。
 下の美人さんは工場の会計担当の事務員さん。
 後ろにはすももの木がある。  (昭和18年頃か)



23. 母が語った 父の魅力

母の歌のレパートリーのなかには、父が作詞作曲した歌もあった。

「そんなに いい歌じゃないんですけど・・・・・・」

(信子うたう)

山に黄色い 相思樹(そうしじゅ) 咲けど なぜかさびしい鳩の声
 
あとながさって 一年だ 

 
ふもとの村に相思樹咲けど 山はさびしい鳩の声 
 こまかい雨が ふるばかり
・・・・・♪

 「これ、“父のうた”なんですって。母が うたうんですけど、
  世界で誰も知らない、一曲しかない。今では知ってるのは姉と私だけ。
  これも私たちの目覚まし時計です」

相思樹(そうしじゅ)
 = 台湾アカシアともいわれるマメ科の常緑高木。春に黄色い花をつける。


***

話を伺ううち― ライターには 1つのギモンがわいてきていた。

母・春子は活発な青春時代を過ごし、恩師に見込まれて教師として、
また総督府でもチーフとして仕事をこなしてきた女性。

かたや、父・秋三は台北一中を中退し、仕事よりも本を読んだり
絵を描いたりするのが性に合う人。

それでも母からみた父は「尊敬に値する人物」だったのだろうか?
 
そのあたりのことを、おそるおそる たずねてみると・・・・・・。


たぶん、そうだった(母は父を尊敬していた) と思います

 私があるとき、『お母さんとお父さん、どっちがきれいだった?』って
 バカみたいなこと聞いたら、
 すかさず『それは お父さんでしょ』って言うんですよ、母が。
 
 だからね、母にしてみれば 父は”ルックス”もいい人だったんじゃ
 ないかなーと。母にとってはね」


なるほど、たしかに写真でみるお父上は背の高い好男子である。

「それから、母ってロマンチストなところがあるから、
 “文章のうまい父”とか、“絵のうまい父
とかね。
 それがとっても よかったんじゃないでしょうか」


学年は1つ違いだが 同じ小学校で机を並べていた2人。

作文の授業では、雪を一度も見たことがない父が雪を想像して
文章で表現したことがあったらしい。

そんな父の作文を先生が読み上げると、
母は「そういうのも想像して書けるんだ・・・・・・」と感心していたという。

さらに、
信仰が同じ、というのもあったでしょうね。父は台北一中に入ってから
 教会へ行くようになったんです。台北時代(新婚当初)も家族で教会へ
 通っていたと言ってましたから。

 母もね、本当はひっそりと暮らしていく方が性に合ってたんだと思うんです。
 立場上、炭酸水の工場をやらなくちゃいけなくなったわけですけど。
 やはり父とは価値観が合うのが一番だったんでしょうね」

***
信子の記憶に残っている “父の絵”がある。
それは屋根瓦(がわら)に描かれた絵だった。

戦争中、「屋根瓦が漏るんじゃないか?」と工場の工員さんが屋根にのぼって
点検していたところ、

「絵が描いてある瓦が 屋根に葺(ふ)いてましたよ」

と絵入りの瓦を2枚、おろしてきたのだ。これこそが亡き父の絵だった。

台湾瓦というのは赤レンガで瓦せんべいのような薄さだから、
絵が描きやすかったのかもしれない。


2枚のうち1枚は風景画で、もう1枚に描かれてあったのは
聖書の「放蕩息子のはなし」。

息子が外でさんざん好き勝手なことをやって、落ちぶれて帰ってくるのを
父親が「よくやった」と歓迎する様子を描いたもの。

おそらく父がいたずらで描いたものが瓦の中にまぎれ、
屋根屋(瓦を葺く職人)が瓦で屋根を覆うときに一緒に使ったのだろう。

「母はそのとき、この絵を初めて見たようです。
 母が知らないということは、父は結婚前に
描いたんでしょうね。
 あれだけでも日本に持って帰ればよかった。父の形見、何もないですから」

母はいったいどんな気持ちでこの絵を見つめていたのだろう。

「父って、無口なんですよね。
 ほとんど話はしないで、ぽつんぽつんと言うくらいで。
 でも母にとってはよかったんでしょう。そういう父が 好きだったんだと思います


24. 家庭音楽会

子どもたちが小学生の頃、毎週土曜の夜になると「家庭音楽会」が催された。
祖父が早寝だったので、母が「チャンス!」とばかりにやり始めたのだろう。

音楽会といっても それほど大げさなものではない。
母は基本的に”お客さん”ということで座っていて。4人の子どもたちが
かわるがわる前に出てうたったり、お芝居のマネをしたり、
学校で習った おゆうぎを披露したりするのだ。


祖父が音楽嫌いだったこともあり、家にはピアノがなかった。
かろうじてオルガンはあったが、音がうるさいといけないので楽器は使わず、
みんなアカペラでうたった。


いま思い出しても傑作なのが、
当時竹中家のアイドル的存在だった弟・春野だ。

春野が、「ぼくは
『山の歌』 うたいます!」 と言って、

「♪ ふくよ ふくよ そよ風 山の朝だ夜明けだ~」 

と うたいだす。
その部屋の隅には小さなタンスがあった。
次のフレーズ、


「♪ 峰をさして さあ のぼれ

のところで、春野はタンスの引き出しの下三段くらいを引っぱりだし、

さあ のぼれ」 とうたいながら 「とん とん とん…」と階段のようになった
タンスの””を駆けあがる。

信子たちは「いったい何やるんだろう?」と思って見ていたが、
その様子に思わず大笑い。何をやっても愛くるしい弟だった。



ダンスの上手な妹・光子は家庭音楽会でも踊ってみせ、
みんなを楽しませた。

戦争が始まると、小学校からも何人か選抜されて「傷痍軍人の慰問」
に行くのだが、ダンスのうまい光子はいつもそのメンバーに選ばれ、
慰問先でレコードをかけて踊っていたという。


***

戦時中になると灯火管制がきびしく、ちょっとでも灯りがもれると
「竹中さーん、あかりがもれてますよ」 
と外から注意を受ける。

あげく、面倒くさいから電気を消し、
雨の降らない日は庭へ出て コンクリートのたたきになっている
平らなところを舞台にして、うたったり踊ったりしていた。


そのうちに「お母さん、うたって」と子どもたちにせがまれ、
母はよくうたった。
歌曲や讃美歌、なかには こんな歌も。

(信子うたう)


「♪ こどもがいたかと呼ぶこどり、
   かっぽんかっぽん、呼ぶこどり
~♪ (野口雨情
作詞『呼子鳥)。

 母がよくうたっていたのは、“家のうた”ですね。
 母は子どもたちと暮らしている、
それこそがいま自分のいる場所であり、
 母のすべて・・・・・・だったんでしょうね」


当時の歌といえば『埴生の宿』『旅愁』『谷間の灯』『家路(新世界)』 等々。
たしかに どれも家や家族にちなんだ歌だ。


そういえば・・・ 
NHK朝の連続テレビ小説「マッサン」のヒロイン、エリーがよく口ずさんでいた
『故郷の空』もそんな歌詞である。


♪ 夕空晴れて 秋風吹き 月影落ちて 鈴虫鳴く
   思へば遠し 故郷の空  ああ、我が父母いかにおはす ♪

母は (うたいながら) 自分の母親のことを思い出していたのかもしれません


25. 母の実家のこと

母・春子の実家は当時、基隆(きーるん)にあった。

「いつも おばあちゃんのほうが蘇澳に来てくれてました。
 お土産は たいてい海のもので・・・・・・ 天草だとか
 塩辛、昆布、ひじきとか 海産物が多かったですよね」


おそらく母の母は― 厳しい家に嫁ぎ、しかも早々に夫に先立たれた
娘のことが心配で様子を見に来ていたのだろう。


「お土産のなかに、(親指とひとさし指で) これくらい、小さなお魚がいてね。
 塩辛なんですけど、“なんとかグラス?”とかいう名前で。

 これ食べ方があって、頭からぱくっと食べて歯でかむとね、魚の口が開いて
 舌かまれちゃうんです。だからしっぽの方から食べればいいかなーと。

 
塩辛だから死んでるはずなんですけどね」

調べてみると、この小魚は「スクガラス」という沖縄ではおなじみの保存食だった。

そういえば沖縄料理で豆腐の上にちょこんと一匹、小魚がのっているのを
ライターも見たことがあるが、あれがスクガラスだったのか。

信子は大人になってから沖縄物産展でこれを見つけ、大喜びで買ってきたことがある。


「あとは黒砂糖とかね。いま考えると素朴なお土産でしたけどね。
 でも、おばあちゃん、ほんとにやさしくって・・・・・・」


おもえば信子にとってはたったひとりの祖母である。
思い出しながら懐かしさでいっぱいになり、信子はこみ上げるものを抑えられなかった。

***

母はみずからの実家に負い目を感じていた― 信子はのちに母の日記から、その苦しい心情を
知ることとなる。


母・竹中春子の旧姓は宮城ウト
宮城(みやしろ)という名字からもわかるように両親は沖縄の出身だった。

父親は若い頃漁師をしていたが、その後は母と小料理屋を営んでいた― 蘇澳や基隆で。

春子にしてみれば生まれてからずっとそういう環境だったから、何の疑問も持たずにいた。


ところが、台北の静修女学校へ行ってしばらくすると、
自分の親の職業に疑問を持つようになる。


「母はカソリックの学校でお固い宗教の話を聞いているうちに、
 三味線弾いて男の人にお酒を飲ませて遊ばせるような家業は “罪な職業”だって
 洗脳されちゃったんですね」

小料理屋は恥ずべき職業―  春子は親に向かって「商売替えしてほしい」と言い始めた。

「あんまり言うもんだから、おばあちゃんは 『娘に引け目を感じさせて可哀相だ』
 と思ったんでしょうね。それで呉服商に替わったんです」

基隆で小料理屋を営んでいた時代は金まわりもよく。
月に一度は娘のいる(台北の)静修女学校に 山ほどお土産を持っていくので
寮生たちがそれは喜んだというが。

慣れない呉服商を始めてから、だんだん商売が左前(ひだりまえ)になり、
借金がかさみ・・・・・・ ついに店がつぶれてしまう。
母が東京(の女学校)へ出たあとのことである。


おまけに、母のたったひとりのきょうだいであるが学校を退学処分になってしまう。
台北一中なので そこそこ頭が良かったはずなのだが。
家庭環境が小料理屋ということもあって、遊ぶことを早くから覚えたのだろうか。



こうして母の実家は落ちぶれてしまう。
母は 「商売替えをせがんだ自分のせいだ」と強烈に責任を感じてしまう。


「母に連れられて基隆おばあちゃんの家に一度だけ行ったことがありますけど、
 本当に貧しい家でしたよ。もう呉服商もやめていて。
 母の弟は徴兵で(家を)出てましたね。
弟の嫁と子どももたくさんいました。
 
 その時おばあちゃんが、『蘇澳に連れてってくれ、連れてってくれ~』
って
 大泣きしてたんですよ。

 私、連れていけばいいのになーと思ってたんですけど。
 まだ蘇澳には おじいちゃんがいたので。

 昔の嫁の立場ってね、実家の親なんか連れてこれないんですよ。
 それで母も泣いてて、母の母も泣いて、別れて・・・・・・」


その翌々年くらいだったか。
祖母が危篤」という知らせが入り、母だけが基隆へ飛んで帰った。

その後、弟が戦死。
結局、戦後の引き揚げのときには母の血縁者はみんな亡くなっており、
母ひとりとなっていた。


「あの時、自分が商売替えをせがまなければ。もっと妥協的な考えが
 できていれば・・・・・・」

のちに母は自分を責めつづけた。

なので母が子どもたちの前で『旅愁』や『家路』など“家の歌”をうたうときは
ただ懐かしいだけではなく、複雑な思いがこみ上げていたに違いない。





26. 昭和17年の台風


 蘇澳はたびたび台風に見舞われたため、工場の写真はどれも「仮工場」(=修理中)である。
 (これは昭和14年の台風のあと)


大東亜戦争が始まって 1年近く経った頃。

ちょうど日本が「勝った、勝った」と騒いでいるとき― 
台風が蘇澳を襲い、炭酸水工場全壊した。

さいわい竹中家は一家全員、奇跡的に助かった。
だが、蘇澳の人たちには ”一家全滅”だと思われていた。


当時、工場の倉庫番として” 2人の男性”が住み込みで働いていた。

1人は台湾人の呉青年。彼は嵐のなかを這うようにして街まで逃げてゆき、

竹中さんのうちは 一家全滅、みんな死んだ」 と言った。

もう1人の倉庫番は、沖縄出身の平識(へいしき)おじいさん

その人は逆に、台風で色々なものが飛んでくるなかを這って
母屋の方へ向かった・・・・・・ 信子たちを助けるために。


*** (以下、台風のさなかの様子)

あなたたち、押入れに入りなさい

母の指示で子ども4人は押入れのなかに避難した。

母が畳をはずして(押入れを外から支えるため) 襖に立てかけている時、
祖父は書斎の椅子に座り、じーっと腕を組んでいる。

信子たちが、「おじいちゃん、隠れてよ
隠れてよ」と言っても、
目を閉じて押しだまったまま。

ようやく口を開くと、「わしの不覚じゃった」と言った。
孫たちを早く安全な場所へ避難させなかったのは自分の失敗だった、
という意味であろう。

母が祖父に、「お父さんも押し入れに・・・・・・」と何度うながしても、
祖父はもうどうでもいいと思ったのか、応じようとしない。

そのあとも「わしの不覚じゃった」を繰り返すばかり。

「そしたら家が倒れて、祖父も母も吹き飛ばされて、
 押入れは ぺちゃんとつぶれて・・・・・・。
 
私はとっさに弟の(身体の)上に パッとこうやってかばいました」

別々のところに吹き飛ばされていた祖父と母は、その後たまたま同じ石壁のところに
吹き込まれ、崩れ残った壁の片隅で ともに一晩過ごした。

母が何度も子どもたちを助けに飛び出そうとしたのを、
祖父が「今出たら死ぬぞ!」とつかまえて離さなかった。それで母は助かった。

ひと晩じゅう、祖父が母の命を見張っていたんです

家が倒れた瞬間、子どもたち4人は気を失った。

「どれくらい時間が経ったかわからないですけど、
 一番端っこにいた私に 何か わさわさわさと触るものがある。

 一瞬、山犬が襲ってきたのか? と。体を動かそうとしても 手も首も動かない。
 もう(山犬に)殺されても仕方ないと思ったんです。

 そしたら、『誰かー、誰かー、和子お嬢ちゃんか? 信子お嬢ちゃんか?』
 という声がして。

 すぐに(住み込み倉庫番の)平識おじいさんってわかって。
 『信子よ』と言った。
 『よかった、助かった~』 となって・・・・・・」

一番に意識がよみがえった信子はすぐに
和子ねえさん!」
みっちゃん、はるのちゃん!」
と呼びかけた。

すると、みんな寝ぼけて返事をするみたいに「ふわ~」と意識が目覚めた。

きょうだいはすぐに姿が見えない祖父と母のことを心配した。
みんなで声をそろえて
おじいちゃん!」「おかあさん!」
風が強いので口から言葉が出たとたん、風に取られてしまう、

「自分の耳にも聴こえないんです。もう、のどがおかしくなるくらい・・・・・・」


朝早くから官舎の人たちがスコップやシャベルを持って工場を訪れた。
一家全滅と聞いていたので、
「死体だけでも掘りましょう」 というところか。


そのとき、平識おじいさんの「みんな無事です!」と言う声がして、
まもなく母の声が聞こえ、祖父も無事だとわかり、
信子たちは安堵した。


「そしたらね。官舎の大坪さんって人が『一家無事だ』っていう知らせを
 蘇澳の人たちに伝えに行こうとしたのはいいけれど。

 嬉しさのあまり、足がもつれて歩けない。しまいには転んでしまって・・・・・・
 それくらい喜んでくれていたんですね」

***

いくら台風の多い台湾、蘇澳といえども、
昭和17年の台風は未曾有の被害をもたらし、蘇澳のような小さな町で百数十名もの
死者を出した。

そんな大暴風を11歳の夏に体験した信子。

一家は工場、家屋もろとも倒壊。
住むところがなくなった一家には しばらく官舎の空き部屋が与えられた。

全壊した竹中家ではあったが、さいわいケガは母と信子の2人だけ。
母は脇腹に2針縫うケガ、
信子は左指に4センチのケガで済んだのは不幸中の幸いだった。



台風一過の青空のもと― 
信子が工場跡へ行くと、がれきの山が地面に突き刺さり、家も機械も
すべてが残骸と化していた。


ふと、母が小さくうずくまり、すすり泣いているのが目に入った。

父を失って以降、工場のため、家のため、終日働きづめだった母の大切な場所が
一夜のうちに消滅してしまった。

信子はしばらく母を見つめていたが、そっと立ち去った。


「どうしてこれほどまでに人間は自然に愚弄されなければならないのか?」

ただただ、天に対する怒りがこみ上げてくるのを抑えられなかった。



27. 平識おじいさんのこと

台風のさなか、信子たちを必死に探して助け出してくれた
平識(へいしき)おじいさんについて、ここで触れないわけにはいかない。


「工場には砂糖の倉庫があって。砂糖がね、いっぱい積み上がっている
 ところなんですよ。そこに畳が敷いてある部屋があって、
 そこで台湾人の人と 2人で暮らしてましたよ」


砂糖の倉庫は、信子たちが住む母屋からは少し離れたところにあった。

それでも嵐のなか、みずからの命をかえりみず、子どもたちを探し出してくれた
平識おじいさん。

嵐で立って歩くのも困難ななか、
途中、家庭用の小さなプールなど障害物も多々あるなか、慎重かつ迅速に母屋まで
たどり着き、失神していた信子たちを覚醒させてくれた。


平識おじいさんは沖縄の人だった。
「平識(へいしき)」というめずらしい名前はおそらく名字だろう。


「やっぱり母が沖縄出身だというので頼ってきたんだと思うんです。
 沖縄の人って、母や祖母もそうですけど、あったかい感じがします。
 性格がね、芯から優しいっていうか。小柄な人が多かったですけど、
 平識おじいさんも小柄な人でした」


信子はのちに、この時の台風について書いた手記のなかで
平識おじいさんについて このように触れている。


「(略)… 平識爺さん。今なお 胸を締めつけられるほど、懐かしく恋しい。
 嵐の夜に示された勇気と無私の愛、あたたかい人柄を尊敬しないでおれない。

 無学で風采も悪く、妻子も財も無い人だったけれど、もし此の世で立派な人、
 というなら平識爺さんのような人のことではないだろうか。」
 (「台湾協会報」より抜粋)


終戦後はおそらく故郷沖縄へ引き揚げたのだろう。

「その(引揚げの) 前に・・・… 
 終戦の頃に沖縄の人は日本人とは別行動になりましたからね。

 
その時に去って行ったと思います。さよならでね。
 だから引き揚げのときにはもう 平識おじいさんはいませんでした」


その後、沖縄でどうされていたのか・・・・・・ 
消息は信子にもまったくわからなかった。


 
28. 祖父の死

昭和17年の台風は高齢の祖父にとって、それは衝撃が大きかったに違いない。

「八十越してましたからね。長(なが)の人生、最期に近いときにね、
 工場も家も機械も全部壊れちゃったわけですから」


7月に台風が来て、
同じ年の11月に祖父は肺炎でこの世を去った。享年八十一歳。


蘇澳神社の氏子総代をしていた祖父は毎朝4時に起き、
炭酸水のプールで沐浴(斎戒沐浴
=さいかいもくよく)を習慣としていた。

「いわゆる“(みそ)”ですね。雨の日も風の日も、夏でも冬でもやるんです。

 ちょっと風邪気味だったのに、健康に自信があったもんだから。
 台湾に50年近くいてマラリアひとつやったこともないんです。

 みんなに『百まで生きます』って宣言してたのに肺炎おこして、
 宜蘭の病院に入院して。
 やっぱり年をとったら 無理しちゃいけないってことですね」


ちょうど台風で壊滅した工場を建て直している最中だった。

(蘇澳では台風が日常茶飯事だったこともあり、昔の写真をみるとどれもみごとに仮工場ばかり。
 「今度こそは頑丈な建物を」と コンクリートの立派な工場を建てても ダメだったという)


上級武士の家に生まれ、明治維新以降、運命に翻弄され続けてきた
祖父、竹中信景。

明治28年に台湾へ渡り、炭酸水の事業で成功したとはいえ、
妻と3人の息子を次々と見送った。

そして最晩年― 
当時の80歳といえば、今でいう百歳くらいではないだろうか。

そんな年齢で、台風による我が家の無惨な光景を見ることになろうとは。

信子はそんな祖父が哀れでならなかった。
そしてここでも、かつてタマ子伯母(祖父の娘)が言っていた、

祖父は おもしろいか、おもしろくないか
だけで人生を生きた人
という言葉を思い出さずにはいられない。

果たして祖父の人生はどうだったのか?
波瀾に満ちた生涯― 喜びも哀しみもひっくるめて 十二分に“おもしろい”ものであった、
そう願いたい。



    昭和17年11月15日 祖父・信景死去。 (大型台風のあとにつき、仮住居にて 葬儀)



29. 工場売却の危機 

祖父の晩年から、炭酸水工場は母・春子が中心となって 地道に操業を続けていたが。


実は周囲からは狙われていた。「工場を買収したい」 という申し出がいくつかあったという。
どうやら、
「女手で細々とやっているから、事業がこれ以上は発展しないんだ」 と思われていたらしい。


ある日のこと。
ひとりの老紳士が お金持ちの台湾人(男性)を伴って工場を訪ねてきた。

「(工場の)経営者に会いたい」 と言うので、母が「なんだろう?」と思いながら
出ていくと、そこには意外な人物が立っていた。

台北の静修女学校時代にお世話になった小宮先生だったのだ。
かつて母に「書家になりなさい」と勧め、のちに総督府の調査課の仕事を
紹介してくれたこともある、母の恩人だ。


小宮先生のほうも 経営者が母と知り、びっくり仰天。
その小宮先生が連れてきた台湾人がこう切り出した。


「ここを購入したい。そして大々的に発展させたい」。

つづいて小宮先生も、
「この人はここを自分で経営して、もっと大きくしたい、と言っています。
 ようは売ってもらいたいという話で来ました」。


母は小宮先生との再会― この不思議なご縁に驚いた。
そして2人の客人が帰ったあと、筆をとった。


(略)・・・・・・私が女学校在学中、先生は 『台湾にくる日本人はみんな、
 台湾で土着して 生活の根をおろそうとしないから、植民地としていつまでも
 問題が残るんだ。

 だから日本人は “ この地で生きていく” ってことを、もっと真剣に考えなければ
 いけない と仰っておられました。

 私はこの先生の言葉を大切にして、この地で一生懸命頑張ってまいりました。
 既に夫もおりませんが、私は死ぬまでここでがんばるつもりです」
 

このような手紙を小宮先生へ宛てて書いたのである。

その後、この話は立ち消えとなった。
てっきり母の手紙が伝わったものと思っていたが。

ずいぶん後に母が小宮先生に会う機会があり、

「あの帰り道に 『この話は無理だよ。あきらめましょう』 と小宮先生が
 台湾人を説得してくれていた」 という事実を知る。

小宮先生とのご縁のおかげで、
母は祖父や亡き夫から託された工場を手放さずに済んだのである。


あの手紙ね、一生懸命書いたのよ

晩年、そう語っていた母。

そんな いじらしい母を思い出すたび、胸がしめつけられる信子であった。


母・春子の恩師で大恩人、小宮元之助氏。(静修女学校のHPより)


 
30. 母のエピソード 

ほかにも 母・春子が晩年、ぽつりぽつりと話したなかで、
こんな蘇澳でのエピソードがある。

ある日、母は(おそらく集金だろうか) 花蓮港の方へ行く用事があった。

この花蓮港から蘇澳へ戻ってくるときに乗る「東海バス」というのは、
よく 崖から落ちることで有名だった。
そこは断崖絶壁で しばしば山崩れがおこり、道路が固まらないのだ。

運悪く その日も・・・・・・蘇澳へ戻る途中、バスの前輪の右側だけが
崖の方にダダッと落ちかかった。

乗客たちは悲鳴をあげて騒ぎだした。その中に母もいた。


「母はクリスチャンだから、バスの中でも お祈りしていたかもしれないですね」

運転手は必死にエンジンをかけ、どうにか前輪を道路に戻すことができ、
危機を脱した。

バスは無事蘇澳に到着。乗客が わーっと いっせいに降りてくる。


最後のほうに母が降りてきたとき、運転手がいきなり母の手を握りしめて、こう言った。

奥さん、ありがとうございます! あなたのおかげで助かりました」。

???

母がびっくりして、きょとんとしていたら。

奥さんのような心のきれいな人が乗っていたからね。助かりましたよ

と言われ、母はさらに驚いた。
というのも、その運転手(おそらく台湾人)のことを母は知らなかったのだ。


当時蘇澳には日本人の十倍ぐらいは台湾人がいたので、
日本人はとても目立つ存在だったのかもしれない。

そして母がどういう人物で、どういうことをやっているのか、
おそらく運転手は知っていたのだろう。


「母は日本人だとか台湾人だとかいう理由で差別をしない人だったので、
 心がきれいだって思われていたのかもしれません」


― お母さまは(写真を拝見するに) あの美しさですから、
  蘇澳でも目立っておられたのでは? (と ライターがたずねると)


子どもってね、自分の母親がすごくきれいだと思ってるんですよね

当時蘇澳には「蘇澳三美人」と言われる若い女性たちがいた。
信子はその人たちのことを「たしかにきれいだな」とは思ったが。
「うちの母親のほうがきれいだわ」 と内心思っていたという。


当時「花蓮港ー蘇澳」間にあった断崖絶壁のバス路線。(HP「植鉄の旅」よりお借りしました)

***

もう1つの話は、母と友人のあるエピソード。 

母の友人に 静修女学校で1級下のタヅコさんという人がいて、
とても仲がよかった。
そのタヅコさんが 四十を過ぎて めでたく結婚することになった。

戦時中、お祝いといっても 何も手に入らないので、
母が知り合いの南方澳の漁師さんから 披露宴に出すお刺身の魚を買う、
ということになり、タヅコさんと2人で取りに行ったときのことだ。

戦時中はなかなか手に入りにくい カツオなどが手に入り、
「これでみんなに お刺身が出せるわ」
とタヅコさんがそれは喜んでくれて。

母と2人、南方澳からの山道を歩いていた。

その時、突然”空襲”が始まり、飛行機(爆撃機)が近づいてきた。

山の方に横穴のトンネルがあったので そこへ逃げこもうとしたら、
すでに人で溢れかえっていたため、思わず母がこう口走ってしまう。


タヅコさん、タヅコさん。私を中に、先に入れて
 私が死んだら 子どもたちがね、みんな孤児になるでしょ? 
 だから悪いけど 私を先に入れて」


するとタヅコさんが、

いいわよ、いいわよ。あなたはね、お母さんで 大事なんだから、中入りなさい

と母をトンネルに押し込んで自分は外側の方へ・・・・・・。

さいわい空襲はおさまり、2人とも無事だった。


そのあと、母が自分を恥じて 恥じて・・・・・・。
 あの時は夢中で、自分が死んだら子ども4人が孤児になる、それしか頭になかった。
 そのおばさんもおばさんで 『いいわよ、私はひとりだから
いつどこで死んでもいい人間だから』 って」

母はのちに「タヅコさんには恥ずかしいことをした」 と涙ながらに話してくれた。

引き揚げてからも 2人の付き合いは続いた。
そして晩年まで、互いに長い手紙をやりとりする仲であった。



 
31. 犬猿の仲 ― 犬のコロと 猿のタロウ

動物きちがい」と周囲に言われるほど 動物をこよなく愛した信子。

きょうだい4人でそれぞれに名前をつけたアヒルの話は先に書いたが。
なにより家族全員で可愛がっていたのは 犬の「コロ」だった。


いっつも誰かが抱っこしていて、妹みたいな存在になってましたね


そんなコロよりもあとで家にやってきたのは、お猿の「タロウ」だ。

信子が蘭陽女学校1年の時、「のぶちゃん、飼って」と友人に頼まれて
もらってきたのだが、

「人間に似てるから気持ち悪い」 ときょうだいの評判はすこぶる悪い。

なので家の中では飼うことができず、庭の木に鎖(くさり)をつないで
信子がひとりで面倒をみることに。

そこからいわゆる ”犬猿の仲” (2匹のバトル)が始まった。


信子がお猿のタロウを抱っこしているところを、ちょうど外から戻ってきた犬のコロが目撃すると、
コロの体がじーっと静止してしまう。

「コロ、帰ってきたの?
おいで」 と声をかけても、
コロはさっと後ろを向き、外へ飛び出してしまう。


「コロを傷つけちゃった」 と思った信子は、「コロ、待って。待って~」と追いかける。

コロは「キャイーン!」と悲鳴をあげながら、いちもくさんに川のほうへ逃げていく。

子犬より信子の足のほうが速く、コロをつかまえ、抱きかかえる。

コロは「いやだ
いやだ」とばかりに飛び降りようとするが。
信子が暴れるコロをしっかりつかまえながら、


「コロ、ほんとうはコロがいちばん好きなんだから、わかってよ。
 タロウは誰もかわいがらないから、かわいそうでしょ?」。


などと話し聞かせるうちに、コロはだんだんおとなしくなってくる。


逆に、こんどはコロ(犬)を抱っこしているところを タロウ(猿)が目撃すると、
タロウは歯をむき出して飛びかかろうとする。

するとコロはコロで、
「(コロが) こんなにみにくい顔をすることがあるのかしら?」と思うくらい、
鼻のところにぎゅーっとシワをよせて 吠えはじめる。


コロタロウ。2匹はいつもこんな調子で、信子は間に挟まれ「三角関係」。
なんとか仲良くさせる方法はないものか? と頭を悩ませていた。

タロウにはよく好物のバッタをお土産に持ち帰った。
信子が女学校でバッタをたくさんつかまえて、からのお弁当箱に入れて帰るのだ。

タロウのそばで弁当箱をそっと開けると、
そこにはタロウにとっての”ごちそう”がいっぱい入っている。
それはもう一生懸命に食べ始めるのだが。

そこにコロが登場すると、たちまち大ゲンカになる。

あばれ狂うコロを抱っこして離さないようにして、一方でタロウもあやして。
双方が噛みつかんばかりにケンカするのをなんとか制して、
好物のものをあげたり、話して聞かせたりしているうちに・・・・・・。

ある時、とうとう双方はあきらめの境地?にでも入ったのか、次第に打ち解けてくる。

そのうちにコロが木の下でごろんとしていると、タロウが木から降りてきて毛づくろいを始めたり。
ついにそういうところまで到達した2人(匹)。



戦時中、兵隊さんたちが工場に立ち寄ると、みんなよほど日本の家が懐かしいのか、
母屋のほうを ちらと覗いていく。

そこで”思わぬ光景”をみつけると、


おーい、ここのうちでは 犬と猿が仲良くしてるぞ!」


と驚かれ、そのうちに有名になる。
その後も兵隊さんが訪れるたび
「ほんとだ!」 とコロとタロウを見物して帰るように。

そんな「犬猿」の仲睦まじい光景も長くは続かない―。

じき、別れの日が訪れる。



 
32. 戦時中のはなし そして終戦

上映されていた台湾映画『KANO』(2014)を観た。
昭和初期、高校野球で甲子園を目指した台湾・台南州立 嘉義農林学校

(略して「嘉農 = KANO」 ) 野球部の話である。

映画を観て驚いたのは、この野球チームは日本人の監督以下、
部員も含め 全員日本語を話している点だ。 (注: これは日本で上映されているからではない)

当時はたしかに「台湾は日本(領)だった」ので、日本語でも不思議ではないのだが・・・・・・。


映画『KANO』と同じ時代から~ 戦時中にかけて、
蘇澳の工場で働いていた台湾人は
「みんな台湾語で会話してました」 というのが信子の確かな記憶である。

日本式の名前に「改姓名」している人も身近にはいなかった。
それだけ蘇澳というまちは(台北などの都市とは違い) 田舎だったということか。


***

昭和5年生まれの信子。

生まれてまもなく満州事変が。小学校入学の年には日中戦争が。そして
小学5年生の12月8日には 大東亜戦争が勃発している。

(ちなみに、この昭和5年生まれは
 「明治以来の近代教育史史上、最も割を食った世代」 だと言われているらしい)



信子の戦時中の記憶といえば―。

小学校(のちに国民学校)では「ヒマ」を植えた。
ヒマというのは別名 トウゴマ。
この種からとった油が軍事用飛行機の滑油剤の原料になるということで
当時学校での栽培を奨励していたようだ。


昭和18年には女学校 (第4高女= 蘭陽高等女学校)へ入学。
教練や薙刀(なぎなた)の授業が強化された。

校庭では畑で芋をつくり、「たこつぼ」を掘らされた。
たこつぼは防空壕とは違い、ひとりで避難する箱のようなものである。

軍夫(ぐんぷ)に徴用された台湾人農家のところへ 稲刈り奉仕に行ったこともあった。


女学校2年になると 3,4時間目の授業で労働者向けのおにぎりをつくらされた。
労働者といっても飛行場に動員された中学生である。

おにぎりの中に 「リーキャム」(干し梅のお菓子、燻製のような風味あり)を
1つずつ入れるのだが、可哀相だからと2つ入れてあげたりした。
すると最後のほうで「数が足りない」という問題が出てくる。



昭和19年10月(女学校2年の2学期)には学徒動員が始まった。

信子は蘇澳神社の部隊として兵士の靴下の修理作業をしたり、
山の鬼茅(ススキの一種) を刈りとって運びおろすなど、中隊部隊の手伝いをした。

この頃、信子はなんと愛犬コロを抱っこして動員先に通っていた。
級長でありながら、なんと非常識なことをしていたもんだ……と あとになって思う。



ますます戦況が悪化。
蘇澳でも昭和20年1月3日の空襲はひどかった。

姉の和子がケガをした人を助けようと飛び出して行き、
みんなで止めたこともあった。


ただ、炭酸水工場は空襲警報の合間を縫って稼働し続けた。

工場裏の畑では野菜がつくられ、
前の川ではコイやフナなどの魚が豊富に獲れたので
戦時中でも食糧に苦労することはなかった。


やがて終戦―。
このあと引き揚げまでの約半年の間、まだまだ色々なことが
信子を待ち受けているのであった。




33. 戦後― 軍人さんと猫のワロウ

戦後まもなく、軍隊から 大西という名の軍曹が自分の部下を4人連れて
工場にやってきた。

「仕事を手伝わせてもらえないだろうか?」

兵隊さんたちは軍を除隊後、自給自足していくために雇ってくれるところを探していたのだ。

母は申し出を承諾した。戦後で治安も不安だし、
男手がいたほうが何かと好都合だと思ったのだろう。

大西氏は4人の部下とともに 工場の前と後ろにそれぞれバラックみたいな
家を建て、二手に分かれて住むようになった。

***

この5人の兵隊さん(正しくは元兵隊)がなんとも個性的な顔ぶれだったのを
信子は覚えている。


まずは大西軍曹。彼は二等兵で入隊、いかにも“たたき上げ”の下士官(かしかん)
という貫禄があった。

青山という人は軍曹の下の伍長(ごちょう)でもともとは農民らしいが、
しんなりとした感じの人だった。

野上という人は山口の女学校だか中学校の国語の先生だったらしい。

それにしても軍隊というところは色んな職業の人がいるもので。
大土(おおつち)という人はなんと泥棒だった。

また、一番下っぱの小坂という人は旅芸人でおもに広島近辺をまわっていたという。


この人はゲイも女形(おやま)もやるそうです色が白くて、ふやけたようなかんじ・・・・・・ 
 子ども心にそう思いました。
 大土って人は だまっていて暗いかんじ。
 こっちが話しかけたときだけ返事する方でした」


しんなり、ふやけたようなー 女学生・信子の観察眼は鋭いというか
ユニークというか、決してあなどれないものがある。


***

ある時、信子がかたわの猫を飼うことになった。
片目がつぶれ、首が90度くらいひん曲がり、
おまけにうしろ足が不自由だったので とても不憫に思ったのだ。

そんな猫、飼うんですかい?」

工場に住み始めた兵隊さんたちにそう言われるほどみにくい猫だったが、
信子はどうしても放っておけなかった。

おそらく人間嫌いの猫だったのか、抱っこしたくて手を伸ばしたらパン! と
しっぽ立て、鼻息荒く怒りだす。

うっかり手を出したら引っ掻かれる。
さすがの信子でさえ、最初は手が出せなかった。

「その猫に“ワロウ”って名前 つけたらどうですか?」

と言いだしたのは、元兵隊の野上さん。
なんでも「ワロウ」というのはロシア語で「美人」という意味らしい。


ホントかな? 私、かつがれたのかしら」 とも思ったが、
結局「ワロウ」と名付けた。
犬がコロで、お猿がタロウ、猫がワロウだ。



このワロウは反抗心というか 負けん気のかたまりのような猫だった。

ある朝、ワロウが信子の枕元まで来て、
耳元でなにやら騒ぎだすので起きて見てみたら。
なんと血を流しているねずみをくわえているではないか。

びっくりして「ぎゃーっ!」と飛び起きた。
まだなついてはいないのに「獲物をとった」と見せに来たのだ。


「この人間に慣れない猫が、私だけに“ねずみ獲ったよ”って
 見せに来てくれたんじゃないかと思ったら、すごく嬉しくてね。

 誉めてあげたんですよ。小さいのにね、よくこんなねずみ獲ったね、
 すごいねって言って」


それから毎日のように、ワロウはねずみを獲ってきては
明け方にもってきた(誉めてもらえると思って)。

他のきょうだいは「気持ち悪い」と嫌がったが、信子だけはかわいがった。


「体が小さいのに、体の半分くらいのこんな大きなネズミをつかまえてきた
 こともあるんです。
 
 見てたら庭でトンボや虫をなかなか敏捷な動きでとってました。
 あれは狩りの達人ですね。人間に飼われないできたから、
 自分で餌をとって 生きつないできたんでしょう。
 
 うちにまぎれこんで来たところで私との接触があってね、
 住みついたんです。あのねずみには まいっちゃいましたけど(苦笑)」


血だらけのねずみなんて、想像しただけでもおぞましいが。
ある意味「動物きちがい」の異名がしっくりくるエピソードではある。




34. スズメバチに刺される

「あれは何バチでしょう? やっぱりスズメバチだと思うんです。
 こ~んな 大きさのね。しかも 8匹ですよ」


あれは戦後― 信子が女学校3年生のときだった。

いつものように 近所のお友だちのよう子ちゃんが、
「のぶちゃん、あそぼ。3人で裏山行きましょう」 と誘ってきたので、
信子は妹の光子とコロ(犬)をつれて よう子ちゃんと裏山をのぼった。

山といっても 百メートルもない高さである。
家の前から少しのぼると休憩所みたいなところがあり、
そこから工場の裏手のほうへ下りていく道がある。
その下り坂の途中に ”ハチの巣”があった。


 「あのハチの巣、どれくらい大きくなったかな? 見ていこうか」

とみんなで言いつつ、
まず先頭を歩いていた光子がちらとのぞきこみ、
「わあ、大きくなったわね」 と声をあげた。


2番目を歩いていたのはコロだった。
このコロが、ハチがブンブン音を立てるので「なんだろう?」とでも思ったのか。

「クンクン」とそばに寄っていった拍子に鼻をバン!と刺されてしまい、
きゃーん!」。
鳴きながら走っていった。


事情を察した光子はすぐにその場から逃げ、
コロに続いて下へ降りていった。

信子も「あっ」と危険を感じ、すぐにその場で伏せた。

が、後ろにいたよう子ちゃんは (ぼーっとしていたので)不意打ちをくらい、
ハチの集中攻撃を受けることに。


のぶちゃん助けてのぶちゃん助けて!」 と泣きわめいた。


せっかく伏せて防御していた信子だったが、
パニックになっている よう子ちゃんを放っておくわけにもいかず。

「ええい、もういい」 と顔をあげ、
よう子ちゃんに群がるハチを手でふりはらいながら、


よう子ちゃん早く下に逃げなさい!」

よう子ちゃんは 悲鳴をあげて逃げていった。

すると今度は信子がハチの集中攻撃を受けることに。

ブス、ブス、ブス・・・・・・容赦ないハチの攻撃がつづく。


これはもうダメだ

その下は崖になっていたが、
2メートルほど下には小さな道があるのを信子は知っていた。
そこで思い切って飛び降りた。


さすがにハチは追ってはこなかったが、
頭の中では「ジジジ・・・・・・」とハチがふるえる音がする。

さんざん刺されて、ハチはそのまま死んでしまうはずだが。
針が抜けないまま「ハチ飾り」みたいになっている。

もう痛いのなんの、並みの痛さではない。
信子はさんざん泣いた、ぼろぼろと涙があふれ出た。



あれ~ 信子さんはまだなの?」

兵隊さんたちがコロと2人(光子とよう子ちゃん)がすでに帰っているのに、
信子だけ姿が見えないので心配していた。

下から見ると、崖から下りたところに信子がいるのがわかったらしく、
「信子さーん、早くおりてきなさい」 と呼びかけた。


しかし信子は体をちょっと動かすだけでもガーンと棒でなぐられたように
頭が痛む。それでも どうにか下りて、家に戻った。


***


妹・光子は無事でなによりだったが、コロがぐしゃーんとなって元気がない。

「コロは小さいからさぞ痛いだろうな」と信子は心配し、
縁側のところで 「コロ、だいじょうぶ?」 と言いながら、
実は自分のほうが全然だいじょうぶではなかった。


家では、母は工場に行っていたが、姉がいた。

姉はのんびりとした口調で「ハチに刺されたんだって?」と言うので、
ハチとって~」と頼むと、
最初は「気持ち悪くてとれないよ」と言いつつ。
「割りばしでとって」 と頼んだら丁寧にとってくれた。

何匹刺されてる?」

とってもらったハチを数えると、8匹も刺されていた。
よく死ななかったものだ。
しかし針はとれても、まだ痛くて痛くて泣かずにはいられない。


そのとき、母が入ってきて、
ハチに刺されたの? すぐにお医者さん行きなさい」と言い残し、
信子の頭をみることもなく 忙しそうに工場へ帰って行った。

たしかにこの痛みは放ってはおけないな~と思って、
ふと鏡を見ると・・・・・・。 


ものすごい顔してるんです髪の毛はこんなになってるし
 目は真っ赤に腫らして・・・・・・」


― 顔にも刺されたんですか?

「いや、顔は刺されません、ハチは黒いところ(頭)を刺すの。
 泣くから鼻はピエロみたいに
真っ赤だし、
 目は泣き腫らしているし、唇もひん曲がってる。

 で、そんな自分の顔を見たら
あまりのみっともなさに
 吹き出しちゃったのね。口をちょっと動かすだけでも痛いのに、
 吹き出したら さらに頭が割れるように痛くて、痛くて・・・・・・」


信子は病院へ向かった。
顔は上げず、うつむきながら。
街の人たちに 泣き顔を見せたくなかったのだ。


しばらく行くと、向こうからよう子ちゃんがやってくる。

遠くから見ても、よう子ちゃんは信子とそっくりな顔をしていた。
目は泣き腫らし、鼻は真っ赤。
いや、彼女の方がまだマシだろうか。
なにせ信子は逃げるのが遅かったので。


2人は対面した。
のぶちゃん 痛いね」と言いながら、よう子ちゃんが泣き出した。

信子も「
うん 痛いね」と言いながら よう子ちゃんの顔を見たとたん、
プッと吹き出してしまった。

同じようにヘンな顔の2人が対面しているかと思うと、笑うしかなかった。

そんな信子を よう子ちゃんは怪訝(けげん)そうに見つめた。


もう二重三重にも滑稽(こっけい)でね
 コロのおかげでひどい目に遭った、といういきさつがまず滑稽だし

 自分のひどい顔を思い出すたびに滑稽で、
 また“同じ顔のよう子ちゃん”と 街のなかで会話しているのも滑稽で・・・・・・」


***
よう子ちゃんと別れ、信子は引きつづき下を向いて病院へ向かった。

カワムラ先生は年配のお医者さんで、
「あの先生に診てもらったら 助かる病気も助からない」 などと言われていたが、
信子はとてもいい先生だと思った。

診察室では台湾人の青年が後ろ向きに座り、
先生がレントゲン写真を見せながら何やら丁寧に説明している。


信子は戸口のところにもたれかかり、痛いのを我慢して涙をボロボロこぼしながら
自分の番を待った。
その待つ時間がやけに長く感じられた。


先生がふと顔を上げ、
おや、どうしたの?」と信子に声をかけた。

ハチに刺されたんです
と答えると、


「ああ、きょうは子どもがよくハチに刺される日だね
 さっきもひとり、ハチに刺されて来たよ」。


信子は先生が言ったことばの意味を少しずらして聞いてしまい、

「先生、“子どもがハチに刺される日 なんてあるでしょうか?」。

自分でそう言っておきながら、吹き出す始末。
するとまた痛みが増してくる。


ようやく信子の診察がまわってきた。
先生がハチの針を抜いたかどうかは覚えていないが、
アンモニアみたいなもので ちょんちょんちょん、とやったことだけは
覚えている。


― お薬はもらえなかったんですか?

お薬なんか・・・・・・ちょんちょんちょんだけですよ(笑)」

家に帰っても痛みは引かず。
どう体を動かそうが 頭にガーンとひびく。
安静にするほかないが、頭からもたれるわけにもいかない。

空腹だったはずだが、もう食欲どころではなかった。
お水をストローで、しかも口を大きくは開けられないので
口の端のほうですする程度だ。


4、5日もすると少しずつ痛みが薄らぎ、1週間でようやく普通に歩けるように。

今だから笑って話せる、とんだ災難である。


 蘭陽女学校の友人たちと。左下が信子。 
 戦時下のせいだろうか、セーラー服の上にオーバーオールのようなズボン姿である。



35. 引き揚げ先が ない

昭和20年の 8月、日本が敗戦

9月に入った頃から、台湾人のあいだでは「自分たちは戦勝国民だ」 という
実感が
徐々に増してきたのだろう。
各地で日本人に対する”報復”が始まった。

蘇澳でも―  
たとえば、中学生がひとりで外へ出ると追いかけられてなぐられたり、
警官や民間人のなかには危険な目に遭い、身を隠す人も出てきた。


しかし、日本人みんなが報復されたわけではない。

山裾の一軒家に住む竹中家のように、戦後も変わらず 温かい蘇澳の人々(台湾人)との
交流を続ける人たちもいた。


昭和20年10月25日、台北市公会堂(現・中山堂)では 降伏式典がおこなわれ、
 これで正式に台湾の統治者は 「日本→ 中華民国」 へと変更されることとなった》


日がたつにつれ、蘇澳の日本人たちは そわそわ落ち着かなくなってくる。
いよいよ内地への「引き揚げ」の日が近づいてきたのである。


困ったことに竹中家には 引き揚げ先がなかった
台湾に移住して50年。父(秋三)と祖父(信景)が亡くなり、
父の姉妹たちはそれぞれ台湾で所帯を持ち、夫の実家へ引き揚げようとしている。

母・春子の両親もすでに他界し、たったひとりの弟も戦死した。
内地の親戚がまったくいないわけではないが、
すでに他人よりも気心の知れない 遠い存在になっている。

そんな途方に暮れていた母・春子に ”助け舟”を出してくれたのは、
軍隊を除隊後、4人の部下とともに炭酸水工場のすぐ横に家を建てて
住み込んでいた大西氏(元
軍曹)だ。
信子は「大西のおじさん」と呼んでいた。

大西氏は一家の事情を知ると、
「引き揚げ先がないんだったら、自分の妹が門司でお店やってるから、
 そこへ とりあえず引き揚げて、
 それから 生きる道を探したらどうだろう。
 ゆくゆくは商売でもして 子ども育てたら・・・・・・」


と引き揚げ先として北九州門司を勧めてくれたのである。

母にとっては他に選択肢などあるはずもなく。
大西氏の好意にすがり、
4人の子どもを連れて 門司に引き揚げることを決意する。


いよいよ引き揚げの日が近づいてきた。
信子がいちばん心配していたのは、犬のコロ、猫のワロウ
そして猿のタロウを置いて台湾を去らねばならないことだった。



36. 動物たちとの別れ

私が この3匹連れて 台湾山脈のなかに逃げこもうかしらって思うくらい
 離れがたかった

 でもそうするだけの勇気もないし・・・・・・。犬(コロ)のことは特に心配でしたね。 
 家族全員がかわいがって妹みたいな存在になってましたから」


猫のワロウについては、
「人には懐かないし、ひとりでじゅうぶん生きていける子だな」と思いつつも、
ひそかに心配はしていた。

それがどういうわけか 引き揚げの一週間くらい前に
突然ワロウは信子たちの前から姿を消した。
何か察していたのだろうか。


犬のコロと お猿のタロウは 工場で働いていた信頼のおける台湾人に預けてきた。
以前泣いている母をなぐさめてくれたアツァヤだ。
アツァヤの家なら安心して預けられる。

ずいぶん後になってアツァヤの家族から聞いた話では、

コロが死んだときは、私たちみんな泣きました」。

アツァヤの子どもたちはみんな コロをかわいがり、
コロもなついていたようだ。


***
一方、お猿のタロウのほうは 悲しい運命をたどっている。

アツァヤは料理上手だったので当時小さな食堂を開いていた。
その店に お猿を置いてしまったのだ。

みんながつい、お猿にえさをあげるもんだから 
タロウはみるみる太ってしまう。

しかも、えさをあげるついでに からかったり、なぐったりと
ちょっかいを出すもんだから、すっかりすねてしまったのだ。


「家ではいつも私にかじりついてくるタロウなんですけど。
 その家に預けてから引き揚げまで、慣れさせるために
 会いに行かないようにしてたんですよ。
 
 それで引き揚げる前にお別れだと思って会いに行ったら。
 食堂の机の下にね、鎖でつながれていたんです。
 私ってわからないはずないですよね?
動物だから。

 それなのに 私が行ってタロウって呼んでも、
 くるっと背中向けちゃって。
 もうすっかりいじけちゃってひねくれちゃって怒ってる


― 自分は捨てられたと思ったんでしょうか

「そうでしょうね。ほんとは・・・・・・待ってたんでしょうね(涙)」

お猿に引き揚げのことなんて到底理解できない。
結局最後までタロウは信子に向き合うことはなかった。

信子はタロウの背中をさすり、
ごめんね、ごめんね」 と言いながら別れを告げた。


「もう帰らなくちゃいけないから、ここでかわいがってもらってね」

信子にはわかった。
タロウはここでは あまり大事にされていないことを


「お猿というのはホントにいたずらされる存在、からかわれる存在ですよ、
 ああいう風に
つながれていると。だって人間に似てるから。
 あの猿、どうしたかしら・・・・・・」


70年前、蘇澳でともに過ごした“愛猿”に思いをはせる。
たかが動物、されど動物。
彼らも戦争の犠牲者に ほかならないのである。




37. 引き揚げ船で祖国・日本へ 


  引き揚げ直前の1ショット。後列右から3番目が信子、2番目が姉和子
  前列中央が母春子、その左がコロを抱く妹光子、右が弟はるの。その右のすらりとした女性が
  母をかばってくれた台湾人のアツァヤである。


敗戦後、台湾から引き揚げた日本人は約48万人、うち民間人は約32万人とも
言われている。


信子たち一家が台湾から引き揚げたのは終戦の翌年、昭和21年(1946) 3月17日だった。

夜の7時頃、蘇澳駅に集合。
このとき、蘇澳にいる日本人のほとんどが引き揚げ列車に乗車したものと思われる。

列車は基隆へ。


基隆港埠頭の倉庫に1泊し、3月19日に駆逐艦「保高」に乗船。

人々は三段に仕切られた船内にぎっしりと詰め込まれ、船は一路 日本へ―。

これが、とんでもない船旅となった。近年稀にみる ”大しけ” だったのだ。

乗船していた水兵さんいわく、

艦長以下、みな船酔いで 酔っていない者は ほんの数名くらいだ

海の男ですらそんな状態であるから、
信子たちが死ぬほど苦しむのは当然のことだった。

***
3月21日の早朝、駆逐艦「保高」は無事、鹿児島港に到着。

日本だ日本に着いたぞ~!」 という さけび声とともに、
人々はオーバーコートをひっかけ、甲板に繰り出した。

信子もせきたてられるように甲板へ出て、外の景色を眺めた。

生まれて初めて目にした「内地」は真っ白だった。
桜島が大噴火していて、鹿児島は真っ白に火山灰塗装されていたのだ。

海風が頬を刺すほどに冷たい。
その夜は検疫のため、船の中で一泊した。

翌日、絶壁のような舷梯(げんてい= 乗船、下船に用いる舟はしご) を降り、
サンパン (はしけ)へ。
これが内地への第一歩である。

そこでDDTを浴びせられ、信子たちは白髪になった。


その日は春休み中の市内の小学校に一泊。

翌朝、蘇澳の住民たちは目的地によって 日豊本線、鹿児島本線と それぞれの
引き揚げ列車に乗り込んだ。


門司へ向かう信子たちは 鹿児島本線を北上した。
車窓から見える沿線の都市や工場地帯では爆撃の跡が凄まじかったが、
春先のみずみずしい田園風景は息をのむ美しさであった。


信子は窓から目が離せなかった。
こんもりとした黒土。田んぼや畑を一面に覆い尽くすレンゲ草や菜の花、
その先には雑木の林や薮がある。

若草色の微妙な濃淡のなかで、椿の濃い緑の葉と真紅の花が点在して
風景を引き締める。
青空はやわらかで匂うようだ。


祖国は これほどまでに美しかったのか

信子は日本の春の美しさに感動しつづけていた。

【 蘇澳篇  完 】

◆ 長すぎるエピローグ (信子、海での衝撃体験) ◆


ものすごくショッキングなことって、人に話せないでしょ? 
 台風のあとの海でおぼれかかって、死にかかって、いかにして
 生き残ったかも・・・・・・ ずーっと 私、話してません

台風― といっても、あの工場を壊滅させた昭和17年の台風ではなく、
その翌年くらいだったか。

信子が女学校に入るか入らないかくらいの 5月だか、6月だか。
泳ぎたくなって ひとり海へ向かった。
金毘羅さんの神社の下のところにある浜辺へ。

水着を着て、その上にワンピースをひっかけて、
いつものようにコロ(犬)を抱っこして。

台風が去ったあとで 海がすごく荒れていた。
さすがの蘇澳の男の子たちも 泳げないから砂浜で相撲をとっていた。

信子も「泳げるわけないわ、この波じゃ」とあきらめて帰るはずが。

「“魔がさした”んでしょうね。ワンピース脱いで、コロ置いて、(海へ)入っていったんですよ」

すると、そこから一気に 波に翻弄される。

足元だけ海に入った瞬間から、
波がかえると 信子の背丈をゆうに越していた・・・・・・波に巻きこまれる、信子。

危険だ」。

と思って砂浜へ逃げようとしても、すぐ次の波がきて巻きあげられてしまう。
息をするヒマもない。とたんに呼吸困難になった。

これではダメ。波を見なくては」。

と、まっすぐ沖のほうを見たら、波がこちらに向かってくる。
このままじゃ、沖に流される。

信子はとっさに その場にもぐった
砂底に身体をぴたーっとつけて、伏せた。

が、波は容赦なくやってくる。
足がもちあがりそうになり、お腹ももちあがりそうになり、
お腹の下の砂がぜんぶ巻きあげられて、逃げていく。

とにかく足を、足の指を砂の中に めりこませた
波に巻きあげられないように。


とはいえ、波が引いた瞬間には起きあがり、息を吸わなければならない。

起きあがって、急いで立ちあがって一瞬「フッ」と息を吸ったら、
またすぐ砂底にぴたーっと伏せ、足の指をめりこませ、
次の波に対処する・・・・・・。


この繰り返しが何回、いや何十回と続いただろうか。
体力が消耗してフラフラになり、
これはもう助からないな」と思った。

沖をみると「次の波、また次の波・・・・・・」とエンドレスでやってくる。


そのとき一瞬、 波のリズムが変わった。
波が引き、その引いた波と次にくる波が合体して、
さらに大波になるときがあった。

その大波が来るまでの何秒かの隙(すき)に 「今だ!」、
くるりと向きを変え、浜に向かって 数歩走った

すると波がうしろから追いかけてきて、逃げる信子を浜へと運んでいく。
浜へ運んでくれるのはいいが。
そのあと波が引くとき、一緒に沖に持っていかれたら元も子もないので。

こんどは身体を砂浜に向かって前傾に保ち、足をぐっと砂にめりこませ、
手で必死にあがいて 波に逆らっていると・・・・・・。


なんとか助かった
波に持っていかれずにすんだ。一瞬のタイミングで命拾いした信子。


浜にはコロの姿がみえた。

波がよせたり引いたりするのに合わせてキャンキャン吠えて
  一生懸命に波を叱っている
これは大変だと思ったんでしょうね」

コロがとても心配してくれているのがわかった。
まさに「死闘を尽くした」という感じでふらふら、よろよろ。

もう絶対に波がくる心配がない 崖の岩のところまで行って、
信子は倒れこんだ。

助かった信子に喜んでついてきたコロは、信子の顔をぺろぺろ舐めた。
コロを抱っこしたところで信子は気を失った。


***

1,2時間ほど 眠っていたのだろうか。
うすら寒い・・・・・・と思って目が覚めた。すでに日がかげり始めていた。


しばらくそこに座り、海や山の景色をみていたら、
信子は自分の気持ちが 変化していることに気づく


七星山から北方に行く山があるでしょ? あれをみたときに なに?』と思ったんですよね。  
 
 毎朝、山で歌なんかうたってるときは、
 『自然っていうのは、毎日自分が交流しているもの』と思っていた。
 懐かしいし、向こうも自分のことを知ってくれている、なんて 思っていたけど。

 私が死にかかってたときに、あの山はポーカーフェイスで なんにも気がつかない。
 私が死のうが生きようが、あの山にとっては全然関係ないんじゃないか? って気がついたんです。

 そういえばある作家が『自然には人情のひとかけらもない』というようなことを
 書いてましたけど、まったくそのとおり。わかるわかる、って感じでしたよね


信子はその時― 
大きな宇宙のかまの底のようなところにポツンと落とされ、ぐるぐるぐると回りまわって
最後に底のところでポン、と止まったような― 気がしていた。

これを”虚無感” というのだろうか。岩のところでコロを抱っこしながら、

人間というのは まったくの ひとりなんだ」 と悟った。


薄暗くなるなか、家への道を歩いた。
すると道も街も、それまでの道や街ではなくなっていた。

何か1枚、そこに絶対の壁というか皮というか、境界のようなものができていた。



家にたどりつき、家の灯りを見たときに
「ああ、家だ。懐かしい」と思いつつも、それまでの懐かしさとはまったく違う。
それはどこか「他者」としての懐かしさになっていた。

家のみんなが
「遅かったわね」 「これからご飯始めようと思ってたのよ」 とか言っている。

もちろん母の顔を見ると嬉しいし、
きょうだいの顔を見ると嬉しいのは嬉しいのだが。
どこか「絶対他者」みたいなものが貼りついてしまっていた。


家族は変わらず大好きだし、
愛によってつながっているのはわかるのだが。

どんなことがあっても、好きだからといって乗り越えられない関係性があるのだと、
信子は子どもながらに感じてしまう。

絶対的な孤独感、そして自然に対しても 人に対しても感じ始めた
絶対他者」という感覚。


あれは一種の、幼児性からの決別だったのか・・・・・・。

蘇澳の海での体験は 信子に強さや自立心を植えつけただけでなく、
研ぎ澄まされた感受性をももたらし、
その後の信子の土台となった。

~以 上~

◎「蘇澳篇ー 全37話+α」 をお読みいただき、ありがとうございました。
  
◎本日(2017.3.7) 本ページの続きである
Ⅱ.門司篇 をアップいたしました。引き続きお読みください。

◎台北を舞台にした前作 『台湾うまれのヤマトナデシコ 』 も ぜひご覧ください。