ライターユキオの連載エッセイ〜 

   『台湾うまれのヤマトナデシコ』

    第34回  台北大空襲 1   (9/15)

戦争中の話なのに、書いていて緊張感というか緊迫感がないな、
イカンな〜 とユキオは毎回、筆を置くたび思う。
しょうがない。ゆきこから聞く話自体、楽しそうだもん。
何かというとゆきこは歌いだす― 戦時中の軍歌、式歌、台湾ならでは
の唱歌・・・ その旋律が耳に残る。
あの九州くらいの、”さつまいも”のような形をした小さな島国が
その昔「日本だった」というだけで、ユキオはただロマンを感じていた。
少なくとも、このあたりまでは・・・。

***
当時日本だった台湾。当然のごとくアメリカは激しく攻撃してきた。
台北市でいちばん多くの被害者を出したのが、
昭和20年5月31日台北大空襲
ゆきこの家の前にも500kgもの爆弾が落ちた。
「疎開から帰ったら、うちの前が大きな池になってました。こ〜んな穴が
 あいていたんです。私もひょっとしたら(戦争)孤児になっていたかも
 しれません」。

空襲の日、さいわいゆきこは疎開中で台北にはいなかった。
祖母とゆきこだけが疎開先に残っていた。たまたま、すぐ上の姉が「歯が痛い」
と言うので、母がその姉を連れて山を降り、台北に戻っていたのだ。

ここでちょっと、ゆきこの家の兄弟構成を思い出してみよう。
エッセイの最初のほうで、ユキオは即興でこんな詩を書いた。
 「末っ子ゆきこは おてんば娘
  おおきい兄さんは 十九も上
  アニ・アネ・アニ と アニ・アネ・アネ 」

ゆきこは7人兄弟の末っ子。
上から兄・姉・兄・兄・姉・姉― ゆきこには3人の兄と、3人の姉がいた。
亭仔脚の自宅兼商店で、時にはけんかをしつつ、
仲良く育った7人のその後は・・・。
長男: 商社マンを目指し、慶応大に進むも20代で病死。
長女: 昭和18年に結婚し、満州へ渡る。
次男: 台北帝大から技術将校として仙台へ派遣。(理数系なので
     兵隊としては召集されず)
三男: ラグビーをしていたやんちゃな兄は航海士の夢を叶えるため
     神戸高等商船へ(現在の神戸商船大)。

と、上から4人の兄姉は昭和20年の時点で、すでに台湾にはいなかった。
2番目の姉と、3番目の姉、そしてゆきこの3人だけが残っていた。

2番目の姉(次女)は疎開をしていなかった。
当時*挺身隊として士林(しりん)にある、海軍の施設部に勤めていた。
空襲の日も、朝早くにトラックが迎えにきて出かけていった。
なので自宅には、歯医者で疎開から戻っていた母と三女、
そしてもともと残っていた父(計3名)がいた。

「挺身隊」とは: 
 太平洋戦争下の1943年に創設された、女子勤労動員組織。
 14歳以上25歳以下の女性を居住地・職域で組織。日本の労働力が
 逼迫するなかで、国民総動員体制の補助として、主に軍需工場など
で働いた。


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