ライターユキオの連載エッセイ〜 

   『台湾うまれのヤマトナデシコ』

   第41回 引き揚げばなし 4 〜 タウケーの無念 (10/14)

ゆきこたち家族の引き揚げは昭和21年3月だった
「3月、いくら南のほうとはいえ、まだ向こうは寒いですよ。
 雨がよく降るんですよ。雨季がその頃なのかしらね」。

ちょうどユキオが台湾協会(新宿)で当時の台北市街のイラスト地図を見つけ、
コピーしてきたところだったので、それを取り出した。ゆきこは地図を見るなり、
「これ欲しいわ、わたし」
と言って説明しはじめた。

引き揚げ当日。まずは西門町にある寿小学校に集結。ここに2泊してから
台北駅へと出発した。
ゆきこは地図を指でさしながら当時の足取りを思い出す・・・。

寿小学校を出て、西門市場の前を通ったと思うんですよね」
「踏み切りを渡って、憲兵隊本部がある。ここには”菊の御紋”があるから
 必ずみんなお辞儀するんですよ」
「日日新聞(正確には「日日新報」)の前を通って、ヒカル食堂の前を通って」
「そういえばヒカル(食堂)のみっちゃん、よく電話がかかってくるの。神戸にいるんです彼女は」
菊元(デパート)の前を通って、新高堂(書店)があるでしょ?」
栄町をずっと通って、ここが本町の通りですよ。三和銀行の真ん前、ここ(自宅)に
 いたんです」
「このうち(自宅)の前を通って、台北駅へ行ったわけです」。

内地へ引き揚げる日本人たちはぞろぞろと並んで歩いた。城内をL字型の
コースをたどって台北駅へ向かった。
それはちょうど、ゆきこの自宅の前を通るルートになっていた。

その日ゆきこは「トーシャー」(台湾の人力車)に乗せられていた。幼いからでは
ない(もう11歳だった)。悪くなったゆで卵を食べたせいで具合が悪かったのだ。
父や母、姉たちはちゃんと歩いていた。

これはのちに姉から聞いて知ったこと。
「私はトーシャーに乗ってたからわからなかったけど。
 このとき父は自分が築いた家やお店を何度も何度も、ずっと振り返って
 見てたって
」。
父の気持ちを考えるとね・・・とゆきこは声を詰まらせた。
ユキオも、もらい泣きせずにはいられなかった。

父にしてみれば― 自分は千葉で生まれた人間だけど。親の跡を継いだとはいえ
何十年もかけて築き上げたお店や家や財産を一瞬にして手放し、もう2度と帰って
こられないなんて。どれほど無念なことだろう。
私はまだ子どもだったから、それほど感傷的にはなってなかったと思うのね」。
今になって、父の思いが痛いほどわかる。

父は台湾人からとても慕われていた。「タウケータウケー」(台湾のことばで”ご主人さま”
の意味)と呼ばれていた。
父は「チャーチェン」(台湾のことばで”ふざける”の意味だったと思う)が大好きで。
ようは面白おかしくからかったりしていたので、台湾人から親しまれた。
7人の子どもが樺山小学校に通っていたので役員を務めたり、ゆきこの代までずっと寄付
をしたり。恵まれない疎開学園に畳を何十畳も寄付したり、お菓子を贈ったり。わが子が
いるいないに関わらず、援助を惜しまなかった。
それもひとえに商売が成功していたから。

台湾で家族を持ち、商売に成功し、台湾人に慕われた父。
父はそこで ”土” になろうとしていたんでしょうね」。
ゆきこの涙はしばらく止まらなかった。

ユキオは黙って立ち、台北の地図をゆきこのためにコピーしに行った。

第42回へ /目次へ戻る)