ライターユキオの連載エッセイ〜 

   『台湾うまれのヤマトナデシコ』

   第44回  引き揚げばなし 7  父の故郷へ」 (11/4)

台湾をあとにした一家は和歌山の田辺に上陸。そこで”かまぼこ校舎”に
2泊した後、列車でまずは東京駅へ向かった― そこから父の生家・千葉
目指す。今と違って新幹線もない時代だ。

列車には荷物だけ先に積み込む。いったんゆきこたちの手から離れ、先に
目的地へ送られるのだ。
そこで予期せぬことが起こった。
内地には戦後甘いものがないだろうからと羊羹や砂糖を台湾から持ってきて
あった。それを荷物からまんまと抜かれたのだ。

「ひどいんです。”台湾からなら甘いものがある”と内地の人が狙うんです」。

(前回書いたように) 田辺港へ着いたとき、荷物をクレーンで吊り上げる際に
海へ落とされた人もいた。
列車で運んだはずの荷物が「来なかった」という人もいる。
やっとの思いで引き揚げてきたのに、これだ。
戦後の混乱期、こういうことを訴えようにも、どこへ訴えていいかわからない。
「無政府状態ですよね」。
同じ日本人だというのに、なんてことをするのだろう・・・。

田辺から紀勢本線で名古屋まで― この列車はたいそう混んでいた。
そこから東海道線で東京まで、丸3日くらいかかっただろうか。

東京駅で1泊した。丸の内にレンガで造られた2段ベッドが用意してあり、
お粗末なベニヤ板で仕切られていた。
ここでは学生さんたちが活躍していた。
彼らはアルバイトなのか、ボランティアだったのか。ゆきこたちのような
引き揚げ者のために荷物を持ってくれたり、色々と手伝ってくれた。

「ずいぶん助かりましたよ。父だってもう50代・・・57,8歳てとこかしらね。
 今の57,8とは違うから」。
高齢の父はもう一家の大黒柱にしては老いすぎていた。

東京駅から総武線に乗り、千葉の旭町(あさひまち= 現在の旭市)を目指した。
ここに父の実家、産まれた家がある。そこを頼るしかなかった。

父は台湾時代、この実家の甥(ゆきこのいとこ)を台北に呼んで台北帝大へ
行かせたり、何かと面倒をみていた。
また内地に帰るたび、子どもたちをハイヤーで九十九里浜へ連れて行ったりと
羽振りのいい「台湾のおじさん」は人気者だった。

銚子にほど近い「旭町」には東京から汽車で4時間かかって、夕方ついた覚えがある。

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