ライターユキオの連載エッセイ〜  (2011.6.8 スタート)
戦前、日本統治時代の台湾ばなし・・・
「台湾うまれのヤマトナデシコ」
 

  ⇒ 目次から選んで読まれたい方はこちらが便利です。

突然、この場をお借りして僕のだいすきな「台湾」のおはなし―
正しくは昔の日本の話、をさせていただくことになりました。
文体はめちゃくちゃになるかもしれませんが、興味のある方はどうぞ
お付き合いください。
(何かご意見あれば、ライター高橋メールまで お願いします)

(第50回) 「あとがき」 (12月19日)

いまユキオはメイデイ(五月天)を聴いている。これは2年ほど前の台湾旅行― 
台北のCDショップの店頭にずらりと並んでいたアルバムだ。
やっぱりカッコいいな、メイデイは。
台湾のバンドだが、中国本土でも若い女の子たちに絶大な人気なのもわかる。

その後、ゆきこと出会った。
彼女の台湾ばなしをひとしきり聞いたあとでメイデイを聴くと・・・
なぜか泣けてくる。無性に、泣ける。
台湾” がよけいにいとおしく思えてくる。
(今どきのロックとゆきこの話には何の共通点もないのに、ね・・・)

***
いつの頃からか、「女性にやさしい台湾」「台湾に行きタイワン♪」と
台湾は格好の観光地として人気を博している。
一般的な台湾のイメージといえば、
「近くて安くて」「南国フルーツ、ショウロンポーがおいしくて」「日本人に親切な国」・・・etc。
で、行ってみたらそのとおり。
日本語もそこそこ通じるし、首都台北は都会でほとんど東京みたいなもの。
少し地方に足を伸ばせば、ひと昔前の日本の風景が広がり、
温泉もいっぱいあってゴクラク、ゴクラク・・・。

それはそれでいいけれど。実際にみんな台湾という国のこと、どれほど知って
いるんだろう?
台湾が昔、日本の領土だったことは? 日本といまだ国交がないってことは・・・?

***
ゆきこの、あのキラキラした時代を形にしなければ」― その一心でユキオは書き綴った。
時には「本にしたい」という衝動に駆られた。
企画書をいくつかの出版社に持ち込んだが、相手にされなかった。もう、そんなことはどうでもいい。

「九州くらいの小さな島、あのさつまいものような島が日本だったなんて」。
最初はただ、ロマンを感じていた。
でもそこには台湾という国の悲しい歴史があった。
日本の行き過ぎた、過去の軍国主義も見えてきた。
戦争は決してあってはならないこと。平和な時代に生まれたユキオだからこそ、
あの時代のすべてがスリリングに、ドラマチックに思えるのだ。
「美化してしまってごめんなさい!」 苦労を知らず、ただロマンだなんて・・・。

とにかくユキオにとって台湾は特別な国になった。
笑われるかもしれないが、「台湾」という2文字を新聞や雑誌で見つけただけで
胸がきゅんとなる。目を皿のようにしてしまう。


ゆきこには色んなことを教えてもらった。
もちろん当時の台湾のこと。つまり、戦前の日本のこと、教育のこと。
幼なじみが、その土地の風景や食べ物が ”ふるさと”だってことを。
ひとつひとつの記憶が、思い出こそが 人にとって”ふるさと”であり、
人が生きていく上でとても大切だってことを。
(もう一つ・・・ 70代の女性と40そこいらの男が、友情をはぐくめるってことも)

2人のテーブルに注文した紅茶が運ばれてきた。
ソーサーにはフレンチシュガーが2個添えてある。
すみません、お砂糖 あと2ついただけます?」。
こうやってまたゆきこから、台湾ばなしの続きが聞ける日を、
あの時代の歌が聴ける日を、ユキオは心待ちにしている。

= 
 (おわり) =

◆管理人より◆
ライターユキオの連載エッセイ「(日本統治時代の)台湾ばなし」に長らくお付き合い頂き、
ありがとうござました。心から感謝を申し上げます。
感想などございましたら、ささいなことでも結構です。下記「ライター高橋のHP」の掲示板、
もしくはメールまでお願いいたします。
http://www2.odn.ne.jp/uguisu/


(第49回) 「同窓会 そして台湾への思い」 (12月13日)

昭和27年春。ゆきこは県立高校を卒業し、地元の信用金庫へ就職した。
しかし、3年ほど勤め、仕事にも慣れた頃、
一家は東京都内に家を建て、引っ越すことになった。
もう千葉の信用金庫には通えなくなるので、ゆきこは新しい就職先を探した。
就職難の時代で苦労はしたが、なんとか見つけることができた。

ゆきこは結婚こそしなかったが、良き上司や同僚に恵まれ、
職業婦人として充実した時を過ごした。
ユキオ: 「きっと仕事が好き、だったんだろうな」。
てきぱきした仕事ぶり、お世話好きなようすはユキオにも容易に想像できた。
ユキオ: 「なにしろ、人なつっこいもんな〜 あの人」。
70を過ぎた今でもウォーキングにコーラスに・・・とさまざまな同好会の世話役として
大忙しのようだ。
でも決して、ただ自由を謳歌していたわけではない。
引き揚げ後、苦労が絶えなかった母の面倒はゆきこが最期までみた。

***
私たちは内地に引き揚げてきて、もうふるさとがないわけでしょ。
 だからみんなで集まることが、何よりもふるさとの交流になるわけよね
」。

今も続いている、台北・樺山小学校時代の同窓会。台湾だけでなく、
日本の各地でもさまざまな集まりがあるという。

あれは40年以上も前― 第1回の同窓会が台湾で行われたときは、
まだメンバーはそれほど集まっていなかった。
その後幹事さんが中心となって、全国の電話帳から名前を拾いはじめた。
ある時は縦のつながり、ある時は横のつながりを駆使し、
兄弟や友人関係をたどり、
「どこへ引き揚げたか?」「親同士のつきあいはあるか?」など、
あの手この手で少しずつ・・・ 卒業生と在校生の消息をつきとめていった。
「樺山小学校の同窓会やってるよ〜」と電話や口コミが功を奏し、
次第にメンバーが集まるようになってくる。

「(同窓会が)”よく続くな〜”と人に言われる。それは、私たちが特別だから」。

ある時、終戦当時の在校生(1〜6年)だけで1つのグループをつくろう、ということに
なった。同窓会といっても、誰も”卒業”はしていない。
「一期上の人(6年生)が卒業していなかったから、角田(つのだ)先生が卒業証書を
 つくって、お式をしてくれて・・・それはもう感動的でした」。

ゆきこにとっては小4のとき、疎開で別れたっきりの同級生たちと約30年ぶりの
再会を果たしたことになる。
台湾・松山空港でのお出迎え。まだ戒厳令が敷かれている時代にもかかわらず、
「みんな日本語をしゃべる、しゃべる! 横断幕には”歓迎ー○○先生”と書いてあって・・・」。

同窓会では、みんなでなつかしい場所をめぐった。新公園で、ある男子(台湾人)が
この木だ昔ぼくがのぼったクスノキだ。子どものときの感触だ!」
と木の幹をさするのには、さすがのゆきこも驚いた。

みんなで校歌をうたったときは、ある女子(台湾人)が、
わたし、ぜんぶ歌えたよ。だけど涙が出ちゃって・・・」
と涙をぬぐった。いまだ国民党政府に弾圧され、日本語の歌などもってのほか、
のはずなのに。そんなつらい時代をうかがい知ることができる。

***
今でも1,2年おきに台北を訪れるゆきこ。同窓会ツアーは3泊4日が定番だ。
夏に行くことが多いのは、大好物の「龍がん(りゅうがんor ろんがん)」が食べられる
時季だから。
行けば決まってなつかしい人に会い、なつかしい場所を訪れ、龍がんに舌鼓を打ち。
お土産には日持ちのする「リーキャム」や「豚でんぶ」をどっさり買いこんでくる。
同窓会に行けなかった友人たちの分も。

やっぱり私たちはどこにも馴染めない・・・台湾がなつかしい」。
と彼の地に思いを馳せる、ゆきこ。
ユキオが台湾と中国の複雑な政治事情を話すと、
台湾には中国になってほしくない。自分のふるさとになるわけだから」。
そんな素直な思いを口にした。



(第48回) 「父の死」 (12月6日)

「父がかわいそうだったのは・・・ 
 父はタタミの上で亡くならなかったんですよね。ムシロか何か敷いた上で・・・」。

昭和25年5月、父が亡くなった。
ずいぶん経ってからも、ゆきこの母はことあるごとによくこう言った、
お父さんをタタミの上で死なせたかった」と。

台湾からの引き揚げ後、父の生家に到着したゆきこたちは裏の物置き
みたいな”離れ”に住まわされた。
そこに2年ほどいたのち、(同じ敷地内の)倉庫のような建物へ移った。
そこで3年暮らした頃・・・ 父が亡くなった。まだ60代半ばだった。

ゆきこにとっては誇らしい、自慢の父だった。
千葉に生まれ、所帯を持つと同時に台湾に渡り、祖父の商売を継いだ父。
大柄な人だった。ハイカラで文学好きだった。
7番目の子どものゆきこにもおとぎ話をおもしろおかしく聞かせてくれた。
あちこち遊びに連れてってもくれた。
子どもたちが通う樺山小学校の役員をつとめ、長い間学校に寄付をした。
疎開学園にもお菓子を寄付していた。
子どもたちに家業を押しつけることはなく、「好きな道を選べばいい」と
柔軟な考えの持ち主だった。

「タウケー、タウケー(台湾語で”ご主人さま”の意味)」と台湾人にも慕われた。
戦後しばらく経ってから再会した台湾人の陳さん(浦田さん)は何度もしみじみ
こう言った、
タウケーが生きててくれたらな〜」。
それほど台湾人に愛され、みずからも台湾を愛し、そこに骨をうずめ
「土になろう」と覚悟していた父。
それが突然、築き上げてきたものをすべてを引き払っての無念の引き揚げ、里帰り。
すでに老いていたとはいえ、相当な精神的ダメージがあっただろう。

「やはり”戦争”ですよ。父なんかより、もっともっと苦労している人がいる。
 広島とか長崎の人はもっと大変ですよね。戦争は絶対にやっちゃいけないんです」。

父が亡くなってまもなく、母と兄は行商を始めた。母は大阪出身ということもあり、
さほど行商が苦手でもなさそうだった。そう見えただけ、かもしれないが・・・。
ゆきこはその頃、県立高校に通っていた。


(第47回)「幼稚園の思い出」 (12月1日)

残すところあと 2話?くらいとなった、ゆきこの台湾ばなし。
ここでちょっとブレイク。
ゆきこが楽しそうに話してくれた幼稚園時代のお話を。

「♪おおきゴムの木、ねむの花
  うさぎもハトも おともだち
  清いしるしの 犬はりこ
  ぼくらのすきな 幼稚園 」

とゆきこが高らかにうたってくれたのは台北幼稚園の園歌。
歌に出てくる「犬はりこ」とは台北幼稚園の徽章(きしょう=バッジ)に
描かれた図柄である。
よく覚えてるもんだな〜とユキオはまたもや感心。いや、そんなどころでは
なかった。こんな詳細な記憶が展開してゆく・・・。
***
台北幼稚園は3年保育。一クラス50名余くらいだったか。
制服は・・・
「薄いブルーのジャンバーみたいなの着てました。そこに犬はりこの徽章と、
 毛糸のボンボンをつけるわけね」。

ボンボンの色はクラスによって違っていた。
ゆきこが1年のときは「海の組」(ボンボン=真っ赤)、
2年のときは「森の組」(〃だいだい色)、3年のときは「山の組」(〃若草色)。

3年になると川のA組(〃濃紺色)、川のB組(〃薄い紺色)という1年保育の
クラスもあった。

「幼稚園のね、鐘がいいんですよ。♪ポンポンポンポン〜(音階上がる)、
 ポンポンポンポン〜(〃下がる) と木琴が鳴る音で始まるんです。
 広いおへやで集まって、おゆうぎやったりね・・・」。

園内では持ち回りで「組長さん」という役割があった。
組長さんは「犬はりこ」の、それはそれは大きなバッチをつけ、
朝礼などで運動場に集まるときや、国旗掲揚をする際には、
先頭に立って活躍した。

「まず月曜日に集まるんです。それで組長さんに言わせるんですよ。
 ”きょうは昭和○年○月○日○よう日”って。それがなかなか言えない
 んですよ〜 とっても覚えきれなくて・・・」。

ああ、情景が目に浮かぶ・・・。70年も前のできごとなのに、
つい最近のことのようにユキオには思えた。

台北幼稚園でお世話になった園長、故・早川節先生のお嬢さんが
七宝焼のスプーンを当時の園児たちにプレゼントしてくれた。
持ち手の「犬はりこ」マークが何より嬉しい。なつかしくて。


(第46回)「引き揚げばなし 8 招かれざる客」 (11月21日)

戦後、台湾から引き揚げたゆきこの一家。東京駅から列車で4時間かかって
父の生家がある、千葉の旭町(あさひまち、現在の旭市)に着いた。
父の生家、いわゆる本家である。

父は台湾時代、7人の子どもが小学5年生になると、一人ずつ内地(日本)へ
連れて行き、この本家を拠点として関東と関西を旅行させていた。
その際、「台湾のおじさん」と甥や姪たちに大歓迎された。
父は当時田舎ではまだ珍しかったハイヤー(今でいうタクシー)をチャーターして、
「なんだこれ!」と目がまん丸になった子どもたちを乗せて、
海岸(九十九里浜)へ連れて行ったりもした。

今でもゆきこのいとこたちが懐かしそうに語る、
「ゆきちゃんのおじさんがいつもハイヤーに乗せて連れてってくれたのよね〜」。
羽振りのいい「台湾のおじさん」は人気者だったが。
引き揚げの際、台湾から持ってこられるお金は1人1,000円のみ。
かつての羽振りのいいおじさん一家も、戦後はただの”招かれざる客”でしかなかった。

お金がなくなったら、親戚というのは冷たいものだ。
本家に到着したゆきこたちは、裏の物置きみたいなところに住まわされた。
そこには畳もなく、ムシロみたいなものがかろうじて敷いてあった。

ある日、近所の人がこんなふうに噂するのを耳にした。
「あれだけよくしてもらったのに、バチがあたるわよ・・・」。
戦後の混乱期、食糧難の時代。総じて外地からの引き揚げ者というのは
どこででも厄介者として扱われ、差別を受けたと言われている。

***
「日本に帰ってからの苦労というのは、親が一番大変だったと思います」
とゆきこは語る。
「私は子どものときだから(台湾時代のことを)”懐かしい、懐かしい”と
 今でも語るわけですよ」。

一方、17,18歳で引き揚げてきた姉はほとんど当時のことを話さない。
「どうしてかな?」と思っていたら。
つい最近、「自分は引き揚げてきた頃の過去はぜんぶ封印した」と言っていた。
それほど、大人はつらかったのだ。屈辱的だったのだ。

子どものゆきこにも、それなりの苦労があった。
外地とはいえ、都会である台北から「いっちょうら」の服を着て(物が持てないため)
田舎に帰ってきた。
小学6年生として新学期に登校すると、
「靴をはいているなんて、生意気だ!」とからかわれた。
みんな、草履をはいていたのだ。
ショックだった。どうして靴をはいているだけで非難されなければならないのだろう。

「今の私だったら ”そんなことはない”と突き返せるんでしょうけど。まだあの時は
 何も言えない年頃でした」。

子どもだから順応するのも早く、その土地の人や子どもたちともすぐに馴染んだが。
やはりいちばん話が合うのは東京から疎開してきた人たち。どうしても彼女たちと
仲良くなる。
なかでも1人、いまだにお付き合いをしている友人がいるという。
「でもね・・・この春、認知症になってしまってね」。

悲しい目をするゆきこを見て、ユキオはハッとした。
こうして友人のように話しているけど・・・ この人、もうそんな風になってもおかしくは
ない年齢なんだな・・・と、今さらながら気づかされた。



(第45回) 「嬉しい知らせ」  (11月12日)

この連載エッセイには反響がなかった。
「もしかしたら、読者が1人もいないのでは?」と思いつつ、
ユキオは5ヶ月綴りつづけた。ゆきこの、あのキラキラした時代を形にしたい・・・
その一心で。

それがここにきて、驚くべきできごとがあった。
このエッセイを載せてもらっている ”ライター高橋のホームページ”の掲示板に、
「『台湾うまれのヤマトナデシコを読んでいます。」
という、読者からの書き込みがあったのだ。
「や、やったぞ!」
ユキオはふるえた、感激した。
よく読むと、その読者の方は陳さんといって台湾に住む男性だった。

「なんと、台湾の方だってぇ?」
一瞬目を疑った。信じられなかった。
しかもその方は戦前、ゆきこと同じ樺山小学校に通っておられたという。
2つ上のお姉さまがゆきこと同い年らしい。

「これはすごい。こんなことって、あるんだ・・・」
ユキオの目に熱いものがこみ上げてきた。
「さっそく、ゆきこさんに知らせなきゃ!」
東京に電話してみた。ゆきこはなかなかつかまらなかった。

5日後にようやく電話がつながった。
陳さんという姓は台湾ではあまりにも多いので、陳さんのお姉さまの
名前をフルネームで伝えた。すると、
「あー、陳さんね。知ってますよ。クラスは違ったけど最初の同窓会で
 お会いして以来、いつも行ったら来てくださるの」。

最初の同窓会って、あの時じゃないか?
この連載の第17回小学校の記憶 2」のなかで、
昭和48年頃におこなわれた同窓会のことに触れた。
「何学年か集まったなか、同期の女性はゆきこのほかに台湾人の
 張さん、陳さんの2人だけだった」
と書いたが。この陳さんという女性こそ、今回掲示板に書いてくださった
陳さんのお姉さまその人だったのだ。

もちろんゆきこもこの”偶然”にいたく感激した。
「40年前の同窓会には100人も集まったんです。陳さんはたしかお姉さんと
 一緒に見えてたかしら」。
今回書き込みしてくださった陳さんには3人お姉さんがいて、
皆、樺山小のご出身だという。

陳さんは最後にこんなことを書いておられた。
「『台湾うまれのヤマトナデシコ全回をプリントして、 
  姉たちに読んでもらうことにします
」。

嬉しいじゃ〜ないか!
それにしても陳さん、小学3年で終戦を迎え、日本語教育から解放された
にしては日本語がお上手だ。樺山小に通っておられたぐらいだから、
よほど優秀な方なんだろう。
ゆきことつながりがあるというだけで、自分とも縁があるようで・・・
ユキオはすぐにでも台湾に飛んで行きたかった。


(第44回)「引き揚げばなし 7  父の故郷へ」 (11/4)

台湾をあとにした一家は和歌山の田辺に上陸。そこで”かまぼこ校舎”に
2泊した後、列車でまずは東京駅へ向かった― そこから父の生家・千葉
目指す。今と違って新幹線もない時代だ。

列車には荷物だけ先に積み込む。いったんゆきこたちの手から離れ、先に
目的地へ送られるのだ。
そこで予期せぬことが起こった。内地には戦後甘いものがないだろうからと
羊羹や砂糖を台湾から持ってきてあった。
それを荷物から、まんまと抜かれたのだ。

「ひどいんです。”台湾からなら甘いものがある”と内地の人が狙うんです」。

(前回書いたように) 田辺港へ着いたとき、荷物をクレーンで吊り上げる際に
海へ落とされた人もいた。
列車で運んだはずの荷物が「来なかった」という人もいる。
やっとの思いで引き揚げてきたのに、これだ。
戦後の混乱期、こういうことを訴えようにも、どこへ訴えていいかわからない。
「無政府状態ですよね」。
同じ日本人だというのに、なんてことをするのだろう・・・。

田辺から紀勢本線で名古屋まで― この列車はたいそう混んでいた。
そこから東海道線で東京まで、丸3日くらいはかかっただろうか。

東京駅で1泊した。丸の内にレンガで造られた2段ベッドが用意してあり、
お粗末なベニヤ板で仕切られていた。
ここでは学生さんたちが活躍していた。
彼らはアルバイトなのか、ボランティアだったのか。ゆきこたちのような
引き揚げ者のために荷物を持ってくれたり、色々と手伝ってくれた。

「ずいぶん助かりましたよ。父だってもう50代・・・57,8歳てとこかしらね。
 今の57,8とは違うから」。
高齢の父はもう一家の大黒柱にしては老いすぎていた。

東京駅から総武線に乗り、千葉の旭町(あさひまち= 現在の旭市)を目指した。
ここに父の実家、産まれた家がある。そこを頼るしかなかった。

父は台湾時代、この実家の甥(ゆきこのいとこ)を台北に呼んで台北帝大へ
行かせたり、何かと面倒をみていた。
また内地に帰るたび、子どもたちをハイヤーで九十九里浜へ連れて行ったりと
羽振りのいい「台湾のおじさん」は人気者だった。

銚子にほど近い「旭町」には東京から汽車で4時間かかって、夕方ついた覚えがある。


(第43回)「引き揚げばなし 6  田辺港到着」 (10月29日)

思いのほか長くなった「引き揚げ」時の話。
ユキオは最初、ここまで書くつもりはなかった。あくまで日本だった時代の
”台湾”を書き記したいだけ、だった。
でも台湾が日本になったのも、中華民国へ返還され、ゆきこたちが台湾を
追われたのも、すべて戦争のせい。戦争は終わったようで終わっていない。
民にとって「引き揚げ」はまさに”戦い”だった。

***
基隆(きーるん)を出たアメリカの引き揚げ船リバティ号に、1週間以上は
乗っていただろうか・・・ そのあたりの記憶はあいまいだ。
ゆきこたちを乗せた船は和歌山の田辺港に到着した。

「朝鮮や満州からも(引き揚げて)くるでしょ。下関(港)とか九州の博多(港)とかは
 もう満員ですよ。台湾の人たちは太平洋側の方へ上陸するしかないわけですよ。
 横浜というとまた遠くなるでしょ。燃料かかるから関西あたりへ上陸したんでしょう」。

田辺港は漁村だから桟橋(さんばし)がない。岸壁もない。
なので艀(はしけ)のような板が渡してあって、そこをつたって下船することとなった。
父は祖母をおぶって下船した。病人とか歩けない年寄りなどは先におろして
くれるのだ。
下船の際、荷物をクレーンで運ばれる人たちもいたが、これがひどかった。
吊り上げるときに海におとされ、「びしょびしょだから、もう上げられません」と
言われて泣き寝入りするしかなかった。

田辺では、「かまぼこ校舎に収容され、2日ほど寝た」。
いかにも一時的につくった掘っ立て小屋で、かまぼこの形をしていたらしい。

1日めの食事で「コーリャン」が出された。
最初、「わーい、お赤飯だ!」と喜んだのもつかの間・・・粟(あわ)のようなもの=
コーリャンとタクワン(沢庵)だけ。
「引き揚げ者にご飯なんてもったいない、と(コーリャンを)出されたのかもね」。

隣組として一緒に引き揚げてきた”株屋の月形さん”って人が、田辺に上陸した時に
指にきらきら・ピカピカ、金の指輪を両手いっぱいにはめて、したり顔で見せていた。
内地では検査がないから、もう隠さなくても大丈夫なのだ。
「いったいどうやって持ってきたのかしら?」 
とみんなで不思議がっていた。


(第42回) 「引き揚げばなし 5  引き揚げ船へ」 (10月23日)

後ろ髪を引かれる思いで、長年過ごした亭仔脚の家をあとにした一家は
台北駅から列車に乗り、基隆(きーるん)へ到着した。
基隆とは台湾の北部にある港町。ここから船で内地へ引き揚げるのだ。

基隆では倉庫のようなところに泊まり、引き揚げ船に乗船できるのを待った。
「下にはムシロかゴザみたいなのが敷いてあったかしら。頭がしとしと寒くてね。
 2泊くらいしたかしら」。
頭がしとしと・・・ きっとジメジメと湿っぽかったのだろう。

ひと晩泊まってから、次の日に「荷物を全部出しなさい」と手荷物検査
あった。
ゆきこの前にいた人が飯盒(はんごう)を持っていた。中にはご飯を詰めて
あったのだが、「何か貴金属でも 隠し持っているのでは?」と疑われ、
検査員に包丁でグサグサグサっと やられていた。

布団は最低限の数を持って帰れたが、中に反物を縫い込んだりして
いないか厳しくチェックされた。
引き揚げ者はいくつかの班に分けられていた。その班のなかで一人でも
荷物の違反者がいたら、その班は全員乗船できないと言われていた。
なのでみんなまじめに、違反しないよう決められた手荷物を守っていた(と思う)。

2泊したあと、基隆港にやってきた貨物船はアメリカの「リバティ号」。
(ゆきこの記憶では「リバティ V50」)
「底が深〜い船だな」とゆきこは思った。
その底に乗ったら一番大変!(船酔いは必至)と言われていたが、
さいわいゆきこたちは上の方に乗ることができた。

リバティ号の床にはコンクリートの上にベニヤ板が敷いてあり、
階段も木のはしご・・・ いかにも急いで改良した様子が見てとれた。
もともと客船ではないのだから、しょうがない。
「トイレなんかないから、甲板の上に”ほったて小屋”ですよ」。
敗戦国の人間の強制送還はこんなもの。改良されているだけ、
まだいい方なのかもしれない。



(第41回)「引き揚げばなし 4 タウケーの無念」 (10/14)

ゆきこたち家族の引き揚げは昭和21年3月だった
「3月、いくら南のほうとはいえ、まだ向こうは寒いですよ。
 雨がよく降るんですよ。雨季がその頃なのかしらね」。

ちょうどユキオが台湾協会(新宿)で当時の台北市街のイラスト地図を見つけ、
コピーしてきたところだったので、それを取り出した。ゆきこは地図を見るなり、
「これ欲しいわ、わたし」
と言って説明しはじめた。

引き揚げ当日。まずは西門町にある寿小学校に集結。ここに2泊してから
台北駅へと出発した。
ゆきこは地図を指でさしながら当時の足取りを思い出す・・・。

寿小学校を出て、西門市場の前を通ったと思うんですよね」
「踏み切りを渡って、憲兵隊本部がある。ここには”菊の御紋”があるから
 必ずみんなお辞儀するんですよ」
「日日新聞(正確には「日日新報」)の前を通って、ヒカル食堂の前を通って」
「そういえばヒカル(食堂)のみっちゃん、よく電話がかかってくるの。神戸にいるんです彼女は」
菊元(デパート)の前を通って、新高堂(書店)があるでしょ?」
栄町をずっと通って、ここが本町の通りですよ。三和銀行の真ん前、ここ(自宅)に
 いたんです」
「このうち(自宅)の前を通って、台北駅へ行ったわけです」。

内地へ引き揚げる日本人たちはぞろぞろと並んで歩いた。城内をL字型の
コースをたどって台北駅へ向かった。
それはちょうど、ゆきこの自宅の前を通るルートになっていた。

その日ゆきこは「トーシャー」(台湾の人力車)に乗せられていた。幼いからでは
ない(もう11歳だった)。悪くなったゆで卵を食べたせいで具合が悪かったのだ。
父や母、姉たちはちゃんと歩いていた。

これはのちに姉から聞いて知ったこと。
「私はトーシャーに乗ってたからわからなかったけど。
 このとき父は自分が築いた家やお店を何度も何度も、ずっと振り返って
 見てたって
」。
父の気持ちを考えるとね・・・とゆきこは声を詰まらせた。
ユキオも、もらい泣きせずにはいられなかった。

父にしてみれば― 自分は千葉で生まれた人間だけど。親の跡を継いだとはいえ
何十年もかけて築き上げたお店や家や財産を一瞬にして手放し、もう2度と帰って
こられないなんて。どれほど無念なことだろう。
私はまだ子どもだったから、それほど感傷的にはなってなかったと思うのね」。
今になって、父の思いが痛いほどわかる。

父は台湾人からとても慕われていた。「タウケータウケー」(台湾のことばで”ご主人さま”
の意味)と呼ばれていた。
父は「チャーチェン」(台湾のことばで”ふざける”の意味だったと思う)が大好きで。
ようは面白おかしくからかったりしていたので、台湾人から親しまれた。
7人の子どもが樺山小学校に通っていたので役員を務めたり、ゆきこの代までずっと寄付
をしたり。恵まれない疎開学園に畳を何十畳も寄付したり、お菓子を贈ったり。わが子が
いるいないに関わらず、援助を惜しまなかった。
それもひとえに商売が成功していたから。

台湾で家族を持ち、商売に成功し、台湾人に慕われた父。
父はそこで ”土” になろうとしていたんでしょうね」。
ゆきこの涙はしばらく止まらなかった。
ユキオは黙って立ち、台北の地図をゆきこのためにコピーしに行った。


(第40回) 「敗戦後の小学校」 (10/5)

引き揚げばなしの途中ではあるが―。
ここで敗戦後、ゆきこが小学校に登校したときの様子を書き記しておこう。

昭和20年9月。当時小学5年生だったゆきこは疎開先から台北の自宅に
戻り、以前のように樺山小学校へ通ったが、授業はおこなわれなかった。

「爆弾落ちてるから校舎も荒れてるし、勉強なんてできないんです。
 校庭に集まって、そこで解散!という感じでね。1時間くらいお友だちと
 話してたかしら。”あっ、誰だれちゃん帰ってきたの?” って、同級生や
 幼なじみ同士でね」。
 
 登校3日めには、
「この学校は接収されたので、今後は旭小学校へ行って ”2部授業”に
 なります」
と言われた。
樺山小学校はゆきこ曰く、”いい学校”(立地がよく、校舎も立派)なので、
中華民国の軍にとられたのだ。現在もその建物は警察として使われている。

旭小学校へ行ってみると、その大きさに驚いた。樺山小も立派だったが、
旭小学校は規模が違った。当時は1クラス50人、それが5クラスあったから、
1学年で250〜300人くらいはいただろうか。
校舎は大きくて立派、教室もいっぱいあった。
その一部、離れたところにある校舎には「第一次引揚者(甲)」と貼紙がしてあり、
一番早く内地へ帰る兵隊さんや軍隊関係者が大勢収容されていた。

2部授業”というのは、午前中は旭小学校の子どもたちの授業があり、
午後はゆきこたち樺山小学校の授業。これが翌週になると逆になり、
午前は樺山小学校の授業、午後は旭小学校の授業となる。
ただし児童は全員には程遠かった。空襲で家が焼けたりして、みんなばらばらに
住んでいるから、集まれる人だけである。
また、この旭小学校は官僚(総督府につとめる公務員)の子どもが多かったせいか、
台湾人が一人もいなかった。

旭小学校の2部授業で、ゆきこは低学年のとき一緒だった武藤さんと再会した。
3年生で組が分かれて疎遠になっていたが、9月から2月頃までの約半年間、
旭小に通ううちにとても仲良くなった。
敗戦直後とはいえ、ゆきこの家はさいわい全員無事だったし、気の合う友もいた。
引き揚げまでの時期を比較的穏やかに過ごせていたほうかもしれない。


(第39回) 「引き揚げばなし 3」  (9/30)

戦後、日本人の家屋は(蒋介石率いる)中華民国に*接収される
こととなった。
それをまぬがれるために、ゆきこの家の表部分に浦田家が住み、
ゆきこたちは引き揚げるまで、家の裏の方に住んだ。広かったので
十分住めた。

まもなく(日本へ)引き揚げの時がきた。家はもちろん、タンス、オルガン、
洋服etc・・・家財道具一式、信頼できる浦田家に譲って帰ることになった。
譲るというよりは、「荷物を置きっぱなし」というのが正直なところ。
中華民国に接収されるよりはずっとマシだ。

しかし、だいぶ後になって浦田の家族から聞いた話がある。
ゆきこたちが日本へ引き揚げた後、政府軍が浦田の家に来て、こう言った
という。
「それは日本人が置いていった物だから、政府のものだ」
「賠償金として日本に払ってもらっているものの一部だ。接収されたく
 なければお金を出して買え!」。
結局、浦田はお金を払い、その家や家財道具を自分のものにした。
譲ってもらったはずなのに、政府に無理やり買わされるなんて。
さいわい、浦田は商売をしていたので何とか払えるお金があった。
しかし政府(国民党)の強引な手法には納得がいかない― 
戦後、台湾人の憤りはこうしてつのっていった。
***
これも後日談。
「台湾の悲しい歴史」(第27回)で書いた「二・二八事件」(1947年2月28日)
のとき、本省人(台湾人)の知識階級の人々、つまり戦前に日本の教育を
受けてきた人たちの多くが国民党政府によって投獄・処刑された。

浦田の家の息子2人も危ないところだった。兄のほうはゆきこの7つ上、
弟は4つ上で、いずれも台湾三中(日本人の学校)を卒業していて、
「ぼくたちも狙われたんですよ」
と、のちに言っていた。事件がひどくなり、浦田の父が
「お前たちも狙われるから、田舎へ行け!」
と父の故郷である新竹の田舎にかくまった。
そのあとすぐ、警察が台北の浦田家の近所に住む”いとこ”の家にやってきて
「おまえのところに、こういう2人 いるだろ?」
と、いとこが連れて行かれた。
さいわい、日本語が喋れないので解放された。
まさに、危機一髪!
当時この事件で捕まった者は手を束ねて串刺しにされ、淡水河に浮いていたり・・・
とにかく残酷な仕打ちだった。

「台湾って、今ではとても想像できないような恐ろしい国だったんだ」。
ユキオはちょっと信じがたい。

*「接収」とは⇒ 国などの権力機関が、個人の所有物を強制的に取り上げること。
  例: 「占領軍が土地を―する」


(第38回) 「引き揚げばなし 2 」 (9/28)  

今週朝ドラ「おひさま」を見て、またもや驚いた。
以前、陽子(若尾文子)と房子(斉藤由貴)との関係が、ゆきことユキオに
実によく似ている― と書いたが。
ここにきて斉藤由貴が夫の転勤で遠くに引っ越すことになり、
「陽子さんの話を聞くのも今日で最後なんです」
 ときた。
「まるで一緒じゃないか!」
 ユキオもそうだった。東京で夏に出会い、その歳の暮れに関西に引っ越す
ことになって・・・。ゆきことの別れがどれほど寂しかったことか。改札口で
互いに涙ぐんだことを思い出した。
「おひさま」の斉藤由貴同様、ユキオはゆきこに会って自分が変わった、
世界が広がったように自覚している。偶然の出会いに感謝してもしきれない・・・。

***
さてこちらも朝ドラ同様、終わりがみえてきた。先を急ごう。
内地(日本)への引き揚げの際、手荷物が厳しく制限されたため、
祖父の代から長年築き上げてきた家や店など財産のすべてを
父は泣く泣く手放さねばならなかった。
どうせ手放すのなら、信頼できる人へ譲りたい― と残ったものはすべて
陳さん(改姓名・浦田)という台湾人にあげてきた。

陳さんは日本人が多く住む町で十代の頃から果物屋の小僧として働いていた。
まじめで「日本人より日本人らしい」、きちっとした人。
おそらく、その果物屋で父と知り合ったのだろう。

なにせ、ゆきこの家(店)にはいつも果物が豊富にあった。
よく覚えているのは、ミカンなどの果物がいっぱい入った*唐丸籠(とうまるかご)。
使用人も家族も、そこから好きなだけ取って食べていいことになっていた。
そんなことで果物屋がよく出入りしていたのかもしれない。

とにかく、父はまじめな陳さんを見込んで目をかけていた。
「”独立して商売がしたい”とでも、陳さんが言ってたんじゃないかしら」。
 このあたりはゆきこの記憶なのか想像なのか、あやしいところだ。

父は自分の借家に陳さんを住まわせ、陳さんはそこでお菓子屋さんを
始めた。そこではお菓子のほかにも氷や干しぶどう、メロン、ゴムでくるんだ
羊かんなども置いていた。
陳さんはまもなく名前を「浦田」に改姓し、ますます商売に精を出した。
ゆきこの家と浦田家はどちらも大家族。ご近所だったこともあり、
家族ぐるみのお付き合いをしていた。

*余談*
「唐丸籠」を調べていると、面白いものを見つけた。
バナナのたたき売りの口上のなかで、
「一房二房もぎとられ、唐丸籠につめられて・・・」と唐丸籠が登場するのだ。

バナナのたたき売り 口上
 生まれは台湾台中の 阿里山麓の片田舎 台湾娘に見初められ 
 ポッと色気のさすうちに 国定忠治じゃないけれど 一房二房もぎ取られ
 唐丸籠に詰められて 阿里山麓を後にして ガタゴトお汽車に揺すられて
 着いた所がキールン港 キールン港を船出して 金波銀波の波を越え 
 海原遠き船の旅 艱難辛苦の暁に ようやく着いたが門司港(みなと)・・・」

実演(動画)を見たい方はこちらへ。


(第37回) 「引き揚げばなし 1」 (9/22)

台湾から内地(日本)への引き揚げには順番があった。
「ひどいのは、軍隊がまず1番に引き揚げるんですよ。
 2番目は軍隊の家族。私たちは3番目でした」。
 甲、乙、丙、丁・・・と帰る順番が決められ、ゆきこたちは
3番めの(へい)だった。

最後には技術者が残った。
技術者だけは特別だった。現地の国民党政府軍に工場などで
技術指導するため、2年ほど残らされる人もいた。
たとえば、ゆきこの友人の父は台湾製糖の技術者だったため、
引き揚げは昭和22年と遅かったという。
そういう子弟のためには日本人だけを集めて日本人学校を
つくってあった。
遅い引き揚げ者のなかにはミシンを内地に持って帰れた人も
いたと聞く。なかなか日本に帰してもらえなかったかわりに、
少しはメリットがあったのだろうか・・・。
***
敗戦後、台湾から内地へ引き揚げるとき、手荷物が厳しく制限
された。
現金は一人あたり1,000円のみ。衣類は下着が2枚だけだったか、
服が夏冬各3枚ずつだったか・・・その辺りの記憶はあいまいだ。
ゆきこはまだ子どもだったから、親たちがやってくれたのだ。結局
荷物は行李1個だけだった。
(満州から引き揚げた姉によると、満州からはリュックサック1つに
 何を詰め込んでよかったらしい)

手荷物が「行李1個」ということは― 台湾で長年築きあげた家や店、
財産のすべてを、父は泣く泣く手放さなければならなかった。
「大手の会社につとめる人は日本に引き揚げて本社があるから
 いいわけですよ。商人が一番大変だった」。

結局、残ったものはすべて陳さん(改姓名・浦田)という台湾人に
あげてきた。


(第36回) 「敗戦」 (9/21)

昭和20年8月15日、日本はついに敗戦の日を迎えた。
台湾でもラジオでは玉音放送が流れ、ゆきこは疎開先で聞いていた。
日本が支配していた台湾は中華民国(首都南京)に返還されることと
になった。
それまで台湾では「一等国民」だった日本人は「しーかーくい」(四つ足の意)
と呼ばれるようになった。とたんに人間ではない、動物扱いである。

約半世紀つづいた日本統治から解き放たれた台湾。
「これで晴れて祖国復帰。独立国家として明るい未来が待っている」
と台湾人が信じたのも束の間だった。

昭和20年10月、中国大陸から中華民国政府のトップ・蒋介石の
部下である陳儀(ちんぎ、台湾省行政長官)が軍隊とともに台北に
やってきた。
(このあたりのくだりは第27話「台湾の悲しい歴史」でも触れた)

台湾の人々は「祖国復帰だ」とばかりに、中華民国の星模様の旗
(下記イラスト参照)を手に出迎えた。
まだ日本に引き揚げていなかったゆきこたち小学生も出迎えに
駆り出され、歌をうたい、国旗を振って出迎えた。

しかし、そこにやってきた中華民国の兵隊たちを見て、ゆきこたちは
驚いた。
「番傘さして、お鍋しょって・・・ なんて汚らしい兵隊さんたちなの!」
 その姿に唖然とした。

そして台湾人は口々に言っていた、
「大陸からいちばん悪い、レベルの低い兵隊たちが来た!」と。

ひどいのは見た目だけではなかった。
中国大陸の国共内戦(国民党と共産党の戦い)に敗れて台湾に逃れてきた
国民党軍は質が悪く、台湾人を高圧的に支配し、強姦、強盗、殺人をおかす者
もいた。
台湾国内の資材は新政府の官僚によって接収・横領されることとなった。

このとき台湾人が失望する様をあらわした、こんな言葉が残っている。
「犬去りて、豚来(きた)る」。
 犬(日本人)はうるさいが番犬として役に立つ。規律もきちんと守った。
しかし豚(国民党)はただ、むさぼり食うのみ・・・ という意味である。

まもなく前述した「二・二八事件」が起こり、台湾人は苦難の道を歩み始める。
その前に、戦争に負けたゆきこたち日本人には内地への”引き揚げ”が
待っていた。

中華民国の国旗: 「晴天白日満地紅」

(第35回) 「台北大空襲 2」  (9/16)

台北への空襲は昭和20年2月頃から始まってはいたが、
最も被害が大きかったのが昭和20年5月31日台北大空襲である。
大型爆撃機B‐24が午前10時から午後1時まで、台北の街を攻撃した。
この無差別爆撃により、市民約3,000人が命を落とし、数万人もの人々が
ケガを負い、家をなくした。
一番激しく攻撃を受けたのは、当時台湾を統治していた行政と軍事の中枢部
「台湾総督府」である。

ここからは、ゆきこがのちに家族や姉たちから聞いた話。
空襲はたしか午前11時くらいだったか。B-24はゆきこの家のある本町にも
容赦なく襲ってきた。
父と母と姉(三女)の3人が防空壕(ぼうくうごう)へ入った。防空壕は家の
奥のほう、倉庫になっているところに掘ってある。
ちょうど上に物干しがあり、その日の朝も洗濯物が干してあったので、
「すぐに干し物を取りこみなさい。目標にされるから」
と姉(次女)は出掛けに母に言われたのを覚えている。シーツなどは白くて
ハタハタとなびいているから、敵の標的にされかねないというのだ。

B-24が近づき、防空壕へ逃げ込んだ3人。爆弾は家の目の前に落ちた。
爆風で防空壕の扉があく・・・ でもさいわい無事だった。

爆弾は5軒先の家に落ちた。よく一緒に遊んだ友だちの家だ。
その防空壕に入っていた”てんまい”という名の姉や(15、6歳)が生き埋めになり、
ゆきこの父が防衛団を呼んで、泥水をかけて生き返らせたという。
家の近所の薬品会社にも爆弾が落ち、いろんな薬があるので
引火してひどい火事になっていた。

ゆきこの家族はさいわい助かったが、爆弾は家の前にも、裏にも落ちていた。
「ああいうのはボタンで落すんでしょ? もしボタンの感覚がひとつずれて
 いたら、私は孤児ですよ」。

その日、ゆきこも疎開先で防空壕に入った。
防空壕から出て、しばらくして草山から下のほうを見おろすと、
台北の方角にけむりが見えた。とても心配だった。
さいわい、ゆきこの家族は無事だったが、同じように疎開で来ている同級生で
表町(おもてちょう)に家がある谷口くんは親を亡くした(先生からの報告で知る)。
とても他人事ではなかった。

ゆきこが疎開先から台北の家に戻ったのは、
敗戦からしばらく経った昭和20年9月初め。家の前が大きな池になっていて、
200mおきに大きな穴が点在・・・ まさに空襲の激しさを物語っていた。



(第34回) 「台北大空襲 1」 (9/15)

戦争中の話なのに、書いていて緊張感というか緊迫感がないな、
イカンな〜 とユキオは毎回、筆を置くたび思う。
しょうがない。ゆきこから聞く話自体、楽しそうだもん。
何かというとゆきこは歌いだす― 戦時中の軍歌、式歌、台湾ならでは
の唱歌・・・ その旋律が耳に残る。
あの九州くらいの、”さつまいも”のような形をした小さな島国がその昔
「日本だった」というだけで、ユキオはただただロマンを感じていた。
少なくとも、このあたりまでは・・・。

***
当時日本だった台湾。当然のごとくアメリカは激しく攻撃してきた。
台北市でいちばん多くの被害者を出したのが、
昭和20年5月31日台北大空襲
ゆきこの家の前にも500kgもの爆弾が落ちた。
「疎開から帰ったら、うちの前が大きな池になってました。こ〜んな穴が
 あいていたんです。私もひょっとしたら(戦争)孤児になっていたかも
 しれません」。

空襲の日、さいわいゆきこは疎開中で台北にはいなかった。
祖母とゆきこだけが疎開先に残っていた。たまたま、すぐ上の姉が「歯が痛い」
と言うので、母がその姉を連れて山を降り、台北に戻っていたのだ。

ここでちょっと、ゆきこの家の兄弟構成を思い出してみよう。
エッセイの最初のほうで、ユキオは即興でこんな詩を書いた。
 「末っ子ゆきこは おてんば娘
  おおきい兄さんは 十九も上
  アニ・アネ・アニ と アニ・アネ・アネ 」

ゆきこは7人兄弟の末っ子。
上から兄・姉・兄・兄・姉・姉― ゆきこには3人の兄と、3人の姉がいた。
亭仔脚の自宅兼商店で、時にはけんかをしつつ、
仲良く育った7人のその後は・・・。
長男: 商社マンを目指し、慶応大に進むも20代で病死。
長女: 昭和18年に結婚し、満州へ渡る。
次男: 台北帝大から技術将校として仙台へ派遣。(理数系なので
     兵隊としては召集されず)
三男: ラグビーをしていたやんちゃな兄は航海士の夢を叶えるため
     神戸高等商船へ(現在の神戸商船大)。

と、上から4人の兄姉は昭和20年の時点で、すでに台湾にはいなかった。
2番目の姉と、3番目の姉、そしてゆきこの3人だけが残っていた。

2番目の姉(次女)は疎開をしていなかった。
当時*挺身隊として士林(しりん)にある、海軍の施設部に勤めていた。
空襲の日も、朝早くにトラックが迎えにきて出かけていった。
なので自宅には、歯医者で疎開から戻っていた母と三女、
そしてもともと残っていた父(計3名)がいた。

「挺身隊」とは: 
 太平洋戦争下の1943年に創設された、女子勤労動員組織。
 14歳以上25歳以下の女性を居住地・職域で組織。日本の労働力が
 逼迫するなかで、国民総動員体制の補助として、主に軍需工場など
で働いた。


(第33回) 「台湾の味 6 カラスミ」 (9/9)

カラスミとは、魚(ボラ)の卵巣を塩漬けにし、天日で乾燥させたもの。
ゆきこの家ではいつも縁側の軒下(のきした)にぶら下げてあった。
ワインカラーで半透明になったのがつるしてあって、お正月前後に
よく食べた。
「うちの食べ方はね。いつも母がうすーく切って、かりかりに焼く。
 それがいちばんおいしいの」。
かりかりっ・・・ 食感からして旨そうだ。お酒にあいそう。
今ではすっかり高級珍味として知られるカラスミだが、当時はおやつ
のように食べていたのか。(なんてゼイタクな!)

残念ながら今のカラスミは昔のとは味が違い、おいしくないという。
台湾で買ってもおいしくなかったから、「もう買わない」とゆきこは決めて
いる。
***
ゆきこが話してくれた「ショーケイ」という食べ物にもユキオは惹かれた。
「とりの唐揚げみたいなもの」、ただし日本の今の唐揚げみたいに
分厚い衣(ころも)はなく、もっとシンプルなもの。からしをつけて食べていた
という。
「今でもたまに唐揚げを食べるときは、ねりがらしで食べますね」。
たぶん「ショーケイ」とは「焼鶏」ではないか? とユキオは推測するが。
ゆきこに聞いてもわからなかった。なにせ小学校低学年のときの記憶
である。

(第32回)「疎開の思い出 4」 (9/7)

疎開とは直接は関係ないのだが・・・。
ここまで水牛、ニワトリ、ヒヨコと立て続けに動物の話題が出たので、
今度は「」― ゆきこにとって思い出深いジョンという名の犬の話
をしよう。
「お隣のおじさんがね、ハンターだったんですね。だからポインター
 買ってたのね」。
そのポインター、母犬の名がハツで、息子の名をジョンといった。
お母さん犬のハツはおじさんの言いつけを守り、ちゃんとおつかいも
するのだが。
子どものジョンは”聞かない子”だった。買い物カゴや風呂敷包みを
くわえさせ、ご主人さまの後からついては行くのだが。途中でそれを
ぽんと捨てて、どこかへ行ってしまう。まだ子どもだから、しょうがなか
ったのかも。

ジョンはゆきこの店によく遊びにきた。
「わたし犬好きだし、可愛がってたから。父はきらいでしたね」。

隣のおじさんが亡くなった後、おばさんは犬があまり好きじゃなかった
ので、どこかよその家にジョンたちをあげてしまった。
それでもジョンは引きつづき ゆきこの店にやってくる。
お店には、ジョンのお気に入りの場所があった。内地から届いた荷物を
置いておく台の下に、わらの縄を放り込んでおく箱がある。気がついたら
ジョンはいつもそこに寝ていた。
「そこはね、あたたかいんですよ。ジョンはすぐどこかに行くから飼い主は
 つないであったらしいんですよ。それを引きちぎって、うちへ来るんです。
 綱を引きずってくるんですよ」。

ゆきこが小3の頃だったか。学校の帰りに「ジョン!」と呼ぶと、いつもこっちへ
向かって一目散に走ってくる。
そこで、こんな遊びを思いついた。
城内(台北の街の中心部)の家はどこも亭仔脚。頃合いのいい太い
建っている。そこでゆきこは「ジョン!」と呼んで、さっと柱に隠れた。いわゆる
かくれんぼ”だ。
「するとね、ジョンは耳をぴんと立てて探してるんですよ。それがおっかしくて・・・」。

ゆきこを見つけると、ジョンはダッと走ってきて嬉しそうにゆきこの肩に乗っかって
くる。その瞬間、ゆきこは怖かった。なにせポインターは大きい犬。可愛いけれど、
子どもにはやはりおそろしくもある。
「でも今思い出すと、すっごい可愛いんです」。

その後、ゆきこが疎開したあと・・・ジョンはどうなったのだろう。
どこかにちゃんと飼われていたのか。それとも、野良犬になっていたのか。
「たしか、戦後もうちに来てたと思うんですよ」。
ゆきこたち日本人が内地に引き揚げたあとは・・・知るよしもない。

    迷犬ジョン (イメージ図)

(第31回)「疎開の思い出 3」 (9/1)

疎開で思い出されるのが、家で飼っていたニワトリのこと。
「おかしい話が あるんですよ〜」。
 ゆきこは身を乗り出し、話しはじめた。
当時(疎開前)、隣の家ではブリモースという品種(黒と白の混じったニワトリ)
を飼っていて、それをヒヨコのときに5羽いただいた。
当時は家庭菜園など自給自足をする家が多く、
「つぎつぎと卵が産まれるだろう」と期待して、家の中庭で飼いはじめた。

ところがどっこい。5羽のうち、メスは1羽だけであとはすべて雄鶏(おんどり)。
たしかに、ヒヨコのうちではわからないのだ。

「大きくなって鶏冠(とさか)が生えて、蹴爪(けづめ)が出てきて、
 ”ああ〜オスだぁ”って(笑)」。
 ただ1羽の雌鶏(めんどり)を取り合っているのか、オス同士でよくケンカを
していた。
「兄弟とはいえ、彼らは動物だから」。

台湾人はよく自分たちで鶏を絞め、食用にしていたが。
ゆきこたちはあくまでペットとして飼いつづけた。
名前もついていた。いちばん大きくて強いのが「デカ」、次に大きいのが
オムコ」(お婿さんからつけた?)。めんどりの「メンコ」。ぴーぴー泣くのは
ピーコック」。あと1羽の名前だけ、どうしても思い出せない。

疎開で家を離れるため飼えなくなったときは、台湾人に頼んだ。
「自分たちはとても殺せない。かわいそうだけど、殺して」と。
亡骸(なきがら)を家へ持ち帰り、お線香をあげて成仏するよう祈った。
土に埋めたかどうか? その辺までは記憶にない。

ユキオに素朴な疑問が沸いた。
――台湾人はその鶏を絞めた後、食べなかったんでしょうか?
「硬くてお肉はもうダメでしょうね。うちに来てから5,6年は経っているから」。
 そういうものか。だから若鶏はやわらかくておいしいのか。(えっ?)

台湾人に頼んだのは、戦況が激しくなり、動物園で猛獣たちを処分するような
ものだったのだろう。
***
疎開先にはデカやオムコの子どもたち― ヒヨコを3,4羽連れていった。
親鳥にあたるメスのメンコも連れていったか? さすがのゆきこも
そのへんの記憶はあいまいだ。

ヒヨコのうち1羽が疎開先でケガをした。
疎開先は別荘地といっても山の中なので、ヒヨコは勝手にあちこち歩きまわる。
「木の枝か何かに引っかけて、腸が出ちゃったんですよ。それをうちの母と姉が
 (腸を)中に入れて赤チンをつけて、丁寧に包帯を巻いて治しましたよ」。

 大切なヒヨコを必死に手当てする様子が目に浮かぶ・・・
疎開先での忘れられないできごとだ。


(第30回)「疎開の思い出 2」 (8/30)

台湾の場合、戦時中の食糧事情は内地(日本列島)に比べれば
まだマシなほうだった。台湾は果物が豊富で、お米は年に2度採れ、
おまけに砂糖の産地なので、さほどの苦労はなかった。
しかし戦時中は軍が接収するため、すべて配給制。砂糖さえも制限
された。

その後、母と祖母、姉たちが台北から疎開してきた。
男手である父や兄たちは、自宅(&店)と台北市を守るため、残ることに。
母たちは草山貸し別荘を借りて住み、疎開学園にいたゆきこを
引きとった。
よって、ゆきこはこの時から通園制に・・・家族のもとから疎開学園に
通うこととなる。

貸し別荘から→疎開学園までの通学は、子どもの足で約20分。
ゆきこには今でも強烈に目に焼きついている光景がある。
当時、草山あたりでは台湾人が水牛を放し飼いにしていた。
そのため日によっては、水牛のすぐそばを通らなければ、
疎開学園に行けないことがあった。
その水牛のこわいことといったら!
「ふつうの牛の角(つの)より、こう、横に大きく生えているから
 こわいったらないの!それにテカテカと黒びかりしてるでしょ」。

 ほ〜んとにこわそう。
幼い子どもから見れば、なおさら水牛は大きく映っただろう。
とても一人では通れないので、ゆきこは男の子たちが来るのを
待ってから一緒に通学した。

こんなこわい思い出がありながらも、(第24回)で紹介したように
「♪水牛のおじさん いいきもち〜」
と懐かしそうにうたう、ゆきこである。

《水牛は教科書にも登場》
当時、台湾の農作業に欠かせなかった水牛。
学校の教科書にも水牛の挿絵がよく登場する。

これは当時の公学校= おもに台湾人が通う小学校の国語の教科書
(台湾総督府 作成)。右の表紙に水牛の絵がある。左はひよこ。

本文にも水牛が。それほど身近な生き物だったのだ。
*本文抜粋*
オウチョウ(水牛の背中↑に乗った鳥)は、
「水牛さん、今日も仲良く遊びましょう」と言いました。
水牛は、
「うん、遊んでもよい」と答えました。

(台湾協会にて、保存されていた教科書をコピーさせてもらいました)



(第29回)「疎開の思い出 1」 (8/26)

昭和19年にはいり、いよいよ戦況が激しくなってきた。
動物園の猛獣たちは爆撃時のショックで暴れたり飛び出したりすると
危ないからと、電気テーブルの上に肉(餌)を置いておびき寄せ、多くが
殺された。残酷なようだが、この辺りの事情は内地の動物園と同じである。
ゆきこは台北の動物園に「ハナコさん」というゾウがいたのを覚えている。

そして都市部から地方への疎開が始まる。街の学校が閉鎖となり、
郊外での「疎開学園」が徐々に始まった。

「わたくしが疎開に行ったのは(小学)4年のときですね」。

 草山(そうざん)= 今でいう陽明山(ようめいざん)という温泉地にある
水道事務所の保養所を樺山小学校が借りて使うことになり、
そこで4年、5年、6年生がともに寝泊まりし、勉強した。
だが必ずしも同級生がみんな一緒に行けるわけではなかった。
台北からずっと離れた、親の疎開先へついて行く子もいた。

「わたくしも最初は泣きましたよ、うちに帰りたくて。まだ幼いし、
 親から離れて来るから さみしいんです」。

 疎開学園では朝から周辺をランニングしたり、大きな庭でラジオ体操を
したのが印象深い。
戦時中なのでお菓子もとぼしくなり、「三時にキャラメル3つ」がやっとだった。
たまに父兄が面会に来ると、お菓子や食料の差し入れがある。
ゆきこも母や姉が来ると、外でミカンを食べたりした。
「わたしなんか真面目だから、おミカン食べるとおミカンのにおいが残るからと
 食べたあと、こうやって一所懸命、顔を拭いたりしてましたね」。
 
 他の子にはないのに、自分だけ食べているなんて申しわけない・・・
という罪悪感。必死にごしごしと顔を拭くようすを再現するゆきこが、
子どもみたいでかわいかった。

 「草山衆楽園 (そうざん しゅうらくえん)」
当時、草山は台北を一望できる景勝地だった。なかでも「衆楽園」は
台湾最大の公共娯楽施設で、ゆきこの一家もよく日帰りで温泉を
楽しんだ。


(第28回)「台湾の味 5 チキンライス」 (8/25)

当時 ”台北の銀座”と言われた栄町に「菊元デパート」があった。
(正式名称⇒ 菊元百貨店
1932年、日本人の重田栄治が開業した台湾最初のデパートである。

「ここで母に連れて行ってもらって食べたのがチキンライス
 おいしかった〜 たしか5階あたりが食堂だったかしら」。
 
 ゆきこの記憶は正しく、6階建てのデパートの5階にレストラン「菊元」
があった。
「わたくしはいつもチキンライス。鶏肉の入ったケチャップライス、まるい
 グリンピースがのっかったような・・・ね」。

ゆきこはよく、こんな遊びをした。お茶の間の障子のところにガラスが
はいっている。それがちょうどデパートの食堂のガラスケースに見えた
ので、
「チキンライス!」 「オムレツ!」
と一人で指をさしながら注文するように言った。
いわば「チキンライスごっこ」。れっきとしたままごと(まねごと)遊びだ。

「あと、うちの母のつくったハヤシライス、カレーライスがおいしかったわね」。

へぇ〜 すでにハイカラな食べ物があったんだ― ユキオは意外だった。
しかし戦前とはいえ、そこは日本。しかも都会の裕福な家だから
そんなものだったのかもしれない。

 当時の「菊元百貨店」。どっしり、かつハイカラな外観。
ここがオープンした翌月、台南に(やはり日本人である)林方一によって
「林百貨店」がオープン。南北二大百貨ビルと呼ばれたそうな。


(第27回)「台湾の悲しい歴史」 (8/20)

昭和50年代、台湾でおこなわれた樺山小学校の同窓会では
みんなで軍歌をうたった。
高(こう)くんという同級生― 作家の司馬遼太郎さんにそっくりの
台湾人がいちばん色んな軍歌を覚えていた。
軍歌以外では一学年上の同じ名前、高さんが詳しかった。
「わたし、この歌も知ってるよ。♪ちいちいぱっぱ、ちいぱっぱ・・・
 / ♪お手手、つないで・・・」。
 もちろん、みんなで樺山小学校の校歌もうたった。
ある台湾人の同級生は、
わたし、全部うたえたよ。だけど、涙が出ちゃって・・・」。

 戦後初めて声にした日本語。歌いたくても30年封印してきた
懐かしい日本語の歌。弾圧されてきた歴史があったからよけいに、
感慨もひとしおだった。
えっ?
歌いたくても30年封印」 「弾圧されてきた」 って、どういうこと〜?

台湾という国。観光地としてのイメージでは、いたって平和な南の国〜
といったかんじだが。実は悲しい過去の歴史があったのだ。

***
ちょっと長くなったらゴメンなさい。
ここで台湾の歴史に触れないわけにはいかなくなったので、
ボクなりに勉強し、理解した範囲で書いてみよう。

まずはエッセイの序盤に書いた、「台湾の歴史年表」をもう一度おさらい。
〜1622年    原住民の時代
1622〜1661年 オランダ統治時代(39年)
1661〜1683年 鄭氏政権時代 (22年)
1683〜1895年 清朝時代    (212年)
1895〜1945年 日本統治時代 (50年)
1945〜現 在  中華民国統治時代

1945年8月、日本は戦争に負けた。すなわち植民地だった朝鮮半島、
満州とともに台湾を手放すこととなった。
連合国軍の協定に基づき、台湾は蒋介石が率いる中華民国政府に
接収された。
台湾人(俗に本省人という)は喜んだ。日本支配の時代がようやく終わり、
これで”祖国に復帰”できるのだ。(これを「光復」と呼んだ)
「祖国って?」― 台湾の人たちは自分たちの祖先が昔大陸から渡って
きたと知っている。
晴れて「日本から解放される〜」てなもんだろう。

しかし―。(日本の手を離れた)島国・台湾を統治するために
同年10月、中国大陸からやってきた蒋介石の部下・陳儀(ちんぎ)率いる
国民党政府は台湾人の期待をみごとに裏切った。

たとえば・・・
*役所では大陸からきた中国人たち(外省人という)による汚職や腐敗が
 はびこり、
*軍隊(やはり外省人)には規律がなく、やりたい放題で民間人をわずらわせ、
*経済は破綻し、物価の高騰は進む一方・・・。

台湾人(本省人)の不満はつのった。
また「光復」からたった1年後に、新聞の日本語欄はすべて廃止となった。
陳儀の国民党政府は、言語・文化政策においても過激でまったく融通が
きかなかったのだ。
それまで台湾語もしくは日本語を使用していた台湾人(本省人)は競うように
「国語(中国語=北京語)」を学んだ。生きるために、学ぶしかなかった。

そして賄賂や汚職にまみれた(大陸からきた)外省人への不満はますます
つのり・・・
ついに事件が起きた。

1947年2月27日、一人の寡婦が密売していた’やみタバコ’を警官が摘発。
許しを請うていた女性を警官は殴打し、商品を没収。
これに同情し、多くの本省人が集まり、小競り合いとなった。
事件とは関わりのない民衆(本省人)が射殺されたりして・・・ ついに本省人の
中華民国への怒りと不満が爆発。
翌28日、抗議デモに発展した。
非武装のデモ隊に対して、国民党政府は無差別に発砲するなど厳しく制圧し、
多くの死者を出した。
これが本省人にとって”悪夢のはじまり”と言われる「二・二八事件」(台湾大虐殺)
である。

このあと、本省人のエリートや知識階級の人々が国民党政府によって
次々と投獄・処刑され始めた。
1949年には「戒厳令」が敷かれた。
いわゆる軍事統治― 恐怖政治、「白色テロ」時代のはじまりである。

戒厳令は1987年にようやく解除された。
この間(約40年)、台湾では約14万人の人たちが連座し(連座とは=他人の
犯罪で連帯責任を問われて罰せられること)、
拷問を受け、数千もの人々が処刑されたという。

主な罪状は「スパイ容疑」(中国共産党との関わり)や、「台湾独立案件」
(中華民国からの独立を画策したという罪)。
実際は罪のない人々が濡れ衣を着せられ、次々と投獄され無き者にされた
という恐ろしい時代。
多くの働き盛りの若者や、将来有望な学生たちが犠牲になった。
運よく生き残った人たちも口をつぐみ、沈黙を守った。
ようは常に警戒して暮らしていた― とても日本語の歌など うたえるわけ
ないのである。

1987年(戒厳令解除)なんて、ついこの間じゃないか!」
ほんの20年前まで台湾がそんな恐ろしい国だったとは信じがたい。

この悲しく残酷な時代の台湾が描かれているのが、
香港の明星トニー・レオンも出演している超有名な映画『非情城市』。
もちろん、戒厳令解除後の制作。
歴史を踏まえたうえで観ないと、ワケがわからない映画ではある。

(説明、わかりにくかった? ごめんなさい。やっぱり長くなったな,,)


(第26回)「歌のはなし 3」 (8/17)

当時、ゆきこと同じクラスの台湾人のなかには、
日本の音楽の授業で 思わぬ苦労をしいられる子もいた。
台湾の歌には、きっと沖縄の歌にも似た独特の節まわしが
あるのだろう。
たとえば、唱歌『七夕さま』の出だし部分、
「笹の葉さらさら のきばにゆれる」の「♪ゆーれーるー」の部分。
一音ずつ平板にうたうのが正しいが、ある台湾人の子は
「♪ゆ〜れぇるー」と、つい変な節まわしが出てしまう。
(ユキオのイメージでは、元ちとせみたいなかんじ?)

また、授業で習った台湾のうた『雨に咲く花』。もちろん日本語でうたう
のだが、やはり台湾の子はそういうクセのある節まわしでうたってしまい、
よく先生に注意されていた。
「彼女、泣き出しそうな顔してかわいそうだった。うちに帰ると台湾人の生活
 をしていると思うし、どうしても原曲のイントネーションが出てしまうんじゃ
 ないですか」。

ユキオは『雨に咲く花』という曲を聴いてみたくて、ダメもとでネット検索
してみたら、あった! 台湾出身の故テレサ・テンが日本の番組でうたって
いるではないか。
うん、このメロディ、聴いたことある。
『雨に咲く花』= 原題『雨夜花』、興味のある方はぜひ聴いてみてください。


(第25回)「歌のはなし 2」 (8/11)

2008年台湾で大ヒットした映画『海角七号』のなかでメインテーマ
のように歌われているのが、シューベルト作曲の『野ばら(野?瑰)』。
「♪わらべは見たり 野中のばーら」。
この曲は日本統治時代のなごり(日本と台湾を結び付ける象徴)として
映画の重要なモチーフとなっている。
郵便配達の老人が自転車漕ぎながら一人口ずさむシーンもいいが、
ラストのライブシーンでの大合唱は圧巻・・・感動を誘う。

なのでユキオはこの曲について、ぜひ聞いてみたかった。
「当時、『野ばら』をうたいました?」 とゆきこにたずねると、
「いいえ。あれは女学校でうたう歌です」
と返事がかえってきた。ちょっとがっくり。

なんでも『野ばら』のような”歌曲”は女学校でうたい、
小学生は主に小学唱歌を習ってうたったという。これは台湾も
内地も同じだったのだろうか。

海角七号あらすじ:
日本統治下の1940年代の台湾で、若い日本人教師が台湾人女性で
日本名を小島友子という教え子と恋に落ちるが、終戦を迎え教師は
帰国(引き揚げ)せねばならず、友子に船上から思いをつづる。
そして60年後、ミュージシャンの夢敗れ、郵便配達のアルバイトをしている
青年アガ(ファン・イーチュン)が、郵便物の中に日本統治時代の住所
「海角七号」あての小包を見つける。

台湾が舞台のこの映画。しかも戦前の日本統治時代がからんで
いるので、ユキオはぜひともゆきこに観てほしいと思い、薦めた。
ほどなくゆきこは観に行った。台湾の風景や、終戦後の引き揚げ船の
場面もあったので「なつかしかったわ」という言葉を期待していたが、
現実は違った。

「引き揚げ船はあんなに小さくないです! リバティ号はもっと大きかった」
「引き揚げる教師の身なり(帽子や服装)がありえないです」
「岸壁に残った台湾人の娘の白いブラウスは当時の台湾人にしたら
 ありえません」
「教師が書く(朗読する)恋文の文面も、当時ではありえませんよ」・・・
とにかく、すべてにおいて共感できなかったようだ。
仕方ないっか。監督は台湾人だし、戦後生まれだし。(ユキオ、落胆)


(第24回)「歌のはなし」 (8/9)

ゆきこの台湾ばなしを聞いていると、よくが出てくる。
というか、突然朗々と歌い出すのだ。
「よっぽど歌が好きなんだな。そういえば今、コーラスサークル
 に入っているとか言ってたっけ・・・」。

ゆきこの子ども時代の”思い出のメロディ”といえば軍歌である。

なつかしい歌なんです。今の子どもたちが”ポーニョ ポニョ・・・”と
 アニメの歌をうたうように、私たちの子どもの頃は軍歌しかなかったから。
 もちろん、童謡や唱歌もありましたけど」。

軍歌=戦争の歌。どうも暗いイメージがあるが、
ゆきこが口ずさむと不思議と楽しく聴こえる。
たとえば・・・
「♪ぼくは軍人大好きよ 今に大きくなったなら 勲章つけて剣さげて
 お馬に乗ってハイドウドウ」。
(『僕は軍人大好きよ』=幼稚園でうたった記憶)

「♪きょうも学校へ行けるのは 兵隊さんのおかげです・・・
  兵隊さんよ ありがとう 兵隊さんよありがとう」。
(『兵隊さんよありがたう』=小学校でうたった記憶)

まさに軍を奨励する歌。それを子どもが無邪気にうたっていたとは
ユキオには信じられない。
そして当時の男の子はみな軍人に憧れたというから、
つくづく教育の力というのは大きかったのだ。

でも軍歌だけではない。
ゆきこはこんなほのぼのした歌もうたってくれた。
「♪水牛のおじさん いいきもち〜」。

水牛なんて、台湾ならではだな。
ちょっと調べてみたら、ありがたいことに音源があった。(『水牛(スヰギウ)』という歌)

***
竹中信子氏の著書『植民地台湾の日本女性生活史 昭和篇(上)』
によると―。
昭和4年頃、台湾総督府や州当局がこのような歌の歌詞や曲を一般に
広く募集するのが盛んだったようだ。
(ex.「台湾の歌」の歌詞募集には賞金300円)

ちなみにこの『水牛』という曲は、昭和4年5月の節句に『台北行進曲』
『これぞ台湾』etc. とともに発表され、レコード化されている。


(第23回)「戦前の学校教育 その3」 (8/4)

年に4度のお式で必ずおこなわれたのが「教育勅語」。

「(講堂で)下を向いてると先生がカーテンをあけられて、そこには
 御真影(ごしんえい)がー 天皇・皇后のお写真がありました」。

先生方はみな黒の官服を着ていた。
白い手袋をはめた教頭先生が黒塗りのお盆をうやうやしく壇上に
持ってくる。
教育勅語=神(明治天皇)のお言葉だから、うやうやしいのだ。
その間、子どもたちはじっと下を向いて待っている。
お盆の上にはふくさに覆われた巻き物(=勅語)があった。
その巻き物を、やはり白い手袋をはめた校長先生が紐解き、
読み上げる。
朕惟フニ 我カ皇祖皇宗 國ヲ肇ムルコト宏遠ニ・・・」。

長かった。一番いやだったわ」。
とにかく勅語を読み上げるその時間が、ゆきこには長かった。
おそらく意味もわからず、とにかく有難いお言葉だと教えられ、
じっと下を向いてこらえていたのだろう。

「生徒はみな下を向いてるから、つーっ、つーっと鼻をすする音が
 聞こえてくるんです。最後は”ぎょめい、ぎょじ(御名御璽)と
 言って終わるわけね」。

校長先生はまたうやうやしく、巻き物を塗りの盆におさめる。
そして全員そろって号令の合図により、天皇・皇后の御真影(ごしんえい)に
向かって最敬礼(さいけいれい)をする。

「”さいけいれい”ってご存じ?」
ユキオはよくわからなかった。字はどう書くのだろう。「再敬礼」か?

最敬礼(さいけいれい)」ー ゆきこによると、手はひざのところに置き、
45度の角度でお辞儀をするとのこと。辞書には「最も丁寧な敬礼」とある。
当時、お式の前日にはかならず最敬礼の予行練習がおこなわれた。

御真影(ごしんえい)」という言葉もユキオにははじめてだった。
天皇・皇后の公式の肖像写真。調べてみると、当時は各学校に貸与され、
校長の責任で厳重に管理、儀式に使用された。

ひたすら畏れおおく尊い”天皇”という存在。まるで隣の国の将軍様みたい
だな、とユキオは思った。

田舎の小学校での「お式」のようす。(HP「奉安殿と教育勅語」より)


(第22回)「戦前の学校教育 その2」 (8/2)

教師が親よりも、子どもにとって絶対的な存在であったことは
前回書いたが。
その教師よりも何よりも、
戦前の日本人にとって絶対的な存在があった。
それは天皇陛下。天皇=”神”だった。

「お教室には黒板の上に”きゅうじょう”の写真がかかっているんですよ。
 それに対して最敬礼(さいけいれい)してから、お教室に入りました」。

「きゅうじょう」と聞くと「球場」しか思い浮かばないユキオだが、
この字でないことは明らかだった。(あとで調べた)

宮城
(きゅうじょう)とは、天皇の住むところ。なので皇居・二重橋の
写真だったという。ゆきこによると、その当時は一般家庭でも床の間に
天皇陛下、皇后陛下の写真を飾っていたという。
***
当時、小学校では「四大節」といって、
四方拝(一月一日)・紀元節・天長節・明治節」という国の行事が
取り入れられ、
その儀式に子どもたちが参加することが義務づけられていた。

「今の学校は体育館一つでしょ。昔は講堂雨天体操場は別で、
 ”お式”のときだけ講堂を使ってました」。

儀式を、ゆきこ流に「お式」と呼ぶことにしよう。
小学校に入学して最初に参加するお式は、4月29日の天長節だった。
天長節とは今上天皇(現在の天皇)の誕生日。つまり昭和天皇の誕生日
だった。
「♪今日のよき日は おおきみの うまれたまひし よき日なり・・・」
ゆきこが歌い出したのは、天長節の歌。お式にはそれぞれ「式歌(しきか)」
があった。
「♪雲にそびゆる高千穂の・・・これは紀元節
※1の歌ね。私は明治節※2
 歌が一番好きだったわ」。
そう言いつつ、覚えていないのか明治節の歌は歌わなかった。

前述した『太平洋戦争下の学校生活』のなかにも式歌が紹介されている。
著者の岡野薫子さんも「清々しさがあって気に入っていた」という明治節の歌は
こんな歌詞で始まる。
「♪アジヤの東日出づるところ、ひじりの君のあらはれまして・・・」。
ああ、ユキオには難しすぎるというか、ワケわかんない。

同著によると、天皇制の教育を浸透させるのに大きな力をもっていたのが
国家「君が代」と「式歌」。
「声を揃えて歌うことで、感覚的に情緒的に、子どもの脳髄にそれを浸みこませて
 いくのである」(同著より抜粋)。

今の日本からは想像もできないや・・・ 歌で洗脳するなんて怖い、と思いつつ
ユキオは俄然興味をおぼえた。

※1) 紀元節 : 2月11日、神武天皇即位の日
※2) 明治節 : 11月3日、明治天皇の誕生日


(第21回)ユキオもびっくり!
         戦前の学校教育 その1」
(7/28)

当時ゆきこは自分の家のことを「おいえ(お家)」と呼んでいた。
おいえに帰ろう」
おいえにくる?」
戦前の日本人は今よりも言葉遣いが丁寧だったのか。それとも
外地(がいち)といっても都会ー 台北市の街の真ん中に住み、
家が裕福だったせいか。

学校で男子生徒が誰かにいたずらしたときなどは、
「先生に言っちゃおうかな〜」
なんてうっかり言うと、かえって先生から注意を受けた。
「先生に ”申し上げる” と言いなさい」。

当時は「修身」の授業があり、ちょっと廊下を走っただけでも先生に
ひどく怒られた。
とにかく先生は厳しかった。絶対的な存在だった。もちろん親よりも
絶対的。教師=聖職者と言われた時代だ。

一番こわかったのは体操のW林先生。何かにつけてすぐビンタをする。
(ゆきこの)親戚のおにいさんがその先生のクラスにいたのだが、
ビンタをすると、生徒の体が教室のうしろまで吹っ飛んだという。
それほど強烈なビンタだったのだ。
なかにはビンタをする女の先生もいたし、しなるようなムチを手にする
先生もいた。
ムチですよムチN口先生がこわかったわね〜 1,2年の時の担任。
 教壇の机をこう、パチパチパチと叩くんです」。

思い出すだけで震えんばかりのゆきこを見て、
「親よりも絶対的なんて、信じられねー!」とユキオは思った。
ユキオの小・中学校時代はいわゆる ”でもしか先生”が多く、
生徒にからかわれるような不甲斐ない教師が多かった。
なので生徒からあんなに慕われている朝ドラ「おひさま」の陽子先生
を見ていると、ちょっぴり羨ましくなる。(自分が損した気分...)

岡野薫子著 『太平洋戦争下の学校生活』にはこんな記述がある。
《 子どもにとって、教師は、親以上に絶対的な存在であった。
 家で、親にはいいたいことがいえても、「先生にいいますからね」の
 一言で黙るほど、教師の力は強かった。
 逆に、「先生はこういっていた」といえば、たとえ反対意見でも
 親は黙った。》
現代のモンスターペアレンツに聞かせたい話である。

 500ページ超と 読みごたえたっぷりの文庫本(1,500円)。


(第20回)「小学校の記憶 4」 (7/26)

ゆきこの記憶は小学校の”校舎”においてもすさまじい。
樺山小学校の同窓会誌に載っていた校内の簡略な見取り図(下参照)を
見ながら、ゆきこの説明が始まった。

●「これが私の小学校。新校舎が昭和9年にできたんです。
  ここに県庁、当時は州庁っていうのがあってね。隣は市役所ね」

●「門がね、1、2、3、4、5、6、7か所あったの。ここが正面なんです、
  正門なのね。私たちは通用門、ここから学校に入って・・・」

●「5年6年が2階で、下が1年2年ね。ここが地歴教室っていって、
  ここに工作室があって、この裏っかわに粘土があるのね。授業で
  粘土細工しました」

●「プールだって大プール、小プールがあって、とてもよかったんです。
  ここに雨天体操場があって、職員室がここにあって、2階には講堂があって」

●「階段がここにもあって、ここにもあって、図には書いてませんけど
  ここにもあって。よく男子が滑って2階から降りてきて(階段の)真ん中の 
  コブにぽこんぽこんと当たって痛がってました」

●「いちばん奥へ行くと音楽教室。グランドピアノが置いてありました。
  ここに移動するんですよ、2年生になると。1年生はまだオルガンが
  教室にあるからね」

●「ここにお作法室があったんですよ。礼儀作法のね。6畳くらいのお部屋で、
  ちゃんと上がり框(かまち)があって、格子戸があって。そこを開けて
  格子戸をはいるときにちゃんと靴をととのえて。中へ入ると床の間が
  お茶室みたいになっていて。それは高学年、4年生からやるのかしらね。
  3年生になるとちょっとできるの。2回くらい、入ったかしら? お裁縫室では
  運針(うんしん)、やりました・・・」。

な、なんて素晴らしい記憶力。(ユキオは黙って聞くしかなかった)
60年も前に通った学校の階段の位置や、門が何か所でどこにあったかまで
みごとに覚えている。
ゆきこはよく、
「昔のことをよく覚えているわね」 「ゆきこさんは感性があるのよ」
とお友だちに言われるという。
ユキオなんか高校時代の校舎さえ、あやしいのに。

それにしても立派な、設備が整った小学校だ。
校庭にはガジュマルやびんろうじゅ(椰子に似た木)が植わっていたらしい。
そんなところはいかにも南国風だが、
「それ以外はまったく、日本と違いがないじゃないですかぁ〜」
なんて言うと、
「だからここは”日本”なんですって!」
とゆきこに怒られそうなので・・・
ユキオは出かかった言葉をぐっとこらえた。

当時の先生が書き記した、樺山小学校の見取り図。
(実は台湾大空襲の被爆図。同窓会誌に寄稿されたもの)


(第19回)「台湾の味 4 焼きビーフン」 (7/23)

ユキオは戸惑っていた。
この連載を始めた当初は「ボクは話しだす・・・」と自分のことを
一人称で書いていたのに。
いつの間にか「ユキオは・・・」と客観的に書いてしまっている。
違和感は感じていた。「どうしたもんか」と思っていたところ、
ここにきてライター高橋さんに指摘され、苦笑い。
ボクは自分のことを俯瞰的に見られるんだ、ってことで
許してもらおうかな・・・。
***
さて、きょうの懐かしの味は焼きビーフン
おなじみ台湾の特産品ビーフン(米粉)。
その字のとおり、米の粉からできた麺である。(「米粉」を北京語で
よむと「ミーフ(ェ)ン」。「ビーフン」は台湾語の発音らしい)

ビーフン料理はうち(自宅)でつくっていた記憶がある。
母が台湾人または沖縄人の姉やから教わったのだろう。
焼きビーフン」と「つゆビーフン」があったが、
ゆきこは「焼きビーフン」が好きだった。

ラードを使うから、こくが出るんですよ。おいしかったぁ。
 お肉についている脂身=ラードを溶かして、それでチャーハンでも
 何でも・・・ほんと、おいしいんです。
 日本で売ってるラード、あれはダメです」。
 と ”ラードばなし”に。

ゆきこの家の「焼きビーフン」はシンプルだった。材料は玉ねぎ(orねぎ)と
ひき肉だけ。ラードを使うからおいしかったという。

「台湾人はおしょうゆは使わないから(今はわかりませんけど)、
 お塩だけの味。スープ(おだし)と素材の味でおいしいの」。

当時は粉末の鶏がらスープなんてない時代。ちゃんと”がら”からつくるから、
それはおいしいスープだったという。

麺つながりでいうと、「ターフン」という春雨に似たものもあった(豆が原料)。
これは台湾料理の「ほいこう(火鍋)」という鍋料理のなかに
具材として入れていた。
透明感のある麺だったというから、今でいう”マロニーちゃん”みたいな
イメージだろうか。(マロニーはジャガイモが原料)

―― マロニーをご存知ですか?
とゆきこにたずねると、「知りません」ときっぱり。
なんだか急にマロニーが邪道な食材に思えてきた。

今度スーパーでビーフンを探そう。そして焼きビーフンをつくろう。
もちろん、ケンミンのじゃダメよ。

  「焼きビーフン」のイメージ (ウェキペディアより拝借)

(第18回)「小学校の記憶 3」 (7/22)

もう一人、同窓会で再会した陳さんという女性は当時隣のクラスだった。
島津さん」という改姓名
は日本のお殿さまの名からとったものだ。

大山さん島津さんはとても頭がよく、しかも台湾ではピカ一の家柄の
子どもだったはず。
というのも、かなり後になってゆきこはこんな事実を知らされた。

台湾人が日本人と同じ学校に入るには、まず家のルーツを調べられた。
ようは「日本人と一緒に勉強し、きちんと学校生活をしていけるか?」
ということである。
さらに筆記や口頭の試験を2回クリアして、はじめて同じ学校への入学が
許された。
しかし、どんなに優秀でも台湾人は「級長さん」にはなれなかった。
これはすべて、日本政府(台湾総督府)の方針だったという。
ゆきこは言う、
「クラスの台湾人はみんなおとなしくしていました。今思うとかわいそうで・・・」。

今でも大山さんや島津さんと手紙のやりとりをしたり、親交があるゆきこ。
大山さんは結婚後、家の中で夫婦げんかをするときや大事な話をするときは
日本語で喋っていたという。日本語だと子どもたち(= 北京語しか話せない)には
聞きとれないから好都合なのだ。

一方、島津さんは毎日、日本の衛星放送を見ているという。
「地元台湾のテレビを見るより、そっちの方がおもしろいの」。
こういう日本語世代の子どもたちは、日本びいきになっているのだろうか。
そうだといいのだが・・・。

最近届いたという大山さんからの手紙をユキオは拝見させてもらった。
そこにはカンペキな日本語が! 日本に生まれ育ったライター(一応書くことを
仕事とする身)でも到底書けっこない、「縦書き」で「達筆」、
季節の挨拶などもきちっとおりまぜた見事な手紙。
なるほど! 日本統治下の台湾で、当時いかに徹底的な日本語教育が
なされていたのか、この手紙はまざまざと教えてくれる。
(もちろん、大山さんがとくべつ聡明な女性というのもあるだろうが)

改姓名
 台湾で昭和15年(1940)に始まった「改姓名運動」。
 台湾人の日本名への改姓は決して強制ではなかった。
 しかし改姓名をすれば利益がある。たとえば配給物が日本人と同じになった。
 例をあげると、
 ●砂糖― 日本人には白砂糖、台湾人には黒砂糖。
 ●豚肉―  〃  には赤身、   〃 には脂身。
 という具合。「台湾人はカボチャ芋を食え」と、葉物の野菜などは日本人優先。
 これこそが植民地の国民に対する差別であった。

 みんないい笑顔! 30数年前、故郷台湾でおこなわれた同窓会の様子。
 右から2番目がゆきこ、3番目が大山さん。
 (右端の男性、なれなれしく腕をゆきこの肩にまわしているのが気になるユキオ・・・)


(第17回)「小学校の記憶 2」 (7/19)

ゆきこは小3になるとき、組替えがあった。
「そこで(ちょう)さん、(日本改姓名でいうと)大山さん
 一緒になったんですよ。隣どうしに座ったんです。ここ、
 口のところに大きなホクロがあったのを覚えています」
 と口元を指で押さえ、興奮気味に話し始めたゆきこ。

戦後、ゆきこが初めて故郷台湾を訪れたのが昭和48年頃。
約30年ぶりに初めて故郷でおこなわれた同窓会
何学年か集まったなか、同期の女性はゆきこのほかに、
台湾人の張さん、陳さんの2人だけだった。
最初は年代を確認しあい、
「私たち同期だね」
と男性もまじえ、数名で共通の話題を話していた。

話しながら2人のうち片方の女性― 張さんのほうをじっと
見ていたら。どうやら向こうもこちらの様子をうかがっている。
そしてハッと気づいた。
「もしかして、大山さん?」
「あっ、○田さん!」(○田とはゆきこの名字)

うわぁーと2人抱き合って喜んだ。
そして出会った当時の記憶があふれてきた。
小学校3年のクラス替え、隣の席に座った大山さんの服装までもが
思い出された。
「黒いウールっていうか、ラシャっていうのかしら。そこに白い格子(こうし)
 の線が入っていて・・・。とにかく黒いお洋服を着ていたのを覚えて
 います」。

隣同士だったが、台湾人だったせいで日本人に遠慮をしていたのか・・・
当時はとてもおとなしかった大山さん。
でも今はすっかり、自己主張のできるしっかりとした女性になっていた。
実に30年ぶりの再会。
「やっぱり私は”大山さん”と呼んでしまうわ。悪いわね。今は”張さん”
 だもんね」
「いいよいいよ、”大山さん”で」。

大山さんとゆきこは学校の裏廊下でよく「まりつき」をして遊んだ。
それは30年ぶりに会った大山さんもよく覚えていた。
「♪あんたがたどこさ、ひごさ・・・ちょっとおっかぶせーって飛ぶのよね」。
(つづく)

 ゆきこ 樺山小学校の制服姿。(低学年の頃)
サージ(ウール素材)のジャンパースカートにエンジ色の絹リボン、
となんとも上品な装い。
スカートの色は? たぶん・・・濃紺だったと思う。(>ユキオ反省)


(第16回)「小学校の記憶 1」 (7/14)

「 私どもは 
 身体を強健にし 
 勤勉で 正直で 
 親切で 元気で  
 そしてよく規律を守り 
 よい日本人になることを 誓ひます 」 (樺山小学校 校訓)

ゆきこが通っていた樺山(かばやま)小学校は自宅のある本町より
東の方角、子どもの足で歩いて40分くらいの樺山町にあった。
州庁(今でいう県庁)と向かい合わせ、市役所が隣という官庁街のまん中に
位置した。
大商人の子どもが多く在籍するため寄付金が豊富で、財政的に恵まれた
小学校だった。
――― なるほど、小学校にしては立派な建物だな。
 樺山小学校の同窓会誌に載っていたモノクロの校舎写真を見て、
ユキオはそう思った。


樺山小学校の「樺山」とは、台湾第一代総督・樺山資紀(かばやま すけのり
1895−1896在任) に由来している。

「樺山総督は白洲正子さんのおじいさまにあたられるんです」。
白洲正子とは、ちょっと前にNHKのドラマなどでも注目された
白洲次郎氏の妻で随筆家・白洲正子のこと。
樺山総督は彼女の父方の祖父にあたる。

台北幼稚園(台北市明石町)を卒園したゆきこは樺山小学校へ入学
(昭和16年)。
ここで6年間学ぶ予定が、戦争が激しくなる疎開が始まったため
4年生(昭和19年)の途中までしか通えなかった。

この小学校で、当時 ゆきこの学年はクラスが5つあった。
男子クラスが2つ、女子クラスが2つ、それらに挟まれるように
男女混合クラスが1つ。
ゆきこは女子クラスだった。3つ上の姉のときは6年間組替えが
なかったらしいが、ゆきこたちは3年生になると組替えがあった。

「そこで(ちょう)さん、日本名でいうと大山さんと一緒になったん
 ですよ。隣どうしに座ったんです」。
(つづく)

(第15回)「洗濯チャボ」(7/11)

当時ゆきこの家では子守りや姉や以外にも、
通いで洗濯をしに来てくれる台湾人の女性がいた。
ゆきこは「洗濯チャボ」と呼んでいたが、古い資料をひも解くと
ツァボラン」とあった。
「子どもだから ”チャボ チャボ”って言ってたのかも。
 チャボって婦人っていう意味じゃなかったかしら」。

やり方はこんなかんじ・・・。
前の日の晩、お風呂場の落とし湯のなかに母が家族の洗濯物を
ぜんぶ浸けておく。
翌朝10時頃にチャボが来て、たらいにお湯を汲み、一枚ずつ
引き上げて洗う。落とし湯に浸けてあるから汚れが落ちやすい。

「チャボが洗うのを脱衣所から見てるのが楽しくってね。
 チャボは足をこ〜んなに広げて洗うの。
 向こうの人はスカートじゃなくって、ダボっとしたズボンというか
 パンツなんです、黒いひらひらの。
 こんな風にチャボをよく真似してましたよ」
 とゆきこはゴシゴシ洗う真似をする。
 
呼び名自体はカワイイが、差し詰め”人間洗濯機”だったチャボ。
しかしどの家庭でも使っていたわけではない。
日本人でも比較的裕福な商店の家だけが洗濯チャボ(ツァボラン)
を雇っていた。
毎日「洗濯専門のお手伝いさん」がやってくる、というのも
おもしろいもんだ。

ツァボランの洗濯風景。【台湾協会(@東新宿)にあった資料より】
ゆきこによると、これは洗濯チャボではなく、ただ台湾人女性の
洗濯風景ではないかと・・・。


(第14回)「子守りの おのぶ」(7/9)

昔の写真といえば、写真館で撮った「はい、ポーズ」的な
かっちりした写真が多いような気がするが、
こんなめずらしいスナップ写真を見せてもらった。

(題して) 「おのぶ」。
ゆきこ、4つのときの写真である。台湾神社のお祭りの時期に
撮ったもの。おのぶの頭上に「日進堂」(ゆきこの生家、店の屋号)
と書いたちょうちんが見える。

「ゆきこの生家はー 手広くお商売をしていて、お手伝いさんが
 何人かいて」― というのは前にも書いた。
子どもが7人もいれば母の手が回らなかったのだろう、家には
姉や(お手伝いさん)だけでなく、子守りもいた。

ゆきこの子守りの名は「おのぶ」。
当時「おせつ」という名の姉やもいた。
これらの名前は本名ではなく、愛称としてそう呼んでいたのでは
ないか? とゆきこは思う。
彼女たちは沖縄の人。台湾と沖縄は隣接するほど距離が近いから、
台湾へ出稼ぎに来ている人が多かった。
台北市の城内(東門・西門・南門・北門に囲まれた日本人が多く住む区域)
を出て西に位置する入船(いりふね)町には、
当時沖縄出身者が多く住んでいた。
「私の子守り(おのぶ)がおんぶして、この辺りまで連れていってくれた
 記憶があります」
とゆきこは当時の地図を見ながら懐かしんだ。

子守りとはいずれ別れのときがくる。(成長するから、御役御免となる)
ゆきこはおのぶと4歳で別れた。
さみしかったぁ。さみしくて、縁側で足をぶらぶらさせていたのを
 覚えています
」。
 
おのぶはその後、どうしたのだろうか。
台湾に残っていたとすれば― 
またどこかで子守りか姉やをやっていたのか、台湾大空襲では無事だった
のか。戦後は無事に沖縄へ引き揚げたのか・・・ 知るよしもない。


(第13回)「台湾の味 3  ひーわん」(7/8)

ゆきこが今でもときどき作る、台湾時代の懐かい味「ひーわん」。
ひーわんを漢字で書くと「魚丸」。ひーとは台湾語でお魚を意味する
ので、「ひーわん=魚団子」といったところか。
塩味の鶏がらスープに白身魚のすり身(つみれ)が入った料理だ。
つみれの中に豚のひき肉が入ったものも。この料理、台北近郊の町・
淡水(たんすい)が有名だ。
当時ゆきこの家では台湾人の料理屋さん「台北楼 (たいほくろう)」から
よく出前をとって食べていた。
 
「おだしがおいしいんですよ。セロリの独特の味がするのね。
 そういえば台湾人ってセロリのにおいがしてたけど、
 そういうのをよく食べてたせいかしら(笑)」。

日本にはない料理なので、ゆきこは今でも時おり作る。
ユキオはレシピを教えてもらった。
豚のひき肉に刻んだネギを入れ、片栗粉でつなぎにし、
お団子にしたのをワンタンの皮で包む。
あと、市販の白身魚のつみれ(紀文などの製品でOK)も買ってくる。
つみれはあくまで白身。黒っぽいいわしのつみれはダメ。
鶏がらスープのなかに豚のワンタンとつみれを入れ、
そこに刻んだセロリを入れる。ネギも細かく刻んで入れ、
味つけは「お塩だけ」。

ここでユキオは料理についての素朴な疑問をたずねた。
――― お酒は入れないんですか?
「入れないんです。お酒を入れれば日本の味になってしまうから。
 お醤油も入れません。でもこしょうは入れます」。

「台北楼」という店は、明石町にあるゆきこの祖母の家の近所にあった。
店の外観があまり綺麗ではなかったのだろう。わざわざそこに入って
食べるような店ではなかった、と記憶している。

ひーわんは屋台でもよく売りに来ていた。受験生の兄たちはそれを
よく食べていたが、幼いゆきこは食べさせてもらえなかった。
「一度だけこっそり食べたことあるんですけど・・・おいしかった!」。

今、同窓会で台湾を訪れても、昔の味には出合えないという。
「みんな言いますよ。”昔の台湾料理が食べたい”って」。

ボクも食べてみたかった・・・。
ユキオは帰宅後、セロリなどを買い込んで「ひーわん」作りに挑戦した。
もちろん、ゆきこに教えてもらったレシピで。
面倒くさいので肉団子、ワンタンには包まなかったけど・・・ 
うん、だいたいこんなかんじ? (なんちゃってひーわんの一丁あがり〜)

◆参考◆
東京の台湾料理のお店のサイトにひーわんの写真が。
これも、昔ゆきこが食べた味には程遠いのだろうか・・・。


(第12回)「亭仔脚(ていしきゃく)のわが家 その4(7/5)

ゆきこの描いた巧みな平面図のせいか、
その聞き慣れない言葉の響きのせいか― 
亭仔脚(ていしきゃく)」という建物構造に強く惹かれたユキオ。
もっと知りたい。しかしこの単語をネットで検索しても、
あまりいい資料は見つからなかった。
しかし明らかに同じ構造物である「騎楼(きろう)」なら、
たくさんのブログが見つかった。いい写真もいっぱいある。
下のページ↓には、台湾ではないが実にいい写真が載っていて、
騎楼=亭仔脚をイメージするのにもってこいだ。
http://blogs.yahoo.co.jp/zhongdao1964/54442808.html

図書館で借りた本に、亭仔脚のわかりやすい説明が載っていた。
亭仔脚
 1階の道路に面した部分を公衆の通路として開放した連続式の
建物で、雨風を防ぎ、涼陰を保つ歩行者用のアーケードである。
 亭仔脚は中国大陸の華南地方からもたらされたものといわれている。
現在の台湾の町ではどこでも見られる。
 日本時代には、台湾の風土からみて必要な建築様式と判断され、
1900年(明治33)、総督府は「台湾家屋建築規約」を公布して、
道に面した家屋には、これを義務づけた。
(又吉盛清著 『台湾 近い昔の旅』より)

***
亭仔脚の利用法はいろいろありましてね」
とゆきこは身を乗りだし、話し始めた。
利用法といっても、子どもだから”遊び”のことしかない。

ゆきこの家は問屋だったから、お店の中もそこそこ広くて遊ぶことが
できた― まりつきをしたり、床にハクボクを書いたりして。
その上、お店からつづく、幅が一間半(3m弱)ほどもある亭仔脚。
そこは床がコンクリートで平らだったから、いろんな遊びができた。
たとえば「しっけんとび」。
ろう石(せき)で床にまるをいくつも書き、そこをめがけて瓦(かわら)や
平べったい石を投げて遊ぶ。
思うに・・・ これはユキオが子どもの頃遊んだ「かかしけんぱ」や
「ホームランけんぱ」のような”けんぱ遊び”ではないか?
ゆきこもさすがに遊びの詳細(ルール)までは覚えていなかった。
地方によっては「じゃんけん」のことを「しっけん」と呼んでいたようなので、
「しっけんとび」=「じゃんけんとび」みたいなもんか、
とユキオは解釈していた。


(第11回)「亭仔脚(ていしきゃく)のわが家 その3」(7/2)

「階段で2階へ上がると・・・ここに本棚があって、ここにオルガン。
 そしてここに机が並べてあって、お勉強するの。ここにタンスがあって、
 ここにおもちゃがあって・・・」。

60年以上も前に住んだ 家の平面図を描きながら、話しながら。
ゆきこの記憶はどんどんひも解かれ、鮮明になっていくようだった。
「ここが兄たちの寝室。私は父と母、姉たちと奥の間で寝ました」。
 
描かれた平面図は1,2階部分だけだったが。
ゆきこの家は3階部分もあり、卓球台や鳥かご、母の長持ちなどが
置かれていた。
子どもたちの間では「3階はお化けのすみか」と言い合っていた。

こんな思い出がある。あれは嫁いだ一番上の姉がお里帰りで、
この家の2階に1週間ほど泊まっていた時のことだった。
末っ子のゆきこは当時かなりのおてんば娘。食事どき、日頃から
よく母に注意されていた”おみそ汁かけごはん”をやってしまい、
「お行儀が悪い!」
と叱られた。罰として兄や姉たちに3階に連れて行かれ、
母の長持ちに閉じ込められてしまったのだ(もちろん母の指示で)。

実際、長持ちの中に入っていたのは30分もなかっただろうが、
「お化けのすみか」に閉じ込められ、
まっ暗やみで恐くてたまらなかった記憶がある。

 現在の台湾の街じゅうでよく見かける、
 まるで「バイク置き場」と化した亭仔脚
 (日本じゃ 駐禁とられるよ!)

(第10回)「亭仔脚(ていしきゃく)のわが家 その2」(6/30)

台北市本町2丁目にあった ゆきこの家は「亭仔脚(ていしきゃく)」
というつくりだった。
これは暑い地域ならではの工夫が施された建物で、
台湾の街路に面している家屋・商店はこのつくりが多かった。

「今のアーケードみたいなものですよ」。
 そう聞いて、ユキオははっと気づいた。昨年台北を旅したとき、
たしかに街じゅうがアーケードのようになっていた。
アーケードの下(歩道)にはバイクがぎっしり。
これで駐車違反にはならないのだろうか? と不思議に思ったものだ。
ユキオは「アーケードの下のお店でワンタンの朝めし、食べたな〜」と
思い出したが。
あれもみんな亭仔脚(ていしきゃく)といわれる建物だったのだ。
通ったときは気づかなかったが、
アーケードの上には人が住んでいるらしい。

正確に言うと、亭仔脚(ていしきゃく)というのは表の部分だけ。
(専門書などによると ”半屋外空間を形成”とある)
「下は人が行き交う通路、アーケードの上は住居」
で、鉄筋の頑丈な柱で支えられている。
そのいかにも頑丈な柱のようすは、
前々回ここに載せた「本町通り」のイラストでたしかにイメージできる。

「鉄筋なので安定しているんです。お家がぜんぶ乗っかるわけだから」。

そして通路の奥には店や客間があり、このあたりまではすべて鉄筋
しかしその奥- 中庭を挟んで奥の住居部分は木造となっていた。
***
何度口で説明されてもユキオが家の構造をうまく飲み込めないので、
ゆきこがさらさらっと、当時100坪あった家の平面図を描いてくれた。

「家の間口は二間半(にけんはん-約4.5m)だったかしら。
 通路は一間半くらい。 一階のここがお店で帳場で、ここに金庫があって、
 ここはガラス戸。中庭のところは吹き抜けになっていて、その奥が
 次の間と茶の間で、またさらに中庭があって。ここにからすみが干してあって、
 ここのお風呂はタイルばりで、ここに目隠し用の竹の柵があって・・・」。

 な、なんてこった。ここまで細かい部分を覚えておられるとは、
約60年前の記憶がこれほど鮮明とは!
ユキオはただただ感心していた。

  ゆきこが書いた家の平面図。 (写りが悪くてスミマセン)
 3階あるうち、1階(下の図) 2階部分を思い出しながら書く様子は
 実に楽しそうだった。

(第9回)「台湾の味2 幻のアイスクリーム」(6/25)

この4月、ユキオはあるテレビを見て愕然とした。
NHKの連続テレビ小説「おひさま」。
主人公・陽子(若尾文子)が若き日の人生を振りかえり、
偶然出会った主婦(斉藤由貴)に少しずつ語って聞かせる
形をとっている。
あの2人のやりとりが、まさに「自分とゆきこにそっくりだ」と
言うのだ。若尾文子の、「〜したわ」 「〜だったわぁ」という
上品な口調もゆきこにそっくり!
なので日本放送協会と、脚本家の岡田恵和氏には
「してやられたぁ!」 とマジで思っているらしい。
(まさかドラマ化を狙っていたのか? このブログすらまだ
 書きあげてないのに・・・)

***
リーキャムを口に含みながら書くと、つい話題が食べ物のはなしに
戻ってしまう・・・。
きょうはゆきこが憧れていた”アイスクリーム”のはなしをしよう。

台湾人は当時「なまもの」を食べなかった。どれもみんな熱を通してから
食べていた。
「母がよく言ってました、『台湾人はみんな熱を通すから、どんなに
 (気候が)暑くても赤痢とは疫病にはならない。昔から熱帯のなかで
 住んでたから、生活の知恵がついてたんでしょうね」。

その一方で、「台湾人が食べているものは食べちゃいけない!」
と子どもたちは厳しくしつけられた。
昔から”きれい好き”の日本人。ようは台湾人がつくる食べ物=
不衛生ということなのだ。

そこで一つ、ゆきこが忘れられない食べ物がある。
アイスクリームが売ってるんですよ。うすいブルーとかピンクとか、
 きれいな色でおいしそうなの。
 (手で輪っかをつくって)こんなにちっちゃいのね。新公園のところに
 ずらっと屋台が並んで売ってるんですよ。
 でも、”それは食べちゃいけない!” と母に言われてました」。

ついに一度も屋台のアイスが食べられなかったゆきこ。
暑い夏・・・目の前に並んだパステルカラーの涼やかなアイスを
あきらめなければならないなんて。想像しただけで酷だよ。

ユキオなら我慢できただろうか? 
どんな手を使ってでも食べただろうな〜と、
こんなアイス↓ を想像しながら思った。

 これは、高知名物「アイスクリン」。
昭和初期だし、きっとアイスクリンに近いものだったのでは?
と想像。

(第8回)「亭仔脚(ていしきゃく)のわが家 〜その1 (6/21)

ゆきこの生まれ育った家はまさに街の中心部にあった。
当時の住所でいうと、
台北市(たいほくし) 本町(ほんまち) 2丁目 **番」。
現在(というか昭和20年の日本敗戦以降は)住所が変わっている。
日本ではなくなったので当然といえば当然か。
ただし台北市の中心部― 当時は「城内(じょうない)」と呼ぶ区域を
囲んでいた「北門、西門、東門、南門」だけは、
今も日本時代の地名がそのまま残っている。
(もちろん発音は中国語読みに変わっている)

「電話番号も覚えてますよ。ふたせん、ひゃく、ごじゅうろくばん(2156)。
 その前に局番があったと思うけど」。

ふたせんなんとか・・・って、まるで宝くじの当選番号みたいだ、
とユキオは思った。
いやあ、それにしてもよく覚えているもんだ。
 
同じ本町2丁目に「三谷軒(みたにけん)」という台湾人がやっている
レストランがあった。
「すっごくおいしかったんですよ。この間も姉と言ってたの。あそこの
 ソーセージの味はもう食べられないね。内地でいくら探しても
 あのおいしい味はない。黒豚でつくってるからおいしいのね」。
 
当時そこは日本だったが、台湾の味があった。台湾人も住んでいた。
日本であり・・・ 台湾でもあったのだ。

ゆきこの生家があった台北市本町通り。”台湾の銀座”といわれる栄町通りと
交差する、大きな商店が立ち並ぶ街だった。「なんてハイカラなんだ!」  (「アンティーク絵葉書」より)


(第7回)「台湾の味1 リーキャム」 (6/20)

歴史や家族のことばかりじゃ退屈だ〜とおっしゃる方もいるようなので、
ここいらで食べ物のおはなしを。
***
「きょうはリーキャム、持ってきました」。
 ゆきこは笑みをたたえ、大事そうにラップにくるんだ”それ”を
取り出した。
はじめて映画館で会ったとき話題に出た「リーキャム」という名の
ドライフルーツ。昨年、小学校の同窓会で台湾に行ったとき、
どっさり買ってきたものらしい。

 下の真っくろなのが「リーキャム」。
 梅干またはプルーンくらいの大きさ。(シャーペンと比較)

ボクも台湾には2度行ったけど、こんなの見たことなかった。
梅干大でシワシワ、真っ黒な実。
さっそく1つ、試食してみた。
口に含むと・・・ うん? 炭みたいな香りがする。燻(いぶ)して
あるせいか。
ちょっと舐めて、やわらかくなってからかじると甘酸っぱさが
口に広がる・・・ うまい!
おっと〜 ガッと噛んだら中に大きな種が入っていた。
以前、中国・上海の市場で買って以来やみつきになった
「話梅」(ふあめい:梅のドライフルーツ)にも似た味わいだ。

「(昔は)駄菓子屋にもあってね。昔のはもっとひらべったかったし、
 種もひらたくつぶれていた。色はもっと茶色っぽかったかしらね。
 今は観光のところでは売ってないので、台湾人に市場へ連れてって
 もらったの。いろんな種類があってね、甘いものある。
 『これじゃないよ。ちょっと燻(いぶ)り臭いやつだよ』と頼んだのね。 
 なかには2斤(約1キロ)買ったお友だちもいた。
 悪くなるものじゃないから、いっぱい買っても大事に置いておけば、
 冷蔵庫に入れなくても常温で持つの」。

そんな貴重なリーキャムをボクのために2個つつみ、
わざわざ持ってきてくれたのだ。
残りの1個はそのままラップにくるみ、家に持ち帰った。
「これ、台湾でもそうそう手に入らんのや・・・」
そう思うと、食べるのが惜しい。ケータイで記念に撮っておいてから(上の写真)、
ありがたく口に含んだ。
うーん、やっぱボクにはちょっと燻り臭いかも・・・。

その後ゆきこから→ユキオのもとへ送られてきたリーキャム(左)と
ナツメの実(右)。
こんなメモが同封されていた。
「ナツメの実です。これも幼い頃(台湾人のおやつみたいなもの)
 食べました。口に入れてなめていると、やわらかくなりますから
 歯で(内に種があるので気をつけてください)種のまわりの実を
 はがして下さい。それを食べます。
 種は先がとがって居りますので気を付けて下さい。飲み込まない
 様に。」〔ママ〕

(後日談: ナツメはどうもユキオの口には合わなかったようだ。
 でもゆきこには言っていない)


(第6回)「七番目の子 〜その3」 (6/17)

母が病気で寝込む姿をゆきこは見たことがなかった。
子守りや”姉や”(ねえや= お手伝いさん)を使っていても、
母はいつもみずからお勝手(台所)に立っていた。
そういう点でも「母はすごいな〜」と思った。

ゆきこの生家― 手広くお商売をしていて、お手伝いさんが何人かいて。
―― ははん、ゆきこは相当な”お嬢さま”だ。
 うん、たしかにお上品。喋りかた、言葉づかいも・・・。
 そう思いつつ、ユキオは口にはしなかった。
彼女にとってみればそれがごく普通。
たまたまその家に生まれ育った運命なのだから。

父が大柄だったから、兄たち三人も背が高かった。
台湾は暑い土地だから家の天井を高くしてある(もちろん日本建築)。
それでも、
「鴨居をくぐるたび、兄たちがこうして身をかがめていたのを
 思い出します。180cmくらいあったんじゃないかしら」。
 
三番目の兄は台北一中時代、ラグビー部で全国制覇を成し遂げた。
大柄なのでポジションはフォワードだった。
「毎年冬になると新聞の“高校ラグビー歴代優勝校”のところに
 兄の通った校名が出るんですよ」
 とちょっぴり自慢げなゆきこ。

うん、たしかにユキオもラグビーの全国優勝校でその校名は見覚え
があった。その時は「台湾が日本領だった」なんてこと、深く考えも
しなかったが。

 「肉弾三勇士」の人形 (竹中信子著『植民地台湾の日本女性生活史 昭和篇(上)』より)
昭和7年の上海事変にて。(「爆弾三勇士」とも言われる)
爆弾筒を抱えて敵陣突破した3人の一等兵は軍神と讃えられ、
直後から新聞・レコード・教科書・書籍・映画にまで取り上げられ、
「日本男児は後に続け!」と鼓舞された。
ゆきこの兄たちもすっかり影響され、小学生の頃に映画を観に行き
泣いて帰ってきたという。


(第5回)「七番目の子 〜その2」 (6/15)

昭和9年(1934年)、台湾の台北(たいほく)に生まれたゆきこ。
彼女がなぜ台湾に生まれることになったのか、そのルーツを
ひも解くと・・・。

父方の祖父が、明治の時代に台湾へ渡った。
(前回書いたように明治28年以降、台湾は日本国となった)
内地から外地・台湾へ・・・当時、国は移住することを奨励していた。
新しく日本の領土となった”台湾”に、たくさんの人材を入れないと
いけない、ということで。

祖父はパイオニア精神の持ち主だった。「台湾で一旗揚げてやろう!」と
それは意気込んでいたようだ。
台湾へ渡る船の中で同じような志を持つ2人の若者と知り合い、
「新天地で ともに頑張ろうじゃないか!」と誓い合った。

台湾に渡った祖父は雑貨関係の商売を手がけた。
軍服に合うカバン、背嚢(はいのう = 軍隊の将校が背負うカバン)、
靴などを扱う問屋、卸し業を営んだ。
開業当初は船上で知り合った同志たちとも協力し合ったという。
商売はやがて成功。
きっと親分肌だったのだろう。のちに信用組合の理事をつとめるなど、
なんだかんだと世話役をこなした。

その後、ゆきこの(生まれは千葉)が祖父の商売を継いだ。
父は大阪生まれのと縁あって、台湾で所帯を持つことになった。
大阪・堺の旧家生まれの母だったが、叔母がやはり台湾で結婚し、
料亭を営んでいたので、内地を離れることにさほど抵抗はなかった
のだろう。

当時は「産めよ増やせよ」の時代。夫婦は七人の子を授かった。
末っ子のゆきこには三人の兄と、三人の姉がいた。
一番上の兄とは、十九も歳が離れている。
兄弟構成は・・・上から長男、長女、次男、三男、次女、三女、
の次に四女のゆきこ。
もちろん全員”湾生(わんせい)” 台湾生まれだ。
***
父はハイカラな人だった。無類の文学好き。
同じ千葉出身の作家、国木田独歩のファンで、よく子どもたちに
民話やおとぎ話を面白おかしく聞かせてくれた。

母はいわゆる教育ママ。その甲斐あってか長男は慶応大学へ。
次男は台北一中(現・建国高級中学)から台北帝大へ。
航海士に憧れていたやんちゃな三男は台北一中から神戸高等商船
(現・神戸商船大)へ、それぞれ希望どおり進んだ。

父も母も子どもに家業を継がせようとはしなかった。
「自分が選んだ、好きな道を行けばいい」
という方針。
そういう柔軟な考えをもつ両親のことを、ゆきこは心から尊敬していた。
他の兄や姉たちがどう思っていたのか、それは末っ子のゆきこには
わからなかったけれど・・・。
(末っ子だったから、なかなか聞けなかったのかも。兄や姉の本音なんて)

  三つ上の姉と撮った写真。(左ゆきこ、右が姉)
 「特別にお化粧をして、ポックリ履くんですよ。すごく嬉しくてね。
  お草履とポックリの両方履いて、三が日遊びました。数えで
  十一と八つ(小3と小1)でした」。 
 (ちなみに写真で履いているのは草履)


(第4回) 「七番目の子 〜 その1 (6/13)
 
 末っ子ゆきこは おてんば娘
   おおきい兄さんは 十九も上
   アニ・アネ・アニ と アニ・アネ・アネ
   大きな夢もつ兄さんたち お嫁に行った姉さんたち
   みんなそろって わんせい(湾生)だ       
 〜ユキオ作「七番目の子」〜

ゆきこは昭和9年(1934年)の11月、台湾州・台北市内の病院で
産まれた。兄が三人、姉が三人の七人兄弟の末っ子だった。

ボクはたずねた。
――台湾にお生まれになったってことは、
 物心ついたときに、「ああ、外地に生まれたんだな〜」とか思われました?

「いいえ、そんなこと思いません。ふつうに日本ですから。
 神奈川県とか、千葉県とか、東京都とおんなじです」。

 ああ、勝手な思い込みでバカな質問をしてしまったもんだ・・・ はずかし〜。

台湾に生まれたゆきこは物心ついたとき、なんの疑問も抱かなかった。
「ここは外地だ」なんて、これっぽっちも思わない。
なぜなら、当時そこは紛れもなく日本、
「台湾島=日本国」だったから。
東京、大阪、静岡 etc・・・日本列島のどこかで生まれたのとまったく同じ、
そんな感覚だったようだ。

***
ここで参考までに「台湾の歴史年表」を記しておこう。

   〜1624年 原住民の時代
1624〜1662年 オランダ統治時代(39年)
1662〜1683年 鄭氏政権時代  (22年)
1683〜1895年 清朝時代    (212年)
1895〜1945年 日本統治時代 (50年)
1945〜現 在  中華民国統治時代

あくまでざっくりとしたルーツだ。
なんと50年もの長きに渡って 台湾は日本領土だった。
きっかけは日清戦争。
この戦争に勝利した日本は下関条約により、清朝から台湾を
割譲されたー 明治28年(1895年)のことである。

そうかぁ、台湾が50年もの間、日本の植民地だったとは知らなかった。
たしかにボクは中高時代、歴史が苦手だった。
でもあれ、教科書にも問題があると思う。
縄文・弥生時代ではじまる日本史に、
ギリシャ・ローマ文明やA.C.,D.C.なんて言葉で早くもつまずく世界史。
なにせ大昔から始まるので、近代史は時間切れ?で習わない。
ましてや台湾の歴史なんて知るよしも・・・。

***
ゆきこが台湾に生まれたのは昭和9年― 1934年。
年表を見なくても明らかだが、50年に及ぶ日本統治時代のまさに
終盤である。
(先に言っておくと) ゆきこは生まれてから11歳までの約11年間、
台湾で過ごすことになる。

(つづく)

 台北・二二八和平公園内にある「二二八記念館」。  (ユキオ撮影)
 ここは日本統治時代、NHK台湾支局(ラジオ局)だった。
 公園は当時「新公園」と呼ばれ、市民に親しまれていた。
 (ゆきこの家の裏を出ると新公園はすぐだった)


第3回) 「ゆきことユキオ (6/11)

「あなた、台湾にご興味がおありになって?」
 振り返ると、一人のご婦人が立っていた。おいくつぐらいだろう? 
優しそうな笑顔、悪い人ではなさそうだ。
―― あ、はい。
「お若いのにねぇ」
 聞けば女性は台湾で生まれたのだと言う。でも見た目も言葉も日本人。
台湾で生まれたって、どういうことだ? と一瞬、頭がこんがらがったが。
すぐに「昔、かの国は日本の植民地だった」ことを思い出した。
台湾生まれ・・・ そんな人と会うのも、話をするのも初めてだ。

ボクたちは映画館のロビーで30分くらい立ちばなしをしただろうか。
ふしぎと会話は途切れなかった。
女性の話が上手なのと、ライターという職業柄、ボクがわりと聞き上手
(相槌打ち上手?)だったせいか。

戦前、昭和初期の台湾ばなしを聞きながら、
にわかにボクは”台湾”への興味がカラダの奥から突き上げてくるのを
感じていた。
いいかげん立ちばなしもつらいので、ボクたちは映画館に隣接する
カフェに移動した。

女性は名前を「ゆきこ」といった。
ボクがライターの名刺を差し出し、「ナカマユキオです」と名乗ると、
「あーら偶然ね、わたしとおんなじ。
 それにあなた、字もお偉いかたとおんなじじゃない?」
 と彼女は笑った。
ほんとは鳩山さんとは一字違うが、あえて訂正はしなかった。どうでもいいことだ。

まもなく2人のテーブルに注文した紅茶が運ばれてきた。
ソーサーにはフレンチシュガーが2個添えてあった。
「すみません、お砂糖 あと2ついただけます?」
 彼女はそう店員に求め、砂糖のかたまり4つをカップに入れ、
満足げにスプーンでかき混ぜた。
―― この人、なんて甘党なんだろう。
かといって、女性は太っているわけではない。中肉中背ってとこ(女性には
失礼かな、こんな表現)。
ボクは1つだけ入れた。2人で紅茶を飲みながら、話はつづいた。

***
ボクの母親世代であるゆきこさんは昭和のはじめ、台湾の首都である
台北(たいほく)で生まれた。
現在、私たちは台北のことを「たいぺい」と呼ぶことが多いが、
当時は皆「たいほく」と呼んだ。
現在もNHKに限っては「たいほく」とアナウンサーが読んでいる。

そこは当時日本だったが、幼稚園や小学校では台湾人とも学び、
遊んだという。
一番ボクが興味をそそられたのは、当時台湾でよく食べていた料理や
フルーツのはなし。
それと、昔うたった歌。(このおばさん、すぐに歌い出すんだよな)

ああ、今日テープレコーダーを持ってくればよかった。一人で聞くには
もったいない”お宝ばなし”だ。

それにしてもこの人、60年も前のことをよく覚えているな。
その時代に戻ったように、目を輝かせて話す。こちらも映画を見ているように
情景が浮かぶ。
よっぽど、いい時代だったのかな・・・。

気がついたら映画が終わってから、数時間が経過していた。
まだまだ彼女の話は尽きないので再会を約束してその日は別れた。

(つづく)
第2回)「その人は突然声をかけてきた」 (6/9)

「ふるさとは 遠きにありて 思うもの」 と言うが。
ふるさとが海のむこう、しかも今は日本ではない、別の国に
なってしまった人の話を聞いたことがあるかい? 
聞いてみたくはないかい?
・・・どっちにしろ、ボクは話しだす。
そんな彼女に出会ってしまったから。
***
昨夏、ふしぎな出会いがあった。
偶然の出会いー そう、こんなの一生に何度もないと思う。

おっと、そこのお嬢さん。色恋の話じゃないよ、残念ながら。
いや待て、これも一つの「恋」やもしれぬ。
出会ったときからその人の話に夢中になり、その後逢瀬?を
繰り返したのだから。

その日も ボクはひとりで映画を観に出かけていた。
ライターの仕事ではない。
(そう、ボクはフリーのライターをしている。稼ぎは少ない)
あるキッカケで中国や台湾、香港ーようは中華圏の映画や音楽に
興味を持った僕は、
おもしろそうな映画があると片っぱしから観に行っていた。

この日は東京・東中野にあるミニシアターで、ドキュメンタリー映画
台湾人生』(2009年、酒井充子監督)を見た。
なにせ、まったくのプライベート。映画評を書かなくてもいいのは
嬉しかった。
その気楽さと睡眠不足もてつだって、館内が暗くなるとまもなく
睡魔におそわれた。
ああ、せっかく中野くんだりまで来たのに、この体(てい)たらく。
(当時ボクは千葉方面に住んでいた)
チケット代、電車賃、時間が惜しい。
だいいち、映画に対しても失礼だ。

このくやしさを少しでも紛らわそう。
寝てしまった部分を少しでも取りかえそうと、
ボクは暗闇から出ると館内ロビーに貼られた映画に関する記事を
むさぼり読んだ。
ふんふん、なるほど。
しかし読んだところで見逃した映画を理解しようったって・・・ 
とふて腐れていたら。
誰かが後ろから声をかけてきた。
あなた、台湾にご興味がおありになって?」
振り返ると、一人のご婦人が立っていた。

(つづく)
第1回) 「なぜ、台湾がこんなにも いとおしいのか」 (6/8)

「140億円」― これは台湾から寄せられた、東日本大震災への
義援金の額である。(4月13日現在、日本赤十字社)
大国アメリカは約104億円、中国は約3億円、韓国は約16億円というのに、
九州ほどの面積しかない小さな島国・台湾から「140億」というのは
いったいどういうことだ?
台湾=親日国家とは聞いていたが。
ここまでしてくれるとは、ただ「親日」なんて言葉じゃ片付けられない。
もしや愛か? ”ラブラブニッポン!” てか?
冗談抜きで、そんな気持ちでもないと、ここまではできないはずだ。

人は誰かに惚れられると、その人のことが気になってしょうがなくなる。
この自然の法則どおり、ボクは台湾という国がますます好きになった。
「ますます?」。
偶然出会った”あの人”から聞いた台湾の思い出ばなし。
あれ以来、台湾という国はボクのなかで特別なものとなった。
「タイワン」と聞くだけで胸がキュンとなる・・・みたいな。 (女みてぇだな)
なぜだろう、なぜ台湾がこんなにもいとおしいのか? 自分でもよくわからない。
今までは一人でこっそり楽しんでた。
でも今、今こそ書かなければ。伝えなければ。60年以上前の台湾のはなしを・・・。
(つづく)