杏花が、闇界へと旅立っていった硫化の後ろ姿を見送ってから、数日。 |
天界の冬はまだ続いている。 |
杏花は白い息を吐きながら、王宮の正門に向かって歩いていた。 |
今までの事を、思い返しながら。 |
ダーツの側近であった柘榴という天使は、ゾークに殺され、奪われて敵になったという。 |
歌姫になる事を夢見ていた天使の砂良は、杏花の目の前で闇界の刺客に殺され、石を奪われた。 |
あの光景を思い出してしまいそうで、杏花の瞳が潤み出す。 |
ここまでなら、闇界は一方的に天使を虐殺し奪う、悪い国だと言い切れるだろう。 |
でも………硫化は、自らの意志で闇界に行く事を望んだ。 |
闇界の者として生まれ変わった硫化は、そこで本当に幸せを手に入れる事が出来たのだろうか? |
そんな疑問を思った時、王宮の正門が見えてきた。 |
誰かの出入りがあるのか、門はゆっくりと開かれていく途中だった。 |
門が開ききると、その向こう側で番をしていた琥珀と瑠璃の後ろ姿が見えた。 |
この寒空の下、番兵である琥珀と瑠璃の双子は、今日も変わらぬ立ち位置で門を守っている。 |
杏花は、二人の後ろ姿を見た時、そこで足を止めた。 |
何やら、琥珀と瑠璃は会話をしていた。 |
相変わらずの漫才トークなのだろうか?時々、琥珀にツッコミを入れる瑠璃の仕草が見える。 |
硫化の件以来、瑠璃はずっと悲しい眼をしたままで、口数も少なかった。 |
そんな瑠璃が、あそこまで元気になってるなんて……。 |
琥珀さんって、すごい。兄弟の絆ってすごい、と杏花は思った。 |
そうして、王宮の門はまた閉じられていく。 |
杏花は琥珀と瑠璃に話しかけようと思い、この場所まで来たが、くるっと正門に背中を向けた。 |
…………今、瑠璃さんを元気づけられるのは、琥珀さんしかいない。 |
そう、思ったからだ。 |
自分は硫化を闇界に行かせた罪を償うまで、何も言う事は出来ない。 |
果たして硫化の意志は、そして杏花の選択は正しかったのか? |
何が正しくて、何が間違っているのか分からない。 |
杏花の中に、混乱が生じた。 |
(こんな時………瑪瑙さんなら何て言うかな………。) |
ふと、そう思い立って、杏花は進路を診療所の方へと変えた。 |
天界や戦争の事、色々な事を教えてくれた瑪瑙なら、その答えを出してくれるのではないかと。 |
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杏花は、診療所のドアを開けた。 |
その瞬間。 |
カッ! |
飛んで来た何かが、足下の床に突き刺さった。 |
「………へ?」 |
床を見ると、それはメスだった。 |
手術の時に使う、医療器具のメス(刃物)である。 |
「ええええ!?」 |
杏花が真っ青になって声を上げると、一人の女性が駆け寄ってきた。 |
「悪いな、嬢ちゃんを狙った訳ではないんだ。」 |
その女性は大人っぽく、赤く長い髪を二つに束ねて結んでいる。 |
なぜか口調は古風な男性っぽくて、どこか雰囲気が紅瑪に似ている。 |
着ている服は、ちょっと変わったナース服のようだ。 |
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同時に、瑪瑙も杏花の事に気付いた。 |
「杏花様、大丈夫ですか?もう、梅ちゃんってばすぐにメスを投げるんだから〜。」 |
すると、その女性はクルっと瑪瑙の方を向いた。 |
「貴様がくだらん事ばかり言うからだろう!」 |
杏花は訳も分からず、ポカンとして見ていた。 |
「えっと、瑪瑙さん……こちらの方は?」 |
杏花が問いかけると、瑪瑙は笑顔で答えた。 |
「彼女が梅ちゃんですよ。」 |
杏花は思い出した。よく、瑪瑙が話の中で『梅ちゃん』という名を口にしていたのを。 |
と、いう事は、この人が瑪瑙さんの愛する女性…? |
改めて杏花はその女性の方を見た。女性は、杏花に対しては優しい笑顔を向けた。 |
「私は『梅花(ばいか)』だ。よろしくな、嬢ちゃん。」 |
「あ、杏花です。よろしくお願いします。」 |
慌てて杏花も名乗った。 |
梅花は、興味深い目で杏花を見ていた。 |
「嬢ちゃんが噂に聞く『天界に来た人間』か……。面白いものだな。」
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「ダメだよ梅ちゃん。珍しいからって、杏花様を研究対象にしちゃ。」
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「貴様と一緒にするな。」
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すかさず、梅花は瑪瑙にツッコミを入れる。 |
「あの……、梅花さんもお医者さんなの?」 |
杏花が聞くと、梅花はクールな表情のまま答える。 |
「ああ。私は闇界の医師だ。」 |
「え………?」 |
思ってもいない返答に杏花の思考は一瞬止まり、言葉が出なくなった。 |
瑪瑙は、そんな杏花の心を察していたが、口を閉ざしていた。 |
「なんで………?闇界って…………敵でしょ?」 |
杏花はただ、自分の中にある疑問を並べて言葉にした。 |
敵国であるはずの闇界の医師が、何故ここに……? |
再び、混乱し始めた杏花。ここでようやく、瑪瑙が真剣な顔になり口を開いた。 |
「杏花様。僕は以前『全ての天使が味方とは限らない』とお話しましたが、逆に『全ての敵が敵とは限らない』んですよ。」 |
杏花は瑪瑙を見るが、焦点の合わない瞳は大きく揺れている。理解出来ないのだ。 |
瑪瑙は、少しずつ、ゆっくりと杏花に説明した。 |
医師というのは、戦争の中にあっても比較的、中立な立場にあるという。 |
とは言っても、自分の国の者を助けるのはその国の医師であるし、天使である瑪瑙が闇界に行けば間違いなく命を狙われる。 |
その為に梅花は定期的に天界の診療所に訪れ、医療の研究の資料や情報の交換をしている。 |
それは、両国の王も黙認している事。 |
杏花は驚いた。 |
戦争の中にあっても、こうやって闇界との繋がりがある事を。 |
そしてお互い、それを信頼している関係がある事を。 |
「梅花さんに……聞きたい事があるの。」 |
杏花は別の感情で瞳を潤ませ、梅花を見た。 |
梅花は沈黙して待っていた。 |
「砂良さんは…………硫化ちゃんは……………どうしてるの?」 |
杏花が一番、気にしていた事。それは、闇界に行った砂良と硫化の事だ。 |
殺されて、奪われた砂良。愛する人と結ばれる為に闇界へと旅立った硫化。 |
心から楽しそうに歌っていた、砂良の笑顔。 |
強い決意と共に背中を向けた、最後の硫化の姿。 |
あの時の光景が鮮明に甦って、杏花の瞳から涙がこぼれ落ちた。 |
それ以上、言葉が出なかった。 |
梅花は杏花の前に立って少し身を屈めると、杏花の頭を優しく撫でた。 |
その優しい感触に、杏花は驚いた。 |
「心配いらん。闇界は、嬢ちゃんが思っているような恐ろしい国ではないぞ。」 |
囁くように、それでいて強く言い聞かせるように梅花は言った。 |
その一言が、全てを物語っていた。 |
杏花は、小さく「うん」と頷いた。 |
きっと、大丈夫。砂良さんと硫化ちゃんは、あっちの世界にいても不幸にはなっていない。 |
そう、思えた。 |
「悪いな。私は軍人ではなく、医師だからな。これ以上の事は何も言えん。」 |
梅花は、申し訳なさそうに言った。 |
杏花は涙を拭いて、ようやく笑った。 |
「ううん、いいの。ありがとう。」 |
戦争の事に干渉出来ない立場である梅花に、これ以上何かを問いかけるのは酷であるからだ。 |
梅花は軍人でもスパイでもなく、医師である。 |
瑪瑙はダーツによって石から生み出された天使であり、梅花はゾークによって石から生み出された者。 |
どんなに二人に絆があっても、相反する立場なのだ。 |
戦争中である以上、医療以外の情報の交換は出来ない。 |
だから梅花も、杏花の事に関しての事情は聞かないつもりでいた。 |
「では、私はそろそろ帰るぞ。」 |
そう言ってドアに向かって歩き始めた梅花を、瑪瑙が引き止めた。 |
「ええ〜?もうちょっとゆっくりして行こうよ〜〜!!」 |
「ふざけるな。用は済んだだろう、ここにいる理由はない。」 |
杏花は、そんな二人をポカンと見ていた。 |
あんな必死な瑪瑙さん、初めて見た……。 |
どうやら、瑪瑙は梅花に完全な片思い…むしろ梅花は迷惑がってる素振りだ。 |
瑪瑙と梅花は同期の医師で、医学の勉強をしていた頃からの知り合いらしい。 |
つまり、梅花はその頃からずっと瑪瑙に言い寄られているのだ。 |
「それと、貴様!!いい加減、毎日のように闇界に手紙を送るのはやめろ!!」 |
「だって、梅ちゃんへのラブレターを書くのが僕の生きがいなんだよ♪」 |
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「そんな生きがいなら、生きている意味はない!むしろ死ね!!」 |
梅花はメスを取り出すと構えた。こうやって、先程も瑪瑙に向かってメスを投げたのだろう。 |
梅花にとってメスは、瑪瑙を攻撃する為の武器なのだ。 |
「医者が『死ね』なんて言っちゃダメだよ〜。」 |
「うるさい!!貴様限定だ!!!」 |
一見すると険悪だけど、実は二人って仲いいんじゃ…と、杏花は勝手に思った。
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本当に嫌いだったら、梅花はわざわざ天界の診療所には来ないだろう。
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瑪瑙を信頼しているからだ。
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目に見えない二人の絆を感じた杏花は、今までの混乱と疑問が解けていくのを感じた。 |
「杏花様。僕、途中まで梅ちゃんを送ってきますから。少し待ってて下さい。」 |
「来んでいい!!」 |
そんな梅花の怒声と共に、二人の声は小さくなっていく。 |
静かになった診療所で、杏花は一人。 |
改めて、色々と考えてみる。 |
目に見えるもの、勝手に決めつけた『善と悪』が全ての答えとは限らないという事を知った。 |
確かに、天使を殺して奪う闇界が全く悪くないとは言い切れない。 |
でも………何か、隠された事情があるのかもしれない。 |
何故、こんな戦争を仕掛けたのか。どうやったら終わるのか。 |
全ての答えは、闇界にこそあると思った。 |
(闇界の王様に会ってみたい……。) |
会って、話をしてみたい。敵国に対しての恐怖よりも、その気持ちが強くなった。 |
ふと、そんな思いが生まれた時、杏花の視界にある物が映った。 |
無造作に置かれた瑪瑙の発明品の中の1つ、『ドア』である。 |
これを開けると、望んだ場所へ行けるというワープ装置。 |
以前、杏花はこのドアを開けて闇界に迷いこんでしまった事がある。 |
まだ未完成であるから触らない方がいい、と瑪瑙も言っていた。 |
杏花もまた、あの暗くて闇に包まれた闇界に足を踏み入れるのは怖いと思う。 |
でも……!! |
杏花は、ドアに手を伸ばした。 |
このドアの向こうが自分の望んだ場所に繋がるなら、闇界に行きたい。 |
杏花は、初めて自らの意志で闇界に行く事を望んだ。 |
そこに全ての答えがあるのなら、自分は行かなくてはならない。 |
責任感とか、国の為とかじゃない。自分の中の疑問の答えを探す為に。 |
『闇界へ………。』 |
そう強く念じて、杏花はドアを開けた。 |
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続く |
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