| 諫 早 街 道 (諫早市〜高来町) . |
永昌宿(諫早市) → 湯江宿(高来町) → 追分(高来町)
| 難易度 | |
| 体力 | ★★★☆☆ |
| 時間 | 6時間 |
| 電話 | 良好に通信 |
諫早・湯江・肥前大浦(1/25000)
「多良海道」(多良越往還)は、諫早宿(あるいは塩田宿)を起点に、有明海の西岸を沿って、湯江、多良岳権現一の鳥居、山茶花峠、藤津郡糸岐村、多良宿、塩田宿(諫早宿)までの十二里(50km程度)で、佐賀まで至る街道を言っているようである。
そのうち、諫早から湯江宿、追分けまでの道を「諫早街道」または「浜通り」などとも呼ばれ、比較的高地を通るが、干拓されていない昔は海のそばだったのであろう。
通常ルートは「長崎街道」であるが、佐賀藩にとっては、大村領などの他藩を通過するため、領内を通る「多良海道」が便利だったようである。
諫早は、「永昌宿」(JR諫早駅隣)を出発し、四面橋前を本明川沿いに「諫早神社」に行く・・・諫早神社は元「四面宮」である。
四面宮の祭神は大己貴命、少彦名命であり、728(神亀5)年に勧請されたと社伝に伝える。
建長年間(1249〜1256年)に領主西郷石見守が社殿を建立し、神官を置いたという。
1587(天正15)年に、西郷氏を追い落とし、新領主となった龍造寺家晴(後の諫早氏)は、諫早領の宗廟として尊崇した。
1868(明治元)年に神仏分離令により、現在の「諫早神社」となった・・・諫早神社の楠群は県指定の天然記念物となっている。
神社の鳥居を出て、道路を横切り、目の前の「本明川」には「飛び石」がある。
本明川は、本県唯一の一級河川であり、源流は五家原岳に発し、18の河川をからなり、諫早市の中央を流れ、諫早平野を潤し、有明海(諫早湾)に流れ込む。
本流の長さは20kmあまりで、流域は93平方キロであり、日本一小さな一級河川としても知られている。
また、諫早大水害の主役の一つであり、本明川の氾濫は何度も水害を起こしている。
飛び石を渡ると、川風が頬に気持ちよくあたり、河のせせらぎが耳に心地いい・・・。
対岸に着くと、そのまま商店街を通り抜ける・・・ちょっと、さびれている様子が・・・少し、寂しい・・・。
この道を歩いていくと、左側に有名な「慶厳寺」にある。
慶厳寺には、磨崖仏三十三観音、名号石、翁塚、十六羅漢など素晴らしい遺跡がある・・・その中でも龍造寺家晴の「明珍作うこん威甲冑」は県指定文化財となっている。
この住職の一人で、玄恕と言う筑紫琴の名人がおり、城秀(八橋検校)が師事したと言われ、慶厳寺は「六段の調べ」発祥の地と言われている。
このあたりから、本明川河畔を歩くことになる・・・。
高城橋を渡ると、「安勝寺」である。
この安勝寺も天正年間の初めに創建され、龍造寺家晴の信任を得て、諫早領内の浄土真宗の総道場であるとの格式を持つ。また、江戸時代の「本陣跡」と言われている・・・ちなみに、この寺の鐘楼は有名である。
「眼鏡橋」は、「安勝寺」の前付近に架けてあったものらしく、古い地図には場所が示してある。
この本明川河畔の散歩は素晴らしく気持ちの良いものである・・・できれば、風の音、河のせせらぎを聞きつつ散歩したいものである。
上流を眺めて、左岸は官庁街・商店街など市街地の主な施設がある、一方、右岸は川側はウナギ料理の店などが多く、あとは住宅街となっている。
このあたりから、河畔を離れて、街の中(旧街道)をたどることになる。
途中、「岡口の堪忍場」や「一里塚跡」があるはずだが、標識はなく、静かな住宅地となっている。
福田川を渡ると、そこには「土園川千人塚」があり、そこからは国道207号線に出る。
基本的には、国道を沿って歩くことになるが、街道は旧道を歩いたり、畑の中を歩いたりしなければならなくなる。
途中、天満神社の参道を横切り、長田川を渡ると長田の集落である。
福田を過ぎ、長田では農協や市役所長田支所など旧中心街を通っていく。
後は地図を見ながら、街道をたどっていく・・・この辺はすべてアスファルト化されて、歩きやすいが、暑すぎる・・・。
だんだん高度を上げていく・・・知らないうちに、坂を登り、海岸線が遠くに見える。
この長田の集落の終わり頃の高台に、「大歳神社」下に「籠立場跡」がある。
大歳神社の祭神は、大歳の神、現在は境内にゲートボール場があるのか、老人達の楽しげな声とゲートボールの弾かれる音が聞こえた。
この階段に座り、まわりを眺めながら、昼食をとる・・・昔は家が建て込んでなく、展望が開け、素晴らしい景観が望めていたのであろう・・・。
ここから下ると、旧街道の雰囲気がしてくる・・・間違えて、アスファルトの道をたどるのではなく、山の中に分け入るとわずかであるが、旧街道が残っている。
少々、道は荒れているが、 野趣はいっぱいであり、街道としては長崎街道程は大きくないことが判る。
この道を越えると、昔は一里塚があったらしいが、その跡形も無くなくなっている・・・。
この付近を越えると、長田から正久寺に入ってくる・・・この付近は国道207号線やJR長崎本線から、だんだん離れてくる。
正久寺(町)の集落を歩き、その丘の上あたりが旧諫早街道の「正久寺茶屋跡」である。
現在は、人家が立ち込んでおり、用水路の脇にこの「標柱」が建っており、昔の姿を忍ぶことさえできない。
正久寺の茶屋跡を後にすると、綿打川を渡り、歩き続ける・・・次の集落が高天町である。
高天町は、この集落の中心部にある「高天神社」に由来すると思われる・・・地図では・・・近くに尾首古墳のマークも見える。
この辺から道が判らなくなり、あっちへ行ったり来たり・・・。
本来は街道(推定)にこだわらなくても、道が続いていれば、支障は全くないのだが、妙に、街道をたどりたいがためだけに、道に迷っているのである。
迷った先でやっと、たどり着いたのが「桜峠」である。
山を歩いていても、道迷いはしょっちゅうであるが、地図さえ読めなくなって、うろたえている自分が悲しい・・・。
なんせ、昔の街道だから大きな道だろうと思うのが間違いで、小さな道であることが多く、最近の計画道路(・・・自然発生的にできた道路と異なるという点で)とは大違いである。
このあたりから、更に高度を上げていき・・・とは言っても、山登り程の急激な上げはないが・・・、すこしづつ、じわじわと登っているようである。
高天町の次は、白浜町である・・・だんだん、高来町に近づいていく・・・、白浜町の縦道を少し登ると、街道筋が見えてくる・・・そこから、歩いていくと籠立場跡に到着する。
籠立場跡には、何も目印はなく、ただ単に普通の道である・・・。
この付近が猿崎町・・・である・・・ここの下り坂は、昔どおりの古い形を残しており、しみじみと「諫早街道」の雰囲気を楽しむことができる。
深海川をまたぐ猿崎橋を渡り、更にもう一つの橋を渡ると、「高来町」である。
まず、最初が船津名である・・・名前のとおり、近くまで海岸があり、「船津」・・・港であったと思われ、干拓が進んでいる・・・。
また深海という名からも・・・ここが、良港であったことが想われる。
ここに入って、すぐのところに「さかなか坂」という回文みたいな名前の坂がある・・・。
三叉路に、神様が祀ってあり、いかにも街道脇の風景を伝えている・・・。
この坂を上っていくと、集落から離れて、丘の中腹を歩いている・・・。
この付近には北の方に「深海神社」や「天初院」などの名所がある。
途中に小さな地蔵さんと、道祖神みたいな石碑があり、いかにも昔の風景があり・・・思わず、写真を撮ってしまった。
ここをしばらく歩き、下りはじめ、JR九州の長崎本線を越えると、小江川があり、それに架かる小江橋を渡ると・・・、「小江」である。
「小江一里松跡」を越えると、小江の集落である。
JR九州の小江駅の前を通り過ぎ、しばらく行ったところで大休憩してしまったのである・・・。
この日は体調が思わしくなく、3時間、10〜12km程度でリタイアしてしまった・・・。
次の週に・・・その続きを行った・・・この日は、前回の失敗に懲りて、午前9:00から行動を開始した。
当然、小江駅から再スタートした・・・。
線路を渡ると、再び、旧街道にの風景が現れてくる・・・。
しばらく、歩き続けると、「小江村桃木茶屋跡」である・・・現在は石碑の前に人家があり、往時の姿は残っていない・・・。
もしかすると、この家の先祖が「桃木茶屋」の経営者だったのかもしれない・・・。
この先の神社も風趣があってよかった・・・。
この神社の先に、「隆信さんの腰掛石」がある・・・。
当然、「隆信さん」とは龍造寺隆信・・・である・・・諫早領主諫早氏・・・元龍造寺・・・の親戚筋に当たる。
当然、龍造寺隆信の肥前の国制覇の時には、有馬氏と戦うために、この道を通ったことであろう・・・。
このあたりの道は、拡幅されず(されたかも・・・)に昔のかたちを割合と残しているように思われる・・・。
下っていくと、干拓地の手前に来る・・・道祖元があるはずだが、探すことができなかった・・・。
ちょっと、登りになり、犬木茶屋跡も探してみたが・・・跡は跡であり、残っていなかった。
この付近が小船津名であり、西の船津名に対して、小規模あるいは小舟の港だったかもしれない・・・。
田島川に架かる田島川橋を渡ると、前方に「高来中学校」が現れてくる・・・その南端を沿って歩くと、有名な「和銅寺」である。
この寺は、「和銅元(708)年行基菩薩奉元明天皇之勅所開創也」(和銅寺記)と伝えられる諫早地方最古の寺である。
曹洞宗の寺で、行基作(伝)の十一面観世音菩薩立像を本尊とし、50年に1度しか開帳されない秘仏でもある。
この秘仏は、肥後の殺生橋の橋材で造られたとも言い、肥前七観音の一つと言われる・・・。
よく整備された美しい寺で、外観も素晴らしい・・・寺の前面に飾ってある仁王像は朽ち落ちて惜しいが、十分歴史を感じさせる。
庭木や鐘楼も見事で、静かな落ち着いた雰囲気が、私の気持ちを和ませてくれる。
この寺で、もう一つ有名なのは、龍造寺隆信の遺体を火葬にしたことである。
天正12(1584)年3月24日、有馬晴信・薩摩島津の連合軍は、島原の沖田畷で佐賀の龍造寺隆信の大軍を迎え撃ち、龍造寺軍を三方に分散させ、中央軍の総大将隆信を討ち取り、龍造寺軍を一挙に壊滅させた・・・。
その後、首は薩摩に送られたが、胴は、この地で火葬にされ、明治になって、自然石を墓石にしたという・・・。
この和銅寺の南側の台地に、「天神尾城」があったという・・・。
現在は、運動場になっており、その地形によって、城蹟と理解することができる。
天神尾城跡から、すぐのところに湯江川があり、町川橋を通って、すぐに「湯江宿」に到着する。
現在、ここは高来町の中心街であり、湯江宿の名残が所々に垣間見える。
光宗寺の背後地の高台に「武田城跡」があり、今はその場所に石像のみが祀られてあった・・・。
天神尾城は、湯江の街を守る武田城の支城にでもあたるのだろうか・・・。
そんなことを考えながら、街道をたどりながら、農協付近から、ほぼ直角に曲がり、北上する・・・。
左側に高来町役場の新しい庁舎を眺め、右側に「湯江村一里松跡」の石碑を眺めつつ、湯江小学校の右側に沿って、境川を渡る・・・昭栄橋という。
この境川は、有名な「轟峡」の下流にあたり、水の美しさは、また旅の旅情をかき立てるものである・・・。
この昭栄橋の脇に、「宇良村茶屋跡」があったという・・・。これをそのまま歩いていくと、「川上神社」の鳥居とぶつかり、その境内の右側を沿って歩いていくと、三叉路のなっており、「追分」の石碑が建っている。
「追分」には、こう書かれている・・・「右たらさきみち」、「左たらたけみち」と書いてある・・・。すなわち、諫早街道のゴールである・・・。
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