長 崎 街 道 2  (諫早市〜東彼杵町) .


   永昌宿(諫早) → 大村街道 → 大村宿(大村) → 松原宿(大村) → 千綿宿(東彼杵) → 彼杵宿(東彼杵)
  

    難易度
体力 ★★★★☆
時間 9.5時間
電話 良好に通信

 
                           諫早南部・諫早・大村・多良岳・武留路山・彼杵(1/25000)



  「長崎街道」の第2部である・・・諫早から東彼杵までの北方に歩く旅である。

  この道での難所は、最初の風観岳であり、いくつものアップダウンが続き、距離が比較的長い(30km以上)ことが特徴である。

  出発は、本来ならば四面橋近くにある「永昌宿」であるが、JR諫早駅から出発した。

  「
永昌宿」は、JR諫早駅の南側・・・線路上あたりに位置すると考えられ・・・比較的小さな宿だったようである。

  旧国道34号線と国道207号線の出会う永昌町交差点付近が、佐賀藩の「
永昌代官所跡」である。

  佐賀藩(本藩)は、諫早領に蔵入地14ヶ村(西長田・小豆崎・福田・大渡野・栄田・真崎・小船越・貝津・平山・栗面・小川・川床・有喜・土師野尾)があり、この佐賀代官所は年貢をまとめて佐賀に送る役目を担っていたと言う。

  対面の細い道を歩いていくと、三叉路・・・中井原台地と津水道の分岐に当たるに・・・資料によると「心太」が名物だったという・・・「
石茶屋跡」がある。

  石茶屋跡の石柱の横に亀甲紋の巨石がある・・・、勝海舟が座って休んだという伝説が残っている・・・、坂本龍馬の飲んだ井戸水の話に似ている・・・推測伝説の一つであろう。

  そこを左に折れると、小鳥居諫早病院・・・、御館山小学校・・・、長崎ウエスレヤン短期大学などの側を通り、北上する。

  国道34号線(北バイパス)を通り抜け、「下破籠井バス停(一里塚跡)」を通過し、広いバスの停車場所(終点)のある「破籠井バス停」から、山手に給水塔を目掛けて歩く。


  この給水塔の横を通り林の中にはいると、この場所から、硯石(大村境)まで1460mの長崎街道を「大村街道」と呼ぶ。

  長崎街道中で一番昔の街道の風情を残しており、諫早市の文化財に指定され、しかも文化庁の「歴史の道百選」に選定されている。

 道幅が4〜6mで、両方に側溝をもち、尾根筋から南側を通り、馬の背道(陸橋)などの特徴を持っている。

  しばらく行くと、「どんばら石」と呼ぶ巨石を見ることができる・・・。

  ちなみに、「どんばら」とはお腹の大きいことで、妊婦の場合も該当する・・・現在、幾層にも割れているようである。

  次に街道道端に、約5m四方、高さ1.5mの石垣が見られ、ここが「大渡野番所跡」、別名、日野御番所である。

  しばらく、街道らしい道を歩いていくと、次第に高度が上がっていく・・・次の名所は「硯石」であり、弁慶の足型石という・・・、その近くに「籠立場跡」がある・・・。

  硯石から右側に登ると「藩境石塚」があり、更に登ると風観岳(236m)の頂上となる・・・このあたりは風観岳支石墓(ドルメン)群が有名で、薄い石版があちこちに見られる。

  更に林の中を歩くと、「藩境籠立場跡」であり、石組がきれいに残っている。


  後は、下るばかりであり、次第に江戸時代の街道の雰囲気は薄れはじめ、昭和(平成ではない)の時代に入っていく。

  普通の小さな道になってくると、路傍の藪の中に、「渡辺伝弥九の墓」がある。

  この伝弥九は大村藩士であり、藩主の命令で天草との連絡役をしている中、天正17(1589)年に、帰路、この地で大雪に遭い、従者とともに遭難したと言う・・・。

  更に、ひたすら下り続ける集落にはいると傾斜が強くなり、自動車の往来が多くなってくる。

  下りきったところに、「古松宿休憩所跡」、いわゆる大神宮神社に到着した・・・この神社の境内に登ると、長崎自動車道(高速)が嫌が応にも目に入る・・・江戸時代の街道と・・・平成の街道である。

  鈴田小学校近くの「一里塚」(存在は不明)を通り過ぎ、旧鈴田小学校跡の公園で一休み・・・。

  この辺に「鈴田番所跡」や「鈴田庄屋跡」があったのだろう・・・ちなみに山城好きな私は寄り道をして「岩松城跡」を訪れた・・・。

  更に歩き続けると、岩松町針尾付近の清和園付近は割合と当時の形を残していた・・・。

  長崎街道は海沿いではなく、内陸部を歩く。

  途中で、昼になったため、神社の境内で昼食を食べる。

  大村宿に近づくに連れて、高度を下げはじめる。

  「大村護国神社」は、「旧円融寺跡」に建てられており、境内の安土桃山式の庭園が素晴らしい。

  もともと、円融寺は22代藩主大村純長によって、徳川歴代将軍の位牌を奉るために、深沢儀太夫の寄進により、創建された。

  この庭園の枯山水は幅50mの斜面に、400個余りの石を三尊式に配置したもので、国指定の名勝となっている。

  この護国神社を後にすると、L字型に街角を曲がりながら歩く、大村宿はすぐ傍である・・・。

  基本的には大村のアーケードが宿場町と考えたらいいのだろうか。

  大村藩「本陣跡」は、大村浜屋デパート前と推定されており、鯨漁で設けた深沢儀太夫勝清邸宅だと言われている・・・。(捕鯨業で巨万の富を得て、野岳湖の築堤もするなど社会貢献も行う。)

  アーケードを真っ直ぐに進路を取り、杭出津付近から、L字型に街道が曲がっており、ここに「追分石」がある・・・「これより左そのぎみち」。

  獄門所跡から真っ直ぐに伸びる古いルートもあるが、大曲・小曲から曲がるルートを採用した。

  大村純忠が切支丹大名で有名であったように、切支丹の迫害の遺跡(獄門所・首塚・胴塚)は多く残っており、領主は切支丹を奨励しながら、後は迫害するなど身勝手さを感じることが多い・・・。

  明暦3(1657)年に、隠れ切支丹が608名が摘発され、島原の乱後と言うこともあって、厳しい処分が言い渡され、投獄・処刑された、これを「郡崩れ」という。

  国道34号線がそのまま当時の長崎街道に該当している地域がある・・・ただ、ただ真っ直ぐに続いている。

  「昊天宮」で少し休みつつ、血豆が出来ていないかチェックする・・・事前に予防をしておけば血豆になることはほとんど無い。

  昊天宮は、彼杵郡の総鎮守であり、大村氏の守護神として奉られ、歴史の古さを感じさせる。

  更に歩くと、郡川の渡しに着く・・・。

  往時は、絵図面で見ると、飛び石があったようで、そこを渡っていたようである。

  特に大きい川には、橋が整備してなく、川を防衛線として利用していたようである。

  そして、少し歩くと「松原宿」である・・・、「松原庄屋跡」に松原小学校ができているがその標石を探すことはできなかった。

  松原と言ったら「松原鎌」だが・・・、いわゆる「鍛冶の町」である・・・今も少なくなったと思われるが、看板が残っている。

  松原を後にすると、海岸沿いに歩くことになり、目の前に鹿ノ島が見え、穏やかな琴の海(大村湾)をゆっくり眺めながら歩き続ける。

  種田山頭火の行乞記(昭和7年2月2日)

  あたたかいことだ、まるで春のやうだ、そぞろに1句があつた。

     あたたかくて 旅のあわれが 身にしみすぎる

  お互に酒をつつしみませう。

  大村湾はうつくしい、海に沿うていちにち歩いたが、どこもうつくしかった、海もわるくないなあと思ふ、しかし、私としては山を好いてゐる。


  武留路と才貫田が大村市と東彼杵町の境界である。

  才貫田からは高度感を保ちながら歩き続き、「才貫田籠立場」付近には、素晴らしい景観が広がっている・・・。

  現在は、家や木々で、周りが見えなくなっており、風景は望めない・・・。

  しかし、この場所は高度感があり、籠立場で駕籠を下りた殿様は風景を楽しんだであろうことは想像に難くない。

  しばらく行くと茶畑の中に往事の長崎街道の面影を見ることができ、素晴らしい景色とともに楽しめた。

  しばらく歩くと、江串の集落・・・清水千部塔や・・・江串三郎入道で有名な「串島城跡」を見学した・・・。

  建武の新政前に、後醍醐天皇は幕府の倒壊を画策するが失敗に、隠岐に流されるが、その子尊良親王も配流されるが脱出し、九州で尊良親王を護ったのが江串三郎入道と言われている。

  元弘3(1333)年に菊池武時らは鎮西探題北条英時を攻めるが、敗退し、この江串三郎入道は戦死したと言われる・・・この街道の道脇には江串三郎入道の墓と伝えられる石碑がある。

  また、街道に戻ると、「平原一里塚」の石碑を見つつ、千綿中学校横を通り、「柴取石」をみつつ、海岸の方へ歩き続ける。

  次は「千綿宿」である・・・国道に戻り、千綿庄屋跡(千綿村役場跡)の公園に立ち寄る。

  種田山頭火の行乞記(昭和7年2月1日)

 
今日の道は良かった、山も海も(久しぶりに海を見た)、何だか気が滅入って仕方がない、焼酎一杯ひつかけて誤魔化さうとするがなかなか誤魔化しきれない、さみしくてかなしくて仕方がなかつた。

   寒空の鶏をたたかはせてゐる

   水音の梅は満開

                       牛は重荷を負はされて鈴はりんりん  


  千綿宿は、江戸末期には100軒以上の店があったという・・・。

  現在、その後がわずかにうかがえるのみ・・・。

  明治31(1898)年に鉄道が開通し、駅からはずれると休息に寂れたという・・・。

  池田酒屋跡や岡田家、それと牛の頭千部塔を眺めつつ歩く。

  後は、国道を歩き続けた・・・。

  中金谷の一本松一里塚、そして彼杵川を越えて、川側の本町千部塔を右手に歩き、直角に曲がる・・・河口には「二十六聖人乗船場跡」の石碑。

  「彼杵宿」は、長崎街道の佐賀・嬉野からと長崎を結ぶ要衝の地であり、更に
平戸街道が北から南下し、この宿に接続している。

  更に、海路も集中し、時津への海路、早岐瀬戸を通って、西海諸国と海路が通じていた。

  本町通りは1町37間、幅4間で206以上の商家が軒を連ね、金谷が1町24間で78軒があり、宿場の中心であった。



  人家の中に「脇本陣」があり、彼杵神社の中に「本陣跡」がある・・・本陣・茶屋は寛永10(1633)年にできたと言う。

  ここで、終了かと思ったら、当然、JR大村線の「そのぎ駅」に足を引きづりながら歩いた。(歩行時間9.5時間)