旧 大浦天主堂 (日本二十六聖人殉教者) (長崎市) 




          1 住 所  長崎市南山手2−18 (新教会)

          2 区 域  長崎市中心街ほか

          3 史 蹟  金鍔谷、国宝大浦天主堂(本天主堂)



  長崎市南山手町にある。長崎における観光のメッカである・・・。

  江戸時代末期、大浦天主堂は居留地在留外国人(専用)のための教会として許可された。

  この天主堂を建てるため、文久2年(1862)11月フランス人神父フューレ、プチジャン両師が横浜に到着し、翌年文久3年1月12日にフューレ師は長崎に到着し、その後1ヶ月後の2月14日に着工された。

  途中、フューレ師はフランスへ帰国し、プチジャン神父を中心に11月には新たにローカーニュ神父がこれを助け、元治元年(1864)12月29日に完成し、翌元治2年2月19日に江戸からジラール日本教区長を迎えて、献堂式が行われた。

  日本で現存する最古の天主堂である。(国宝)

  設計監理はプチジャン神父が行ったと考えられ、施工した大工の棟梁は小山秀(天草)、その下に大渡伊勢吉(伊王島)、溝口市蔵(浦上村)、川原久米吉(外海村)らがいたという。

  当時創建された天主堂(教会)は現在の大浦天主堂と異なり、木造で、3つの尖頭があり、現在の中央尖頭(鐘楼)のみが一致し、外見は全く異なる。また、中央にバラ窓があり、尖頭アーチ窓(入口)と両側に小さな尖頭アーチ窓が見え、全体的にはゴシック様式でまとめられていたようである。

 
  更に中央に右書きで「堂主天」と書かれており、非常に興味深い。

  明治6年に切支丹解放令が出されると、礼拝に来る日本人が増加し、改修する必要が生じ、ボワリエ神父指導のもと、大工棟梁の丸山佐吉(天草)、大工の溝口市蔵(浦上村)らによって大改修され、明治12年5月22日にプチジャン司教により献堂された。

  この大改修は、創建天主堂を中核として、主祭壇を奥深く拡張し、両側の側廊を更に両側に延長し、玄関部分を拡張し、面積が倍近く拡張されている。また構造も木造から煉瓦造となった。

  概要を示すと、煉瓦造、屋根は重層構成、平面形式は五廊式(創建の三廊式を拡張、県下で唯一)、内部立面は三層構成、天井はリブ・ヴォールト天井(コウモリ天井)、内部列柱は円柱と四角柱、両開きの尖頭アーチ、床は板敷きとなっている。日本で一番有名な天主堂であり、これ以上の説明は不要と思われる。