| 歌 舞 多 城 (の) 山 (川棚町) . |
木場公民館 → 木場ゲートボール場 → 歌舞多城跡山(三角点) (往復)
343m
| 難易度 | |
| 体力 | ★☆☆☆☆ |
| 技術 | ★★★★☆ |
| 危険 | ★★★☆☆ |
| 鎖場 | なし |
| 電話 | 不明 |
嬉 野 (1/25000)
「歌舞多城山」(343m)は、地図にも載っていない山であり、虚空蔵山の登山口の看板に、「歌舞多城」とのみ表示してあるが、歴史的には有名な所であるらしい・・・。
戦国時代末期(永禄9(1566)年)に、武雄城主・後藤貴明が、小峰山に「小峰城」を築き、侵攻地点としたことから、大村純忠は木場に「歌舞多城」、百津に「風南城」を築き、対抗したと言われている。
歌舞多城は、虚空蔵山の西北西の山・・・東彼杵郡川棚町木場郷の小高い山頂に築かれた中世の小さな山城である。
資料によれば、・・・「大村郷村記」にいう・・・。
一 歌舞多古城
東川棚村木場と云ふ所にあり、此城至て嶮岨にて、東北の方は鳥も翻りかたき難所也、西の方追手と見へ少しの平易あり、北の方山の八合目の所に樵夫の通ふ細き横道あり、此道より頂上まで五拾七間、手の裏を立たかるか如し、天和の記曰、本丸東西壱町、南北拾弐間、石垣高四間、長壱五間、西の方にありと云、今は石垣の形ちのみ残れり、此所より小峰の城の七度に当る、二の丸は南の方竪六間、横三間、石垣高三尺五寸、長九間、今は雑木山にて其跡分明ならす、水の手弐町程下にあり
この城を守るは、・・・大村筑前以下7名の主だった侍を配し、農民を駆使して小峰城に対陣したと言われている・・・。
城側の込屋玄蕃が裏切り、歌舞多城に火をつけようと密談したところが露見し、玄蕃は城門前で討ち取られ、玄蕃による城への火の手があがらないことに不審に思った小峰(武雄)勢が押し寄せ、逆に大村勢は城から大石を一度に投げ下ろし、小峰勢が崩れて、小峰城に敗走するところを追討して、多くの敵を討ち取ったという・・・。
川棚町中心から、県道4号(川棚有田)線を波佐見町方向に進み、石木の交差点から県道104号(嬉野川棚)線を右に「虚空蔵山」を目指して走り、岩屋口から左に「木場」の方向に行き、中木場バス停と上木場バス停の中間付近に、木場の公民館があり、25000分の1の地図では「日向」と書いてある。
この道路側に自動車を置くか、すぐに右に曲がって中腹にゲートボール場があるので、その空き地に駐車する。このゲートボール場からスタートした・・・真南に343.0mの三角点となっているので、登るだけである。
奧に道があるので、そこを歩く・・・途中で道が無くなりますので、道らしきところをそのまま登っていく。
杉の植林の中を歩く・・・どうやら段々畑の植林してある・・・右に巨石が立ち並び壮観であり、、その横を通る。いつしか、道が獣道になり、途中からなくなる。
出来るだけ、歩きやすい所を歩き続ける。
だんだん、急斜面になり、直登を始めた・・・かなりの急勾配で、垂直の坂にしか感じられない・・・。
木に掴まらないと、下まで滑り落ちそうな急勾配で、木につかまりながら登っていくと、息が切れる。
急すぎて、周囲を見渡し道なんか見つけられない状況である・・・道がついていないから、楽しいのであるが・・・ゼイゼイ喘ぎながら、楽しんでいる自分を発見する。
登る、よじ登る・・・と言った方が正しい表現である。
小峰城以上に急勾配であり、なかなか攻め手は、攻めにくい・・・山城としては最高のロケーションである・・・登っている私はさしずめ攻城軍か?。
ひたすら、ひたすら・・・登っていき、頂上には平坦な細長い頂上が・・・10mくらい行くと、杉の植林の中に登山道らしい踏み跡があり、川棚町教育委員会の標識があった「歌舞多城跡」・・・頂上(343m)である。
付近に、二つの石柱があった・・・1つは国土地理院の四等三角点、もう一つは「鑛福」らしい文字が見える石柱・・・謎だ・・・。北側はなだらかだが、それでもかなりの急傾斜であった・・・城は東西に長く作れそうで、小峰城より城の規模は広いくらい・・・石垣はなかった。
どうやら、登山道らしき踏み跡が東西にある・・・帰りは尾根を歩いていくと、途中の断崖で道が消えてしまった。
仕方ないので、緩い北側を降り始める・・・かなりの斜面なので、登るよりも難しいところがある。
降りて、県道に出たのは一つ前の下木場バス停付近であった。
県道を歩いて、自動車にたどり着いた・・・。(所要時間1時間程度、7000歩程度)