鉱物趣味家の為の
木内石亭
雲根志入門
温故知新・・・古き愛石趣味をたずねて新しき鉱物趣味を知ろう
 石を収集し楽しむ趣味は我国では約千年の歴史があると言われている。現在の鉱物趣味は明治維新後、和田維四郎先生以来の近代鉱物学が基礎となっているが、それ以前の石を楽しむ趣味は奇石趣味や弄石趣味、玩石趣味などと言われ好事家の趣味とみられていた。特に和田先生は御著書「日本鑛物誌初版」にて奇石趣味に対したいへん厳しい評価をされている。勿論、鉱物学的見地から見ると現在の鉱物趣味にとって参考にすべき点は極めて乏しいものの、鉱物趣味を含む石を愛する人々の歴史を辿る上で江戸時代に一大ブームを巻き起こしたこの奇石趣味はたいへん興味深く重要なテーマであると思う。
 ここでは千年に及ぶ愛石趣味のキーパーソンであり「石の長者」と呼ばれた木内石亭と彼の代表作「雲根志」を鉱物趣味の観点からスポットを当ててみたい。
その壱 「元祖」石マニア! 木内石亭
 享保9年(1724年)現在の滋賀県大津市坂本の拾井家に一人の男児が誕生した。幾六と名付けられた子供はその後、縁あって母の実家である名門・木内家の養子となり、その後名前も木内小繁重暁(きのうちこはんしげさと)となった。紆余曲折の後、木内家より分家し、何不自由無い生活を送っていた重暁は若くして京の著名な茶人、野本道玄に弟子入りし茶道を学んで精神修養を行った。その重暁こそ後の木内石亭である。
 重暁にとっての一番の趣味が11歳から始めた「石集め」であった。29歳から65歳までフィールドワークを続け、85歳で亡くなるまで、「石よりほかに楽(たのしみ)なし」の言葉通り、終生石を愛し続けた。
 1751年、重暁は大坂で物産学(博物学)の津島如蘭に弟子入りした。その時、同門には13歳で入門した弱冠16歳の木村兼葭堂(きむら けんかどう)がいた。兼葭堂は後に京阪第一の蔵書家と言われた文人となるのである。
 3年後、津島如蘭が亡くなった為、江戸へ行き、物産学では「東の田村、西の津島」と云われた田村藍水の門に入った。ここでは同門に「エレキテル」などで広く知られる平賀源内が居た。石亭と平賀源内は同門の友人であった訳である。

 当時、江戸や大坂、京都などで「物産会」と称して全国から動物・植物・鉱物が一堂に集められ交流が図られた。前記の田村藍水や平賀源内の他に大坂の医家・戸田旭山も物産会を主宰していた。しかし、奇石趣味の人達は「物産会」に飽き足らず「奇石会」というものを結成して、石展を開催していた。石亭はその中心メンバーであったようだ。そして、石亭が蒐集した石は交通、通信とも未発達な時代にあって実に2,000種(益富先生によると現在の50,000種に匹敵と評価)に及び、石友は何と300人を超えたそうである。石亭が足を伸ばしたエリアは日本のほぼ半分に相当する国内三十余国に上り、交通が発達し情報が氾濫する現代においてもこのような行動的なコレクターは居ないだろう。
 石亭の収集方法は様々で採集や交換、寄贈、石商人からの購入、そしてどうしても譲ってもらえない時は、借りてまでも石を愛でる・・・石に対するすごい執念を感じる。

 また、石亭は愛石家の間だけでなく、全国的な著名人であったようだ。当時のベストセラー「東海道名所図会」ではなんと石亭が「名所」としてコレクション(右図)と共に詳しく紹介され異例の扱いを受けている。
恩師・津島如蘭先生に教えを受ける
若き日の石亭
寛政9年(1797年)刊行された「東海道名所図会」にて紹介された「木内石亭コレクション」。単に石の世界だけに留まらず、全国的な著名人であったことがうかがえる。
その弐 石亭翁の石友たち 石亭人脈を探る
 石亭翁の膨大なコレクション形成は翁の豊富な人脈による所が多い。これは現代の鉱物趣味にも通じる。ここでは石亭翁の愛石人脈にふれてみよう。
 石亭の石友は本人曰く300人を超えているそうである。その中には円山応挙などの名前も見え、親交の度合いも様々であろう。それにしてもこの300人はすごい。現代の地学同好(鉱物、化石など)の数は(財)益富地学会館発行の「全国アマチュア地学団体リスト」中の各団体の会員数を合計すると、一人で複数の会に入会している方も多いであろうが約4,100名となる。通信手段や交通手段も極めて乏しい時代であったから、この300名はある意味、2,000〜3,000点のコレクションより驚異的かもしれない。ここでは石亭翁の石友達を順不同にご紹介していこう。
 近江(滋賀県)人脈(同郷の石友たち)
 石亭翁が近江(滋賀県)の出身であっただけに同郷の石友が多い。その中で特に親しいと考えられるのが、石部の服部未石亭、草津の西遊寺鳳嶺、石山寺の光圀上人であろう。
 服部未石亭は宝永3年(1706年)、現在は二次鉱物の灰山や石部鉱山で知られる甲賀郡石部町に生まれた。愛石趣味では石亭の弟子という感じであるが、年齢的には石亭より18歳も上であり、交際は親密であったようで、未石亭の還暦を祝って画幅を贈っている。画幅は琴高仙人が標本箱を手に緋鯉にまたがった絵であるが、石亭が賛を書きこんでいる。服部家にはこの画幅と共に現在も未石亭のコレクションが伝わっており、21種珍蔵以外残っていない雲根志記載の石を知る上で極めて貴重である。
 西遊寺鳳嶺
は宝暦13年(1763年)の生まれで石亭よりも40歳も下である。仏門に入って草津市にある西遊寺の住職を勤めた。こちらにも多くのコレクションと多くの古文書が残っているそうであるが、石亭の家にたいへん近いことから親交が深かったようである。石亭も鳳嶺を後継者と認め、石友・二木長嘯宛に書いた手紙の中で「・・・・・木川村と申す所に西遊寺と申す一向坊んさま余程の好に御座候。何卒跡を申され候程の好きに仕込み申したく存じ奉り候」と書いている程将来を嘱望していた。文政2年(1819年)57歳で亡くなった。
 石山寺といえば西国第十三番の札所である余りにも有名な寺院であるが、我々鉱物コレクターにとっては境内に露出している石山寺の名の元になった「珪灰石」(天然記念物)の巨岩で知られる。この名刹の僧、光圀上人もまた石亭の石友であり、寺井菊居によると石山寺へは100回も行ったそうである。自宅から近く、境内には奇岩・白瑪瑙(珪灰石)があり、しかも石友が住まいしているのであれば自ずから訪問の頻度も増えるであろう。また、先に述べた「奇石会」が度々石山寺で開催されたのも石亭と光圀上人の親交を物語っている(続く)
その参 石亭翁・石研究の集大成「雲根志」
 
 石亭が1773年(安永二年)、49歳の時、収集と研究の成果として「雲根志・前編」を発行。7年後の1779年(安永八年)雲根志後編を発行、更に補遺として1801年(享和元年)三編を発行した。時に石亭78歳。 雲根志では石をいくつかのジャンルに分けている。前編では霊異類、采用類、変化類、奇怪類、愛玩類。後編では光彩類、生動類、像形類、鐫刻類。第三編では寵愛類、采用類、奇怪及び変化類、光彩類、鐫刻類、像形類などその形態や由来などによって分類が為されている。鉱物は実用性の高い采用類や美しい光彩類に多い。
 とにかく内容としては玉石混交だ。鉱物、化石、奇石、盆石・水石から鏃石(やじり)のような考古学的資料、人工品から伝説の石や巨岩、後年石亭が取り組んだ神代石(天然でもなく人工でもないもの)まで実に多彩だ。まさに「石の博物誌」といって良いだろう。
雲根志での分類
雲根誌での分類 概要 雲根志における例
霊異類 伝説や不可思議な石 硬石(さざれ石:我国最古の伝説をもつ石。現存)
采用類 鉱石など実用性のあるもの 水銀、石炭、玄石(磁鉄鉱)、金鉱石、銀鉱石
変化類 主に化石類 石蟹(カニの化石)、星化石(隕石・伝説)
奇怪類 伝説や不可思議な石 月珠(ビカリア)、龍首石(旧象化石)
愛玩類 外観の珍しさや美しさ 津軽石(玉髄)、得土中石(トパーズ)
光彩類 色彩と光沢の美しい石 水晶、鏡石(断層鏡肌)、桜石(有名な菫青石仮晶)
生動類 伝説や不可思議な石 蛍砂(蛍石)、蛇石(蛭石・加水黒雲母)
像形類 外観の珍しさや美しさ 天狗爪石(サメの歯)、饅頭石(ギブス石)
鐫刻類 石器類 鏃石(やじり石)、神代石(晩年、石亭が研究に注力)
雲根志全三編の実物写真(下)
三菱和田鉱物標本と共に展示されているもので現存数甚だ少なく極めて貴重なものである。
雲根志前編 雲根志後編 雲根志三編
 石亭には「雲根志」以外、「百石図巻」、「曲玉問答」、「奇石産誌」など多くの著書があるが上梓されたのは「雲根志」のみで他はいずれも写本(オリジナルを見せて書き写させる)であった。
その四 雲根志に記載された「鉱物」たち
 ここでは雲根志に記載された「石」の内、鉱物趣味家として着目すべきものについて若干、解説をしたい。雲根志には800以上の鉱物・岩石名があるが、その内、鑑賞石や由来石、化石、石器類を除くと約40種になる。
自 然 銅 (後編巻之二 采用類) 
 自然銅といっても元素鉱物Cuの自然銅ではない。いわゆる「枡石」である。
また「しぜんどう」ではなく「じねんどう」というそうである。産地は「濃州赤坂山」、古生代ペルム紀化石の大産地、金生山である。同じく雲根誌に「切子砂」という物が出てくる。産地は信濃上田であり、これも枡石、即ち一般に「武石」といわれている。
 枡石や武石は黄鉄鉱がその形を残したまま「褐鉄鉱」という別の鉱物に変ったもので、このようなものを「仮晶(かしょう)」という。右の図は実際に雲根志に記載されている「自然銅」の図で立方体の枡石が母岩の上に群生している様子がよく判る。
 そこで気になるのが雲根志に「和産多しといえども真物にあらず。方金牙の種類なり。・・・」と記載されていることだ。「金牙石」は黄鉄鉱であり「方金牙」を黄鉄鉱の六面体結晶と解釈すれば、石亭は「自然銅」が黄鉄鉱の仮晶である事まで判らなかったにしても両者に何らかの関係があることを見抜いていたのではないだろうか。
雲根志記載の
”自然銅”
錫りん脂 (後編巻之一 光彩類)
 「石亭珍蔵二十一種」にも収められているが日本を代表する鉱物、愛媛県市之川鉱山の輝安鉱である。
 雲根志では「・・・大いさ掌を合すがごとし。色白く銀の光彩あり。数株塊をなし、材木を組みたるがごとし。はなはだ奇品愛賞すべきものなり。その産所いまだ詳らかならず。元来松前の人、蝦夷の人に換え得たるところなり。・・・」と記載しており、北海道の同好?から入手したようであるが、どこで採れたものやこれがいったい何物か石亭には判らなかったようだ。
 また、雲根志には、他の同好も所有している旨の記載があり、当時からコレクター必携の標本であったようだ。
 市之川鉱山は日本最古の鉱山という説もあり、全国に名を轟かせた石亭がその有名標本を何故知らなかったのか疑問は残る。後述の金・銀鉱石についても言えることだが、石亭は金属鉱物が苦手だったのだろうか。また、益富先生によると本草書では「錫りん脂」は角銀鉱に該当するとの事で、どこで変ったのだろうか。珍蔵二十一種のものと同一と思われる。
三菱ミネラルコレクション所蔵
「石亭珍蔵二十一種」の錫りん脂(左)と「雲根志」に描かれた錫りん脂(右)。欠けたり、磨耗した為であろうか、各結晶の長さは少し違うが結晶の配置は見事に合っている。同一のものと考えてよいのではないだろうか。
頗(はり)黎 (後編巻之一 光彩類)
 「水晶によく似て六角ならず。清浄明白に透徹す。・・・・・近江国田上羽栗山にまれにあり。」とトパーズが記載されている。頗黎はガラスの意味である。田上山のトパーズについては1873年(明治6年)県令籠手田安定が検分の際拾った「美しい透明な石」が1878年東京大学理学部のナウマンと和田維四郎の元へ鑑定の為持ち込まれた事が世にでるきっかけであった。籠手田安定が発見する前に既に見つかっていたことのなるが、「土俗水晶の花」と呼ばれていたように水晶の一種と思われていたのだろうか。因みに石亭より54歳下で交流のあった山本亡羊のコレクション中には「青玻璃」として琵琶湖産?のトパーズが含まれている。
舎利石・舎利母石 (前編巻之五 愛玩類)
 「舎利」とはお釈迦様の遺骨のことであり、仏像などにはこの「舎利」を納めておくそうだ。勿論、実際にはお釈迦様の遺骨が入っている訳ではなく、インドでは「金剛石」即ちダイヤモンドを「舎利」として入れたそうであるが、ダイヤモンドの出ない日本では入手困難である。そこで代用品となったのが「舎利石」という「めのう」の小礫である。「舎利石」は有名な石であるので多くの鉱物書で紹介されているが代表的なものは青森県の母衣月(ほろつき)海岸産であり、雲根志でも当地が産地として記載されている。舎利石は安山岩の小さな空隙を珪酸分が満たして出来たものであり、その母岩付を「舎利母石」と呼ぶ。右図は雲根志に書かれた「舎利母石」で表面に小さな「舎利石」が多数附着している。石亭珍蔵二十一種にも入っている石亭翁お気に入りの石である。
緑  青 (後編巻之一 光彩類)
 緑青の内、上品を「孔雀石」と云うそうで「形状雲のごとく波のごとく、あるいは氷柱のごとく五色を交える物なり・・・」と表現されている。産地として攝津国多田の銅山他が挙げられている。
代 赭 石 (後編巻之一 光彩類) 
 
 代赦石とは不純な赤鉄鉱であり、「和産美濃国赤坂山にあり。」と雲根志記載の岐阜県大垣市赤阪町金生山のものが昔から有名で古いブック型標本にはたいてい赤鉄鉱として入っていた。管理人が化石も集めていた頃、しばしば金生山へ行ったが、赤鉄鉱の鉱山は是非行きたいと思いながら遂に叶わなかった。あの名産地は今でも存在するのだろうか?尚、雲根志記載の多くの鉱物の名前が消滅する中で、この代赦石の名は細々と今でも残っている。いつまでも大事にしたい名だ。右の写真は40年近く前に産出した金生山産の「代赦石」である。(管理人のコレクションより)
金礦石・銀礦石 (前編巻之二 采用類)
 金属鉱物の好きな管理人にとって関心のあるのが金属鉱石だ。石亭の活躍した時代、緑青の産地として挙げた多田の他佐渡、生野、足尾等日本の名山の多くが既に稼行していた。石亭がこれらの鉱石を知らない筈はない。ところが雲根志では扱いが小さい・・・。前編の一番最後に名前だけ列挙し「和漢三才図会」に載せた、というコメントだけだ。扱いがたいへん小さいが、奇石趣味だけに変った形やストーリー性が無い何の変哲もない鉱石には石亭も関心が薄かったのだろう。また、当時の鉱山はコレクターがそう簡単に出入り出来るような所ではなかったのかも知れない。
 さて、石亭の云う金鉱石、銀鉱石とはどんなものか?石亭のコレクションは失われたが実は実物が残っているのだ。京都の山本亡羊・愚渓親子の「山本古石コレクション」である。この山本コレクションは親子二代にわたるもので、弄石趣味と明治の鉱物趣味の両方の性質をもち、ターニングポイントに位置するものとして評価されている。
父・亡羊は19歳の時に73歳の石亭に会っており、石亭のコレクションの影響を受けていると思われる。父・亡羊は著名な漢方医で本草学においても小野蘭山の最高弟として名高く、シーボルトと交流があったことも特筆される。
 山本コレクションを調査した益富先生によると「金鉱石」は佐渡産の石英質鉱石で輝銀鉱らしきものを含んでいる。「銀鉱石」も石英質鉱石で肉眼では銀鉱物を認められないとの事であった。江戸時代の銀鉱物といえば自然銀は「和漢三才図会」で既に「老翁鬚」として所謂「じじひげ」が既に記載されており、銀鉱石を「黒石」と記載している。
 対馬の佐須鉱山(対州鉱山)が674年(白鳳3年)に初めて銀を産出したと言われているが、当地の銀鉱石は「含銀方鉛鉱」であった。この「黒石」が含銀方鉛鉱なのか、又灰吹法の後開発された南蛮絞りで使った銅鉱なのか、現在の代表的な銀鉱石である「銀黒」なのか、大いに興味のあるところである。
 ※和漢三才図会・・・正徳二年(1712年)頃、寺島良安により著された105巻に及ぶ百科事典的な書物。
水  晶 (後編巻之一 光彩類)
 今も昔も水晶は人の心を捉えるものであり、石亭も例外ではなかったと思う。
特に石亭の生まれた近江(滋賀県)には田上山という水晶の一大産地があった訳で、石亭も早くから水晶に魅入られたのではと思う。石亭は水晶の採集も頻繁に行ったらしく「予がとりうる所・・・」として、地元田上山の他、河内国甘南備山、美濃国苗木、甲斐国金峯山など現在でも有名な産地を挙げている。珍蔵二十一種にはたいへん立派な貯水紫水晶(水入り紫水晶)がある。大きさ、透明度、色、テリ共絶品である。産地はどこか?国産か否か大いに気になる処ではあるが、私が見た範囲内では雲根志には産地は見当たらなかった。この他、大坂天満本教寺珍蔵の金牙石英を紹介している。金牙とは金牙石、即ち黄鉄鉱の六面体結晶であろう。水晶中に金色の黄鉄鉱結晶が入ったもののようである。貯水水晶、金牙石英など石亭翁はインクルージョン入り水晶が好きなようである。
 雲根志では「水晶」と「石英」が両方出てくる。「玲瓏と氷のごときものを水粧としるべし。また透かざる物を石英としるべし。」と記載している。透明のものが水晶で、そうでないものを石英としている。塊状のものを石英、結晶を水晶という現代と少し違うようだ。
珍蔵二十一種中の
貯水紫水晶
(三菱マテリアル蔵)
土 殷 けつ (前編巻之二 光彩類) 
 「土殷けつ(ドインケツ)は土中に産する。その形山芋あるいは薑(はじかみ・しょうが)のごとく、また直にして長きものあり。中空虚なるあり、実満なるあり。その色黄赤く、竹の筒のごとく大根牛蒡の形なるもあり。予数ヶ所より取り集め見るに、少し異なりといえども同色同物なり。産所多し。・・・・・」 実にその特徴、産状をよく表している。鉱物趣味家にとって馴染み深い「高師小僧」である。鉱物としては針鉄鉱であるが成因については昔から諸説あるようである。
 石亭は「雲根志・前編」ではこの稲荷山(京都市伏見区)を筆頭に摂州箕尾山、江州石部、播州垂水等を挙げ更に「雲根志・三編」では尾州知多郡、信州潮沢村などを追加、実に多くの産地を記載している。「ドインケツ」は主として洪積台地に産する鉱物であり、石亭にとっても身近で見られる馴染み深い奇石であったのだろう。
京都・稲荷山産高師小僧
(益富地学会館蔵)
禹餘糧と大一(太乙)禹餘糧 (前編巻之二 采用類) 
 禹餘糧とは難しい字である。「うよりょう」と読むそうである。実体は簡単に言えば「褐鉄鉱」である「鳴石」や「壷石」の類である。たいへん古い石で雲根志より遥か昔、3世紀頃の中国の「神農本草経」という薬の本に載っているそうだ。この石の中身の粘土が「薬」として用いられたそうだ。この「禹餘糧」に対して「大一(たいいち)禹餘糧」というものがある。この大一禹餘糧も同様に「壷石」の類であり「禹餘糧」同様「餘糧」の一種であるが、その違いが謎であった。小野蘭山によると右の写真の様に表面に礫が付着したものが「大一禹餘糧」でつるつるしたものが「禹餘糧」としたが、益富先生は「雲林石譜」から外観ではなく中身の粘土の色から「大一禹餘糧」と「禹餘糧」を区別すべきと主張された。要するに割ってみないと区別が判らないということである。
禹餘糧と大一禹餘糧
(益富地学会館標本)
雲根志に記載された
奈良県生駒山産禹餘糧
(益富地学会館標本)
桜  石 (後編巻之一 光彩類)
 雲根志に「丹波の国に桜花石というあり。予宝暦十一年八月十三日ここに至る。京都より十三里、亀山より五里ばかり西北に当り山口という里あり。この内に柿花村という小村ありて、山の麓に天神の小祠あり。当社の境内山中残らず桜石なり。よって桜の天神と号す。全体青石、砕く時は破れ肌に銀色にて、指頭の大いさなる花形石中にあり。また土中にあるもの軟らかなり。その山中すべて多し。・・・」と記載されている。
 「桜石」はご存知の方も多いと思うが、ホルンフェルス中の菫青石が雲母に変化した「仮晶」である。三連晶をなす為六角となったものであるが、断面が桜の花弁に似ていることから名づけられた。現在では産地も多いが、やはり桜石といえば稗田野町産がトップブランドであろう。桜天神の「桜石」は天然記念物として保護されており、菅原道真公にまつわる言い伝えが残されている。この「桜石」はその美しさの点で昔から多くのコレクターの目を引いたらしく、同時代の森野賽郭や服部未石亭のコレクションの中にもあるそうだ。まさに古来より現代まで「コレクター必携の標本」である。益富寿之助先生の「石・昭和雲根志」でも第一番目に挙げられている。
湯の花産桜石(菫青石仮晶)
(益富地学会館標本)

雲根志に記載された産地とは異なるが、稗田野町では桜天神、湯の花以外に奥条でも産する。
玉  髄(赤玉髄) (後編巻之一 光彩類) 
 珍蔵二十一種中の白眉はこの「赤玉髄」であろう。石亭翁も雲根志にて「近世同好の社中および物産家にもその類を聞かず。故に予珍蔵の第一とす。」と述べている。まさに木内石亭コレクション最高の逸品である。
 玉髄は本質的に水晶と同じ石英である。ただ、石英の極めて微細な結晶の集合であり、外観上は結晶形を示さない。色が均一なものを「玉髄」と称し、縞状の外観を示すのが、有名な「瑪瑙(めのう)」である。
 石亭翁は玉髄はこの赤玉髄以外に青、白、黒、黄の5色を保有している。さて、この玉髄の産地はどこであろうか。残念ながら雲根志には産地は記されていない。現在の日本でもこんな見事な赤玉髄(カーネリアン)は見たことがない。国産としては余りにも立派であり、外国産であろうか。興味のある処である。

雲根志に記載された
赤玉髄(下)
珍蔵二十一種中の赤玉髄
(三菱マテリアル蔵)
雲根志中のその他の鉱物
雲根志記載の名称 現代の鉱物名 雲根志記載の産地  
焼山石 葉蝋石 備前焼山 前編巻之二 采用類
蛇骨 珪酸ゲル 大和大峰山 前編巻之二 采用類
鶏冠石 鶏冠石 伊勢丹生 後編巻之一 光彩類
雌黄 石黄 近江桐生? 後編巻之一 光彩類
桜石 菫青石仮晶 丹波柿花山麓桜天神 後編巻之一 光彩類
蛍砂 蛍石 伊勢治田山 後編巻之二 生動類
鉄砲玉石 球状白鉄鉱 美濃太田 飛騨高原 後編巻之三 像形類
八方タガネ 満礬柘榴石 信濃伊奈郡和田村 三編巻之四 光彩類
金剛石 鉄礬柘榴石 大和金剛山? 二上山では? 三編巻之四 光彩類
その五 石亭翁のお気に入り「石亭珍蔵二十一種」
 雲根志前編巻之五に「珍蔵二十一種」の記載がある。これは石亭の特にお気に入りの石で、雲根志中にも「・・・今求め集むるところの石およそ二千余品の中に、二十一種の珍種あり。同志の人たずね来たらばこれを見すべし。・・・」とご自慢の「標本」であったようだ。
 石亭の”2,000種”のコレクションは残念ながら没後四散したが、幸いこの二十一種は日本鉱物学の先駆者である和田維四郎先生の所有するところとなった。この入手の経緯についはて和田先生は自著・日本鑛物誌初版中の総論「一、鑛物学の發達」にて「其遺族より譲受け今予か所蔵に帰す・・・」と書かれている。和田先生は石亭たちの弄石趣味に批判的であったが、この二十一種には興味をもったようだ。
石亭珍蔵二十一種
(三菱ミネラルコレクション)
石亭珍蔵二十一種とは
奇石名 実体    奇石名 実体
葡萄石   玉釜  
錫りん脂 輝安鉱柱状結晶群 天狗の爪石 サメの歯化石
金剛石 鉄礬柘榴石 木化玉 珪化木
石瓜 ノジュール 石梨 ノジュール
石卵 ノジュール ナンダモンダ 球顆状閃緑岩
青玉髄   黄玉髄  
赤玉髄   白玉髄  
黒玉髄   剣石 石器
舎利母石 玄武岩中の玉髄 貯水紫水晶 水入り紫水晶
貯水白水晶 水入り水晶 仏光石 水晶群晶
石亭珍蔵二十一種の謎
 お気付きのことと思うが、何故か雲根志中の上記「珍蔵二十一種」は20種しかない。この理由については私は判らないが、和田維四郎先生が入手された「珍蔵二十一種」(三菱ミネラルコレクション)とは中身がだいぶ違うし、益富寿之助先生によると*4一致するのは9種に過ぎないとの事である。また同じく石亭著の「奇石産誌」中の「珍蔵二十一種」とも内容が異なる。「奇石産誌」(寛政6年・1794年頃 未刊行)では錫りん脂や赤玉髄、貯水紫水晶もそのままラインナップに入っているが、和田先生の二十一種に入っている牡丹石がここで顔を出している。
 また、和田先生入手の珍蔵二十一種は石亭のコレクションであったかどうか疑問視する意見もあるが、少なくとも私の眼には「錫りん脂」は和田コレクション中のものと「雲根志」に描かれたものと酷似しているように思う。珍蔵二十一種は石亭の自慢標本であった訳だが、入れ替えでもあったのだろうか?安永元年(1772年)49歳で雲根志前編を脱稿した時のお気に入り標本が30年以上経って同じとは考え難い。当然コレクションのグレードアップや入れ替わりがあって然りであろう。であれば二十一が二十二や二十三であってもよい気はするのだが・・・。なにか二十一に拘る必要があったのだろうか。また、和田先生は「日本鑛物誌初版」にて珍蔵二十一種を列挙しているが「石英 本品なし」と記載されている。「石英」は雲根志前編や奇石産誌に載っておらず、ラベルがあるが標本は無かったのだろうか。
和田維四郎先生の珍蔵二十一種に対する評価
 また、和田先生は珍蔵二十一種について「此二十一種を看るに一二を除くの外は其物として貴重すへきもの多く其中鑛物に属するものは柘榴石、紫水精、輝てい(金へんに弟)鑛、玉髄の数種の過きさるも皆な良品なり又化石に属する四種(魚化石、天狗爪、亀甲石及び石卵石)は皆な能く保存せられたる好標本なり(其他は所謂奇石に過きさるものなり)然れとも鑛物学上より之を看れは甚た幼稚にして唯外観の美又は奇形なるものを鐘愛したるにすきさるなり・・・」と述べている。ここでも鉱物として評価しているのは、柘榴石(金剛石)と貯水(水入り)紫水晶、輝安鉱(錫りん脂)、赤玉髄のわずか4点に過ぎない。たしかにこの4点、特に貯水(水入り)紫水晶は現代でも逸品に入るだろう。
その六 木内石亭翁が遺した言葉
石談より外雑談を禁ず
    書院に掲げられていたという有名な言葉である。石亭は来訪者を宿泊させ石の話を語りあかせたそうである。「尾張の国津島に氷室某氏、好事の人にて・・・予が家を訪れて、三日三夜石の事を論ず(雲根志後編)」というくらいであった。
我等生涯石に心魂を投打、実に菽麦(しゅくばく)も辨(わきま)へざる身として六十余州の人に知られ、高位貴官の尋にも預るは、石の徳にして何ぞや。死後心に残るは石也。其方嫌とあれば是非に及ばず。進めても栓なし。頼りても益あらじ。然れ共、食物の外嫌というは多くわがままなり。暫我意を離れ、名跡と孝行と義理と人口とを考、神明の前に心をすまして勘辨あるべし。
    石亭が六十歳の時、重病を患い「遺言状」をしたためた。上は遺言状の「石」に関する部分で「其方」とは養子・嘉蔵のことである。嘉蔵に不安を感じ、何とか心血を注いだ「石」を大切にしてほしいとの石亭の心情がよく表れている。石亭は幸い快方に向かったが、結局嘉蔵は木内家を出て、新しい養子を迎えることとなった。そして石亭の没後、「不安」は的中し、(当時としては)膨大な石亭コレクションは四散してしまった。それにしてもコレクターとして石亭の気持ちが痛い程わかる。
その七 現代の鉱物趣味家が石亭翁に学ぶところ
 石亭の晩年は少々波乱があり、石亭の最も気懸りであった膨大なコレクションも没後、四散してしまった。しかし、愛石家として功成り名を遂げ実に74年間に亘りエネルギッシュに「石の趣味一筋」で生きられた石亭は鉱物趣味家にとってある意味理想であろう。フィールドワーク(採集や現地踏査)を重視し、多くの同好との交流により人脈を広げ、その人脈や経済力を駆使して当時の一級標本を入手。自分の研究成果やコレクション、見聞したことを後世に残る「雲根志」として出版、ベストセラーとなった。残念ながら石亭の思いをよそにコレクションは後世に残らなかったが、これは当時としてはやむを得なかったのではないだろうか。今は一流のコレクションであれば博物館に寄贈したり流通経路に乗せることも可能であろう。
 このように「奇石」と「鉱物」の違いはあるものの200年近い時を越え、現代の鉱物趣味家として理想とし、学ぶべきものは多いのではないだろうか。本邦鉱物学の先駆者・和田維四郎先生と共に後世に語り継がれるべき「石の偉人」であろう。
参考文献
雲根志(前編・後編・三編) 木内石亭著・今井功訳注解説 築地書館刊・丸善発売 (1969年11月
2 人物叢書 木内石亭 斎藤 忠著 集 日本歴史学会編 吉川弘文館発行
(1962年10月)
3 石・1 昭和雲根志 益富寿之助著 日本鉱物趣味の会(1967年8月)
4 雲根志 昔と今 益富寿之助著 日本地学研究会館(1989年6月)
5 日本鑛物誌初版 和田維四郎著 1904年6月