ゲームというのは、一般に物語に参加し、その主人公としての体験ができるメディアだと思われていました。
けれどAIRという作品は、主人公ではなく狂言回し、或いは(機械仕掛けの)神として物語に参加できる可能性、また群像の中の様々な人物として参加、体験できる可能性というものを示しました。
ネットワークゲーム等を考えてみれば当たり前の事ですが、用意された物語の中でそれをやるというのはコロンブスの卵的な発想で、とても魅力的な提案でした。
国崎往人。彼はプレイヤーの分身であり、Airというゲームの主人公ではありますが、同時に、AIRという物語のおいては、それを完成させる重要な、だけど一つの部品でしかありませんでした。
それは、幾多のテレビゲームをプレイし、ボタンを押すという行為を繰り返し幾多の物語を完成させてきた、ゲームのプレイヤーという存在の意味を問い掛けてきました。
「AIR」においては、物語を進行させるプレイヤーの操作キャラ(往人)がそこで語られる物語を直接的に終わらせるわけではありません。
けれども、「DREAM」や「AIR」における主人公の行動は、プレイヤーの操作はその物語を終わらせる要因となっています。
そしてこの物語においては、選択肢の無い、即ちプレイヤーや主人公の関与しない「SUMMER」の登場人物達の行動もまた物語の終焉への要因として語られています。
即ち、往人、或いはプレイヤーの行動は自分達の関与しない「SUMMER」と等価であると。
自分が物語を成立させる多くの事象の中の一つであることを実感させるものとして「ゲーム」を利用した表現。
それが私の見たAIRという物の姿の一つです。
●9月16日 AIRについて その2 |