書き散らしのコーナー。

2月8日 久遠な痕

 「久遠の絆」というゲームはよく「痕」と比較されたりする(久遠は原作者が痕を意識して作ったというのだから当然といえば当然なわけだが)。
 そしてこの二つの作品の相違点として時折語られる↓のが、「痕は並列、久遠は直列」という物語の語り方である。

例1)「痕」が物語を放射状に分岐させ、謎を並列させた世界で解明していくのに対し、「久遠の絆」は直列に並べて解明

例2)「痕」は並列的に様々なストーリーを展開することによって物語全体に厚味を持たせているが、「久遠の絆」は各時代のストーリーを縦列的に配置することによって物語に厚味を持たせている

 痕は各シナリオをクリアしていくことで「痕」という作品の内包する物語設定の全体像が見えてくるようになっているが、久遠は三シナリオのどれか一つをクリアすることで全体像は判明する。
 久遠も単に並列の一つ一つが長いだけであって、視点を変えれば前世話は痕において各シナリオで時折語られるそれと同様であり、トゥルー(万葉)シナリオ、栞んシナリオ、沙耶先生シナリオという長い三つの話で並列に物語っているんじゃなかろうかと思う向きもあるだろうが、久遠の場合はその並列する三シナリオは共通部位が非常に多く、複数シナリオという多視点、そこから得られる情報から立体的に「久遠の絆」という物語を構成しているわけではないのである。
 久遠とは、各章で段階的に物語設定を提示、更にその途中途中にプレイヤーの意志による選択を反映させることで設定と物語を直列に積み重ねていき、プレイヤーの選んだ「久遠の絆」という物語を完成させる作品なのだ。
 プレイヤーが複数の小さな物語を集めて全体として大きな物語像を生成するのが痕であるのなら、まず全体として大きな物語像が示され、その条件からプレイヤーに三つの物語を選ばせ、生み出させるのが久遠なのである。
 物語要素の強いゲーム表現における並列と直列の話や、「久遠」と同じく「痕」を引き金に作られた「ファントム」も久遠同様に直列的な性格が強く、共に記憶のない状態から始まる(久遠の場合は無いのは前世の記憶なわけだが)というのも興味深い話であるのだが(…今思ったけど、久遠とファントムとKanonの比較というのも面白いかもしれない)、今回はそれ等ではなく「AIR」の話である。

 …といったところで今日はなんだか疲れたのでこの続きはまた今度。

■以下、予告めいたメモ。

 『AIR』は『久遠の絆』というよりは『ファイアーエムブレム紋章の謎』。

 DREAM=暗黒戦争編
 SUMMER=英雄アンリの伝説
 AIR=紋章の謎

 ファミコン版公式ガイドブックにおいて、製作者は「百人がやったら百通りの物語が生まれる」作品としてファイアーエムブレム(SFC版では暗黒戦争編)を作ったと発言している。

 久遠はむしろDREAMである(並列にして直列のDREAMは「ノベルゲーム」という「枠」そのものと言えるが)。
 一章をSUMMERと見てDREAM+SUMMER=久遠と見てもいいが、断じて=AIRではない。AIR編でもない。
 …でも、AIR=DC版追加シナリオというのはアリかも。

 ドラクエのロト三部作でいうなら、

 DREAM=1、2
 SUMMER=3

 なわけだが、プレイヤーの内部に生まれる物語を考えると「DREAM(1+2)=SUMMER(3)」であったりもする。
 ちなみにこれは「AIR」本編においても当てはまる公式だったり。
 で、4の章構成や5のシナリオ構造、6の仕掛なんか考えてみると――ドラクエってやっぱり面白いやねぇ。



2月14日 消える飛行機雲追いかけて

 GameDeepのサルゲー特別編を読み返す。
 例によってGPMとAIRについて色々と騙っているわけだが、ONEグラ(絶賛通販中)でONEの徹底レビューを書き終えた今、改めて同じ事を考えてみると、当時には見えなかった見方、考え方というのが出てくるのが面白い(人間は成長する物なんだなぁ)。
 AIR。
 あれって最終的にプレイヤーは観鈴を追いかけて「そら」としてゲームの中に組み込まれてしまうわけだけれど、追いかけるべき観鈴は勝手にゴールして、空の向こう、ゲームの外へと一足先に消えてしまう。
 「そら」は目的であった彼女のもう存在しない世界を、それでも彼女を探して歩き続け、そして「そら」≒プレイヤーは彼女を追いかけて空へと飛び立ち、ゲームを終える事となる。
 観鈴はKeyが作ったキャラだ。
 元々ゲームの世界の空の向こうで生まれ、ゲームの世界へと送り込まれた存在だ。
 僕等は彼女と同じAIRというゲーム世界に潜ることで彼女に触れ、そしてゲームの終了とともに彼女も僕等も空に帰った。
 そらの向こう。この世界に。
 そらとシンクロした僕はこの世界で観鈴ちんを探し続ける。
 同じAIRの中にいた少女を。
 「そら」の中にいた僕がこの世界の僕から生まれてものであり、彼女はこの世界のKeyから来たものであるなら、あのAIRの中にいた僕が今、ここにいる僕の中に帰ったように、同じAIRの中にいた少女は今、この世界のKeyの中に帰っていると思う。
 けれどAIRの中にいた「そら」と観鈴はここにはいない。
 僕等のなかに帰ったのはそうであった記憶、あるいはそうやって過ごした思い出であって、それを持っていたとしても僕等は「そら」や「観鈴」ではないのだから。
 この世界で僕とKeyが出会っただけでは、AIRの中にいた「そら」と観鈴の再会は果たされない。
 記憶や思い出は「そら」や観鈴そのものであるかもしれないけれど、それはこの世界では形を持たない。触れ合えないのだ。
 結局、「そら」と観鈴が再会するには、かつてのAIRのような、それぞれが思いを飛ばし、思い同士が触れ合える場が必要になる。
 その「場」は、Keyが観鈴であった記憶・思い出を送り込んだ新たなゲーム、或いは僕等が「そら」であったそれらを送り込んだ何かということになるだろう。
 そしてその「場」を通して僕とKeyが対話が為されたとき、その場の上で、ようやく「そら」と観鈴は再会することができるのだろうと思う。
 場が作られたその時、「そら」や観鈴が忘れられずに双方の中に残っていたのなら。

 …久々に(でもないか)電波飛ばしてみました。七瀬ちゃん、電波届いた?






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