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《雑記帳1月a b c d e

1月25日 感動って美味しい?

○あさりよしとおのお言葉
 マニアックなディティールに凝った設定を「スゴイ」「さすが」ともてはやしたり、なかなか全貌の見えない「裏」設定をチマチマほじくったり…。
 確かにそういう楽しみ方もあるだろう。しかし、それらは料理でいえば「盛り付け」であり「器」にあたる部分だ。「きれい」だとか「おいしそう」では、料理への賛辞にはなっていないし、拒絶するにしても「見た目がくどい」とか「器に凝りすぎ」では料理の本質を見誤ること甚だしい。
 エヴァンゲリオンは実にオーソドックスなドラマである。ミもフタもない表現を使えば「シンジ君の成長ドラマ」とくくることができる。なのに、なぜ皆さん普通の見方をしない!?
 '95〜'96年の今という現在、器と見てくれ以外のそろった「料理」はエヴァを除いては皆無に等しい。外面だけのサンプル食品に慣らされて、料理が食えるということを忘れてしまっている皆さん。エヴァは食えます。眺めていないで口に入れてみなさい。「食える」という「あたりまえ」な、その一点において、エヴァは「今」、空前にして絶後な作品なのです。こんな時代にこれを食える幸せを、かみしめなさい。
 しかし、ここで勘違いをしないように。ここまで書いたことは作品の評価とは別次元の話。私は食えるといっただけで、「味」の保証までしたわけでない。もしも最終回まで口に入れてみてまずかったときは、ちゃんと「まずい」と言いましょう。食ったあなたには言う権利がある。もちろん私も言うときゃ言う。でも美味しかったときには…それ以上にきちんと「美味しかった!」
 と言いましょうね。
 この先また、旨い料理を食うために…。
漫画版エヴァンゲリオン第二巻より抜粋


○感動
 「ストーリー」なんて「感動」とはなんの関係もない気がする。
 それってつまり、「麻薬」と「変わらぬ感動」の話なんじゃないでしょうか?
 料理に言い換えると、味付けのソース(ストーリー)と素材(感動)。

 素材としての「感動」ていうのは何処にでも転がっている。物語作家というのは、その転がっている感動から旨さを抽出して誰にでも分かりやすく、美味しく味わえるように物語に料理する人間のことだ。
 感動の「味」っていうのは、恐怖だったり、笑いだったり、美しさだったり、萌えだったり、実感としての教訓だったりという、まぁ、ようするに知識や情報として抽出できない感情、想いといった類だと思う。
#物語のメッセージっなんてのも、辛いか甘いかであって、旨いか不味いかとは関係無いんじゃないかと思う

さて、真琴シナリオでは御伽噺という和風ソースは口当たりが良く、その味で感動を殺すどころか、むしろ引き立て、素材としての感動を多くの日本人に食べやすくしていた。
 そして皆、そのソースを初めとする味付けや奇麗に食器に盛り付けられた彩りという調理によって、生のままでは食べなかったであろう、肉厚で極上の感動に口を付け、平らげ、皆、胸がいっぱいになった。
 美味しかったかどうかはともかく、胸をいっぱいにしたのは、素材としての感動の力だと思う。

世間のKanon萌えって、ソースである御伽噺に萌えているストーリー萌えを初めとして、設定萌え、構造萌え、ゲーム萌え、キャラ萌えという、「部分」を語ることにどんどん特化していってる気がする。
 なのに、素材自体の味や量、質を突き詰めようって人は殆どいない。
#ちなみに、ONEの時は逆に素材自体の味や量を突き詰めようって人はいても、設定、構造萌えの人とかがいなかった

なもんだから、今のKanon論壇って、素材感動萌えや、Kanonという料理全体の味についての評論を求める向きにはなんか違和感が出てくるんじゃかろうか。
 皆、あの素材だったから胸一杯になった。その胸一杯がわざわざKanonを語らせる燃料だろうに、そのこと、味や素材を無視して、調理法ばっか見て、しかもその極一部の技術論に終始してるのはなんか違うんじゃないかとかいう想いは、私にもちょっとあるし。
 でもまぁ、総論としてKanonを語るならソース「御伽噺」の美味しさは1要素であって主体にはなり得ないだろうけど、ストーリー萌えのストーリー評論としてはそこが主体であって当然だと思うし、いつか総論をやるにも、Kanonからこぼれ落ちた感情を繋ぎあわせて自分の作品を作るにも、非常に意義のある作業だと思う。

ところで、スタッフの「Kanonは御伽噺である」発言って、tatuyaさん『Kanon−カノン−』構造分析において、「構造論は解釈論の前提を提供します。本論考を通じて、みなさまがより一層深く『Kanon』を解釈できることを期待いたします。 」と言っているのと同じ意味だって含まれてると私は思うのだけれど。

#総論やるなら、料理の「味」、素材、味付けのソース、各種調味料、彩り、食器、盛り付け、サービスといったこれら全ての味の調和について語らなくてはならない。
 一言で言えば「美味しかった、満腹〜、でもちょっと後味がなー」とかいうの。でも、そんなのではKanonがなんであったのかはさっぱり分からない。Kanonに惚れた人間は、Kanonの全てを知りたいので、長々と書かざるを得ない。
 …だーれーかーKanonの徹底レビュー、総論書いてくれませんかー?
 Keyの次回作出るまでいいのが出なかったら私もまた書き始めるだろうけど、私ので満足出来ない人だって当然いるわけで…、結局、自分が欲しいものは自分で作るしかないんですよー(げふぅ)。


1月27日 物語の本質と感動

EVAとONEは何処が似ているかっていうと、こう、個々のストーリーラインとかキャラクターとか構造じゃなくって、本質が似ている気がする。
 その本質は何かっていうと、えーと、ああ、ぼのぼの読めば分かるな。

アライグマ君のお父さんとお母さん、覚えてますか?
 こう、初め、作者が独身だった頃は別居状態だった二人。
 奥さんはずっと、よりを戻さないかって言ってるんだけど、旦那はずっとそれを拒む。
 なんでお前は俺や息子と暮らしたいんだ?
 よりを戻してなんかいい事あるのか? と。
 奥さんは考える、それは――
 すると旦那は、奥さんが答える前に、お前が望んでるのは、これこれこういう温かい家庭だろうって、いわゆる夫婦、家族の幸せってやつを全部先回りして言ってしまう。
 奥さんはその通りだとしかいうしかない。
 それを求めているのだと。
 旦那はそっぽを向いて言う。
「そんなのは全部、頭の中でやるのには適わねえよ」
 今、自分が想像して見せた家族の幸せ、それ以上のものは現実には無い。
 だから、それを求めて一緒に暮らしたって、なんの意味もないじゃいかというわけだ。
 しかし、巻数が進み、作者が結婚するころになると、アライグマ夫婦はよりを戻して一緒に暮らすようになる。
 これはアライグマ旦那の「そんなのは全部、頭の中でやるのには適わねえよ」論が妻に敗北した、つまりは、作者の頭の中の幸せが現実(の結婚生活)に負けたということである。

…以上の例を用いて、EVAやONEという物語の本質を説明しよう。
 「ぼのぼの」に描かれた、「頭の中の幸せ」こそがEVAの人類補完計画であり、ONEにおける「永遠」である。
 「頭の中の幸せ」に取り込まれた主人公が、「現実」で育んだ他者との絆でそれを打破して物語をエンディングに導く。
 それがEVAやONEの本質である。

EVAで庵野秀明があんなに苦しそうにしていたのは、この、EVAという物語の本質が、自分の今までの、「自分の頭の中の幸せ」を表現してきた自分の自己否定でもあったからだろう。

EVAというアニメ作品、ONEというゲーム作品は、言ってしまえば、我々の「頭の中の幸せ」である。
 「頭の中の幸せ」を否定する「頭の中の幸せ」。
 矛盾に満ちている。
 EVAの本質が「アニメなんか見てないで現実に帰れというメッセージ」で、「ONEのメッセージってようするにエロゲーなんかやめて現実に彼女作れっていうこと(byドメスさん)」では、業界を滅ぼすモノとしてEVAを毛嫌いしたアニメクリエイターやエロゲーマニアがいるのは当然であり、ONEの次回作Kanonのシナリオの製作が物凄く難産だったのも、非常に肯ける話ではないだろうか。

が、EVAやONEに感動した人は頭の中の幸せを否定された、アニメなんか見てんじゃねーよ! エロゲーなんかやってんじゃねーよ! 現実見ろよ! などと説教されたから感動して泣いたのかっていうと、それは違うんである。
 彼らの殆どはいまだにアニメファンであり、エロゲーをヤりまくっており、自己啓発セミナーで心を洗われて涙を流したわけではないのは明らかだ。むしろ、彼らは自己啓発セミナーに石を投げていたではないか、あまりにイタいメッセージだと笑っていたではないか。

EVAやONEにおいて我々が感動したのは、EVAやONEで語られたメッセージだのなんだのが心に届いたからではなく、そこに込められた作者達の苦悩や感動を含めた様々な想いや素晴らしい技術、芸、着眼点、才能、或いはそれによって表現された、登場人物の強い想いに共感出来たからではないだろうか。

少なくとも、私の心にONEが届けたのはメッセージなんかじゃなく、ONEの登場人物の切なく強い感情や想い、そして美しかったり哀しかったりする風景や、奇麗な物語の構造、そして芸術的な言葉や絵や音の使い方であった。
 それを自己啓発セミナーだの、現実に帰れだのいうメッセージだの、時代性だのと勝手に決め付けられてはなんか腹が立ってきさえする。
 あんなにファンが反発したEVAの説教が、なんで感動の本質なものか。
 私がEVAやONEやKanonの中で心を掻き乱されたのは、登場人物たちの愛憎の入り交じった「会いたい」という感情や想いだ。
 それに共感できたから登場人物たちを好きになり、或いは自己同一化してその運命に一喜一憂し、心を乱した。
 そして一方では、物語の構造や言葉、音楽の美しさに心うたれた。
 それらで表現された自分の知らない、誰かの作ったここでない世界に憧れを抱いた。
 直接言うとえらい恥ずかしいからこういうこと言う人は少ないが、人間の感動の理由なんて、程度の差こそあれ、こんな感じで似たり寄ったりだろう。

物語には本質がある。
 メッセージもあるかもしれない。
 でも、それは我々が物語に感動するという事象の本質ではないと思う。
 感動という事象においては、「物語における本質」やメッセージは本質でなく、それをもたらす多くの一つに過ぎないのではなかろうか。
 前述の通り、ONEで私が一番感動したのは登場人物の「会いたい」という感情である。
 ONEという物語の本質「永遠の否定」は「会いたい」と複雑に絡み合い、強め、盛り上げる働きをしていた。
 だが、「会いたい」という、私の感動の本質とイコールではなかった。
 私がKanon真琴シナリオで感動したのもまた、「会いたい」という真琴の愚かしく強い想いであった。
 Kanonという物語の本質が「御伽噺」だとしても、やっぱり「会いたい」とイコールではない。
 本質というのは物語の骨格で、枠だ。
 ONEやKanonの「会いたい」は何処にあったかというと、本質という枠の中にあった。
 中にあったが、だが、イコールではない。

「会いたい」という、ただそれだけの想いは私の目に美しく映り、感動をもたらした。
 それは私にとっては最大の感動だが、唯一の感動ではなく、多くの感動の一つでしかない。
 ONEの「本質」という枠もまた、その構造が私の目に美しく映り、感動をもたらした。
 音楽だってそうだし、文章センスだってそうだ。
 他にも多くの部分が大なり小なり感動をもたらした。
 その調和が「ONE〜輝く季節へ〜」という感動であり、ONEへの感動の本質はそこにある。

人それぞれ、感動する部分は違う。
 感動する部分も一つではない。
 物語の感動の本質は、それら感動の調和である。

 バランスが悪ければ、個々の感動が優れていても全体としての感動を阻害することがある。
 全体としては感動できなくても、たった一点が突き刺さって感動してしまうことがある。

真琴シナリオはその骨格、枠部分が優れていた。
 だが、中身だってそれに負けないくらい優れていた。
 その調和が本当に素晴らしかった。

調和が優れている理由は、枠だけが優れていたからでも、中身だけが優れていたからでもない。
 論者がそれぞれ、自分が感動した個所について模索し、本質を見極めていくのは正しい姿勢だろう。
 だが、その一点の本質を見極めたのに大はしゃぎして、他の部分の本質や、調和が優れている本質もこれだなどと勝手に決め付けてしまうのは間違いだろう。
 それ故、評者はその全体を論じているのか一点を論じているのか、その一点はどういう個所なのか、それを明確にしなければならないし、読者もまた、評者が何を論じているのかを理解した上で作品の評論を読むべきだろう。


 …えーと、なんだか長々と書いてしまいましたが、今回の雑記の主旨は
「ぼのぼの」はなんだかんだいって面白いので読んでおいた方がいいよ
ということです。いやマジで。

1月28日 ラーメン

 あ、なるほど。
 素材としてのストーリーがあって、それを調理(演出)して、出来上がった料理が作品。
 味の要素として甘い、辛いに相当するものに泣きとか笑いとか萌えがあって、その調和として、最終的に旨いか不味いかがある。
 最終的には旨いか不味いかは食べる人間の好みが大きく作用しする。
 作り手は当然旨い料理を作ろうとするけれど、作り手にとっての旨いは、食べる側の旨いとは必ずしも一致しない。
 旨い不味いの評価は料理の素材それぞれの評価、作り手の腕の評価を含むけれど、一個の素材や作り手の評価は料理の旨い不味いの評価の中に含まれるけれどイコールではない。

例えば旨いラーメンの中の旨いチャーシュー。
 旨いチャーシューはラーメンが旨かった要素で素材の一つだ。
 でも、チャーシューは個別でも食べられるし、チャーハンやなんか他の料理にも使える。
 チャーシューが旨い。それはラーメンが旨かった理由の一要素であるのは間違い無い。でも、主体ではない。
 チャーシューだけが旨く、麺やシナチクやスープが不味いラーメンは、チャーシューが旨いだけの、不味いラーメンである。

翻ってKanon。Kanonは製作者が言うには「御伽噺」である。
 御伽噺を料理、とりあえずラーメンで例えて考えると、多分、近いのはスープである。
 トン骨、鳥ガラ、味噌、醤油…
 そこら辺の組み合わせである所のラーメンスープである。
 つまり、Kanonをラーメンだとすると、ラブコメラーメンでもエロゲラーメンでも泣き落としラーメンでも萌えラーメンでもプロバガンダラーメンでもなく、御伽噺ラーメンだということだ。
 Kanonは御伽噺ラーメンである。
 古くからある御伽噺で出汁をとり、現代風味の美少女で仕上げた見事な現代風御伽噺スープ、麺は久弥風細めんと麻枝風チリチリ麺で素材違いを用意した二タイプ五パターンの選択で、チャーシューやシナチクは折戸さん、ナルトはいたるさん、総括プロデュースは久弥さんという、現代風御伽噺ラーメンだ。

Kanonは御伽噺ラーメンだから旨かったのか? 或いは不味かったのか?
 旨かったかどうかは別として、あの味は間違いなく御伽噺ラーメンの味である。

御伽噺ラーメンは旨いのか?
 旨いのもあれば、不味いのもある。
 御伽噺ラーメンと人を認知させるのは、御伽噺出汁である。
 御伽噺出汁が入っていれば、間違いなく御伽噺ラーメンである。
 醤油味でも塩味でも味噌味でも砂糖味でも、出汁が御伽噺なら御伽噺ラーメンだろう。
 御伽噺ラーメンであることは、旨いか不味いかとはあんまり関係ないような気がする。
 Kanonは御伽噺ラーメンだが、御伽噺ラーメンが全部Kanonのような味ではない。

Kanonを旨いといった人は、御伽噺ラーメンが好きなんだろうか? 或いは、Kanonを不味いといった人は御伽噺ラーメンが嫌いなんだろうか?
 人それぞれだろう。
 とりあえず私はKanonは好きだし、旨い御伽噺ラーメンなら好きである。
 不味い御伽噺ラーメンなら嫌いである。
 別にジャンルとしての御伽噺ラーメンが好きとか嫌いってことはない。
 ミステリーラーメンもファンタジーラーメンもSFラーメンも、旨いのは好きだし、不味いのは嫌いだ。
 その時の気分でファンタジーが食いたいなぁとかいうのはある。
 大部分の人もそうなんじゃなかろうか。

「Kanonは旨い(or不味い)。だから御伽噺ラーメンも旨く(or不味く)、御伽噺も旨い(or不味い)」
 っつーのは早急だが、御伽噺や御伽噺出汁が好きな人が御伽噺ラーメンであるKanonを好きなのは至極当然であろう。
 でも、きっと不味い御伽噺ラーメンは御伽噺ラーメンが好きな人でも御伽噺好きの人も鬼のように嫌うに違いないと思うのが、どんなものだろう?

で結局、Kanonの旨い不味いが何処にあるかっていうと、それはだから、私の場合は「会いたい」っていう言葉に集約されるキャラクターたちの只それだけの「想い」であり、それをもたらした全てであり、それがもたらした全てである。
 多分、こんな言葉では分からないと思う。
 伝えられないと思う。
 だからこそ、人はそれを作品という形にして伝えようとするのだ。



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