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《雑記帳3月》 a b

3月23日 大好きです

 乃怒亞女さんの新作にして引退作となったムービーを見た。

 一個の作品としての二次創作や考察、レビュー…それらにとっては「好き」が邪魔になる場合があるし、「好き」が強すぎる人には決して書けない考察や二次創作もある。
 でも、逆に「好き」でなくては書けないもの、作品への「好き」という気持ちを伝える手段としてのレビュー、考察、二次創作という物もあると思う。

 例えば、乃怒亞女さんの作品群。

 乃怒亞女さんのムービーは技術もセンスも素晴らしい。業界トップクラスだろう。
 でも、それだけではなくて、題材とする作品…ゲーム、CG、音楽、それら全てへの「好き」という想いも業界トップクラスだと思う。
 感じるのだ。強い愛情がつまっていると。
 そうでなければ、あんな挿入詩は書けない。
 見ていてあんなに幸せな気持ちになんかなれない。
 見終わって今まで以上にONEやKanonを好きになんかならないし、
 丹下桜のベストアルバム衝動買いなんてのもしない。
 乃怒亞女さんの技術とセンスと想い、ONE、Kanon、そしてさくらに乾杯。
 この幸せを噛み締める事が出来た偶然、「今」という時と世界とそれを構成する人達と、織り成された作品達に精一杯の感謝を込めて。

 忘れない。きっと。

3月28日 まつりのあと

 (wwwに)帰ってきたら、知らない間に始まっていた「まつり」が終わってしまっていた。

 ……ちきしょう。カラスハネトなんか大っ嫌いだ(謎)。

 ぐっちーさんは、その、ちゃんと参加して全日踊り狂ってらっしゃったらしい。
 一部仮面舞踏会だったらしい(謎)。
 流石です、師匠。

 で、「まつりのあと」といえば、先月のS.MA.P.推薦図書「目隠しの国」なんですが、たきをんさんや、やまさんに布教成功した模様。俺、やったよ、かなでっちゃん。
 えへへへへ。
 私はこの漫画家さんの「気付く瞬間」の人間や世界の表情が大好きなんですー。
 重版もできたみたいだし、皆も買うしか。
 私の評価だけだと不安だという方は、こちらの方のレビューも見てみて下さい。
 買うしか。


3月29日 シンデレラ・フォウ

 発売日から五日程過ぎてしまいましたが、「4m」をプレイしたので、1stインプレッションでも。
 1プレイしかしてませんが、1シナリオ(?)2〜3時間程度のようなので、とりあえずメインと思われるシナリオはクリア出来ました。参考までにいうと、怒喜哀の順です。
 「4m」とはヒロインの身長が4メートルとか、4メートル四方の部屋の中に女の子を監禁とかそういう意味ではなく、感情を喪った少女をカウンセリングし、喜怒哀楽(ゲーム中では怒り、喜び、哀しみ、愛)を取り戻させるというゲーム内容から察するに「4-mind」って事のよう。
 ゲーム的には非常に単純な、テキストを読み進めながら、時折出てくる選択肢を選ぶというノベル形式。ただ、ヒロインとのカウンセリングシーンでは、選択によってどれだけ感情が回復したかが数値となって表われ、定められた期間内に100%回復させないとゲームオーバーになってしまいます。
 …というとパラメータ型ゲームっぽくもありますが、喜怒哀楽が互いに作用することはなく、単に四つの感情それぞれを回復するためのミニシナリオ4つを、どれから攻略するか選んで順にプレイしていくという形で、実際は単に正解フラグを立てていくだけの普通のノベルゲームです。どの感情から攻略するかで分岐が有りますが、システム自体は非常に単純。

 小粒だし、内容的にも静かですが個人的には気に入りました。
 単純なシステムだと書いた分岐ですが、これはかなり上手いです。
 真っ白な状態のヒロインに対し、例えば最初に怒りの感情を取り戻させようとすれば、気の強い少女を作り出すことが出来ます。
 すると、次のシナリオでは気の強い彼女に今度は哀しみや喜びの感情を取り戻させ、泣き虫の少女や犬チックな少女を作り出すという展開になるのです。
 喜び+哀しみとか、そういった複雑なパターンの少女になるのではなく、一つの感情を焼き付け、重ねていくというだけの展開ですが、このゲーム作業には調教ゲームのような背徳的な快感(いや、私は調教ゲームやらない人だから、本当のところはちょっと分からないけれど)と、「ときメモ」に代表される、選択肢やパラメータ操作でヒロインから望む反応を引き出す恋愛ゲームの快感が同居するという不思議な魅力があります。
 私は気の強い女の子が好きなので、怒りっぽいバージョンのヒロインを作り出した時は、それはそれはいいしれぬ快感がありました。
 デートの時、アイスを奢ってやると「そんなのでご機嫌なんか取れないわよ」みたいに呆れ顔されるんだけど、じゃあ仕方ないなと彼女の分も食べようとすると、「お腹壊すわよ!」とかいってひったくって食べたりとか…。
 このまま攫って逃げたいと思いましたもの、ええ。
 それを別の感情で塗りつぶしていくやるせなさといったら…
 設定的にこのカウンセリングは単なるアルバイトで主人公も元の彼女を知らないため、彼女を治すという使命感を感じさせず、その性格を治さなくてはいけないのを素直に「惜しいなぁ」と思えるようになっているあたりに感心ですね。主人公が感じる、女の子の性格を弄れてしまっていることへの疑問ともシンクロできましたし(別の動機から来た疑問でしたが)。
 治療、カウンセリングという「癒し」を行うことで調教ゲームと恋愛ゲームの快感と背徳感をプレイヤーに感じさせるアイロニーには素晴らしい物があります。
 これは同時に、パラメータや選択肢でヒロインの感情や反応を操作する、美少女ゲームという存在へのアイロニーにもなっていますね。
 この作品はこれらのアイロニーを楽しむ物で、全ての感情を取り戻させることで現われる本当の彼女との恋愛や、何故素人の主人公がアルバイトでカウンセリングを頼まれたのか等のゲーム設定の疑問を解くために存在するシナリオは、言ってしまえばどうでもいいもののような気がします。
 とりあえず、ヒロインもころころ表情を変える魅力的な娘になったし、ねんごろになれたハッピーエンドだったし、エンディングのピアノ奇麗だったし、個人的にはシナリオに大きな不満は無し(というか、萌えるのに夢中であまり興味が無かった(すんません))。疑問や違和感は残りますが、まだ全分岐を終えたわけではないですし、そこら辺の判断は保留というのもありますが。
 そうそう、このゲームも例によって18禁ですがエロゲではないようです。
 そういうCGやテキストは皆無と思った方が良いのではないでしょうか。
 分岐によってはあるのかもしれませんが、どうも望みは薄そうです。個人的には舞ちゃんと絡んでみたいですが。
 あと、「Whiteセツナサノカケラ」の時も思いましたが、くるみはCGの減色が雑ですねぇ。
 原画は魅力的な表情が非常に好感なのですが。
 余裕あったら全シナリオコンプして正式なレビューを書きたいと思いますが、暫くは無理そうです(ガク)。
 最後に。音楽良いです。CD-DAでも入れて欲しかったなぁ(ゲームCDに収録されているのは22KHzのWAV)。



3月30日 最終出力

 多分、ゲーム右翼系の人にとっての「ゲーム」とは、プロットや脚本を味付けし、最終出力された舞台や映画、小説というような一個の作品のことではなくて、「プロット」なのだろうという気がする。
 彼らはそのプロットを元に、自分の作った作品をどこか(大方は自分の頭の中での「自分の物語」だ)に最終出力する。
 彼らは自分が作る何かの為のプロット、或いはシナリオという「素材」と「道具」が欲しいのであって、コンプリートされた作品が欲しいわけではない。
 対して、スクウェアなんかが考える「ゲーム」とは、最終出力された作品、それも「アート」のことなのだ。

 最終出力される作品は、シナリオプロットという素材と道具を用いて作られるが、この二つに上下関係というものはない。
 道具という作品も有り得るからだ。
 また、アートと道具の間にも上下関係はない。
 優れた道具(例えば刀剣や食器)はアート足りうるし、音楽というアートが映画というアートを作る為の道具になる事からも分かるように、アートが作品の為の素材や道具ともなるからだ。
 しかし、アートと道具には明確な違いがある。
 アートは使えなくても作品として認められるが、道具はどんなに芸術的でも使えなければ作品とは言わない。アートに目的は必要無いが、道具には目的が必要だ。
 飲めない湯のみは湯のみではないが、絵はただ、絵であればいい。
 設計図は見る相手に意味が伝わらなくてはならないが、絵は、見る相手に意味など伝わらなくてよい。
 論文は読者に何かを伝えなくてはならないが、小説はただ、小説であればいいのだ。

 クリエイターはアーティスト足り得るかもしれないが、アーティストはクリエイターにはなれない。いや、なれるのだが、それを望んで道具や素材を作るとき、アーティストはアーティストではない。

 小説はアートである。
 ゲームはプレイヤーの使うプロット、道具である。
 ノベルゲームには二種類ある。
 アトラク=ナクアはアートだ。
 ONEは道具だが、アート足り得るクオリティーを持った道具である。
 だが、エロゲーという道具としてどうかと考えると、アトラクは道具足りうるが、ONEは道具足り得ない。

 …ややこしくなってきたな。話を元に戻そう。

 ゲーム右翼的な物の考え方をする人(本当の右翼でない人だ)は、ゲームに素材、プロットを求める為にコンプリートされた作品を嫌い、時に「ゲームは未完成であるべきである」というような論調を使うことがあるが、それは大きな間違いではないかと私は考える。
 かつてのFFシリーズは未完成のアートであったが故に素材や道具として使用することが出来た。
 だが、道具として作られた作品ではないのだ(だから当時から右翼傾向のゲーマーの中にアンチFFという存在があったのだ)。
 かつてのFFがアートっぽさが薄いから良くて、現在のFFシリーズは完成した(とはいえないが)アートとなって道具としての機能を喪ったから駄目であるというような捉え方は本末転倒も甚だしい。
 アートを見て道具で無いから駄目だというのはあまりに頭が悪すぎる。
 「悪魔の辞典」を見て、実用には役立たないから駄目辞典だというような物だ。
 否定するなら、シナリオが駄目駄目、ゲーム部分が邪魔とかそういう捉え方をすればいいのだ。

 未完成なアートが道具だ等ということはない。
 そんな認識はアートという作品にも道具という作品にも、その製作者たちにも失礼である。

 その作品が道具として作られているのか、アートとして作られているのか。
 ゲームを論じる時は、まずそれを見極めるべきなのではないだろうか。

 FFは当初はアーティスティックな道具だったかもしれないが、今や道具であることを捨て、アートを目指して作られた作品だし、「4m」はアートではなく女の子の感情を操作して反応を見る遊び道具だ。
 そして「ONE〜輝く季節へ〜」は心に届く美少女恋愛アドベンチャーという、アーティスティックな道具である。

 未完成なアートは道具ではないし、未完成な道具もアートではない。
 道具であることを突き詰めていった結果アートと認識される道具と、アートであることを放棄して(商売)道具になったアートというものは存在するが、それらは全て完成した作品である。未完成品ではない。
#まぁ、アートは未完成でも許されるようで、道具であることを放棄した元道具なアートなんてのもあるけど、それはアートと認識された道具じゃなくて、アートと認識させた道具だから別物であるよね。…使うものを使えるままに作家性を盛り込めない人間は職人としては失格だよなぁ。作家としてはどうだか知らないけれど。


3月31日 考察[こうさつ] 調べて考えること。考究。

 実は今月から「ホビージャパン」を購読することにしていたり。
 目当ては、一部の人は気付いているでしょうが与謝野折檻 さんの「ガンダムインテグラル」です。
 ゲームやアニメの考察としては、恐らく尤も歴史があるガンダム考察のネット・同人界の有名人にして、最も共感するスタイルの考察人、与謝野折檻氏の商業での仕事です。見逃すわけにはいかない。

 一口に作品考察といっても、様々なスタイルがあります。
 私がやっている18禁ゲームの考察めいたものは折檻氏的な考察に近いです(いや、私も元々はアニメオタだし、人文系だし。他人のゲーム考察を読んでONE考察を始めたわけではなくて、ガンダム考察とかエヴァ考察とかやってきたのと同じ流れでやってるから、一般的な(?)ノベルゲーム考察派の人とは入りからして違う模様)。
 簡単に言ってしまえば、私の考察は作品内の謎解き。
 作品内に明確には提示されないバックボーンを、作品内、或いはオフィシャル提示された情報から推理して解いていく。
 何故、そのような状況になったのか。彼はどうしてそういう行動をとったのか。何故にこの物語がその媒体で表現されているのか。
 しっかり作り込まれた作品であれば、考察すればするほど隠されたバックボーンが見えてきて、作品は厚みを増していきます。
 知的ゲームであると同時に、作品のバックボーンを読み解くことでその作品の厚みを増し、作品をより楽しもうというスタイルです。

 混同しがちですが、どこかから持ってきたバックボーンを勝手に付加、或いは創作することで作品を補完するという、いわゆる「俺説」というスタイルは考察ではなく、二次創作ですね。
 考察スタイルでは、類推は考察ですが俺説は二次創作で、区別することが重要なんですが、私のONE考察なんかはまだ、かなり「俺説」入ってますね。
 なるべく作品内、或いはオフィシャルで語られた事以外を根拠にはしないように気をつけているんですが、何時の間にか自分の妄想が根拠になっている部分があったりするので…。

 まー、なんでかっていうと、「自分」を書きたくなっちゃうからなんでしょうけどね。
 他人の作品を自分の言葉で語っているつもりが、ついつい自分を他人の作品と言葉を利用して語ってしまうという。
 作品を好きで、作品を語りたい人間が作品を自分の為に利用してしまう、自分を語りたい、自分を出したいのに、他人の褌なので、それが自分だとは言えないっていうのは、やっていても、見ていても、かなり辛いです。

 あー、満足いくオリジナルを自分で出せれば、素直に、すんなりと考察や二次創作をやれるんだけどなぁ。
 他人の言葉や作品を利用しなければ自分が出せない自分が、ついつい、そういう楽な方向に逃げてしまう自分が、最近、ツライ。
 他人の作品を語るフリをして自分を語るって、自分を出すというリスクを伴わないから楽なんだけど、そういうのって卑怯だし、そういう嘘に好きな作品は使いたくない。
 その作品をテクストとしてナントカ論や自分の考えを語る論考と作品論は別物で、作品をナントカ論や自分探しのテクストとして利用することって、作品の考察とはいわないよねぇ…
 作品考察とか、作品論を気取りながら、実際は作品をテクストとしたナントカ論や自分探しって、嘘だと思う。なんかそういうのは語りたくない。
 作品論を名乗るなら、自分ではなく、ナントカ論ではなく、その作品そのものを語るべきだと思う。作品論の場合は、自分やナントカ論は、作品を語る為の道具であって、主題では無いはずで。
 GameDeepなんかではONEをテクストとして語っていいんだけど、徹底レビューなんかでそれはやっちゃいけないよなぁ。
 ぐはぁ、無茶苦茶に考察系はスランプだ。全然書けねぇ…というか、書いたものが全部没になる。いつになったら更新できるんだろう…。




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