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《雑記帳4月》
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4月9日 ここ数日のWeb上の雪駄さん

 掲示板の「幻想」とか「猫さん電波」に関するアレコレとかで(⌒▽⌒)
 しのぶさんとこのここ数日の日記に凄く共感o(^o^)o
 ぐっちー師匠のマルチ小説で 。・゜゜・(>_<;)・゜゜・。 ウエーン
 やまさんの新作SSやたきをん師匠のサクに {{|o*)ノ|}} ムッムギィ
 『DT SCRAMBLED EGGS』制作のKanonのDNML『birth Kanon』にメロメロ。


4月10日 想像力 

 最近、本仁戻のホモ漫画にメロメロだ。
 私は同性愛嗜好者ではないが、そういう気持ちを理解することは出来る。
 故に、そういう嗜好の人間を対象にした作品を楽しむことが可能である。
 いい歳こいた男が少女小説や少女漫画、童話、〜フェチなんかを好事家や批評家としてではなく、一ファンの視点として心から楽しめるのも、それらの作品の対象とされた読者、或いは読者を楽しませようとした作者の気持ちを理解できるからだ(本当の意味では理解などできてはいないだろうけれど、理解しようとする意志がある)。

 「分かる」ことと「そうである」事、「分かろうとすること」と「そうなろうとすること」はイコールではない。
 もしイコールならば、精神分析を生業とする人間は皆、正式に分析できた相手とは同じ精神の持ち主ということになるし、凶悪事件を担当するプロファイラーは、皆プロファイリングの後で犯罪者になってしまう事になる。
 …そんな馬鹿な話があるか(もちろん、分析しようとする相手に引きずられてしまう例はあるけれど、それは引きずられる為に分析するわけではないだろう)。

 ここら辺を混同し、他人を理解できない事、する気が無い事を誇らしげに語る人間がたまにいるが、そんな自分の想像力の欠如自慢をしてどうしようというのだろうか。
 好意的に解釈すると、想像力が欠如しているからこそ、それが精神的健常者であることのアピールだと巨大な勘違いをしているか、出る杭になる事を恐れて自らを貶めているか、自分の想像力に自信が持てないから「分かった振り」になってしまうのに耐えられずカミングアウトか、他人に引きずられないで自分で考えることに誇りを持っている、といったところだが、単に馬鹿だからなんじゃなかろうかという疑いも捨て切れない。

 分からないなら、分かろうとすればいいし、分かる気も無いなら、無視すればいいだけなのではないのだろうか。

 まぁ、分かりたいどころか絶対に関わりたくない類の人間というのは、こっちが無視してても迷惑かけてくるので、公然とエンガチョ切るぞと声張り上げるしかないんだが。
 …〜萌えや〜フェチを標榜するオタクや「鍵っ子」が対外的に嫌われるのは、多くの人間にとって、そういう絶対に関わりたくないと思わせるような人間が目立つからでもあるんだよな。


4月11日 …色々と反応したいのだけど、それは次回(スンマセン)

 リンクページを更新しながら、旧Keyオフィシャルページの掲示板というのは、凄え面白え場所であったのだなぁとか、今更のように思う。
 なんか、ファンロードとか月刊アウトの読者コーナーみたいな「場」だったよなーとかとも(いや、私はファンロードは読んでないから、ローディストに関しては正確なところは分からないけれど)。
 そっくりだよね。OB、OGが色んな所で活動してたりするとか、あと、色んな揉め事なんかも。
 まぁ、言ってしまえば、人が集まって何かをやり、それがある程度まで盛り上がってくると、それがキリンヤガであろうと、会社であろうと、プロレス団体であろうと、学校のサークル活動であろうと、誌面上であろうと、BBS上であろうと、起こる事は、大体みんな同じようなものなのだけれど。(※)

 色んな人が集まって、色んな経験をして仲間になって、やがてそこから一人一人が自立して、さよならをする。
 そこから始まる、自立した人間同士の付き合い。
 集まった「場」が消えて、人と人との繋がりだけが残る、不思議な瞬間。
 やがて人と人の繋がりが新たな「場」を形成し、また、新たな人と人の繋がりが生まれていく、なんてこともある。
 学校の卒業式なんかで起こっているそれが、ネタばれのログを見て、その後で自分のリンク集を見ると、肉眼で確認できる。(※2)

 …WWWって面白いよなぁ。

 まぁ、最も面白いのは、WWWとかオフィシャルページとかいう「場」ではなくて、色んな人を惹きつけ、集めた「Kanon」という作品だと思うんだけど。
 WWWのような「場」は、無かったら別の何かで代用されたり、或いは勝手に作られるであろう物だから(それこそ、かつての「場」としてのファンサークルや雑誌の誌上コーナーだよね)。

(※)ガンダムっていうのは、えんえんとそういう変わらない人間の様を見せつけて、その上で「それをシャア・アズナブルが粛正しようというのだよ!」というのと「人はいつか分かり合える」というのがせめぎあって、戦って、でも結局、いつまで経っても同じ事を繰り返す人間の愚かさと哀しさ、それでも生きていく逞しさを、これまたえんえんと描き続けているわけなんだよな。

(※2)卒業したのにクラブやサークルの未来を憂えて口を出すOBとか元老院というのは、或いは形を変えた、「場」から卒業すること、仲間と別れることを拒否して永遠の学園生活を送る為の手段なのかもしれないなぁとか思ったりする。



4月12日 色々と反応

 共感したのは、「■価値というもの」もそうですし、『素人の楽園』というのも、「弘法といえども、筆が筆として最低限の機能すら満たしていなかったら字は書けない」というのも、そうです。
 フォークソングはまだやっていないのですが、『自分の生は、忘れられた無数の恋物語の上に存在するのだ』というのには確かに共感です。ちょうどこちらのDNML「birth Kanon」を読んでいた、というのも影響していますが(謎)、大きく肯いてしまいました。
 …そういえば、C.Fさんもフォークソングには似たような感想おっしゃられてますね。
 あと、「■溜息」も共感というかなんというか、印象的でした(これは耳が痛かったともいう。その時書いてた雑記が暗黒系で攻撃的でしたし…。以前にまんまな話を知人としたこともありますが…)。
 …一番共感してうんうん肯いたのはリンク先で見た「ゆかたでなこ姉妹」なんですけどね。

4月1日の雑記については、あのタイトル、ああいう内容で書きたいとずっと思っていた物で、ある意味の懸けで、たった一人のそれを伝えたかった方に伝えられたという、それだけで満足なのですが、こうやって、他の方にも読んでいただけて(公開しているのだから当たり前なのだけれど)、そこに意見を頂ける、というのには感慨深い物があります。

 引き受けるとき、同時に引き受けてもらっていることを忘れてしまったのがONEなのだろうと思います。
 長森は浩平の「治療者」であってはならない。
 しかし、浩平は長森に治療者を望んでしまった。
 長森にとっての永遠とは、共に作っていくものであったのでしょうが、浩平にとっては、与えられるものだった。
 しかし当初、浩平がみさおや母親という家族という状態で望んでいた永遠とは、与えられる物ではなく、家族で作っていく物で。
 だから浩平が望んだ永遠は、みさおと共に作っていく物であり、同時に長森から与えられる物だった。
 つまり、浩平が長森との最初の盟約で結び育んできた永遠というのは、長森から与えられ、長森の中に見たみさお(みずか)と共に作っていくものだった。
 対する長森にとっての永遠というのは、自分と浩平の二人で作っていく物だった。
 二人とも、同じ永遠を夢見て盟約を結んでいるつもりだったけれど、見ている物が実は違っていた。

○長森視点でONEを見てみると――
 長森は浩平が自分ではなくて、その向こうにある、みさおを見ていたことに気付いている。
 だから、ゲーム開始時点では盟約を破棄しようとしている。
 いや、長森からすると、とっくに浩平に盟約は破棄されていたわけだ。
 でも、浩平は告白してきた。

「ずっと好きだったんだ、付き合ってくれ」

 これは、長森にとっての二度目の、ちゃんとした――みさお役の自分と浩平ではなく――一対一の自分と浩平の結ぶ、永遠の盟約となる。
 だから、引き受けた。
 だけど、それは浩平にとってはそんな深い意味があったわけではなかった。
#これ、一度目の盟約の逆転なんだよね。
 依然として、浩平は長森にみさおを見ていて、それが、以降のイベントに繋がっていく。
 長森は自分がみさおで無いことを強烈に主張し始め、それで浩平は、長森の中にみさおを見ていた自分にようやく気付く。
 だから、浩平は二度目の告白をする。

「ずっと好きだったんだ、付き合ってくれ」
「うん、いいよ」

 これは、長森視点からすると、三度目の、そしてようやく対等の立場で、はっきりと結んだ永遠の盟約である。

 
4月13日 リスペクト!

 ネット上で出回っている二次創作小説という物の中には、元となった本編に出てこないオリジナルキャラが登場するもの、本編の登場人物が全く出てこないネクストジェネレーションもの、設定が改変されてしまったものといった、「それはもう二次創作では無いではないか、オリジナルでやれ」(ネクストジェネレーションや、舞台設定だけを借りた実質上のオリジナルこそが本来の意味での二次創作ではないかという話もありますが)等と文句を言われるものが存在します。
 しかし一方では、そんなオリジナル色が強い作品であっても、確かにこれは元となった「○○」である、紛れも無い二次創作であると感じさせるものがあります。
 それは、そういう作品が、○○へのリスペクトとして(尊敬する、認めるという原意そのままに)書かれているからなのではないか、とふと思います。
 ○○が好きで、ちゃんと噛み砕いて、理解して、リスペクト出来ている人が○○へのリスペクトを意識して書いているから、どんなにオリジナル色が強くても、本編そのままのキャラが一人も出てこなくても、紛れも無く○○だと感じさせるのではないかと。
 きっと彼らからしてみると、オリジナルで書けって言われても「何で?」って事になるんじゃないかという気がします。彼らが書いているのは、○○への「想い」であって、ある意味の公開ラブレターであって、本質的には読者に自分ではなく、○○を褒めてもらいたいのではないかと。
 まぁ、私が二次創作を書く理由がそんな感じだったから、そんな事を思うのですけれど。

さて、人を二次創作に駆り立てる、そういう作品への「想い」というのは、凄く純粋で協力です。
 そして、その純粋で協力な「想い」というのは、実は良い作品を作るもっとも分かりやすい糧の一つだったりもします。
 一般に良い作品を作る為に必要といわれている「才能」の大部分はトーマス・アルバ・エジソンも言うとおり「集中力と持続力」であり、それをもたらす「想い」「思い入れ」というのは、目の前にぶら下げられたニンジン(金)と並んで、実に創作作業にとって重要な役割を果たします。
 だから、普段オリジナルを書いている人が、趣味でそういう二次創作をやってしまうと、一個の独立した作品として普段自分が書いているオリジナル物より面白くなってしまって、評判を得てしまったりする場合がある。
 評判が良くなれば良くなるほど、いい物が出来れば出来るほど、それが自分の物だと胸を張って言えない、思えないのが辛くなってくる。
 以前、「二次創作は報われない」っていう言葉を呟いた理由の一つは、そういう事だったりもします。
 ゆうきまさみが「パロディでデビューしちゃいけない」「エロでデビューしちゃいけない」「恥ずかしいから」とギャグで言っていますが、裏にパロディの辛さを噛み締めての台詞だと思うんですよね。
 自分はオリジナルを出していきたいのに受け手はパロディを求めるというジレンマだけでなく、自分のオリジナルよりも好きな作品へのパロディへの「思い入れ」の方が強いというようなジレンマ、辛さがあったんじゃないかと。


4月14日 リスペクト! その2

 私は小さな頃から小説やゲームや漫画に触れ、それらが自分にもたらす不可思議な感触に魅せられていました。

 「○○のような作品が創りたい」

 そして、そういう物を自分でも作りたいと、漠然と何らかの創作活動に関わりたいと考えていました。
 結果、とある非電源ゲームに感動した事が端となり、あんなゲームが作りたい、という理由で非電源ゲームのシナリオ書き、みたいなことを副業――というかバイトでやっています。
 その初仕事において、ツカミとしてエヴァのパロディをやってしまったという苦い過去がありました。
 ほんの遊びのつもりだったのですが、そのパロディはその仕事が終わるまで、いえ、終わった後も首を絞め続けました。
 自分はオリジナルを出していきたいのに、受け手はパロディを求めるというジレンマに苦しんだ私は、それ以降の仕事では、ちょっとしたギャグ以外でのパロディは絶対に辞めようと心に誓ったのですが、パロディということを意識した時、自分のシナリオが、そういう狙ったパロディ以外にもパロディ的要素が自然に出ていることに気付いたのです。
 ○○やエヴァや、その他の多くの自分の好きな作品のような物を作りたくてその仕事をはじめ、結果、その粗悪な寄せ集め、コピーを作り出しているにすぎない自分に気付いたとき、自分の存在意義という物に自信が持てなくなって、ついでにそのころ、自分が書いた物でたった一人でいいから他人を泣かせる(或いは、自分の作った物をたとえ3日間だけでいいから心に残す)という一つの野望を達成していたというのもあって、一旦、創作活動から遠ざかりました。
 で、結局、自分が唯一仕事としてやりたかった「○○のような作品が創りたい」ってのはなんだったのかっていうアイデンティティをず〜っと考えた結果、それは、自分が魅せられた作品への「想い」の表現であったわけで、オリジナルが作りたかったわけではないんだな、俺…という、実にしょうも無い結論に達し、自分の好きな作品の二次創作やレビューを始めました。
 まぁ、その結果がこのページなんですが。

 そして、まぁ、色々な作品を改めて見て、二次創作なんかにも関わってみて、二次創作とオリジナル双方に携わる方なんかを見つめ、ONEに出会って…

 今、作品への「想い」を保って表現しつつ、なおオリジナルを書くという方法が見えてきたりしています。
 リスペクトというのがどういうことなのか、パクリやパロディとオマージュの違いとはどういうことなのか。
 どうして、「○○のような作品が創りたい」とずっと思っていたのか。

 やっと、○○のような作品を創れるような気がします。

 気がするだけですが。
 まぁ、そんなわけで、本格的にシナリオ書きのバイトに復帰していたりします。
 そんなこんなで、最近のこのサイトの更新が度々滞ったりしているわけですが、二次創作やレビューという枠でなくては語れない物、その面白さという物にも気付いてしまい、書きたいこともたくさんあるので、どうにか続けていく所存です。

こういう事を考えていると、「ONE」や「ミッシング・ゲイト」に何が描かれていたのかというのが、別の意味でも見えてきますね。
 山口満さんが、米村孝一郎さんがHJ版一巻に描いていた事がどういうことなのか。今になって、分かる気がします。
 ああ、この『視線』を皆に伝えたい。
 ゲイト三巻のラストに、「僕はJBじゃない」「君のことは忘れない」「僕もだJB」という言葉に、ONEの「こんな永遠なんていらなかった」「ずっと好きだったんだ、付き合ってくれ」というその言葉に込められた(と感じられる)視線を。
 レビュー、書かなきゃね。



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