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《雑記帳5月》
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5月25日 シンクロナイズドフラッター

 ギャルゲーにおけるシンクロ、特に争点はONEの瑞佳シナリオにおける浩平に関する点らしいけれど…
 …うーん。
 あれでONEにシンクロできないっていうのは、凄く勿体無い見方をしていると思う。

ONEやKanon、特に瑞佳シナリオって言うのは、第三者的視点でシナリオを眺めるための仕掛けが随所に施されている。
 例えば一番初めの昼食。長森と一緒に食事をする為には、「長森と〜」ではない、正反対の選択肢を選ばなくちゃいけない。
 あの時点で「なんでだろう?」という疑問を抱かせるようになっている。
 そして話題の告白以降のクリアする為に必要なキッツイ選択肢は「なんでこんなヤなことせにゃアカンねん!」という感情をプレイヤーに呼び起こさせる。
 ここで「クリアする為にはそういう疑問や感情はともかく、やらなアカンのよね」という冷静な第三者的視点の自分を見つけた時――
 ONEという作品の仕掛けやシナリオの意味が見えて来るようになっているわけだ。
 つまりは、第三者的に永遠の世界で少女と共に浩平の行動を見詰めている、「ぼく」という視点の意味やね。
 エヴァ、その漫画版でシンジ君が言っている、「悲しいことや辛い事がある度に、これは自分ではないと他人事みたいに見つめているもう一人の自分」とか、そういう感じ。

だから、長森イジメの選択肢ってのは、多くのプレイヤーが感じるであろう「あんなことするなんて納得できない」とか、「なんで自分はあんな行動をとっているんだろう」とか、そういう感情のままで選ぶ事に凄く意味があるわけだし、その感情は、そのままクリアに向かっている「ぼく」とほぼ100%のシンクロするようになっているわけだよね。
 このプレイヤーと操作キャラを、浩平の中の「もう一人の自分」として物語的に100%シンクロさせてしまうっていうのが「ONE〜輝く季節へ〜」っていう作品の特徴であり、凄いところであると思うのだけれど。

Kanonにしても、あれがお伽話だというのは、大人の目から見るための御伽噺だということで、こういう風に感情移入して読むものではなく、一歩引いた視点からある種ノスタルジックに見る物だって事なんじゃないかとか思う。
 真琴なんか、はた迷惑な想いを迷惑だと感じながらも、でも全部引き受ける祐一の物語で。
 祐一の真琴への愛情は、萌えとかフェティッシュ、男女間の恋愛感情ではなくて、親が子を見るような、父性愛にも近い、一種メタ的な視点からの「愛しい」という感情なわけで(故にONEと同様に祐一とのシンクロ率が高まりやすい)。真琴とのセックスなんかの儀式的な意味合いなんかも含めて、18禁ゲームとしての様式、お伽話の様式、成長物語としての様式、そういうシナリオ構造を理解すると、真琴に萌えているいないに関わらず、ぐっと来るようになっているという。

真琴シナリオで表現された家族というのが、祐一が「父性」を獲得していく事によって成立した関係であり、それが「ONE」において浩平が出来なかった事、得られなかった物であるという事を考えれば、ONEに対する「Kanon」真琴シナリオという物がなんなのかというのが見えてくると思う…というのは余談。母性は秋子さんで、名雪は…なんだろう?

…テーマとかメッセージだの泣けるだの笑えるだの、そういうのは他の作品でも小説でも映画でも幾らでも語れるし、探せばONE、Kanon以上の物なんか幾らでもあるけれど、こういうゲームならではの見せ方、感じさせ方というのはそうそう無いわけで、…だから魅せられて、いつまでも語ってんだよなぁ、私は。


5月26日 【RAY】[rei] 光線、かすかな光。(希望などの)光。ひらめき。

RAYFORCE切り絵 「RVA-818X-LAY、いや、零、聞こえるか?」
 返事はない。代わりに『声紋確認』の文字が端末に返ってくる。
「…完全に機械の反応だな」
 彼は自分でも気付かぬ内にそう呟いていた。
 ドクはシステムが生きている事を確めると今回の作戦におけるRVA-818X-LAYの役目のプログラムが入っているディスクをスリットに入れた。
 これが彼女の最後の戦闘になるはずだ。
「…すまない…零、仮にも育て親である私がお前を、お前の心をこんなに空虚な物にしてしまった…」
 読み込みの終わったディスクが吐き出されてくる。
 後は整備班の仕事である。
 彼らは機体から離れた。
 けん引されていく機体を見ながら彼は尋ねた。
「ドク、零というのが彼女の名前なのですか?」
「そうだ…如月 零。私にとっては実の娘のようだったよ…」
「…そうか…」
 彼はその名の持つ意味を思い巡らした。

 零。空虚な数量ゼロを示す言葉。そして静かに降る雨。

 事実、彼女はあの冷たい機械でできた惑星に降ることになるだろう。
 その名の通りに。

M.C.0185 第二次敵本星攻略戦 ・ OPERATION RAYFORCE(A-301号作戦)発動。


 以上はSTG界隈ではちょっと有名な小説・漫画サークル「KAZAKH」1992年のレイフォース同人誌「ON STANDBY」、その小説パートのラスト、辺境人女史の文章です。右の切り絵は盟友・伊奈氏の作品。
 …PS版レイクライシスをクリアしました。
 根性無しなので、結局残機を増やし、コンティニューしてのクリアとなったので、真のエンディングなのかどうかは定かではありませんが、エピローグを見た時、この小説とレイフォース本編のラスト、攻略ビデオに付け足された実写ドラマのラストを思い出してしまって涙、涙、涙。
 今から8年前、サターンもプレステも無かった頃に始まった「RAY」シリーズ。ゲーム性を高め、克つ画面演出となりうるロックオンレーザーという画期的なアイデア、そのグラフィックとBGMの狂っているとしか思えない美しさでSTGという表現の芸術性を見せつけた「レイフォース」。PS互換基盤で開発され、その優れたゲーム性の完全移植+αで「STGは売れない」という当時のコンシュマー市場での定説を覆した「レイストーム」…。
 「レイクライシス」は、「ストーム」のゲーム性と「フォース」の美麗さを兼ね備えた、そのシリーズの終わりに相応しい、素晴らしいSTGでした。
 STGというジャンルの歴史の中に閃いた一筋の光、「RAY」シリーズに敬意を表し、今一度この言葉を。
 …PENETRATION!


5月27日 遅くなってスイマセン

 C.Fさんの5月26日の日記へのお返事。

えーと。
 「完全ゲーム」という言葉を、前回もちょっと挙げた、みやかわたけし氏のコラム「コモンノリッジとネットワークRPG」(余談ですが、最後に渕上さんとベルクソンの名前が出てきたのにはニヤリ)に出てくる「完備情報のゲーム」と同じ意味ととって…、大体同感です。同コラムの「なぜRPGはプレイ前にコモンノリッジを確立することを放棄するのか」という項目とか、WhiteさんのGameDeepの種々のコラムなんかを引き合いに出してゲームというジャンルの物語表現性について騙って語ってみたい気もしますが、それは今回は置いておくとして、「ONE」「Kanon」について。

こちらのKanonレビューにおいて、現実とは「沢山の選択肢と偶然、必然、そして選ばれなかった選択肢の結論によって構成されている」と表現されています。それはONE冒頭において浩平が語る事と同意でもあり、ONE、Kanonという表現方法を最も良く言い表している言葉だと思います。

しかしこういう朝の光景にも慣れてきてしまっているが、よくよく考えてみると不思議なものだった。
それはなんていうか、ひとつ何かが違っていればここには至っていなかった、という奇妙な感覚だ。
これまでにも無数の分岐点があり、ここには至らない可能性がかなりの確率であったはずなのに、ここに至っている。
まあ裏を返せば、どこかには至るのだから、その時々でそんなことを思うのかも知れないが、それでも自分の人生として考えてみると、やはりこの巡り合わせは特別不思議だったりする。

ONE、Kanonというのは、自ら主人公の行動を操作する事で得られる感情移入度の高さそれによって頻出するプレイヤーとPCの物語に対する視点の二重構造問題フラグの立つ場所という明確な物語分岐点PCの知りえた情報とシナリオライターが設定した選択肢という二つの制約…、これら、つまりは「ゲーム」という物語表現が抱える長短含めた特色を理解し、演出として使いこなした結果としてああいう、ロールプレイ的PC視点、メタ的プレイヤー視点、その双方の視点をトリッキーに駆使した作風になっていると思います。
 天野や香里が完備情報を持っているつもりで選択する事から逃れて生きているけれど、完備情報を持っているはずの祐一やあゆ、浩平はそれに無意識にしろ意識的にしろ、気付かないようにして生きている。
 ゲームを進行させる事が持っているはずの完備情報を取り戻す事であるというシナリオ構造を見ていくと、完備情報を持っている事による選択のクリティカルさから逃れて選択を行っているという風にも見え、事実、シナリオ上でそういう理由付け(思い出したくないくらい嫌なことがあった)を行っている。
 そして、それはC.Fさんが指摘した佐祐理さんの「問題あり」という部分と重なり、プレイヤーが完備情報を持った上で真琴のシナリオをパスする時の心痛、栞や名雪のシナリオであゆを見送る時の感傷に代表される、各ヒロインの台詞や行動に見え隠れするバックボーンという感慨に繋がっていきます。
 それが「Kanon」や「ONE」の凄いところ、繰り返しプレイするゲームであるという事を使って因果と結論の関係を、ものすごく高次元なレベルで書ききっているという部分だと思います。

で、「ファントム」はKanonとはまた別の方法でゲームである事を利用して見せたわけですね。
 完備情報が無いところから、ノベルを読ませる事で完備情報をプレイ中に構築させていき、構築しきったところでクリティカルな選択を行わせる。
 まぁ、実際、これはC.Fさんが指摘するとおり、完備情報に基づいた選択のスリルではなく、二者択一、どっちを選んでも一方の最悪の事態を想起させる「スリル」なので、正確に言うならば、何も無いところから選択に必要な情報をプレイヤーに提示していった結果、選択肢が総当たりのフラグ立て作業ではなく、ゲームの面白さの肝、プレイヤーの「意志決定」と示す事に成功したというだけであり、それすら物語の演出として利用してしまったONE、Kanonと比べると大した事ではないのかもしれませんが、ゲームで物語を表現するという事の意味に無自覚な作品が目立つ昨今のノベルゲーム業界に置いては、ファントムの示した、単純ながら効果的な情報提示の方法と効果的な選択肢の使い方は、ONE、Kanonと並んで、物語がゲームであることを活用出来るか否かは、特別なシステム等ではなく、シナリオライターのゲーム製作者としての自覚とセンスにかかっているのだな、ということを強く思い起こさせてくれました。
 …ところで私、ファントムをクリアしたとき、勝手に「誰一人欠けることなく最後まで物語を綴り続ける」っていうのから予想してた「Air」のゲームの使い方をそこに見て吃驚したんでこういう形でファントムをゲームとして持ち上げてますが、一般的な評価としては「ファントムはゲームより映画で見たい」なんですよねぇ(^^;;


5月28日 宣言

『我々はMSというキャラクターを愛するものとして、その愛ゆえに盲目となってはいけないと思います。自分たちの異常な愛情は、やはりフェティシズムに属する異常な愛情であって、決して公平性や妥当性を持っているとは思えません。前にもこの掲示板で、「GUNDAM MILLENNIUMとは、好き嫌いや思い込みといった感情をことごとく排し、ツラくとも苦しくとも、学問の公平性のために敢えて客観に徹することである。」と定義しましたが、その精神だけはどうか了解していただきたいと思います。』

 これは模型誌「ホビージャパン」で「GUNDUM INTEGRAL」を連載している与謝野折檻氏が、主催するページの掲示板で幾度となく述べられた事です。
 私は氏のこのスタンスをベースに活動しています(踏襲しているわけではありません)。
 「ONE〜輝く季節へ〜」「Kanon」、或いはゲームというジャンルそのものの持つ高度な物語表現性を、そこに込められた可能性を、『面白い』とか『感動』とかいう決して客観足り得ない感情でなく、客観的な説得力を持った言葉で多くの人に伝えたいと思っています。

 ですから、私はtatuyaさんの分析を読んだ時、私は折檻氏と同じスタンスで書かれ(たように私には見え)、一つの学問として完成されたその素晴らしい内容に強い衝撃を受けました。
 ですが、私にとってtatuyaさんのスタイルは「Kanon」という作品を語るには理想ではなく、tatuyaさんの分析があるから自分がもう語らなくてもいいとは思えませんでした。
 tatuyaさんの分析の中に無いKanonの魅力というのもありましたし、なにより私が「Kanon」を語る上で理想としたスタイルは、作品に感じた愛情を切り捨てず、それすら客観として描ききるという、源内さんが「感想、批評からそして考察から評論へ」で論じているスタンスから実際に源内さんが書かれているスタイル、それよりももう少しだけウェットで克つ作品寄りなものでしたので。

 真琴についてのあの「β版」は、切り捨てなかった愛情が暴走して出来たレビューです。
 書いていく途中、ひどく一般性を欠いたものとなっていくのが分かり、愛情を作品考察に盛り込む事について随分と悩みました。
 結果的に書き上げたものは感情論溢れる感想文となり、批評としては失敗作となりましたが、同時に自分の「Kanon」に対するスタンスが間違いではないという確信も得ました。  「Kanon」という作品を成立させている物の中には、登場人物達の公平でも妥当でもない、異常な愛情があるという事を、改めて確信できたのがその理由です。

 「Kanon」という物語を成立させている最も重要な物の一つは、登場人物達の公平性も妥当性も無く異常な、盲目となってしまった、切り捨てられなかった愛情です。
 ですから、客観的に「Kanon」という物語を語るにあたって、ゲームを行う過程でプレイヤーがシステム的に感じさせられた感情を切り捨ててはならないと思うのです。
 けれど同時に忘れてはならないのは、そういった物は「Kanon」を構成する一部でしかないということです。
 愛情は切り捨ててはならないけれど、それが一番大事なわけではないのです。
 「想い」に対し、共感した、泣けた、感動した。
 それは部品への感動であり、「Kanon」全体を語るには、必要ではあるけれど、飽くまで多数の内の一つでしかないのです。

 私を含め多くの人が共感し、涙するような部分ですら「Kanon」という物語作品においては部品の一つでしかありません。そういう多くの部品一つ一つの意味を知り、集めて組み立て、一歩引いて組みあがりを眺めた時、初めて見えてくる「Kanon」という美しさを、それが見える視点を私は表現したいと思っています。


5月29日 それでも私は語り続ける

 Kanonは考察対象ではなく美的対象、「残光」をBGMに麦畑やものみの丘が映し出されさえすればそれで十分…というのには、激しく同意であり、テーマ性だの時代性だのメッセージだの泣ける話だのいうのはどうでもいい…というのを時折叫んだりもしているわけですが、それでも28日の宣言で書いたような理由だのなんだので語らずにはいられないというのは、ですねぇ…。どういう業なのかは謎ですが。
 あれほど、これについてだけは萌えていたいから語りたくない、考察したくもないと某掲示板で吠えていた「とらハ」についても、ついに掲示板でちょこっとやってしまったし。…ああ、なんなんだこの衝動は。

 惚れてしまった物を考察するということは、愛で盲目となった目をもう一度見開いて、欠点にも目を向けるという事であり、また、takitaさんも掲示板に書かれていた通りで、美的対象として「感じて」いた物を、考察対象にするということは、時としてその感じた感情を切り捨てる行為であり、直感的に「感じた」事から遠ざかる事になります。
 「萌え」とか「感動」とか、そういうのを排除していった先にあるのが批評であり、考察であるからです(…印象批評という物もあるけれど)。
 これは、はっきりいって、好きな作品であればあるほどに、辛い行為です。
 だから、普通に考えたら、死ぬほど好きな作品にそれをやるなんて、正気の沙汰ではありませんね。
 好きな作品であるなら、そんなことしないで単純に萌えてるほうが楽だし、幸せでしょう。
 じゃあ、なんで私は好きな作品であればあるほど考察したがるのでしょう? …マゾなんでしょうか?<そのケあるよねぃ…

 実を言うと、言葉にしなくとも自分の中では既に答えは出て納得しているのですが、不特定多数とこういうことについて対話するにあたっては、そこら辺をある程度明確にしておいた方が良いかと感じますので、今回、そこら辺をつれづれとですが、書いておこうかと思います。
 いきなり一言で言うと、私が好きな作品を考察するのは、消耗品にしたくないからという事になるでしょうか。
 そもそも流行の作品だの、記号フェティッシュな眼鏡っ娘、ケモノ、メイドだのいう「○○萌え〜」っていう擬似恋愛感情は、現実の恋愛信仰にと同じで、一時自分を騙して精神を安定させる為の拠り所であり、ニトロブーストのような消耗品的性格を持っています(別に恋愛でなくても、共通の話題だとか、「うぐぅ」とか「あぅー」だのいう合い言葉を一時提供し、一定時期のコミュニケーションの拠り所となるコミュニケーションツールいってもいいですが)。
 私は好きな作品やそこに出てくるキャラを、精神安定の為の消耗品として、ただ使い捨てるのがなんか嫌だったんですね。
 それは終わってしまった作品から安易なヤマ無し落ちなし意味無しな縮小再生産を行って骨の髄までしゃぶり尽くして消費を長引かせていこうなどという能率を考えてのことではなく、本当に好きで好きで堪らないから、消費しきった後も忘れたくない、ずっと胸に抱いていたいという、実に感情的な考えからくるものでした。

 ようするに、私には恋愛感情はいずれ醒めるから、結婚する相手は恋した人でなく、一緒にいて疲れない空気のような人がいい…という持論(どっかの女性政治家も似たようなこといってましたね)があって、本当に惚れ込んだら、持論に乗っ取って、流行り病のような一過性の恋する気持ちが無くなっても、欠点や粗や錯覚に気付いても、それでも一緒にいられるように付き合っていきたいと思うわけで、敢えて考察して、不確かな感情を少しずつ、少しずつ省いて、付き合っていく物の本質を暴き出し、その後に備えるわけです。

 熱病に浮かされて「萌え〜!」って叫んで一時を駆け抜ける、祭のような太く短い恋もいいけれど(それはそれで思い出になるだろうし)、細く、長く、静かに、しっとりと寄り添う形で愛していきたいな…というのが私の愛の形で、それがああいったスタイルの考察を作り出すんだと思います。
 しかし、これって、いわゆる卒業とか足を洗うとか、そういう可能性が非常に低い、実に性質の悪いハマり方ともいえますな。まぁ、好きでやってるんだからいんだけど。

…これってシェイクスピアとか考古学に学生だの学者だのがハマってるのと似たような形…とか言ったら怒られるかなぁ。
#元々ブンガクだの演劇だのにハマる素養を持っていた若者が、時代的にその延長線にある表現であるところの映画だのアニメだの18禁ゲームだのの方に興味が移って、そっちの研究が始まったのが20世紀末…とかいう卒業論文書いてる学生いそうだな。顔文字についての論文で卒業する人もいるんだし(^^)


5月30日 6月1日では遅すぎる その1

「大丈夫ですか十六紋さん、メチャクチャですよ。血ィ出てますよ」
「ああ…迷惑かけたな西等里
「だが今まで馬場のプロレスを馬鹿にしていた連中が、死んだ途端に急にファン面し始めやがったのがガマンできなくてな
「その気持ちはわかるけど、ファン面の芸能人、TVレポーター、ワイドショーの司会とかドツキ回すのメチャクチャや… 警官呼んで撃たれてたし…」
「なぁ西等里。人間は必ず死ぬんだな。あのジャイアント馬場ですら死ぬんだもんな」
「え」
「馬場が死ぬまでオレはそんなこと考えた事もなかったよ
問題は死ぬまでに何が残せるかだ
馬場が今の全日を残したように(#)

オレたちプロレスファンは 何が残せる

徳光康之「最狂超プロレスファン列伝REVENGE COUNT.4」より抜粋

 なんで6月に入っても5月の日付で雑記を書いてたかというと、これが書きたかったからだったりします(この雑記を書いているのは6月14日。27日の分は12日)。
#そんな事をしている間に、上の引用台詞に出てくる全日本プロレスは分裂してしまいましたが…
 塩沢兼人が逝き、ジャンボ鶴田が逝った5月。
 適当に追悼のコメントを書き、イベントとして消費し、村上龍の小説にあった、何かを済ませてしまう気持ち悪さを感じてもよかったのですが、折角だから、久しぶりに感じた「死」について改めて考えてみました。
 …結局、行き着いたのは、何が残せるかという、引用文の結びと同じ命題でした。
 ジャンボ鶴田や塩沢兼人は、何を残したのか。自分は何を残せるのか。


5月31日 6月1日では遅すぎる その2

 某エロゲークリエーターも絶賛していた、サイモン・シン「フェルマーの最終定理」を読んでいます(この本についてはこちらのレビューが詳しい)。
 ピュタゴラスを受け継ぎ、17世紀にフェルマーが遺した「最終定理」が1995年にワイルズによって証明するまでの、幾代にも渡る数学者達の挑戦の軌跡。
 そこには、血や遺伝子とはまた違う形で連綿と受け継がれた物がありました。
 それは数学者達がその生涯の中で生み出した概念であり、公式であり、数学特有の、決して色褪せない絶対の真理達。
 世代毎に積み重なっていったそれらは、我々の生きているこの時代になってワイルズの最終定理への挑戦の為の武器となりました。

 最近、私のページをきっかけの一つとして創作活動を始めたというような内容のメールが何通か届きました。
 喜び勇んでその著作を拝見させていただきましたが、どれも本当に素晴らしい出来で、私は舞い上がって、とある方へのメールの中でもう死んでもいいなどと書くような有り様でした。

 自分が何を遺せるかという事を考えた時、私は自分の今までやってきた事から考えるに、残念ながら、恐らくピュタゴラスやフェルマー、ワイルズのように何かを遺すような事は出来ないだろうという事に思い当たりました。
 でも、代わりに、自分にはメルセンヌ神父のように、何かを遺せる人間に、それを遺すきっかけを与える事は出来るのではないかという奇妙な確信がありました。自分には誰かが遺したものを、他の誰かに伝える手助けが出来るのではないかと。
 結果として、今、このページがあります。
 そしてこのページでの活動は、何人かの人に、遺された何かを伝え、それを元に新たな物を遺すきっかけを与える事が出来たようです。

 虎は死して皮を残し、人は死んで名を残すといいます。
 数学者は概念を、音楽家は音楽を、小説家は小説を…。
 それぞれ、遺します。

 アイスキュロスが忘れ去られても、アルキメデスは記憶されているだろう。言葉が滅んでも、数学の概念は滅びないからである。「不滅」とは愚かしい言葉かもしれないが、それが意味するものになる可能性は、多分数学者がいちばん高い。
G・H・ハーディ

 私がかつて遺したいと考え、今、誰かに遺してもらいたいと思っている「物」は、多分、不滅という物からは遠い物でしょう。
 私が魅せられた物語、そこに込められた想い、表現する為の技術は作品という完成系で何年か残るかもしれません。
 しかし、シェークスピアがケンブリッジ大学の必修科目から落ちるかもしれないように、いかな名作も名曲も、いつかは色褪せ、忘れ去られていくように、きっと、いつかはその完成系は忘れ去られていくでしょう。

 でも、物の形は消えても、それでも、そこにあった技術であったり、そこに感じた感動であったり、なにより、作品という形にして伝えたかった何かの断片、創りたい、伝えたいというその想いそのものは、誰かの中でなんらかの形に変化しながら、連綿と受け継がれていくことでしょう。

 それを見て感じた「誰かに伝えたい」というその想いは、私を突き動かし、伝える為に紡いだ想いと言葉は、また誰かを突き動かし、それはまた、きっと誰かを突き動かすでしょう。
 私の名前は残らない。
 作品も残らない。
 けれど、私がその「作品」に突き動かされてした事は、私でない誰かを突き動かし、その手から別の「作品」を生み出し、きっとそれは、また誰かを突き動かすでしょう。

 何を遺せるか? 何を遺したいか?

 それについて私が出した答えは、自分の血でも作品でも想いでも名前でもなく、それら何かを「伝えていこうとする心」であり、伝わっていく事であり、その伝播の一つとなることでした。
 それは考えてもらう事であり、形ではない何かを受け継いでもらうことであり、それをさらに他の誰かに伝えようと何かをしてもらうことであり――
 つまりは、私はリレーの中継として、先人の遺した物を次に伝えたかったのです。

 それをある意味で達成できた今、もう、いつ死んでもいいな、なんて、結構本気で思っている雪駄がいます。
 私が死んでも、このサイトが無くなっても、「ONE〜輝く季節へ〜」や「Kanon」という作品があった事が忘れ去られても、それでも、自分がした事でそこにあった何かが、形を変えて誰かの中に受け継がれたのが確認でき、それがまた誰かに受け継がれていくだろうというのを自分の目で見て確信できたから。

 …まだ死にませんけどね。まだまだ見たい物、『伝えたい事、いっぱいあるの』で。



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