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《雑記帳6月》
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6月26日 アンダーグラウンド その2

 足がつく事を嫌って地下に潜るからアングラなんだよね。当たり前のことだけど。

マッドテープ、マッドムービーってのは、その違法性ゆえに地下に潜ることを余儀なくされている表現、遊びであるわけだけれど、製作者の名前が表に出てくる、というか、自らの手によって公表されているに等しい今のKey系静止画ムービー業界というのは、どこら辺がアングラなんだろう?
 作品の製作者、提供者の名前が表に出てくる、視聴者が製作者に感想を伝える事が推奨されている、製作者がそれに公然と謝意を示す…。
 それはおかしいんじゃないか? 不特定多数とコミュニケーションを取りたい=有名になりたいなら、違法行為をするべきでないのではないか? それではワレザーを始めとする違法コピー野郎共と何も違わないのではないか? そもそも、著作権侵害をしている身で自分の作品の転載、再配布を禁止するというのは矛盾しているのではないか…

 …そんな事が2chの某板で議論されていたのを見た。

再配布、転載に関しては逆にアングラ故に、とか、違法性を理解しているからこそそうしているという向きもあると思うのだけれど、確かに静止画ムービー業界というのは、かなりの矛盾を抱えた世界ではある(アングラの要素を抱えるものは殆どがそうだが)。
 まず静止画ムービーというものは著作権侵害している物ではあるわけだが、違法コピーとは逆に、ベースとなった著作物のCM要素がとても強い。そしてファンアート、ファンフィクションとしての側面が更に強い。

いわゆる同人パロディ作品と呼ばれるファンフィクション、ファンアートといった二次創作作品は、その作者と視聴者の間に原作を媒介として積極的にコミュニケーションを構築していこうという意識が存在する。
 構築されたコミュニケーションの中には、見に来て貰っている、見させてもらっている、という意識が生まれるが、そのうち二次創作家はファン活動を行なっているという意識と創作家としての意識のせめぎあいからそれを否定し、見に来て貰っているわけではなく「見に来させているんだ」という主張を多かれ少なかれ持つようになる。
 ここで視聴者の中にも二次創作とはいえ、作品を「見せてもらっている」のではなく(いい意味で)「見に来てやっているんだ」という意識が生まれればいいのだが、生まれない場合、共にファン活動を行なっていたという観点から、建前とはいえ二次創作家と対等の関係にあったと信じていた視聴者達と作家との間に齟齬が生じる事となる。
 「見てやっているんだ」という意識が生まれない多くの場合、視聴者は卑屈に「見させてもらっている」んだからしょうがないとなって、作家の機嫌を伺うだけの取り巻きと化し、作家や作品にとって毒にも薬にもならない(どころか様々な悪影響を与える)烏合の衆となるか、「見てあげている」のにその態度はなんだ、というアンチファンと化す。

静止画ムービー業界は、違法性云々の問題と当時に、こうしたファンフィクションの抱える問題も抱えている為に非常に多くの矛盾を持ったややこしい世界となっているのだ。
 静止画ムービーの抱える問題にははっきりいって、この世にある(数学以外の)殆ど全ての事柄と同じように絶対の正解はない。
 だが、抱える問題を自覚し、自分がそれに対しどういう態度を取るか、自分自身の正解を導き出すのは不可能ではない。
 とりあえず、私は静止画ムービーが

1、作品を公開する事も受け取る事も法に触れている事
2、ファン活動である事
3、製作者が試行錯誤して作り出した作品であること

 せめてこの三点はどんな時も決して忘れないでいようと思う。


6月27日 ファンフィクション

 昨日の雑記でも触れた2chでの議論の中で、二次創作における原作への愛情についての話題があった。
 問題提起として、原作への愛情が無い作品は駄目だ云々。
 まぁ、二次創作をファン活動として見る観点からすればそうなんだろうな、と思う。
 けれども出来上がる作品の出来に関していえば、愛情は必ずしも重要ではない(以前にも似たような事書いたような)。
 作品の出来に対して重要なのは愛情ではなく才能である。
 才能というのがトーマス・アルバ・エジソンが言うように、その大半が集中力と持続力(努力と根性)であるのなら、愛情はその呼び水にはなりうるから、あながち愛情が無い作品は駄目だというのもそれ程的外れではないのかもしれないが、愛情でなくとも、富、名声、力などを得たいという向上心や、憎しみ、哀しみ、その他諸々、愛情の代わりになるものもごまんとあるので、それ等があるなら、愛情は良い作品を作る為に絶対必要というわけではないのだ。
 もっとも、「好き」という感情表現は私にとって見ていて非常に幸せになれるものであり、それが感じられる作品は出来の良し悪しの評価とは関係無く好きになる可能性がとっても高いのだけれど。
友人の「好きという印象批評はオッケーだけど、嫌いという印象批評はNG、見たくない」という意見に全面的に賛同します。
 というわけで、その板で一部の方に問題とされた、神月社氏の日記での弁に対して、私は肯定と好感の意を示す次第であります、ハイ。

 で、ファンフィクションついでに、ONE、Kanon好きにおススメの「EVA-FF(SS)」紹介など(50音順、順不同)。

加古いくさんの「EVANGELION:Remembrance」
こちらのLittle Verseに掲載されています。
「アルジャーノンに花束を」へのオマージュであり、EOE(劇場版「THE END OF EVANGELION」)のアフターとしてきっちりと完結させた傑作です。
私は特にヒロインのラストの台詞、その一言が胸に刺さりました。
Kanonの真琴シナリオと比較してみるのも面白いかもしれません。

けんけんZさんの「すぎゆく夏」
Holy Beast〜聖なる獣〜さんにて連載中。トップ>小説のお部屋>けんけんZで辿り着けます。
キャラクターはEVAですが、内容はEVAを上手くモチーフとしたオリジナルで、本編を知らない人でも楽しめる作品。
永遠についてあれこれ考えている方、ONEの障害者シナリオやKanonの栞シナリオについて一家言ある方にお勧め。
…Act6、7は、事ある毎に読み返してしまいます。

漣たきをんさんの「EVANGELION:SACRIFICE」「あしゅかでしゅから」
改めて何かを書くとなると――迷いますね。
………
……
…駄目だ。読んで下さい、としか言えない。
……えっと、読んで下さい。

BIG.Tさんの「EVANGELION 2 (Zwei)」
「永遠のアスカ」
そのフレーズから期待した、それ以上のものがそこにありました。
アスカファンは「永遠のアスカ」を読む為だけにでも読破するべし。

本田透さんの「夏ヘノ扉」「電波少女」
「夏への扉」は…エヴァの全ての謎を解明し、ハッピーエンドに持っていったアフターEOE(ただしアスカ重視)。
なんというか、スタッフでもなければお金も入らないのにあそこまでやってしまう事に対しては…凄いとしか言いようが無いです、ハイ。個人的には「A-ver.」のが好きですけど。この作品が頭にあった事が、私がONEのSF的な構造に気付く(思い付く?)きっかけの一つだったりします。
「電波少女」は、エルフの「同級生2」を下敷きにした学園エヴァです。大筋は本編準拠だそうですが一応ハッピーエンド…だと思います。無茶苦茶笑えます。ただし、後半にいくにつれて…。ある意味での早すぎたONE。文章だけで1MB超えますが、読む価値はあり。ただ、精神的に余裕の無い方は読まない方がいいかも。

6月28日 rocket summer

「夕焼けがいつも好かれているのは、それが一度だけ起こって消えてしまうからだわ」
「しかし、リーナ、それは悲しいことだ」
「ちがうわ、もし夕焼けのままで飽きてしまったら、それこそ本当の悲哀ね。で、あなたは不可能なことを二つしたのだわ。速いものをゆっくり動かして、そばにとどめておこうとしたわ。はるか遠くのものをうちの裏庭に持ってきたけど、それはもともと裏庭にあるはずのものでなし、ただこういうだけなのよ。『いいえ、あなたは決して旅行はしませんよ、リーナ・アウフマン。パリを決してこうして見ることはありませんよ! ローマを訪れることは断じてありませんよ!』でも、私はいつだってそれはわかっていたんだから、なぜいまさらいうことがあって? それくらいならむしろ忘れてしまって、無しですませたほうがいいわ、レオ、なしですましたほうが、ね?」
 レオ・アウフマンは機械に寄りかかってからだを支えようとした。驚いて、やけどした手を引きはなした。
「そこでどうすればいいんだ、リーナ?」と、彼はいった。
「それはわたしのいうことじゃないわ。わたしにわかることはただ、これがここにある限り、わたしがここへ出てきて、あるいはソールが昨夜のように出てきて、思慮分別に逆らってなかに坐り、はるか遠くのあの色んな土地を見て、そして毎日泣いて、あなたにはふさわしくない家族になるってことね」
「わからん」と、彼はいった。「どうしてこうまちがってしまったんだろう? ちょっと調べて、きみのいうことが正しいかどうかみてみよう」彼は機械のなかに腰をおろした。「すぐ行ってしまわないだろうね?」
 彼の妻はうなずいた。「待っているわ、レオ」
レイ・ブラッドベリ「たんぽぽのお酒」より抜粋

 九郎太さんにブラッドベリはどれがお勧めですかと訊かれ、「夏ですから『たんぽぽのお酒』は如何ですか?」なんて言ったついでに自分でも読み返してみたところ、そこにONEを見つけてしまった。この「幸福のマシン」の話だけではない。

「ねえおまえ、おまえはいつまでも時間というものがわからないんじゃないだろうかね? おまえはいつも、今晩おまえが現にある一個の人間であろうとするよりも、過去にあった物ごとになろうと努めているね。どうして入場券の使いのこりや劇場のプログラムをしまっておくんだね? あとになって苦しくおもうだけだよ。捨ててしまいなさい、おまえ」
 しかしベントレー夫人はかたくなにそれらをとっておいたのだった。
「それはきっとうまくいかないよ」と、ベントレー氏は、紅茶をすすりながら、つづけたものだ。「いくら一生懸命にお前がかつてあったものになろうとしてみたところで、いまここに現にあるものにしかなれないのさ。時間というのは催眠術を行なうものでね。九歳のときには、いままでずっと九歳で、これからもずっと九歳のように考えるものなのだ。三十歳のときは、自分がいつもその中年の輝かしいふちにいて、ちょうどうまく均衡をとってきたもののようにおもえるのさ。さらに七十歳を越すと、いつも永久に七十歳でいるわけだ。現在の中にいるわけで、若いいまとか、年老いたいまとかに、罠にかかったように捕まってしまうわけだが、そのほかにいまを捜しても無駄なのさ」

 ベントレー夫人の話(はじめて読んだ時はえらい怖かった)も、タイムマシンの大佐の話も、かなりONEだ。
 本というのは、読む度に違う感動や発見をもたらすといったのは柳沢教授だったか。
 …確かにその通りだ。
 かなり感動。このまま本文全部を書き写していきたいくらいに<違法です

 しかし、ブラッドベリの文学に感じるのと同じものをギャルゲーをプレイし、爆笑しながら、萌えながら発見出来ていたというのも、物凄いことだよなぁ。
 うーむ、この時代に生まれて本当によかった。


6月29日 真夏の夜の夢

 この夏の当サイト推薦図書であるところの「星虫」をようやく購入&読了。
 推薦しておいたお陰か、小島さんを始めとする何人かの読者さんにご購入いただけたようで、評判も良いようで、嬉しい限りです。
 小島さんのレビューページに自分の名前が登場したときは、もう、あははーの佐祐理さん状態。
 星虫が「夢」のメタファーであるなんていう素晴らし過ぎる言を発見した時には、雪兎さんと会話するさくらっち状態(ようするに、はにゃ〜ん)でした。
 というわけで、小島さんのレビューに激しく同意。
 手に入れるまでえらい時間がかかったとか(小島さんやsugichiさんの掲示板や日記での購入記述に密かに歯ぎしりしてました(笑))、好きだった台詞が削られていたっぽいとか(※)、探し回った挙げ句に折り目のついた本を手に取ってしまったとか、色々ありもしましたが、今回の目的は自分が読むことではなくて、他人に読んでいただくことでしたんで、まぁ、細かいことはどうでもいいっす(売れれ〜、売れて「イーシャの船」刊行も成し遂げるのじゃ〜)。
 しかしこの作者さん、佐藤さとるに名前と10年前の著作を覚えていただけていた、というのは、本当に…本当に、大事件だったと思います。だって童話「誰も知らない小さな国」の、あの、小さい頃に夢中になって読んだ、コロポックル達の物語の作者ですよ? 良い話だな、凄く羨ましいな、と思いました。

※ネタばれなんで隠します。『死を覚悟した二人の会話のなかにあったと思うんです。「自殺する人って、勇気あるね。こんなに怖い事に向かっていけるんだもの」云々というような台詞が。思い違いかもしれませんが。

○「夢」
 夢と日常については、確かに同じだと思います。
 等価であるそれ等の、どちらを選ぶかという。
 でも、一般的には日常を選ぶことの方に周りは味方し、納得し、妥協というイメージが付きまとうのも事実です。
 もっともそれは自分を含む多くの日本人にとって日常が勝ち取ったものではなく、与えられたものであるという事から来る勝手なイメージであり、私がささやかだといったそれは、望んでも手に入れられる物ではなく、失った時にはじめて欲しいと思うものであり、本当は妥協した物でも、ささやかな物でもないのですが。
 けれど、選ぶ時に捨てる物を知覚しなくて済む…とまではいいませんが、日常というのは、選ぶのにあまりにも正しすぎる気がして、馬鹿が好きな私としては、世界の他のこと全てを捨ててまで夢を追いかける、正しくない選択の方を応援してしまうのです(タチ悪いな)。
 私が「星虫」を魅力的に感じるのは、それが夢を追いかけた馬鹿の話だからなんだろうな、とか思います。


6月30日 summer visit (song by Tomomi Kahara)

 なんかこの歌、好きなんだよな…。良い歌だとは思わないのだけれど。

 C.Fさんの本への原稿のタイトルを決めました。

「最初で最後の欠片」

 漫画「ベルセルク」に出てくる印象的なフレーズの引用。
 ちなみにオリジナルは上に「この世界に決定的に足りない」というのがつきます。
 「この世界に決定的に足りない、最初で最後の欠片」
#それが何かというのがあの漫画のテーマの一つなんだろうと思います。
 で、肝心の内容はそれへの自分なりの答えについて(一言で済むんですが、とりあえずはないしょ)。
 永遠についてはC.Fさんがとことん書かれるでしょうということで、永遠ではなく、浩平が何故に世界から忘れ去られ、そして帰ってきたかという、その辺りを論じたいと思います。

「何を願うの?」
「幸せではないのね」

 エヴァやドラマCDからの引用を絡め、ある意味ではGameDeepで軽く書く予定のONE論を徹底的に…という具合になる…のかな?(予定は未定)。
 とりあえず、〆切も迫っているので、本格的に書き始めますですφ(・ω・ )かきかき

ところで、ベルセルクって、黒い剣士編と黄金時代編を別々の雑誌に並行して連載して、蝕と蝕もどきを同時に発表してたらすげー面白かったろうに、とか思います。妄想ですが。
#まぁ、黒い剣士編と黄金時代編を別シリーズにして欲しかった、てのは昔からずっと思ってますが。
#4巻以降、いつ話が戻ってくんのかが個人的に気になってしょうがなかったし…
 過去話は過去話で完成してるし面白いですけど、あれをガーって見せられた事によって、あの初期の、ガッツの目茶苦茶な強さと謎だらけな部分をドキドキしながら見てた感覚が、今の黒剣士編に戻っての連載見てても感じられないのがちょっと惜しい気がするんですよね(並行連載してても結果は同じだったかもしれませんが)。
 そういえば、パックを介しての物語やガッツへの感情移入という要素も薄れてしまいましたね。
 最近めっきりギャグキャラですが、当初のパックって、読者の視点を表すキャラクターで、タイトルロールの「ベルセルク…」って台詞とか伯爵の娘(テレジアだっけ?)なんかに対する行動、それでもガッツについて行こうとするところとか、読者の視点と感情を主人公であるガッツに代わって引き受けてくれていたんですよねー。あれは本当に素晴らしい配置と使い方でした。
 今は普通にガッツに感情移入して読めて、グリフィスやキャスカへの感情が痛いほど伝わってきて毎回ドキドキもんであったりもするんですが、たま〜にパックの視点から見ていた三巻までの空気が懐かしくもあります。…贅沢な漫画だのぅ。




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