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《雑記帳 10月》
【9-3】 【10-1】 【10-2】


10月1日 ガンダムとFSS

 「機動戦士ガンダム」(一作目)に関して、SF考証はさて置き、前半は戦場ドラマ、或いは少年少女の成長物語として良く出来ているが後半はニュータイプという訳の分からんものが出てきて駄目だというオールドファンをたまに見かける。
 「ザンボット3」等でも富野は『決して分かり合えない』人間の愚かさや弱さというものをリアルに書いてきて、ガンダムいうんはその集大成的な人間ドラマや思うたのに、『分かり合える』というそれはなんやアカンやろうと。
 分かり合えない人間が宇宙世紀になってまで愚かな戦争を起こして、それに少年少女が巻き込まれて必死に生きて、なんかしようと頑張って。そういうドラマだったんちゃうんかいと。
 そういう彼らの生きた一年、一年戦争の終結までを俺等は見届けて、辛いけど、苦しいけど、それでも人間は生きていかなアカンのやなぁ、そうやって生きていった先が結局また愚かな歴史の繰り返しであったとしても、その中には精一杯生きた人間の面白さとか愛しさとかそういうんがあって…とか、そういう感動を得られるもんやったんちゃうんかいと。

 ちなみにワシもそういう気持ちは判る。

 歴史モノとか年代記とか見てて、時代が違うても同じ理想を見てた学者や為政者なんかがいてて、同じ事思うた後の人間が先人の遺産を引き継いで完成させるようなんを見て嬉しくなったり、過去と同じ過ちを結局繰り返しとる連中や自分等の愚かさを見て、悲しいなぁと寂しく思うたり、こういうことを思う自分も全部ひっくるめて、俺等みたいんも奴等みたいんも過去に何人もいて、きっと未来にもおって同じようなことをやったり思ったりするんやろうなぁ…と、人間ていうのはなんと面白く、愛しいものやろうかと考える浪漫というか感動というか、そういうのは凄く良く分かるから。
 でも、そういう人間ドラマにしないで(いや、実はそうしとるんやけどな、ガンダムは(後述))、ニュータイプという「人の革新」をドラマの中に存在させ、謳ったガンダムいうんも、凄く判るし、大好きなんである。

(書きかけ)


10月2日 かえる

 「人は分かり合える」という可能性を示したララァと「永遠はあるよ」っていうみずか。
 でも「こんな永遠なんて、もういらなかった」と帰って来る浩平。
 でも「ごめんよ、僕にはまだ帰れるところがあるんだ。こんなに嬉しいことはない。ララァには何時でも会いに行けるから…」と帰ってくるアムロ。

 エヴァ第弐拾話、そして26話。「ただ、会いたかっただけなんだ」それだけを理由に帰ってくる碇シンジ。

 AIR。

 そこに帰らずに、
 「さようなら」をした二人。


10月3日 ここ

「連れていって、ここでない何処かへ」

 天夢航海でもエヴァでも十二国記でもいいや。
 逃げたいよね、「ここ」から。
 でも結局、逃げてしまった後で気付くんだよな。
 そこが嫌で逃げたかったわけじゃなくて、そこで上手くやれない自分が嫌だってことに。
 ここから逃げたかったわけじゃない。戦うことから逃げてただけだとかナントカ。

 好きとか嫌とかそういうことじゃなく、「ここ」で生きていかなくちゃならないんだ。
 それが前提条件。

(そうして、あたしたちはずっと、そうやっていくんだ。明日も、その次も。どこまでも、どんなことがあっても、あたしたたち二人は)

 淡い後悔と少しの寂しさ、一片の誇りと小さな希望を織り交ぜた、複雑な思いを胸に抱きながら……。

 奇妙な安堵感。

 優しくて
 強くて、悲しくて
 そして愚かな人間達よ

 愛していますよ…
 そんな人間達を…
 私は…

 愛しいよね。そんな人間達が。自分達が。
 でも、それに気付いてしまったら苦しいよね。「ここ」からどこへも行けない自分達が。
 「ここ」が嫌いなわけじゃなくて。「ここ」の苦しさも楽しさも美しさも醜さも、すべてひっくるめて愛しいと思うけれど。
 何処にもいけない自分達が息苦しくて、飛びたくなる。
 富野はニュータイプという概念で人を飛ばしてみた。けれど飛んだあとで気付いた。
 再確認した。飛んで、離れて、改めてまた、「ここ」で生きていくことの愛しさを。

(そうして、あたしたちはずっと、そうやっていくんだ。明日も、その次も。どこまでも、どんなことがあっても、あたしたたち二人は)

 結局、帰ることを、「ここ」で生きる事を選んだ。人間は飛ばないからこそ愛しいのだと。

 淡い後悔と少しの寂しさ、一片の誇りと小さな希望を織り交ぜた、複雑な思いを胸に抱きながら……。

 無限に。僕らは人である限り、「ここ」に帰って生きる。それを無限に繰り返す。
 それはきっと不幸ではないと思う。むしろ幸せなことだと思う。
 けれど、幸せだとか不幸だとか正しいとか間違ってるとかそういう事と関係無く。
 飛びたい、無限の終わりを見てみたいという衝動は存在するのだ。

 永野護はFSSにおいて、人間は無限を繰り返すそれ故に愛しいということを多くの人間達やコーラス6世で示し一方の主役としながらも、彼らは飛べないとして(或いはその愛しさ故に飛ばせずに)、人工生命体と神に飛ぶことを託した。
 人間を飛ばすには、無限を生きる人間を愛しいと思う感情は邪魔なのかもしれない。
 飛ばすには、飛ぶには、人間に絶望させれば、絶望すればいいのかもしれない。
 でもそれは逃げる事で、飛ぶ事からは退行している。

 だから。

 人間が飛ぶには、その無限の限界と愛しさを理解した上で、それを示した上で自分で終わらせ、飛ばなくちゃいけない。
 飛ぶ側、見送る側、双方が、それぞれに。
 飛びたつ前に「ここ」を、無限を確めなくてはならない。その愛しさを。
 それを確め、その上で宣言しなくちゃならない。

 さようなら。



10月10日 AIRメール

 AIR雑記に「ジュンさんからのAIRメール」を掲載しました。
 AIRについてはこれと第二BBSのWhiteさんの投稿記事でAIRの(個人的な)両翼についての自分の見ていたビジョンが明文化され、揃ったような感じですっきり(勿論、全てではないし、お二方と完全同一な意見でもないけれど)。



10月11日 粉雪

 KISAさんに頼んで夏コミで買ってきてもらっていたtakitaさん参加のKanon二次創作ノベルゲーム「こなゆき」。
 タイトル通り幼き日の名雪と祐一の交流を描いており、冬休みに水瀬家に遊びに行く条件「宿題をそれまでに済ませておく」を 名雪に会いに行くためだけに血を吐く思いでクリアしている祐一(ちょっと誇張)とお菓子作りを練習してたりとか色々用意して祐一が遊びに来るのを本当に楽しみに待ってたんだなぁというのを行動・表情・口調…体いっぱいで表現している名雪が一緒に遊びに行って、一緒に夜更かしして、一緒に寝て、一緒に初詣行って、一緒に(以下略)、それを秋子さんが優しく見守って…という、非常にほのぼの楽しい日々が「はにゃ〜ん」であり、それ故にとらハ2の美緒の如く最終日の「祐一帰っちゃやだ〜」な名雪とか「俺だって寂しいんだよ!」な祐一がしんみりくる作品である。
 立ちグラの小名雪(…どうでもいいが、PCエンジン版マクロスにはミリアとマックスの娘コミリアが登場する)や秋子さんもラブリー。萌え。本編とあまり違和感が無いのも良い感じ。音楽も本編のアレンジが面白い。

 でも楽しいのに、いや、楽しいからこそなのか、この作品を終えたとき、ある意味で物凄く胸が苦しくなった。

 …凄く幸せなんですよね、「こなゆき」で描写されてる祐一が傍にいる名雪、水瀬家っていうのが(裏を返すと、祐一のいない名雪、祐一が来なくなった水瀬家がどんなに寂しい場所かっていう事も判ってしまうっていうことなのだけれど)。
 「こなゆき」で秋子さんも言うのだけれど、夏休みとか冬休みとか、秋子さんが仕事に行ってしまったら、名雪は家に一人ぼっちなんだよね(AIRの観鈴って、そういう意味で名雪と凄く近い)。
 だから名雪は祐一が遊びに来てくれるのが凄く嬉しいし、秋子さんも名雪の傍に祐一がいてくれるのが嬉しいし、ある意味で頼もしい。
 祐一はそんな風に秋子さんに頼りにされる辺りに誇らしさとかこそばゆさを感じるし、名雪が寄せる好意もまんざらじゃない。
 お互い傍にいて、凄く幸せ。
 着替えするときに「部屋を出て」って言われるとか、そういう事から男と女を意識し始め…っていう、その後に来る変化への甘酸っぱい期待(笑)というものも含めて。

 でもその幸せが表現されているからこそ、それが終焉を告げてしまうKanonの7年前、祐一とあゆとの出逢いというものの意味を凄く…考えさせられてしまう。

 祐一が遊びに来るっていうのは名雪にとって、ある種それだけで幸せがやってくるっていう法則、約束事だったわけで。
 そんな何年も前から自分の信じ、続いていた「幸せ」が壊れてしまい、共有していた相手、祐一がそれを忘れてしまうきっかけが、祐一とあゆの出逢いなわけで。
 祐一があゆと遊んでいる間、名雪は一人ぼっちであの家にいたわけで(祐一がいてくれるはずだったんだ。予定なんか入れてるわけない)。
 冬休みなのに、遊びに来てくれているのに、なのに自分の傍にいるはずの祐一がいない。寂しい。
 ある筈の無い静寂の中で考える。どうしてこうなってしまったのか。
 街で知り合った他の女の子と遊んでいるらしい。
 これ、きっと凄く心がざわめいたと思います。単純な恋愛感情による嫉妬とかでなく。

「嘘つき」

 なんて呟いてみるけれど、約束なんてしていない。
 だから名雪は祐一に言わなくちゃならないと気付く。自分の気持ち。思っていること。
 それは秋子さんのアドバイスだったかもしれない。
 そして行動に移る。最悪のタイミングで。

 …
 ……

 気付くと地面に叩き付けられた雪うさぎ。
 突然に、祐一はいなくなってしまう。
 秋子さんの膝の上で泣いたことでしょう。
 そして聞かされたことでしょう。祐一が何故そういう行動をとったか。いなくなってしまったのか。
 誰も悪くないという最悪の事実を。

 名雪は祐一に手紙を書き続ける。
「また一緒に…」

 返事は来ない。
 祐一も来てくれない。

 一人ぼっちの冬休み。

 コチコチコチ。
 やたら大きく響く時計の音。
 一人ぼっちの家の中。
 何をする?

 …眠る。

 そうして、いつしか一人でいることが当たり前になって7年後。
 名雪は冬休みに一人で家にいなくても済むような部活動をしている。
 映画を一緒に見に行くような友達もいる。
 そんな中、連絡が来る。
 かつて当たり前のように傍にいて、離れて、掴もうと手を延ばした瞬間に消えてしまったものの帰還。
 でも、彼は名雪と過ごした時間を、自分達が「幸せ」だった事を忘れてしまっていて…。

「私の名前、まだ覚えてる?」

 ………
 ……名雪シナリオ、再プレイしようかなぁ。


10月12日 AIRメール その2

 AIR雑記「ジュンさんからのAIRメール」更新。
 こっち方面のAIR話(※)はこれと亜蘭さんのPrismaticallization論評の「5」で個人的には区切りつけられそうかな、と。
 やまさん、Prismaticallizationの話振って下さってサンクスなのです。

(※)AIRを一要素で済ませて小さく纏めてしまうなんて気はさらさらない。飽くまでこれも自分の見たAIRの一つのカタチ。部分も全体も萌えもテーマも演出も等価だチクショウ。作品の本質(?)が一つだなんて誰が決めたんだ。つーか、どれか一つに決めろって言うなら俺は晴香から観鈴まで連なる麻枝准の妹系キャラ(系であって世間一般で言う妹キャラではない)へのダメ萌えっぷりに決めてやるぞ。


10月13日 GPM

 1945年。
 第二次世界大戦は意外な形で終幕を迎える。
 人類の天敵「幻獣」の出現である。
 どこからともなく現れ、確固たる目的も理由も無く、ただ人を狩る、人類の天敵達。
 人類は、存続の為に天敵と戦うことを余儀なくされた。
 それから50年、戦いはまだ続いている。

 1997年。
 幻獣と戦い続ける人類は、劣勢のあまりユーラシアから撤退するに至っていた。
 自らの街を核爆弾で焦土と化しながらの撤退戦は、ユーラシア大陸から人類を消滅させた。
 南北アメリカの一部、南アフリカ、日本…。人類は僅かな地域にしか生き残っていない。
 幻獣軍はその残された僅かな人間を狩る為、九州西岸から日本に上陸する。

 1998年。
 人類は幻獣軍に記録的な惨敗を喫す。
 事態を憂えた日本国首脳部は、1999年に二つの法案を可決し、起死回生をはからんとする。
 ひとつは、幻獣の本州上陸を阻止する為の拠点、熊本要塞の戦力増強。
 もうひとつは、14歳から17歳までの少年兵の強制招集であった。

 1999年。
 熊本の戦車高校にかき集められた少年少女は戦車兵(人型機動兵器パイロット)=日本国を守るとして即時育成され、大人たちが企て、執り行う反攻作戦の用意が整うまでの期間、幻獣達を引き付け日本を防衛する為の盾として前線に投入されていく。

 物語は、熊本に集った子供達が戦車高校にて謳歌した青春を通して語られる。
 その物語の名は…

高機動幻想ガンパレード・マーチ


 速見厚志 1984年生まれの15歳の少年。
 特別な能力があるわけでもなければ、勇者でもない。

 この物語は、この凡庸な少年の目を通して描かれる戦争である。

なんでもアリの仮想青春次元へようこそ



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