"人間にはだれでも、たとえば十歳で<はじめて自分がほんとうに生きているのを発見した日>とか、十五歳で<はじめて自分もいつかは死ぬと気づいた日>というような瞬間を持っている。
だれでも、ある日の午後に野原を歩いていたとき、突然、強烈な生の認識におそわれ、この世界に生きる機会を与えられたことに、心からの深い感謝を味わった経験がある。
だれでも、あまりに美しい日没を見て声も出ないほどに感動し、それが大気内の無数の相互作用と光と、塵埃の微粒子と、心の中の奥舞台で作り出されたものであることを忘れた経験がある。
だれでも、すべての誕生日の中の最高の誕生日、すなわち自分の生まれた日に、自分も貴重な特権を神から与えられた仲間の一人だと感じた経験がある。
たしかに、人生の大部分は現実的で不快な出来事で埋まっている。成功よりも失敗が多く、健康よりも病気の方が多い。大勢の人が早めに諦めを付け、このゲームから足を洗いたいと言い出す。
しかし、もう一度あのような野原での午後が与えられれば、それとも、オフィスの窓の外に吹くある独特な、雨もようの風や、夜中にふと目覚め、寝静まった家族にとりかこまれて月明かりに照らされた家の中で過ごす一時間が与えられれば、私たちにもふたたび生きる勇気が生まれてくる。
ときおりの息抜き、一服の清涼剤、ちょっとした幸運、楽しい会合、そうしたものが、わたしたちをもう一度この薄汚れた小さな存在の切れはしへと、狂気にも似た、いやそれ以上の狂暴さですがりつかせるのだ。いくら不平を唱え批判を口にしても、この舞台を去る刻限が来たとき、自分の出番が終わり幕が下りるのを見たときには、ほとんどの人が、せめてもう一幕でも舞台にとどまりたいと悔やむものである。
わたしは、この本があなたの清涼剤になってくれることを望む。この本が、あなたにすべての現実をもってしても、人生はやはり一つのファンタジーである、と示してくれることを望む。なぜなら、それこそが人生が有形の世界で行なっていることであるばかりでなく、それがどの様に行われているかをわたしたちそれぞれの心が見届けることが、ファンタジーを完成させるからだ。
わたしたちはこの一つの世界の上に存在する四十億の小世界であり、その一人一人が、違った象を見ている。デリーへの道を行く七人の盲人の代わりに、一人一人が、自分自身であるためになにも見てはいない目明きの大群がいるのだ。
奇跡なのは、人間がこの世界で多くをなしとげられた事ではない。なにか一つでもなしとげられた事が、むしろ奇跡なのである。"
"Timeless Stories for Today and Tomorrow"序文より
訳 朝倉久志
SFファンタジー大全集(奇想天外社刊)より引用
外園昌也「ラグナ戦記」の最後に引用されていた、レイ・ブラッドベリの言葉。
彼はどうして本を書き続けたのでしょうか?
どうしてファンタジーを完成させたかったのでしょうか?
今はそれを考えていると、ぐるぐるして、何故だかとても胸が苦しくなります。
…でも、その苦しさが心地良かったりもするのですよねぇ。うけけけ。