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近況と雑記:

1/19 放電ちう

 色々と思うところはあるのだけれど、それを書くには読むべき本とか調べるべき資料がたくさんあるし、その前にやるべきこともいっぱいある。
 普通はここで一旦保留して充電に入るべきなのだろうけれど、もやもやしてるんで先にいいかげんなれど脳内電波を吐き出しとくザンス。ムキー。

 KtFで言うところの「お兄ちゃん」とか「奴隷」とか、そういう個人の他や自分に対する認識・意識について。
 自分がこうだと意識する事、例えば霞が自分をお兄ちゃんの「奴隷」だと意識する事は、意識する分においては単なる妄想に過ぎないが、霞のお願いによって康介が首輪をつけてあげる事によって認識されカタチを為す。
 同様に康介が「お兄ちゃん」であるのは、霞や周囲のそういう認識を康介が意識し認めている結果である。
 意識と認識の一致によって、彼らの間で康介が「お兄ちゃん」であることは事実と受け止められる。
 では一方の意識や認識に対し、他者や認識対象の追認がなければそれは事実ではないのかといえば、必ずしもそんなことはなく、対象の意識と関係無く、同じモノに対して共通の認識を抱く者がいれば、認識者の間でその認識は事実となる。
 康介が如何に否定しようと、霞や椎名が彼を「お兄ちゃん」と認識することをやめないかぎり、彼女等の間では康介は「お兄ちゃん」である事実は揺らがないのである。
 同様に、如何に霞が康介を「お兄ちゃん」と認識しようと、康介の方でそれを否定する意識を持つならば、自身が「お兄ちゃん」でないというのが康介の事実となるし、それを追認識するものにとっても同様に事実となる。
 意識・認識の不一致があることは、当人たちの事実を消失させるものではないのだ。
 ところが、異なる事実を持った人間の接触に過ぎない筈の意識や認識の不一致は、時に一方の(或いは双方の)抱く事実を揺るがさせる。
 自身の事実を否定するような別の事実の存在は矛盾であり、その矛盾に対するスタンス(#)によっては、解消しようと当人達が自身、或いは他人の持つ事実を変容させようとするからである。

#「いろんな認識があって、それらが相互矛盾していても全くお構いなし。多くの人が関わって事実を作ってるんだから、そりゃ矛盾もあろうさ…」と考えるか、「事実ってのは理路整然としていて物理的にも科学的にも納得がいくものだ。計算の合わない認識は廃止して改訂すべきだね」と考えるかによっても事実の受け止め方は違ってくるし、まして「複数の矛盾する認識があったとしても、どの認識にも一定の根拠はあるわけだし、Aを否定すればA’が否定され、連鎖してA’’やB’も否定されてしまうのは寂しいよ。AとBの矛盾を限りなく少なくするような上手いアイデアを考えようじゃないか」という発想と、「俺の意識・認識以外に事実なんてないんだよ。それ以外は全部他人の妄想」という発想には、どうやっても相容れないものがあるだろう(※この文はGUNDAM MILLENNIUMの与謝野氏の言のパロディである。氏のページやBBS(特に周期的に現れる新規参加者への弁)を読むと、東氏なんかが語る「ガンダム」の世界消費を実際のファン(の一部)がどのように自覚し楽しんでいるかが良く分かる)。

 矛盾の存在に自意識や認識が揺らぎ、それを問題と考えるならば解消するために事実を変容させようとするだろうし、
 相手と自分との間に共通の事実を持つことで繋がり(絆?)を得ることが目的であるのなら、自身や相手の現在の事実がなんであるか等ということは問題ではないので、互いのための事実を(再)構築しようとするだろうから。

 KtF霞シナリオにおいて、霞は自身の意識「ボクはお兄ちゃんの奴隷」を認識させようと首輪を与え、康介に霞を奴隷と認識させることで二週間の間それを事実とする。
 しかし二週間後、康介はこの事実を破棄する申し出を行ない、霞の自意識の象徴であった「首輪」の代わりにと康介の作った意識「指輪」を差し出す。霞はそれを受け入れ、二人でそれを奴隷であった二週間の共通体験という新たな事実の証と認識し、今まで固執してきた二人の間にあった奴隷という事実を破棄する。
 同様に他シナリオにおいては、固執していた康介依存という自意識を捨て、康介から自立しようと努力する康介(や式子)の認識に従って彼らと共通の事実を受け入れる。
 GENESISにおいてこの霞の行動は、康介との間の意識や認識の不一致(事実の不一致)を不幸と捉え恐怖し、事実の一致・共有を幸せと捉え求めていた為のように描かれるが、康介に追認識されなかった自意識を破棄することで幸せになった筈の霞はしかし、共有する「指輪」体験という事実に疑いを抱き始め、また放棄した自意識やかつて康介たちとの間に存在していた事実に執着している自分に気づき、その喪失に涙を流す。
 「奴隷」という事実の存在が永遠でなかったように、結局は現在の「指輪」もまた永遠でないであろうことに気づいたのならば、絆を求めてお互いの間に共通の事実を作り続けていく為のこういった事実や自意識の喪失はずっと続くだろうし、自身の喪失は避けられる当初霞が行なっていたような自意識の押し付けもまた大好きな相手にこのような喪失という痛みを与えるならば、「好き」とそれに付随する絆の獲得が行動原理である霞は泣きたくもなるよな…、というのは私の感想だけれど、絆としての共通の事実が絶対のものではない以上、無理にお互いに意識や認識を共通化・共有化させて二人の間に事実を作るよりも、お互いの事実が違う事を認めた上で接触し、好きな相手の事実が自分の事実と矛盾があるにしても、浩平がみずかが「あるよ」と言ってくれた「えいえん」を自分の永遠とは違っていても肯定したように、否定し合わず、侵さず、互いに幸せな自分だけの事実の中を生きるほうがいいじゃん、みたいな感じだったと思うヒロインたちの会話の流れは、わしと似たように考えて霞を慰めようとした結果だったんじゃなかろうか。
 浩平の長森への告白とその返答が壊したのはなんだったのかというのが改めて考えさせられる。

 そんなこんなで、ONEやKanonについて以前に書いたときも色々と騙ってきた(語られてきた)こと、神林長平の「プリズム」におけるヘキサグラム「あなたがいて、わたしがいる」の完成だとか、米村孝一郎の漫画の「他人の追認がなければ存在しないも同じ」とか「POSSESSION TRACER」における世界モデルなんかを思い浮かべ(ガクジュツベースが無い上に勉強しないから(爆)。元ネタくらい当るべきだと自分でも思うね)考えるのだけれど、やっぱここ数年それを根幹としてきたものとしては「意識と認識の一致・不一致による事実の現出」モデルとしてのTRPGやPBMってのが強力に思考を支配する。プレイヤーが書いたアクション等の意識が、ルール或いはマスターに認識され、リプレイという形でオフィシャルな事実となっていたミニマムな宇宙。
 門倉直人(ああ、どうでもいいけど、私ディノンは二冊とも所有してます。…と有らぬ方向へと自慢<ヤな奴)とみやかわたけしの時代ごとの言を追い、PBMの変遷・ゴールとして楽園にして絶望であるPSOを並べるだけでかなり面白いものが出来ると思う。コミュニティとして小さい上に同人の活動理由なども他ジャンルより単純なので、網状言論Fあたりで語られてる事象がより分かりやすい形で見られるんじゃないか、とか。OMCなんか凄く面白い事例だと思う。
 ところで今回の雑文、意識・認識・事実の境界が曖昧であり、いっそ全部「フィクション」に置き換えればもうちょいスッキリするような気もするのだけれど、私の考えるフィクションという概念はテツガク的にはずれていて、元長話をするときには混乱を生むだけのようなので敢えて使わないように心がけた結果である。…余計ごちゃごちゃしてる気もするが。