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近況と雑記:



7/10 憧憬

 DC版「君が望む永遠」なんてものを注文した先、セガの果てから手紙が届いた。

>先日ご注文頂きました「君が望む永遠 限定版(特典付)」
>の発売日が7月25日から9月26日に再度延期される事とな
>りました。

 あんですとー!
 昨日の今日でこれかい…。
 …移植してるのはageじゃないから関係ないはずなのだが、なんかやるせないのはageだからだな。
 ハロワどんどん延期してるのにエロゲ雑誌やネットで販促活動してるニトロも含め、所謂ちよれんには最近、作品の出来以外のとこでマイナスなイメージ抱かされて悲しい。

○ブラリ、ふたり

>実のところ、エピローグはなくてもよかったんじゃないかとも思ったり
>ふたりと猫球がある意味同じところで好きだーと言ったら、理解してもらえるのじゃろうか?

 やまさんが山下卓「BLOOD LINK」シリーズを読んでの言葉、とくに「ふたり」へのそれに触発され、少し「ふたり」について考える。

『……大好き、でした。』

 一言。どこにでもある、ありふれた言葉。
 「ふたり」は、そんな一言にすべてが内包されてしまうような、ものがたりである。
 ものがたりという経緯があってこその言葉。
 その一言が描かれた、たったの一ページに包まれてしまう、ものがたり。
 「ふたり」は、この本で描かれたふたりの物語を『……大好き、でした。』というただの一言に込め、「BLOOD LINK」本編の中に封じ込める。
 カズシとカンナの物語の中では声にさえならなかった言葉、聞こえなかった物語として。
 ゆえに、ふたりの物語を消してしまう、あの蛇足ともとれるエピローグも、消してしまえる作者も私にはアリであるし、それこそがブラリ、ふたりだとも思うのである。

ところで。
 以前にうっちーさんと軽く話したこともあるのだけれど、乙一のスニーカー進出以降の諸作品、小野不由美の十二国記、谷山由紀の諸作品、高瀬彼方「カラミティナイト」、そしてこの山下卓の諸作品とゆーのは、自分の居場所に不満を持っていて「ここではないどこか」を求めるような、いわゆる「ライトノベルを読むような人種」を主人公ないしはそれに近いとこにおいていて、各々の書き方やファンの反応の違いなどを比較してみると興味深かったりする。
 その中でもっとも邪悪なのが、そのようなLN読者的主人公を確信犯的に優しく描き、肯定する乙一(ただし、目的のための手段のようなので、ある意味好感は持てる。評判である切なさや感動を対象読者に確実に与える為のロジカルなつくりにしても)であり、その逆が山下卓(ただし、作者の性質ももっとも読者に近い可能性アリ)とゆーのが私の印象だったりもする。
 キャラクター達や話の行方、前作たる果南との繋がりなどに加えて、作者がどのように決着をつけるのかという点でも非常に興味を惹かれ、続巻が待ち遠しい。




7/12 事実は漫画より奇なり

 「ここではないどこか」を求める人たち。
 自分は「特別」であると思い込みたい人たち。
 見渡すと、特別でありたい人はいっぱいいて(ネットではむしろそうでない人の方が少ないかもしれない)、その中には自分は「〜が出来る」「〜をした」ではなく、「〜を知っている」「〜に参加している」「〜を経験している」「〜という時代に生きた(生き抜いたではないんだよな)」という、自分以外のモノにアイデンティティを置こうという他力本願な人々も意外と多い(…意外でもなんでもないか)。
 ピンと来なければ、常在ハレ祭・2chや、2chについていつも嬉しそうに語っている、非職人系の人々を思い浮かべてみるといいかもしれない。
 彼らは「特別な」事件やイベントを望み、それに参加したというステータスを欲しがっている(ように見える)。
 一方で、事件やイベントを起こしたい人たちも少なからずいて、彼らがイベントを起こすことで、イベントを望むものたちと彼らは目的と手段を折り合わせて相互に精神的・物質的な補完を行うという経済活動が発生する。
 イベンターとその消費者、そしてイベントを起こす場の提供者の共犯関係は、自然発生的であると同時に各々が各々にとって必要不可欠であるがゆえに普遍化しており(「特別」を求める循環こそが普遍だというのは愉快な話だ)、強固で高度にシステム化されていて、ゆえにそれを元とした商業モデルも多い。
#大塚英志が提唱したメディアミックスや、TRPGやPBM、最近だとネットゲームというのも、こうした経済活動を商業モデル化したものだという側面を持つだろう。
 「特別」な何かは、需要と供給の中から生まれ、普遍化し、特別でなくなったとき、特別を求めていたイベントの消費者たちは、再度「ここでないどこか」を求めだす。
#ロックからパンクへ。パンクからストリートパンクへ…といったように。
 そんな循環の中、循環そのものの普遍性に気づき、多くの人間は「特別」であることから脱却していくが、脱却できなかった人間は、循環そのものからも脱却しようと、よりいっそうの特別を求め、カルト化し、外界と隔絶・対立することで自身の特殊性を確立しようとすることになるが、それもまた繰り返し繰り返し見られてきた光景であり、結局のところ、特別を求める人間の中に特別な人間はほとんどいない。
 だからこそ、「特別」を求める人間は多く、彼らのそれを望む想いは狂的に強い。

先日休刊したアワーズライトで連載されていた、水原賢治「紺碧の国」は、そんな、「ここでないどこか」や「特別」についての物語だった。
 「ZONE-聖域-」
 作中の、一人の少女の書いた小説のタイトルにして、その中で語られる、ここでないもう一つの世界、真実のある場所。
 主人公たちはその小説に触れ、心を焦がし、やがて少女と共にZONEの名を冠した音楽を作る。
 ゲリラ的な路上ライブとネットで配信されたZONEは、人知れず、しかし爆発的に若者たちの中に広まっていく。
 心の拠り所、まさしく、聖域として。
 「ZONE MARTY」
 小説ZONEの登場人物にならい、赤いバンダナを右腕につけ、ZONEを共有していることを示す「ZONEを信じるもの、殉教者」たちの姿が、バンダナブームと誤解されるくらいには社会への影響が出始め、それに気づき、ZONEを危険視する発言を行ったラジオのパーソナリティが襲撃される。
 静かに、確実に、浮かび上がってくるZONE。
 誰も呼びかけていないのに発生し、主人公たちに協力するというZONEガーディアンを自称する者たち。
 最後のライブ。
 事情を知らない人間には異様でしかない、ライブに集まってくる、尋常ではない数の人々。
 …そんな辺りで雑誌が休刊してしまった、完結が待たれる、青臭く、切なくて、怖くて、やさしくて、残酷な物語。
#どうでもいいが、私はこの作品のことを「ぜーたおね」と勝手に呼んでいる。

周囲で任意ラジオライブについてのことを耳にしたとき、私が思ったのは、スタッフの対応がどうとかそういうことではなく、ネットラジオがそれだけの騒ぎを引き起こしたという事実への興味であり、上記の作品との類似点のことだった。
 知る人ぞ知る、しかし知っている人間たち、そのコミュニティにとっては常識化、いや日常化しているメディア。その呼びかけ。
 考えてみると、「紺碧の国」に描かれている事件のようなことは、オタク達の間では頻繁に起こっている。
 共有を示す赤いリボンといえば、つい昔、似たようなことをBeeメイツもやっていたし、(最早風物詩とはなったが)オタクでない人間には事情を説明されても謎でしかないであろう、コミックマーケットに全国から集まってくる万単位の人間たち。
 ある意味、彼らにとって、自身がオタクであることやコミケは「特別」であり、「聖域」だろう。
 しかしそれも、普遍的なサイクルの中にある「特別」の一つ、互いに合意の上で「特別」需要者に対し供給が行われる出来レースでしかない。
 そう思っていない人もいるかもしれないけれど、ここまで事が続いていながら、なおそれを普遍化せずに特別視するというなら、それこそが意識的に特別を作り出し納得しているという出来レースの証明になってしまうような気がする(詭弁か)。

『求めよ、さらば与えられん』
 
 聖書の言葉どおりで(勝手な解釈だが)、それを求めていればこそ、それらしいものは見えてくる。
 求められたものを与えようとする供給者が相手ならばなおさらだ。
 真に特別なものも、そうでないものも、条件がそろえば「特別」を求める人間が望んだ概念としての「特別」として、その本来の意味や形とは無関係に消費されてしまう。
 多分、紺碧はZONEという、本当に「力がある」と登場人物たちに思わせている存在が、そんな風に消費されてしまう様も書くのではないかと思うのだけれど、それが単なる現実の映しで終わるのか、それより先に何かを示すのか、個人的に気になるところである。

…なんていう風なことが、紺碧の作中でもネットに書かれているんだろうなぁ。




7/13 アゲくの果てからディスクが届いた

 当然ディスクの中にはスタンドが!
 …ごめん嘘。

 家が商店を営んでいたりするので、基本的に郵送物は店に配達される。
「郵便デース」
「毎度様です」
 ゆえに、アニメ絵にFOR ADALT ONLYなんて書かれた中身が丸見えな、その透明な封筒だって郵便屋さんから店主(実父)に手渡しされ、ラグ無しに「これなんだ?」とわしにリレーされたりするわけだ。

 アージュ、許すまじ。

 なんて、ネタだけどな(部屋の扉を開けたら目の前にエロゲーの外箱が積みあがってるような部屋の住人が、今更、家族への体面など気にするわけがなし! 目の前でダイレクトメールかなぁ、などと平然と受け取りつつ会話する親子の様を今更気まずそうにする郵便屋さんでもなかったし、ノープロブレム<そこら辺こそが問題の気もするが)。
 まぁ、「ディスク -> スタンド」と同じく、時事ネタ、お約束って事で。

○マブラヴ体験版
 というわけで、届いたのは「マブラヴ体験版」。
 会報に引き続き、嬉しい贈り物。好感度アップ〜…なんだけど、会報送ったのも数日前なら、一緒に送ればいいじゃねえか、何を経費無駄遣いしてるダー! という理不尽な怒り(自分の懐以外で金が浪費されることは喜ばしい事のはずなのだが)も湧き起こったりしてプラマイ0。
 俺の心と懐は豊かさには程遠いらしい。
 さておいてインストール、起動。
 体験版は全体の3%に過ぎないだの、いかにハイスペックを要求する凄いゲームかだのの喧伝、もとい説明を読まされた後、始まっていきなり現れるは電脳戦記バーチャロンのパロディ、バルジャーノン。
 おおおおお!
 マブラヴへの興味の60%は占めていたあの驚愕の画面写真が、今! 僕のPC上に再現されている! 君は!
 ……
 …ふ…
(察すれ)
 …
 本編突入。
 へー、はー、ふーん…
 倦怠。嫌悪。
 笑い。
 惰性。

 爆笑。

 許容と理解。
 肯定。
 終了。
 笑い。
 結論。悪ノリと悪フザケのゲーム。
 悪ノリ、ここに極まれり。
 タチ悪すぎ。
 詳しい雑感(<妙なニホンゴだな)は後日。




7/14 超王道

 13日分の続き。詳しくマブラヴ体験版。
 「マブラヴ」は超王道学園アドベンチャーゲームなのだそうだが、体験版を見る限りでは、まるでそんな気がしなかったというのは私だけだろーか。
 どこかで見たようなシチュエーションとキャラクター。
 前作にあたる君望やアカネマニアックスを前提とした、内輪ウケ的なネタ振り。
 他ゲームや漫画やテレビ番組を元ネタとするパロディ。
 オタクと呼ばれる人種が好むといわれる、知っていることの繰り返しや再確認による快楽を狙った、珍しくもない手法であるが、繰り返される元ネタを、金と手間をかけ、わざわざ本物を使って再現しているところがタチが悪いというか、凄いというか。
 マブラヴで繰り返されるモノの中には、「〜のような〜」だけではなく、「〜」そのものも含まれているのである。
 パロディネタをやるために、パロディの元になったキャラクターの声優本人をパロディキャラにキャスティングし、パロディ台詞を喋らせるというのは、度が過ぎているというかなんというか。
 BGMや背景グラフィックの共用、「君が望む永遠」と同じ舞台にしたのも、この「繰り返し」の演出のためなんじゃないかと思わせられる始末で、アゲくの果て、前作体験版の象徴、最大のシリアスイベントにして衝撃のラストにして本編OP、ヒロインの交通事故のシーンで流されたRumblingHeartを、幼馴染が担任の暴走運転車にふっ飛ばされお星様になるギャグシーンで流すのは、本気でやりすぎというか、いいんかい!?というか、大爆笑というか、そこまでタチ悪くやれるなら、と、この悪フザケと悪ノリにもノってやろうという気になりましたともさ。
 でもだがしかし。
 悪だよ、これ。
 ビターでもブラックでもなくて、悪い笑い。
 王道というよりかむしろ、邪道・外道・非道の類と言われたほうがしっくり来る。
 そりゃ水戸黄門などの時代劇に代表されるような、パターンの繰り返しが王道だというなら、確かにこの反則ともいえる、本物を用いての繰り返しは、「超」王道と言うべきものなのかもしれないし、体験版だけで判断するのもどうかとは思うのだけれど、これを王道と喧伝して売るのは、ひどい違和感があるのだ。
#ジャイアント馬場に謝れとゆーか。

>「限定究極シチュエーション逃げ道なし」の正当進化を担うタイトルで、AVGでありながらユーザーの皆さまに主人公の立場での 精神的なロールプレイを強いる、我侭なゲーム

 なんていう、君望のときの「ゲーム」に対する解釈もそうだったけど、アージュは言葉や概念をえらく狭い範囲で認識・設計・実現してしまっているように見える。
 そこがまたある意味面白く、君望もこのマブラブも体験版も個人的には物凄くウケたのだけれど、大空寺も愛しているのだけれど、言ってることは(ごく狭い範囲では)間違いなく正しいのだけれど、ある意味では言ってる通りの作品を作っているのだけれど、それ自体ネタで確信犯なのかもしれないのだけれど、そんなスケールの小さいことばっかりやってるのも、どうかとは思うのである。
 なんだかんだいって地力のあるアージュには、一度、エロゲーの王道ではなく覇道(私が知る中だと、それを歩んだのはYU-NOくらいだが、だからこそ)を目指してみていただきたい。盛大にズッコケそうな気もするけど、上に「チョー」がつかない方向で、どうか、ひとつ。