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《雑記帳9月》

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9月1日 So What?

 今日は5thと同じ想いで違う言葉を。これでも、言い切れた気はしないけれど。

 製作者がテーマを一番上手く語れる方法「Kanon」で表現したそれを、別の方法で語ってしまったら、それはもう「Kanon」では無いのではなかろうか?

 ゲームからテキストやCGを取り出し、分解し、一つ一つを考察し、ラベルを貼って分類していき、それらの要素を探っていく。
 それは奇麗なCGに感動した理由を探す為、01の羅列であるデータに置き換えて考察するような行為だ。
 CGはビューアで見ているから美しいのであって、01のデータに分解して見てしまったら、それは確かにCGを為している物で、奇麗である理由は見付かるかもしれないが、当初感じた「感動」という要素はそこには恐らく無いだろう。勿論、別種の感動がある場合があるだろうが。
 そのCGの要素の全てを理解する悦びは分かる。
 だが、切り裂き、分類し、どこにも当初感じた「感動」の理由という要素が無いと分かってしまったCGをビューアで見て、もう一度感動するとは、出来るだろうか?
 出来ない事はないだろうが、実のところ、かなり難しい気がする。

 しかし求める物を理解したいと思うのは当然の事である。
 だから私たちは自分が奇麗だと思ったもの、或いは感動したと思った物にその理由を求めるのだろう。
 Kanonに感動した理由とやらを考察し、どの部分がどのように自分の心を動かしたのかは、どこそこで伏線を張り、それを効果的に回収し、効果的な音楽と絵と台詞で演出したからだ、と言い切る事は可能だ。
 しかし、そこに「感動」の理由はない。ただ、システムの妙が分かるだけだ。

 そこで「感動」の理由を探す為にメッセージという物を探す人がいる。
 自分は製作者のメッセージに心を揺り動かされたのだから感動したのだ、と、曖昧だが理由を欲しがる。
 心に届くメッセージ。感銘を受けた思想。
 なんだか良く分からないが、感動した理由として語るにはなんか説得力があるし、実際、考察でそういう物が見つかってしまう事もある。
 私も人に簡単に感動の理由を伝えられる気がするのでたまに使う。
 だが、忘れていけないのは、物事に感動することや、物事が美しい事の理由は、「それが正しいから」とは限らないということだ。正しい人が正しい心で、正しい願いを込めて作ったからそれが美しいとは限らない。
 第一、正しいってなんだ? 結局、それは人それぞれが決める事で、それも、立場や状況で変化する。
 自分を感動させた物が、自分自身の正義に反していないないとは限らない。
 人の悪意だって、それは私に痛いくらいの感動をもたらすもある。
 間違っている事だって、認めたくない生き方であっても、それを美しいと思う心は止められない。
 美しい事を認める事と、自分がその美しさを求めない事は矛盾しない。
 なのに、自分の正義に反するモノが感動の理由だったとき、自分に嘘をつく人間って、いると思う。
 徹底的にそれを攻撃したり、論理のすり替えを行って、自分の正義に乗っ取ったモノだと無理に解釈してる人って、宗教の歴史を見ても分かるように、結構多い気がする。
 よく、闇を知らない人間は闇を乗り越えられないというが、それに近い物がある。
 自分に都合の悪いモノを認めない人間は、それを排除するか作り替えるしかしない。だからそれを乗り越える事は出来ない。
 何でもない事象に勝手に自分に都合の良い意味を「正しい事」として付加するのは、何時だって人間だ。

 Kanonに考察と称してそれをやってる人は結構いるような気がする。

 私がKanonを考察した結果、メッセージは無いという見解に落ち着いたせいもあるけれど、Kanonに感動した理由を「メッセージ」がKanonに込められていたからだと思い込もうと努力している人間の姿を見ていると、なんだかなぁ、と思ってしまう。
 しかも、その殆どが「自分の正義にとって都合の良いメッセージ」を探しているように見えるのが、それに拍車をかける。

 私は真琴シナリオが心に刺さった。
 愚かなくらい純粋な思いと、それがもたらす愚かで哀しくて、でも彼女にとっては幸せな顛末は、私にとって美しい物だった。
 彼女や、彼女や美汐に対し祐一がした事が正しかったのが、間違っていたのか、その判断は私にはつけられない。
 だが、私はそれを美しいと思い、彼女らを愛しいと思った。
 その想いを無理に分類し、メッセージや教訓という名のレッテルは貼りたくない。

 だから私は「想い」や「感動」そのものの考察はしない。したくない。
 それを導き出すシステム考察を行い、システムを0と1に分類しても、想いを01にはしたくない。どうも、私は何だかんだいってもKanonが好きみたいだから。

#嫌いなら、どうでもいいなら、雪駄は寧ろ想いへのレッテル貼りや01分類をやるのかもしれない。悪意を込めて。

9月2日 楽しむプロフェッショナル

 昨日の話を読み返して分かり難い文章だなー、と反省。
 理由の一つは、論点が二つあるのに一つの文章で纏めちゃっていること。
 で、論点のうちの一つはWhiteさんが問題点の指摘つきで言って下さっているので、反論も別に無いし分かりづらかったという方にはまず、そっちを見てもらうとして、もう一つの点も物凄く分かりやすい表現を「封印」から見つけたので、そっちで言い換えたんでこれで分かるはずです。
 凄いよ、一言で済んじゃう。

 わざわざ説教を探すことはないんじゃないの?

 はい終わり。
 いや、宮崎アニメのアニメのヤな所って最後に説教するところだよな、ていう話が「封印」で出ていたんでちょっと考えて。
 でも実際、宮崎アニメが受ける理由の一つにはその説教が良いっていう人が結構いるって言う事だよな、と思い付いたわけで。それでなお且つ、あらゆる良い作品には説教が含まれているはずだという思想の元、自分が良いと感じた表現に何でもかんでも説教を探して回る人達っていうのもいて。
 今回のKanonで私がどうも鼻につく考察文って、そうやって無理に自分に都合の良い説教をこじつけようとしているヤツなんですよね。
 Kanonを分解していって、そこに説教が見つかったっていうならまだしも、はじめから自分で説教を作成して、それに合うように分解したKanonを再作成したような文章を読んでいると腹が立ってくるというか。
 ちなみに、雪駄が未だにネタばれ掲示板に出張っていくのは、そんなKanonの再構成までしているアレな人を見かけたからどうにかしようっていうんじゃなくて、説教を探して見つからなくて困っている人に、説教は探さんでもおもろいものはおもろいんやて肩叩いてやりたいというか、作品が素晴らしいのは、説教の内容が素晴らしいからじゃなくて、語り口自体が素晴らしいからなんじゃないですかと言いたいというか、なんというか、そんな感じです。多分。…昔、エヴァのテーマ方面からの否定論者にそんな感じで熱く語ったことがあったな、そういえば(言ってる事が納得できんのと作品の面白い面白くないは別やろうとかなんとか)。
 そりゃ、全ての要素をもって説教ををモンタージュで表現する作品、説教が目的だっていう作品もありますよ。でも大概、その説教っていうのはつまらない事なんですよ。「根性は素晴らしい」とか「愛って素晴らしい」「戦争はいけない」とか。
 でもね、それは私にとっては作品が面白い理由じゃないし、受け手が感動した理由なんてものでもない。
 私が作品が面白かったと感じる最大の理由っていうのは、その「語りかた」であって「語ってる内容」じゃないんですよ。
 語ってる内容が重いことなんて、面白さや感動という視点からすれば、それはそのシーンの緊張感を高める要素でしかない。
 私にとってはゲームや映画、小説、漫画といった物語表現に感動したとしても、それはインストゥルメンタルの音楽に感動したのと同じようなものなのだ。
 そうでない人もいるんでしょうが、そういう人はゲームなんぞやらんで思想書でも哲学書でも読んだ方が手っ取り早いのにとかいうのは…、大きなお世話ですねすいません。

 ところで、ゲームのプロっていうのにはゲームを「楽しむプロ」と、「作るプロ」の二通りがあるという話があります。確か、冒険企画局あたりの誰かの言葉だったと思うんだけど。
 ゲームに魅せられて、もっとゲームを楽しみたい、或いはこんな面白いモノはもっと世に広めなくてはいけないという使命感で、ゲームの面白さを分解し、もっと楽しむ方法を考えたり、分かりやすいカタチにして他人に伝えようとするのが「楽しむプロ」。
 作るプロは、そのまんまの意味なので説明の必要はないでしょう。
 この二つのプロは、ゲームに魅せられた人間なら自然と辿り着いてしまう個所だと思います。ゲームを見たときに職業病的にゲームを要素分解してしまう人達はこの二つのどちらかのプロに足を突っ込んでますね。
 この二つは、そうなっていく動機は似たようなもんなんだけど、どこまで分解するか、できるかっていうので資質が分かれてくる。
 自身の「想い」まで分解できる人は、自身の楽しみ、もやもやのままとって置いた方がいい物まで切り割いて分解することができる。こういう人は「作る」プロになる資質を持ち合わせている。逆に、自分の楽しいという気持ちを大事にしたいのであれば、それは絶対にやってはいけない行為だろう。
 この後、組み立てられるかはまた別種の問題になってくるけれど、この想いを分解できるか否かっていうのは、作り手に回れるか回れないか、真にゲームを楽しめるか否かっていうのを決める重要な要素だと思う。
 よく、ゲームが好きな人は面白いゲームを作れないっていうのは、ゲームを好きな人間っていうのはゲームを楽しめる自分を大事にしているから、ゲームの「楽しさ」を構成しているモノを切り裂けないから、その本質が分からないからなんじゃないかと思うんだよね。

 これからゲームを好きでゲーム作りを志したクリエーターの世代がやってくると思うんだけど、彼らは面白いゲームを作る為に思いっきり苦しむことになると思う。
 自分のゲームへの想いを切り裂かなくちゃいけないだろうから。
 まぁ、その切り裂いた自分の想いを自分でもう一度繋げられるくらいの実力があれば、そんなの問題じゃないんだろうけどね。

9月3日 北風と太陽

 それ、昔に伏見健二がなんかの記事でブルーフォレスト物語に対してやってたような(笑)<注意書

 自分と違う主義主張に突っかかっていきたくなったり、自分の主義主張を顕示したくなるのは、単に青い、精神的余裕が無いって事でしょうな。むーん。
 もっと大らかに構えていればいらん敵を作ることもないし、幸せになれるんよね。
 主義主張をするにも北風じゃなく太陽を目指そう。精進精進。
 …結局、宮崎アニメが他のアニメ作品と決定的に違う点というのは、ストーリーや世界観の伝えかたが太陽方式って所なんだよなぁ。富野監督なんか本質的に北風の人だから世間に抵抗されるわけで。最近になってようやく太陽をやろうとしても、熱量が足りなくてただの説明不足にしかならないし(ブレンパワード)。∀はブレンより上手く太陽やってると思うけれど、絵も物語も動きにメリハリが無いから血沸き肉踊らないのよね。画面に引き込まれない(MS戦闘がジブリ並みに動き回るんならまた違ってくるんだろうけれど)。
 限られたテキストで物語を表現しようとすれば北風になるしかない、てんでテキストを極めた北風の王、富野監督が完成し、単純なテキストを絵で補って物語を表現する太陽の王、宮崎監督が完成したのかなーとか考えてみたり。

9月6日 頑張るほどに報われない

 先週末、ハイパーべるーヴさんに注文したCD「RealSeason」が届きました。
 受付確認のメールも早かったですが、商品の発送も早かったですね。ありがたや。
 というわけで、聞きまくっています。凄いっすよ、これ。生演奏でもブイブイ言わせている方たちだそうで、アレンジもいわゆる同人アレンジとはちょっと…いや、かなり違う。打ち込みオンリーの人と生演奏もする人達っていうのは考え方がちょっと違うそうで、音楽性にも反映されるらしいです。いや、私は音楽やらない人なので音楽性なんつっても良くわかんないんだけれど。でもまぁ、ライナーノーツ…じゃなくて、ええと、なんていえばいいんだ…、CDのデータトラックに入っているゲスト参加のOdiakesさんのコメントにもそんな事が書いてあるし、あながち間違いではないようで。ともあれ、ラブレターっていうオリジナルソングが頭から離れません。ていうか、ずっと回してるんだけど。パートが重なるところが気持ち良いです。

 ところで、座談会やスタッフ後書きによると今回でサークル「ハイパーべるーヴ」ではメンバーの一人が脱退するそうなんですが、脱退する方のコメントっていうのが…凄く印象に残りました。

>輝く季節へ
>  恐らく僕はこのアレンジの事をずっと忘れる事が出来ないと思います。
>  アレンジであること、更にはエロゲーの曲であることが非常に悔しく思えます。
>  世間一般に胸を張って自分の作品だと発表できない。

> ていうか同人をねぇ、やり、たくない。
> ていうか別に、たとえばこのメンバーで何か創るとか全然いいんだけど、
            ・
            ・
            ・
> 同人がやりたくないってことじゃなくて自分の活動の妨げがデカすぎるということですね

> 時間がなくなっちゃう。もしオレがプロであって食っていけてるなら、
> べるーヴとか(参加しても)全然構わないけど。息抜きとしてね。

> これにいっぱいがんばっても、ねぇ、世間一般に公開できない

> まぁ、いい曲ができて、いい歌が録れて、すごくいいんだけど、
> 逆にいいものができればできるほど、

> 辛いね(笑

 すんげえ良く分かるなぁというかなんというか。
 本当、良く出来てるだけに悔しい、勿体無いんだよなぁ、この人の「輝く季節へ」。
 野望を持っている人には、という注釈をつけて「二次創作って報われない」という某氏の言葉を呟いてみたり、「作品からこぼれ落ちた自分の感情を必死に繋ぎあわせて自分だけのストーリーを作ろうとしているのかもしれない」という遠藤浩輝の言葉を思い出したりしながら、二次創作という不可思議な創作形態について色々と考えてみる。エヴァSSなんていう怪物業界や、そこから巣立ってオリジナルを書き始めた人達は今回の彼のような想いを抱いていたのかしらん…とかなんとか。
 バイクで例えて、趣味で愛車を徹底的にチューンする人、走り屋、個人でロードレースに挑む人、ワークス…のどこら辺が自分や彼らかを考えてみると分かり良いな、とか。
 …今の自分は趣味が高じてロードレースの観戦サークル作って、ミニコミ誌出してるミーハーってとこかな? なんで一文の得にもならないミニコミ誌なんか作るんだって言われたらら、まぁ、「伝えたい事たくさんあるの」って感じでしょうか。
 誰に、何を伝えたいかっていうのを考えるとちょっとぐるぐるしてくるけど(笑)レビューに関しては以前も書いたように自分が好きな作品を世に広めて続編やその作者の新作を自分が読みやすくする為だし、ONEに関していえば、そこに居合わせてしまったのが問題だったわけで。ゲームっていう、発展途上の「物語表現」の中で、ONEっていう作品はあんまり気づかれていないけれど凄いパイオニアだったわけで(クロノアなんかもそうなんだけど)、それを何とかして他人に伝えなくちゃいけないっていう使命感なんだよなぁ。皆、ONEを面白いつまらないで判断するのはいいんだけど、そこで何が起こっていたかに気づいて判断している人が少ないのが歯がゆいっていうかなんというか。


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