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《雑記帳10月》

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10月20日 考察だとか評論だとか超長感想文とか その1

 作劇には基本というものがある。
 かつてゲームには所詮子供だましだからといって、シナリオが主体であるはずのADVゲームですら起承転結すら押さえていない無茶苦茶なシナリオが平気で描かれていた。
 しかし最近になって基本を押さえたシナリオが出現し出すと、それに気づいた素人批評家(オタク)たちがそういう作品を一斉に褒めだした。
 基本に乗っ取っている。小説や映画に並んだ。素晴らしい(起承転結がなってない映画だってあると思うんだが)。
 そしてゲームが面白いかどうかではなく、物語の面白さへの批評が始まった。基本である様式に乗っ取っている。だからこれは素晴らしい作品だ、しかしここが基本から外れているから駄目な作品だというシナリオの批評・感想文が溢れる。

「ファイナルファンタジーは起承転結がなってないから駄目だよね」
「でもテーマはいいよね。あそこであのイベントを削除して、これこれこういうイベントを入れればいいのに」

 …それはシナリオの評価であって、ゲームの評価ではないよなぁ(※)。
 映画や小説の評論だって、必ずしも音楽や演出も含めての「画」や「文体」を評価しているわけではないのかもしれないのだけれど、文芸やシナリオとしてゲームを評価するのはゲームという表現にとってフェアではない、というか本末転倒ではないのか……。そう雪駄は思っていた。

 しかし最近はまた、細切れにされたシナリオをプレイヤーの手で再構成して一本のシナリオにするという、俗称ノベルゲームというゲームが現われ、再構成したシナリオを一個の文芸として評論することが流行っている。
 ゲームという一作品ではなく、構成要素の音楽やCGを単体で取り出して評価するように、シナリオを評価するのである。
 ゲームが映画に近づいたというのは、容量が増え、構成要素としてのCGや音楽、シナリオテキストのクオリティや量が増し、それぞれそういうメディアに近づいたということであるようだ。
 総合としてのゲーム自体は何も変わっていない。いや、むしろゲームというインターフェイスならではの、プレイヤーが介在するという要素と相反する、映画シナリオのような一方通行に語られる物語にゲームシナリオが近づく事でゲーム本来の旨味は減っている。
 ゲームが映画に、ゲームシナリオが文芸になるのはゲームの進化ではないが、たかがゲームを文芸のように偉そうな評論として語れることはとうの立ったゲーマーにとっては喜ぶべき事なのかもしれない。芸術にしてしまえば、いい歳をして子供の遊びを…なんて世間に言われなくて済む。
 何を言うんだ、そもそも我々がゲームをやりたいのはそれが楽しい遊びだからであって、小難しい芸術だからだったわけではあるまい。芸術になってしまったゲームを我々は喜んでプレイするだろうか? とかいう反論が来そうだが、どうせ映画だって、全てが高尚な芸術作品ではないわけで、ばかばかしいゲームだって作り続けられるだろうし、別に問題は無かろう。
 映画のようなゲームが作られるのも、映画や小説を語るようにゲームシナリオを評論するのも別にいいか、と最近は思う雪駄である。ただ「映画のような」事がメインであるならゲーム作業が面倒なので、ゲームをプレイするストレスを極力排除して欲しい。映画を見る為に金のほかにクソゲー長時間プレイという艱難辛苦を要求されるというのはどうにも納得がいかない。面白くなくて面倒なだけのゲームならつけないで欲しい。
 いや、面白いゲームと映画がセットになってるならいいけど(FFってだから売れるんだろうな)。

※ シナリオの評価なんだが、一部ではそれが映画にどれだけ近いか、つまりどれだけ文芸の基本に沿っているかがシナリオの評価項目になっている節がある。「(複雑な起承転結)が出来ています。良い作品です」
 私などは基本を踏襲していることは必要条件かもしれないが、肝心なのは基本というテンプレートの中身なんじゃなかろうかと思うんだが。
 中身さえ良かったなら、基本に沿ってなくたって伏線を回収してなくたって面白い、良い作品足り得ないだろうか。
 結局、基本という型に填まってない事を責められる作品、或いは型に填まっていた事を褒められる作品というのは、中身がそういう型すら超えられない小さな物だったという事なんじゃないだろうか。
 基本に沿ってはいても凡庸な物語に対して、作劇の基本に沿っているからこれは素晴らしいシナリオだなんていう事や、心を打つけれども、基本から外れている物語を駄目なシナリオだと言ったり、トンでも的に基本に当てはめて評価しようというのはどこか見当外れなんじゃなかろうかとかなんとか。
 まぁ、基本がなってなくて面白い作品なんてまず無いとは思うけれど、古典的な基本を越えて尚ちゃんと意味がある構造ってあるわけで、基本に当てはまってる作品を褒めるんじゃなくて、そういう無茶苦茶な構造をこそ考察派とかいう人達は目をつけて紹介するべきなんじゃなかろうかとかなんとか考えたり。
 勿論、奇麗な恋愛物語デス、少年の成長物語ですなんて、見りゃ解る事をちゃんと言葉にして評価する事も必要だけど、プロの批評家やレビュアーやフォロアーにそんなんは任せて、アマチュア考察ってのは、やはり読者の目から鱗を落としてナンボであろう(そうか?)。


10月21日 考察だとか評論だとか超長感想文とか その2

 Keyのネタばれ掲示板でも書いたけど、tatuyaさんのKanonの名論考『Kanon−カノン−』構造分析 〜ジュヴナイルファンタジーの証明〜 読んで「それでもRPGが好き!」というTRPGを楽しむための副読本を思い出した。この本、「アルジャーノンに花束を」とかエンデの「モモ」とか、日本の昔話とかを構造分析してみせているのだ。
 その上でこんな事を言っている。

その1
「近藤さんは、エンデが嫌いでしたよね」
「冗談じゃない、嫌いなものか
「あれ? だっていつもエンデの悪口を言っているじゃないですか」
そんなことないですよ。たいていきちんと本棚に並んでいるのが、何よりの証拠。小泉今日子がほめたより先に、ちゃあんと読んで、素敵だと想ったものだ」
「なんかなぁ」
好きですよ。エンデ
「でも、なんかエンデの本について話しだすと、近藤さんトゲトゲしいですよ
「だって、あの人理屈っぽいんだもの。自分の作品について、作者のくせにいろいろ理論を語っちゃうし」
「同じですよ、近藤さんと……。あ、だから議論になっちゃうんだ」
「でね、なんかエンデの本を読んでいると、テーブルトークRPGのシナリオのように理論で作られた気がするんだよ。テーマはこれ、悪役はこれ、事件の発端はこうで、事件の解決はこう、それを何枚ずつかこう……ってな具合に設計をきちんと決めてから書いている人のような気がする」
「いーじゃないですか」
「でもね。そういう余分なことを思いつかないぐらい打ちのめされる本もあるんだよ」
「余分なことかなあ。まあ、そうかもしれないな」
「なんか、ただただ本のおしまいのページが怖くて、この本を読みおわったら、これから先、どうやってこの人たちに会えばいいんだろう……いや、待て待て。これは作りごとなんだから。とか悩むような本じゃないんだよね、ぼくの場合」
「エンデを読んだら、そうならないんですか?」
「なんかね。『おー、作者はいいテーマを選んだな』とか『まずこのシーンが書きたかったんだな』とか、考えちゃうんだよ
「それでも好きなんですか。なんだかよくわかんないけど」


その2
「というわけで、簡単にロシアの学者が発見した魔法童話の基本形式*を紹介したんだけど、なんとなくファンタジーRPGみたいな感じでしょ?」
「なんとなくどころか、そのものみたいですけど」
「驚くべきことに、成功したファンタジーRPGは、この基本形式をみごとに踏襲した構成をとっているんだなぁ。主人公の出立の動機から始まって、最後の成長、レベルアップに至るまで、嘘のように相似形。そこで、素人ゲームマスターとしてはとりあえずこれを骨組みに事件を配置してみては如何?
「それが、昔話法なんですか?」
「まあ、かいつまんでいえばそうだね。先月は浦島太郎をベースモデルにテーブルトークRPGのシナリオを考えたけど、野崎さんはグリムの童話なんか好きそうだから、そのあたりから想を膨らませてみたらいいんじゃないかな」
「なるほどね」

注*この研究については、鈴木晶著「グリム童話」(講談社現代新書)の解説が詳しい。一読の価値があり。


その3
 この間、ある大手漫画雑誌の編集さんが、とても不思議なことを言っていた。

「あるマンガがウケるかどうかを左右するのは、ストーリーなんかじゃないんですよ。それはストーリーも大事ですけど、ウケるストーリーがどんなものかというのは、いままでのアンケート結果などでほとんど完全に分かっているわけです。その上で、僕ら編集者は漫画家さんを変えてみたり、登場キャラクターを変えてみたりしながら、色々と競争していくわけです。まあ、たまには変わったパターンのストーリーというのもやってみたりはしますけど、結果はほとんど悲惨ですね」

 なんか解るような気はしますよね。…(中略)…ストーリーと呼ばれるものは、もはや完全に規格化され、使い捨てられる大量生産品らしい。…(中略)…大出版社や大放送局がアンケートの結果によって作っているどっかで見たような作品に近づけないとダメなのだ。それに、流行でにおいをつけて、目先だけを少し変える。リサーチの名人が一流編集者と呼ばれ、翻案と改作の名人が一流クリエイターと呼ばれる。みな、多分それじゃダメなんじゃなかろうか……と気づいているのだろうけど、売れなかったら俺はクビとかウケなかったらどうしようという恐れが、同じような作品を量産させていくらしい。まあ、現代の日本の場合、大体の読者は同じようなものを食べ、同じような教育を受け、同じようなものを見聞きしているのだから、同じようなものがウケるのは仕方のないところなんだろうけど、これがアメリカや欧州のように価値観が多様な国だと、クリエイターはもっと多様な仕事をさせてもらえて面白いんだけどね。


その4
 どうやって作ったらよいか。その作り方が分かってしまったら、芸術作品は工業製品に変わる。小説や映画に含まれるストーリーというのも、最近では芸術ではなく工業製品に変わってしまったようだ。この話はどうやって思いついたんだ? とビックリするようなものには、最近とんと出会わない。見たような話がえんえんと編集部によって量産され、消費されていく。
 皮肉な書き方をしたが、いいこともある。
(中略)
 多少安っぽくはあるが、誰でもそこにいける。それが大事だ。
(中略)創作はとても面白い。だが、その方法は人さまざまで誰にでも公開されいるものではなかった。また、聞いても真似出来るようなものではなかったのだろう。創作……それは一握りの天才たちが披露する、ある種の芸術。


(以上、近藤功司・冒険企画局「それでもRPGが好き!」より引用)


 構造分析っていうのは、言ってしまえば創作の技法を暴き出して芸術作品を工業作品としての側面から評する為の分析である。それは、物語をただ観客として楽しむ人間にとっては(その1)で近藤功司もいうように余計な事にすぎない。観客がマジックショーの裏側を知ってしまい、人間が切断される事が驚きと興奮でなくなったように、構造や様式を知ってしまった物語はワクワクドキドキは出来なくなってしまう。
 だがトリックがあると分かっていても観客がそれを簡単には暴けない限り、驚異の魔術という奴には驚愕ではなく感心という別の面白さが発生するし、(その2)で言うように物語の構造を知ることは物語を創作するスキルを身につけ、創作という快感を得るためのステップとなる。

 最近PCゲームについて長文で語るという行為が一般化し、各人様々なスタンスでそれに臨んでいる(※)ようだが、それらはどうやら三つに大別できるようである。

 1、観客に徹していたい人間の熱い想いによる感想。
 2、創作者を目指す人間による分析。
 3、2の手法を用いて1を評論にしたもの。

 1の感想派と2の分析派は、求めるものが相反するので一緒にいたら対立してしまう。双方ともに3に持っていく事で三者は幸せになれるのではないか、1+2で3である(なにがなにやら)という意見も聞くが、そう事態は単純ではない。分析する為に観客である事を辞めた時、そこに立っているのは物語を楽しむプロフェッショナルではなく創作者の卵である稚拙な分析者であるわけで、観客として対象をより楽しみたいとおもっている人間にそれを望むのは酷な事である。「楽しむプロと作るプロは違う」というジレンマは論者達を今後も悩ませ続けるであろう。

※前述のtatuyaさんのKanon論考の前文、源内さん■「感想」、「批評」、そして「考察」から「評論」へ とその周りの文章、苺電波部これ亜蘭さんONE論評の序文魔法の笛と銀の鈴さんの8/19、9/2、9/14の日記やONEの感想を参照されたし。各人のスタンス、表現の違いは非常に興味深い。
 ちなみに雪駄は時にはそのゲームの楽しさを、時にはゲームという物語表現の面白さや可能性の伝道者でありたいと考えているので、その時々でスタンスは変わる。前者であれば想い溢れる感想を、後者であれば分析と評論を行っている…んじゃないだろうか(すいません、今考えました)。


10月28日 母性

○彼女達の言葉

「私が、君を守ってあげる。この残酷な世界の全てから、君の事を守るの…。
 私がこの世界でする、最後の約束――」

「あなたは死なないわ。…私が守るもの」

 永遠はあるよ。
 ここにあるよ。
 私がずっといっしょに居てあげるよ、これからは。

○母性を感じさせる女の子っていいよね
 上に上げたのは、母性を感じさせる安らぎある言葉である。
 よって、母性を求める「男(大人)」や「子供」にはその言葉が強烈に入ってくる。
 私もかなりキュンときたものだ。
 しかし、最近はどうもそういう事を公言すると一方的にマザコンだ、あぶねー奴とか言われてエンガチョ切られたり、それが高じて母性そのものを嫌悪する人達によって「女が母である事をやめてしまう(富野カントク・談)」という人類存亡の危機(*)が迫っていたりして非常に宜しくない。よって今回は人類存亡をうれいて母性崇拝の正当性や母性嫌悪の異常性をベースに、やっぱりONEを語ろうかと思ったり。

○マザーコンプレックスとエディプスコンプレックスは違う
 そもそも男が母性を求めるのは種族保存本能からであり、自分の子を生すに足る、子を愛してくれる存在を求めるからであって、子供が母性を求めるのは自己保存本能、弱い自分を無条件に肯定し守ってくれる愛情を求めることであって、性質が多分に異なる。
 ちと極端な喩えになるが、前者がエディプスコンプレックスであり、後者がマザーコンプレックスであると考えれば分かりいいだろうか。
 「女」や「子供」が父性を求めるのもまた、同様にエレクトラコンプレックス、ファザーコンプレックスと言え、理由は全く違うといえよう。
 大人の男がエディプスコンプレックス的な、依存ではなく確保という意味で母性を求めるのは種族保存という見地から見るとまったくもって正しく、成長しきらない弱い子供が自己保存の為に母性を求めるのも、女が母性をもつのもまた正しい。成長した大人がマザーコンプレックス的に母性を求めるのはまったくもって異常であるが。

○こっからONEの話
 よって、精神的な子供と大人の区別というのは母性の求めかたでも判断できるので、子供が大人に成長する物語においては、この母性(父性)を求める理由の変遷というのが非常に重要な要素になってくる。
 自分を子供として無条件に愛してくる母から母性愛を与えられる事を必要としなくなったとき、子供は大人になるのだ。
(注:生きる上で、与えられるだけでなく、与える側になったらということ。それは何も愛情に限った話ではない。「食料を自分の力で得て、自分の子供に食料を与えられるようになったら一人前だ」というのは分かるね?)

 永遠はあるよ。
 ここにあるよ。
 私がずっといっしょに居てあげるよ、これからは。

 上の引用はONEにおいて最も印象に残る文句の一つであり、瑞佳の母性の現れである。
 幼い浩平は瑞佳の自分への母性愛を受け入れ、二人はある意味で母と子の関係を構築する。
 しかし、瑞佳はやがてそうした擬似親子関係の終焉(浩平の母離れ)を望み、長森シナリオではさらに子供としての浩平でなく男(大人)としての浩平を求めるようになる。それは未だ子供で母の愛情を欲しがる浩平の、かつて母性を与えながら一方的にそれをやめて女になった瑞佳への反発へと繋がる。以下、長森シナリオを前提に話を進めよう。

(余談)
 成長した男性が自分を守ってくれる母であった女性に女である事を望むというエディプスコンプレックスの変形や、先に成長した女性が少年に大人になる事を望み、望まれた相手が戸惑ってしまうという成長の個人差が生む恋愛関係構築の成長痛というのは少年少女にとって永遠のテーマである。故に、義理の母子や姉弟、幼なじみ、クラスメイトという関係から恋人へと変遷していく様をモチーフにした物語ではよく描かれる風景であり、ONEはそうした側面も持っている。が、今回は母性についての話であり、この件は他に研究者も多いので触れずにおく。この系統ではホワイトアルバムのはるかシナリオ等も興味深い題材ですな。

○マザーコンプレックスからエディプスコンプレックスへの物語
 浩平が母であった瑞佳が女になるのを拒むというのは、成長を拒み子供であり続けたいと願うことであり、男女間の恋愛関係でなく、自分を庇護してくれる母子関係を、母性愛を一方的に求めるというマザーコンプレックスである。
 マザーコンプレックスを描いた作品といえば、それを何時までも抱いた成人男性とそれを受け入れる母親の異常性を世間とのギャップから描いた不健全な物語である事が多い。ONEもまた、マザーコンプレックスに囚われた浩平が世間とのギャップから世界から消えてしまうという、そのままズバリの物語であるが、多くの物語が主人公が成人男性でマザーコンプレックスの原因を母親が子供の成長を望まなかった事とするのに対し、ONEの場合は浩平は成長しきれなかった成人ではなく大人になろうという少年で、母(瑞佳)もまた子が成長する事を望んでおり、マザーコンプレックスの克服を描いていても非常に健全な成長物語という印象がある。
 同様に、面白いのが浩平が大人になることを望む母である瑞佳というのが同時に恋愛する相手であるという事で、これによってONEは母を女として認め愛してしまう、エディプスコンプレックス的な物語とも言えるのだ。

 エディプスコンプレックスとは、ようするに無垢であった少年が性に目覚め男へと成長する変化という、ある意味での汚れをおぞましき物として描いたものである。しかし、ONEに置いては通常のエディプスコンプレックスの物語にあるタブー感、おぞましさというものがまるで無い。

 マザーコンプレックスを描いた多くの物語が母性をおぞましきものとしてデフォルメし嫌悪させる事で主人公に否定、克服、成長させ、エディプスコンプレックスを描いた物語が男への成長をおぞましきものとデフォルメするのに対し、ONEでは母性を温かな、必要なものとしてのみ描き、成長たるエディプスコンプレックスとしての母(瑞佳)への恋慕も、戸惑いや恐れはあるが自然なものとしておぞましさを感じさせない。
 感じさせないが、逆に言うとマザーコンプレックス、エディプスコンプレックスという、停滞と成長の双方を否定的にとらえる要素をぶち込んだ物語であるとも言える。

 さらに、ONEにおいて克服するべきものや進むべき道が困難な理由は、それが縛り付けてきたりおぞましかったりするわけではなく、温かいから離れ難く、それ故に克服し難く、何かを得る事で代償を払うというごく当たり前の事への内的葛藤が進行への決断を鈍らせるというものなのだ。成長も停滞も否定しながら肯定している。ようするに子供の大人への成長という要素を善悪では片づけていないのである。

○安易な結論を出さない物語
 ONEは母性を温かいものとしたままで、なおそれから離れなければならない理由を示し、痛みを伴いながら少年がマザーコンプレックスを克服し、大人になる様を真摯に描いている。
 母性からの脱却、子供から大人への成長を扱った物語が二元論的に「成長=善、母性=悪」と安易に片づけたり、母性崇拝の物語が「成長=哀しい(悪)、母性=懐かしい(善)」とやはり二元論的にノスタルジックに母体回帰を志向しがちなのに対し、安易に二元論の答えを出すことなく、しかし飽くまで前向きに「生きる」という痛みと喜びを真摯に描いた人間ドラマであったといえよう。
 人間が成長を志向するのは、それが正しいからではない。
 そうしなくては生きていけないからなのだと。

 また、ONEはその生きるという事もまた善悪等という二元論では片づけず、生死を選ぶのもまた個人の自由意志であると、幸せで哀しい死と辛く楽しい生という善悪で片づけられない対比を「永遠の世界」という要素で示している。

 ONEという物語は説教はしない。
 世界の悲喜劇を真摯に見せ、ただラストにおいて浩平が痛みを伴う成長を受け入れ、生きる事を望んだ姿を見せるだけである。
 それが正しい選択だったかそうでないかは、プレイした人間それぞれの心の中にある。



(*)マザーコンプレックスを抱き、大人になろうとしない成人が時に嫌悪されるのは種族保存本能からいうと正しいと思うが、そういう人が時に行き過ぎて母性そのものを否定するのは、いったい何なのだろう。
 種族保存本能を含めた、あらゆる本能というプログラムを理性で押さえつけようということなんだろうか。
 それは自身の存在の否定であり、無への志向だ。
 生殖という自然に仕組まれた行為以外で自身、或いは人類という仕組まれた存在の生きた痕跡を遺したとしても、仕組まれた自身とその系譜という存在が消滅してしまうのは変わらない。
 なんにせよ、神に挑む人間はこの世界から消えるしかないのだ。
 神に挑むとは、なんと救いの無い戦いであろう。
 それ故に戦い甲斐があるのだろうが。


10月29日 胡蝶の夢

○アフタヌーン12月号に収録の篠房六郎「空談師(後編)」。
 ネットRPGとWWWを合わせたようなゲームを描いた漫画。
 ネットゲームのプレイヤーやWebページを運営している人間には共感を得やすく、面白い作品だったと思うが、そうでない人にはどういう風に映ったのだろうか。現実(と呼ばれているもの)を仮想現実から照らし出すSFとしては概念が理解しづらいかもしれない。
 ソノラマ文庫の彩院忍「電脳天使」(この作品に心当たりがある人はペルソナウェアっていうデスクトップアクセサリーを見てみよう☆ クリティカル・パパは現実に現れるかもしれない)や講談社ノベルズの栗本薫「仮面舞踏会」なんかはコンピュータネットの知識が無い人間にも評判が良く、逆にそれらがきっかけでネットを始めたって言う人もいるようだけど、この空談師でネットゲーム始めようとする人間はいるかな?
 後編だけでも話は分かるので(というか前編は状況説明と伏線貼りだけなのであまり面白くない)、ここに辿り着くような人間なら読んで見るといいかもしれない。

○SFマガジンで「現実とは何か?」というエッセイ特集をしていた。
 映画でもアニメでも18禁ゲームでも小説でも虚構と現実の錯綜する物語が流行し、ネットという仮想現実の中で現実というものについて議論が続いている。
 そもそも物語を与える娯楽という物の多くは仮想現実を提供する物でネットというのは仮想現実そのものだから、人がそれらを求め続ける限り、この場所でこういう議論はなくならないだろう。
 世界や自分自身という「現実」という共同幻想を形作っている情報の真偽とかね。
 これは自省していくと結局、エヴァの最終話の「おめでとう」に行き着き、議論していくと映画のパトレイバー2の以下の南雲さんの言葉に行き着くと思うのだが、何時まで経ってもこの議論は終わらない。男女間の恋愛等にしてもそうだけれど、こういう普遍的なテーマが何千年もかかって尚、議論され続けるというのは、いくら考えたところで、生きる人間が出す答えは、結局生きるという現実を選ぶ上での一つの妥協点にしかならないからなんだろう。
 生きる、存続するという思考を持っている限り人間は妥協するしかない。妥協しないということは無への志向であり、それ故に哲学的思想にハマってしまう人間は儚いのかもしれない。

「たとえ幻であろうと、あの街ではそれを現実として生きる人がいる。
 それとも、貴方にはその人達も幻に見えるの?」


○パトレイバー2を引き合いに出したついでだ。続けて引用。

「三年前、この街に戻ってから、俺もその幻の中で生きてきた。
 そして、それが幻である事を知らせようとしたんだ。
 結局、はじめの砲声が轟くまで、誰も気付きはしなかった。

 …いや、もしかしたら今も」

 幻の中から真実を伝えようとしていながら、その行為自体が幻を作っているという論理矛盾を抱えるのがマスコミであり(最近だと常磐貴子が主演したドラマ「タブロイド」なんかを見ると理解しやすい)、基本的に幻を語るのが作家である。
 そして、真実と幻の区別がつかなくなった世の中で、自身が作っている幻を真実だと誤解されてしまった作家の苦悩が「エヴァンゲリオン」であり、それを描いた物語が小説の「ブギーポップ・ミッシングペパーミントの魔術師」であると私は思っている。

○なんか人気無いよな、ペパーミント
 「ペパーミントの魔術師」は皆を幸せにしたくて幻を描いた。しかしやがて、皆が自分が描いた幻に捉われてしまったのに気付いて、皆の夢を醒まそうとした。
 だけど「魔術師」には幻を見せる事でしかアプローチできなかった。

 幻を消す為に新たな幻を作るという、哀しい論理矛盾。

 魔術師の目的は皆に幸せな夢を見せることでなく、皆にこの世界で幸せになってもらうことだった。
 ブギーポップシリーズでは構成が通常の小説っぽいせいか評価が低いペパーミントだけど、噺自体は彼がイマジネーターと違い「世界の敵」でなかった理由なんかから見ていけばかなり面白い作品だと思う。
 ブギーポップという存在の怖さ、ブギーポップシリーズという物語がかなり露骨に見え隠れしてるんだよね。
 まぁ、見え隠れしたそれがブギーポップは正義の味方じゃないし、統和機構も悪の秘密結社じゃないっていう、勧善懲悪の二元論じゃ片づけられない物だった、ていうんで不満に思う人も居るのだろうけれど。

 さて、ブギーポップが正義の味方じゃないという観点から「VSイマジネーター」で出てきた「突破」という言葉の意味を単純に考えると、このシリーズの最後の敵役はブギーポップということになりそうだ。けれどこの作者、どう裏切ってくるか分からないので本当にこのシリーズは目が離せないなぁ。

○ペルソナ2「噂が本当になる」を別の方法でやってるゲーム
 ところで、だ。現実と虚構が錯綜する「ハルマゲドン・エキスプローラー」というネットゲームをご存知だろうか?
 実際は運営されることなくポシャったゲームなんだが、理念自体は非常に面白く、さらに参加予定だったプレイヤーたちが妄想力を駆使して、ハルマゲドン・エキスプローラーを妄想の中でプレイし、その内容を現在進行形で情報交換して妄想の中で遊ぼうとしている。
 PBMに詳しくない人には分かりづらいかもしれないが、PBMゲーマーで現実だの虚構だのというフレーズに興味のある方はこれについて色々調べてみる事をおススメしたり。
 私は参加してないけど、見てるだけで目茶苦茶面白い。

10月31日 本当の事は一つだけじゃない

tatuyaさんから反省文を書いたので読んで欲しいとのこと(10/26)
 知る事が目的ではなく手段であった筈なのに目的と手段を履き違えていた事に気付いたり、知識や技術を知り、理解しながらそれを使用・活用しない事を勿体無いと思うのならば、反省の余地はある。
 とっとと知識を使えばいい。
 何に使うかは迷うかもしれないけれど、使うべき道はきっとある。

 だが、興味を持った物事についてより詳しく知り、理解したいという事が手段であり、目的であるならば迷う必要も反省する必要もないだろう。
 tatuyaさんは分析結果を何に使おうか模索し、悩んでいるようだけど、あまり難しく考えないでいいんじゃないだろうか。

>私の中には、行動原理が存在しないということになるのです。
 とtatuyaさんは言っているが、既に分析を行っている以上、そこに行動原理は既に存在しているのではないだろうか。
 自分が魅せられた物語という物がなんなのか知りたいというのは、それだけで分析する理由、行動原理になり得ると思う。

 目標が共通の他人と連れ添って歩いていた途中、その他人にとって自分の目標が通過点に過ぎないと気付いたって、目的地までの距離の違いで他人と自分を比べる必要なんて無い。
 だって、目標に辿り着いたときに他人は補給だけして去っていき、自分はそこで仕事を始めるんだもの。目的地が違うとはそういうことだ。

 tatuyaさんがもうはじめの目的を達してしまい、別の目的を探して悩んで同じ場所をぐるぐるしているというのならば、的外れの意見なのだけれど。

 ところで退魔戦記は、実は真・退魔戦記としてCD-ROMで出る予定が…あった…んだけど…ゲフンゲフン。

○もっとゲームを楽しむ為に
 Web上で行われている小難しいゲーム談義って、結局はゲームに対して、こういう風に見れば(見ても)面白いよ、面白かったよ、納得できる(た)よ、ていう事を報告しあって、ゲーム好きがゲームをより楽しもうとしている行為なんだと思う。
 少なくとも私がONEを分析して考察の一例を発表してるのは、自分が気付いたONEの面白さを気付かなかった人達に気付かせてあげたいからだし、他人のレビューや考察を読むのは面白いゲームや、楽しめなかった既知のゲームの楽しみ方、楽しめたゲームの別の楽しみ方っていうのを模索しているからだ。

○たった一つの真実見抜く…?
 たった一つの真実なんてものを探しているわけじゃない。
 考察結果が製作者の意図として正しかろうと間違いであろうと、面白ければそれでいい。製作者はユーザーを楽しませようとしてゲームを作るんだから、その意図を見つけ出すっていうのはそのゲームの面白さを見つける良い方法ではあるけれど、製作者の意図したとおりだけがそのゲームの楽しみ方ってわけではないのだ。
 製作者の用意したたった一つの楽しみ方だけが正しくて、そうでない楽しみ方が間違いだなんていって他人の楽しみ方を否定するなんて冗談じゃない。
 レビューや評論って、極端な話「こう見ると面白いよ〜」「面白いからプレイしなさい」。或いは「つまらないから買っちゃ駄目だ」っていう事を他人に伝えるものだと思う。
 それぞれの理由足る長所・短所を客観的に描き、読み手がそれらから読み手それぞれの判断が出来る余地を残して、その上で評者のスタンス、そう感じた理由がきちんと示され、違う意見を持った人間にも評者の意見が納得できるのがウケる評論で、一方的に自分の意見だけ言って且つその理由が主観的で読者が納得できず、評者が自分の意見に納得できない読者を一方的に間違っていると排除するのがウケ難い評論…だと思う。

○tatuyaさんのKanon論考への感想
 tatuyaさんのKanon論考を私が名論考だと言ったのは、Kanonの面白い見方の一つを示してくれ、自分が気付かなかったKanonの楽しみ方を教えてくれたからだ。
 分析の手順、結果は、一応は物語る志向を持つものとしても非常に参考になったしね。
 必要以上にファンタジーという様式に拘りすぎているのがちょっと気になったけれど(単に、私がSFだのファンタジーだのミステリだのといった様式には大して拘らないから、様式の完成度にあまり興味無いせいだろう)、ファンタジー談義として面白かったし、ジュブナイルを主題として見た観点は興味深かった。

○表現技法には拘る私
 どうでもいいけど、Kanonて色々と分析されている割には殆どテキストしか分析されていないのって不思議だと思う。
 音楽の終了時間に合わせて絵だけを流すっていう、ADVゲームの演出としてもっと注目されて良いだろうという場面に代表されるように、劇伴と画と文章の高度な融合を成し遂げた、様式として完成されつつある電子小説だっていうの、もっと注目されるべきだと思うんだけどなぁ。


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