アニメ版ポケモンが表層化させたテーゼへの一つの答え ――コミック版「メダロット・ナビ」――  「ポケットモンスター」というゲームは、ポケモン達を初めから、ゲットし、コレクションし、トレードするモノだと位置づけ、彼らをそのように扱う事によって生じる楽しさを提供する作品だった。  ピカチュウをはじめとするポケモン達とはなんなのかを考えたとき、上記の事実から「仮想現実とはいえ、生き物をモノや奴隷のように扱うのは如何なものか」というオトナの提言をする向きも多々あるだろうけれど、ポケットモンスターという(流通や交渉の対人ゲームを含む)ゲーム作品においてのポケモンという存在を考える場合には、ポケモンを「彼ら」と擬人化して考える事は本質を見誤らせる。  ポケモン達とは、直接的にいえばポケモン遊びの為の道具、モノなのであり、よく言われる事だが、メンコやベーゴマ等と同じように、それを用いてゲームを行なうことも出来る「トイ」に近い。  ゲームボーイ版ポケットモンスターは、多分にそれに自覚的であり、魅力的なトイとそれを用いた魅力的なゲームルール、それを行なう為のゲームボーイという優れた場を提示・利用してゲームを提供した作品である。  ゲームとしてのポケットモンスターを考えるならば、ポケモンはゲームにとっては資産でしかなく(物理的にもデータでしかない)、トイ的性格やキャラクターを持つにしても、それはゲームを彩る要素の一つでしかない。プレイヤーの情操ひいてはゲーム内での行動を左右する存在であるとしても、それはゲーム内に還元される。  ポケモンは大前提として、ポケットモンスターというゲームに必要不可欠なパーツ(或いはツール)であり、つまりはモノなのである。  プレイヤー達はそれを当然とし、ポケットモンスターというゲームを楽しんだ。  ところがこのゲームとしての当然は、ポケットモンスターがアニメ化され、ポケモンというモノを巡るゲームがサトシ少年の成長物語と変化し、、同時にピカチュウ達モノが「ピカ〜」と言葉や感情や痛みを目にみえる形で発しはじめた時に揺らぎはじめることとなる。  アニメ版は、ポケモンをモノとして扱う事やポケモン同士を戦わせる事(つまりはゲームの大前提)に「悪」の香りを描いてしまったのだ。  モノであるポケモンを戦い倒しゲットし、さらに他のポケモントレーナーと奪い合うという(ゲームそのままではないにせよ)、ゲーム的には当り前の風景が「楽しいこと」としてテレビ画面に現出する分には問題なかったのだが、モンスターボールに入れられることを拒否したり、戦いを戸惑うポケモン達の描写は、ゲーム版ポケットモンスターにおいてプレイヤーが当然の事として行なっている事を否定しかねなず、ポケモンを商品、つまりはモノのように考え強制的に従わせ扱おうとするロケット団という敵役(さらにロケット団には、例外的に自分の意志を持って行動するポケモン「ニャース」が存在しているのが複雑)を悪としたことは、非常によく似た事をゲームで行なっているプレイヤー達や、それを前提とし推奨するゲーム版のプレイを悪と認識させかねないものであった。  勿論、制作スタッフもそこは自覚しており、サトシのゲーム的大前提行為に対して様々な理由付けを行い、また、コレクションするポケモンのことを「友達」と言い換え、共に戦ってくれることも正当化しようとしたが、そのことが逆に、友達であるポケモンを戦わせたり、トレードしたり、レベルアップの為だけに大義名分もなく野良ポケモンに喧嘩を吹っかける等のゲームプレイに疑問を抱かせる結果ともなり、モノであり同時に友達であるポケモンとはなんなのか、ポケモンを使って遊ぶ自分達とはなんなのかという漠然としたテーゼを与えることとなった。  しかし、映画「ミュウツーの逆襲」に見られるとおり、製作者側はこのテーゼの存在を認知している事を窺わせながら、明確な解答を与える事はしていない。  ポケットモンスターの影響下にある、後発の「デジタルモンスター」をはじめとする類似ゲーム作品やアニメ作品もまた同様のテーゼを抱えており、デジモン等、モンスター達が皆人間のように喋り振る舞うような作品では、寧ろポケモンよりもそれが顕著なのだが、敢えて核心に触れるような描写は殆ど見られないというのが現状である。  そもそも表層化していなかっただけで、テーゼを抱えていたことは判りきっていたことなのだろうし、結局のところゲームを飽くまで娯楽と捉え楽しむ事を第一に考えるならば、ゲーム的なことに対する疑問や付随するテーゼを考えるというのは、ドラクエにおける「一般家庭のタンスの中身を漁る勇者」について考えるのと同じ、ゲームはゲームと割り切るか、ゲーム的な事象や行動を想像力を駆使し都合よく解釈するかというスタンスの違いを測る踏み絵に過ぎないというのも事実であろうし(ゲームをフィクションと置き換えても可)、下手に踏み込んでゲームとしての面白さを疑問視させるよりは、テツガク的なテーゼや倫理や道徳と関係無く、楽しいゲームとしてのみ「ポケットモンスター」シリーズが作られ続け、遊ばれ続けているのは至極当然で、製作者側にとってもプレイヤーにとってもベターな状態だということも出来るだろう。  ゲームとは単に面白いから遊び、飽きたらやめるただそれだけのものであるという、この単純な図式が成立していればこそ、製作者は面白いゲームを作りつづけるのだし、プレイヤーもそれを遊び続けるのだから。  しかし、面白いか否か以外の意味をゲームに探すこと、この図式が壊れる事を良しとしなかったポケモンの一方で、そのアニメ版が表層化させてしまったテーゼに応えようという受け手達も存在するようである。  ポケモンに影響を受けて発売された、多くの類似ゲームの一シリーズ「メダロット」という作品をご存知だろうか。  ようするにポケットモンスターのロボット版であり、ポケモンの代わりにメダロットと呼ばれるロボットをコレクションし戦わせ、そのパーツをトレードしたりするゲームである。  作中の設定でもロボトル(ロボットバトルの略である)というゲーム(競技)に使うための玩具機械であり、コンビニなどで売り買いされるメダロットは、ポケモンよりも直接的にモノだ。ゲーム中でもキャラクターというよりもSLGにおけるユニット的な性格が色濃い。  一方で設定上の、そしてアニメ版やコミック版においてのメダロットは、アニメ版ポケモンと同様、メダロットは主人公であるメダロッター(ロボトルプレイヤー)の「友達」だと位置づけられるのだが、同時にメダロットが意志をもち、人の言葉を話す存在として描かれることによって、ポケモンの抱えるテーゼをより直接的に顕在化させていた。  そしてこのシリーズは、コミック版「メダロット・ナビ」(フジオカ・ケンキ著。講談社ボンボンコミックス刊)において、遂にポケモンのテーゼに真っ正面から挑んでしまう。  メダロットとは何なのか。  彼らと過ごす事を選んだ人間とはなんなのか。  詳しい言及は避けるが、このコミック版「メダロット・ナビ」は、一夏の少年の物語と、人になりたいと願ったメダロットの物語を通し、ポケモンアニメ版が提示した疑問やテーゼへの一つの解答を描いたといっていい内容である。  ゲームのメダロットの設定を利用して描かれた、ゲームとは別の物語作品であると言うことも可能だけれど、そうだとしても、いや、そうであればこそ逆に、ゲームのユニットでしかない存在達からあの物語が見出されるという事実は重要な意味を持つ。  モノでしかない筈の存在と過ごした時間が、物語を作ったということ。  事象だけを見るなら、メダロットから物語を生んだ(見出した)主体はプレイヤーであって、メダロットというモノではない。  このコミックの存在はそれを示しながらも、その上で、では人間達の物語を生む触媒となった、メダロットというモノはなんなのかと問い掛け、この本や本の中の登場人物やメダロットという「モノ」達の姿を突きつけているのである。  君は泣いていたの?  そして主人公カスミは、そのモノが何なのかというテーゼから、この疑問へと辿り着く。  答えは語られない。しかし、カスミは言う。  僕は泣かない――  カスミが得たこのような答えの存在は、私に、今後、ポケットモンスターという作品やプレイヤー達にとって、打ち込まれたテーゼがどのように影響して行くのかという興味を抱かせる。  あと、これは余談なのだけれど。  こうした問いやその答えの向こうに、僕にとってのゲームというモノがなんなのかの答えを見つけてしまった。  人と人を結び付け、共通体験や共通言語を作り出させる媒介。プレイヤーが互いにルールを共有しそれに沿って行動する空間を作り出す、知的遊戯。  そうしたプレイヤーの道具、「モノ」でしかない存在に、僕は泣いていたのかどうか尋ねたいらしい。  救いようのない話である。