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論考:「ゲーム機で見る映画」とそれを越えるもの
〜旧Tactics(ONE)、Key(Kanon)、新生Tactics(鈴がうたう日)の比較〜


 ゲーム誌ライターにして小説家の手塚一郎氏がファミコン最後期のソフト、メタルスレイダーグローリーという表現に贈った言葉に以下のようなものがある。

「プレイヤ−を必要とする映画なのだ。」
「AVGは果たして映画になれるのか ?」
「ファミコンでアニメを観るーー何かいいな。」


 本論考ではこの言葉を元に、「ゲーム機で見る映画」略して「ゲーム映画」という表現、そしてその分化した表現として「分岐型ストーリーゲーム」という表現を定義し、その枠の中で持ってタイトルに上げた3作品を評価、考察していく事とする。
 まずは「ゲーム映画」の説明から入ろう。

 かつて、コンピュータゲームはカードゲームやビリヤード等と同様の勝利を目的とした「ゲーム」であった。
 コンピュータゲームはその特性の一つとして、独りで出来る「ゲーム」であることが求められた。始めはコンピュータ相手に勝敗を競ったものだが、何時の頃からかコンピュータゲームはプレイの目的をコンピュータに勝つことではなく、別の物に求めるようになっていった。
 そしてパズル性等、勝負以外の要素を目的とするゲームが生まれ、それに前後してプレイヤーのミス以外の終わりが無くなる弊害の解消、何度もプレイヤーにやらせる為の目的としてランキング制を生み出す点数や、クリア後の達成感を生み出すゲームの終わりとしての「物語の完成」が生まれていった。
 まぁ、ちゃんと調べたわけではないので、ここら辺は全て雪駄の想像だが、とにかく、何時の頃からはコンピュータゲームは物語を得た。
 そして物語を得たコンピュータゲームの行きついた先の一つ。
 それが「ゲーム機で見る映画」(電子小説)である。
 「ゲーム機で見る映画」とは、ゲーム機やPCにおいてプレイヤーがパッドやマウスを握り、自分を感情移入させるプレイヤーキャラクターを操作する事を提示された物語に自分をのめり込ませる為の演出作業、少々複雑な「ページ捲り」とし、シナリオライターによって語られる一本道の物語を読んでいく、新しい形での小説、映画というべき表現の事である。
 近年のPSにおけるファイナルファンタジーシリーズ、風のクロノア、PCでのビジュアルノベルと呼ばれる作品群(リーフのビジュアルノベルシリーズの事ではなく、俗称としてのそれ)はその典型的な成功例であり、殆どのストーリー付きゲームは程度、出来の差こそあれ、ほぼ例外なくこの「ゲーム映画」かそのなりそこないである。

 かつてコンピュータゲームと呼ばれる物の主であった、コスティキャン言うところの「ゲーム」という表現、趣向はこれらの「ゲーム機で見る映画」においてはそれがどんなに面白く完成しようとも主にはなり得ず、演出という副要素でしかない。
 「ゲーム機で見る映画」はすでに「ゲーム」では無いのだが、コンピュータで動く娯楽に対する呼び名がゲーム以外は公式には存在しなく、全てのコンピュータ上で動くエンタテイメントとしての表現は全て便宜上ゲームと一括りに呼ばれ、本来の「ゲーム」を求める一部ユーザーに混乱を与えているが、一般の人間にとって娯楽は飽くまで娯楽にすぎず(例えば大多数の人間にとって映画や小説がSFなのかファンタジーなのかといった区分けは必要でない。面白いかそうでないか、それだけが重要)、それらを分ける必要が市場にはないので今後もゲームという呼び名でFFもKanonもテトリスも一括りにされ続けるだろう。
 そもそも「ゲーム機で動く映画」の中に演出としてでも「ゲーム」が存在する以上は、ストーリーを主、ゲーム部分をオマケととるか、ゲーム部分を主ととり、ストーリーをオマケととるかでそれが「ゲーム」かそうでないかというのは個々のユーザーの受け取り方一つで全然違ってくるので、強引に分けることは無意味であるともいえるが、ここでは論を進める必要上、敢えて「ゲーム」と「ゲーム機で見る映画」を区分けする(基本的に一本道のストーリーで「ゲーム」を取り外しても成立してしまうものは「映画」だと定義)。

 成功した「ゲーム機で見る映画」は一つの物語表現として確立し、評価と需要を得るに至っている。

 そして現在、「ゲーム映画」の中には「分岐型ストーリー」ゲームとでもいうべき分化したものが存在している。
 マルチシナリオ型ゲーム、シナリオ分岐が主体のサウンドノベルシリーズや「雫」「痕」、ロマンシング・サガ、ゆみみミックス、やるドラ等がこれの成功例にあたる。
 「分岐型」と「ゲーム映画」の二つは、どちらも「ゲーム」でなく「物語」が主体の表現であるが、一つの全く異なる部分が二つを完全に分けている。
 物語が分岐するか否かである。
 一本道のストーリーと分岐するストーリー、この違いは思っている以上に大きい。
 「ゲーム映画」は言ってしまえば一本道の小説のようなもので、プレイヤーの操作はちょっと複雑なページ捲りの作業にすぎなく、プレイヤーの意志がストーリーに影響を与えない。一見分岐するようにみえる選択肢は、単にゲームオーバーと正解を区別するモノであり、どれを選ぶかの決定権はプレイヤーには無く、製作者に押し付けられた正解ルートを通るしかない一本道の物語である。一昔のRPGに見られた、正解を選ぶまで延々とループ、或いは不正解を選んだとたんゲームオーバーという、物語上、全く無意味な選択肢「はい」と「いいえ」がその象徴である。
 対する「分岐型」はプレイヤーの操作が物語を変化させ、意志によって物語に影響を与える事が出来る。喩え主人公が死んでしまう結末を迎えたとしてもそれはプレイヤーの意志が作り出した物語であり、製作者に「これが正解だ、見ろ!」と、どの選択肢を選ぶかを強制され見せられる押し付けられた物語ではないのだ。ここに物語表現の演出では無く骨子としての「ゲーム」が存在している。
 「意思決定」という要素は、「ゲーム映画」の主部(演出としての「ゲーム」を取り外した根幹部分)である「一本道の物語」には存在しえない「ゲームの本質」の一つである。
 「ゲーム映画」はただの変わった演出の映画(小説)に過ぎず、演出として「ゲーム」が存在してもそれはオマケに過ぎない。「ゲーム」と「物語」はほぼ分離しているといってよい。「ゲーム」を取り外しても「物語」は成立してしまうのだ。ゲームに物語が付加されたとき、物語を主体としてゲームを切り離していったのが「ゲーム映画」である。
 しかし「分岐型」は「ゲーム映画」では切り離された「ゲーム」を演出ではなく根幹として組み込み、それがないと「物語」が成立しないものとなっている。
 「分岐型」は物語を追求する上で「ゲーム映画」では切り離していった「ゲーム」を切り離さず、或いは切り離した後再び組み込む事で「物語」と「ゲーム」を融合させた新たな表現なのである。

 「ゲーム映画」は物語を語る表現としては従来通りの小説や映画の一形態に過ぎないが、「分岐型」は物語を語る表現として、従来のものとは一線を画した「ゲーム」という表現なのだ。この違いは大きい。

 この二つの表現の違いは、White氏の「分岐型アドベンチャーゲームにおけるシナリオ構造の比較」に分かりやすく図式化されているので、以上の文章で分かりづらかったという人は参照してみて欲しい。
 Whiteさんのこの論はADVゲームに限定されているが、図1が「ゲーム映画」、図2が「分岐型ストーリー」の構造と見て貰って間違い無い。

 今回の論考にはあまり関係ないが、物語を得たコンピュータゲームの究極の形態が、それ自体は物語を持たない、システムと世界だけがプレイヤーに与えられ、物語はプレイヤー個々人が作り上げる形式のウルティマオンラインやディアブロに代表されるネットワークゲーム、初期ウィザードリィといった「フリーストーリー作成システム」であることも一応付け加えておこう。

 さて、ここまで来ると一部の方にはビジュアルノベルは分岐型なのではないか? という疑問が生まれていると思われるので、その疑問に答えるとしよう。
 まず、本論考で言う「ビジュアルノベル」とはリーフの「VNシリーズ」ではなく、ジャンルの俗称としてのそれだという事は最初に述べた通りだ。混同しないで欲しい。
 単純にいうと、ビジュアルノベルは元々複数のシナリオ(複数の「ゲーム映画」)が用意されており、プレイヤーはその複数のシナリオから一本を選び、そのストーリーを読んでいくという構造になっている。
 一見、このシナリオの選択部分がシナリオの分岐のように見えるが、実際はフラグ立てというやや複雑な「映画選択」をその映画を見る前に行っているに過ぎない。
 肝はその選択後に提示される各々の一本道の物語であって、その物語にプレイヤーの意志が介在できる余地はないのだ。
 もしもビジュアルノベルが分岐型であるならば、その選んだ物語に自分の意志で影響を与えられなければならない。
 VNシリーズ「雫」やその続編「痕」の場合はパートナーの女の子を選ぶことでそれぞれ独立した一本道のシナリオに分岐しているようにも見えるが、基本的な一つの物語の中の行動としてその選択を行っている為「分岐型ストーリー」と見る事も出来る。しかし「ToHeart」や他社の美少女ノベル物になると、これはもう完全に舞台設定を同じくした複数本の「ゲーム映画」のパッケージでしかない。休み時間や放課後にどこを訪れ、誰と会ったかというだけで偶然に女の子と仲良くなって物語が形成されて行く「ToHeart」はリアルな分岐型と見る事も出来るが、量産されるビジュアルノベルにそのような事を意識した作りを感じる事は出来ない。よって、今日、ビジュアルノベルと呼ばれる作品群は本論考ではゲーム映画と定義づけている。
 しかし、何故サウンドノベルを下敷きとし、分岐型として始まった「VNシリーズ」は、その後、ゲーム映画であるビジュアルノベルへとその表現を変えていったのであろうか。その理由の一点は、ビジュアルノベルが根本的に美少女ゲームであるという点に起因している。
 同級生、ときめきメモリアルといった例を見るまでもなく、基本的な美少女ゲームのゲーム展開とは、多ヒロインの中から一人を選んで攻略する事である。
 かつてはハードルとしての「ゲーム」がプレイ時間の殆どを占め、それを解いた御褒美がヒロインとの恋愛成就やHシーンだったりしたのだが、徐々にその御褒美が「ゲーム」を食うようになり、御褒美はヒロインとPCの織り成す物語へと肥大化していった。それはユーザー、市場がそれを求めた結果である。
 今ではヒロインとPCの織り成す物語がプレイ時間の殆どを占め、「ゲーム」は慣例的にヒロイン選択の手段として残されているに過ぎない。そして各ヒロインのストーリーは一本道であり、自然と美少女ゲームは「ゲーム映画」としてその進化を遂げていったのである(ちなみにここら辺の経緯は、ご褒美をシナリオ展開と読み替えればコンシュマーのRPGにもあてはまる)。
 売れる美少女ゲームを作ろうと思えばそうなっていくのは当然で、VNシリーズもまた、3作目にしてその原則に乗っ取ったのだ、という見方は穿ちすぎだろうか。VNシリーズは美少女ゲームとしての成功を目指す為に「分岐型」である事を辞め、ユーザーが求める「映画」へと変化していったのではないだろうか。そして、それでもどこか映画である事に抵抗しようとした結果が「ToHeart」や「ホワイトアルバム」における「ゲーム映画」としては邪魔でしかなく、プレイヤーの物語没入を妨げるゲームシステムなのではないだろうか。あれらのシステムは、「何も起こらないバッドシナリオ」以外のストーリーを導き出せるならば、立派な分岐型として機能するシステムであり、「複合イベント」はそれを示唆している。

 ともあれ、「ToHeart」の大ヒット後に確立した「ビジュアルノベル」と俗に呼ばれるジャンルではシナリオの分岐とはカモフラージュされたヒロインの選別にすぎず、その後に展開されるヒロインごとのシナリオこそが肝であり、そしてそれは一本道の「ゲーム映画」に他ならない。
 「雫」「痕」の場合は一本のシナリオが先にあり、その分岐にヒロイン選別の意味を後づけしていった節が伺えるので「分岐型ストーリー」と見る事が出来るが、他社の美少女ノベル物になると、これはもう一見分岐型でも本質は完全に美少女ゲームのフォーマットの作品、即ち複数本の「ゲーム映画」のパッケージでしかないのである。
 ちなみに「雫」「痕」と他のビジュアルノベルを比べる事で、分岐型とゲーム映画の区別の仕方の一つが見えてくる。
 「雫」「痕」はゲームスタート後に既に物語が始まっているが、他のビジュアルノベルは開始直後は物語が始まっていないという点は注目するべき違いではないだろうか?
 ゲームプレイでご褒美であるヒロインを選別するという、美少女ゲームフォーマット≠ゲーム映画とゲームプレイで物語上の「行動」を選ぶ「分岐型」の違いが象徴的に表われていると雪駄は考える。

 「ゲーム映画」と「分岐型」を見分ける方法を簡単に纏めよう。

 そのストーリーにおいて正解が一つしかなく(或いは選択肢が存在しなくて)、結局一本道のストーリーが展開するのが「ゲーム映画」。
 状況的に幾つも正解が存在し(或いは全てが不正解で)、どれを選んでも物語が進んでいくのが「分岐型」である。
 また、一見区別がつきにくいような美少女ゲーム等の場合、大概はゲーム開始直後に既に物語が始まっているのが「分岐型」、スタート後にこれから展開する物語を選ぶのが「ゲーム映画」であり、いうなれば「ゲーム映画の複数パッケージ」「多ストーリー選択型ゲーム映画」である。

 さて、ようやく本題だ。
 「ONE」も「Kanon」も「鈴」も多ヒロイン選別攻略型の美少女ゲームである。
 とりあえず複数本の「ゲーム映画」のパッケージと見なし、「ゲーム映画」として評価していこう。

次回に続く


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