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3つの掲示板でシナリオについての議論を眺め、的外れな発言をしていてやっと気づいた。
Kanonというゲームの表現の意味を。

ONEでシステムとシナリオ、プレイヤーと主人公の行動をシンクロさせるって言う離れ業をやって見せた連中がただのビジュアルノベルを作るわきゃあなかったんだよなぁ。そうだよ。KanonはADVなんだって! 俺の馬鹿馬鹿馬鹿〜!! 鳩みたいな複数本のオムニバスノベルでONEのようなシステムの意味が無いだ? 違う違う違う! Kanonはそのシナリオ構成とシステムで一つの物語、いや、ある一つの時間帯の「日常」を描くことが目的の表現だったのだ。Kanonは「永遠」をそのシステム構成で表現したONEと同様のことをちゃんとやっていたのである。本論考ではそれを説明していきたいと思う。


Kanon論考:「奇蹟」から考えるKanonという表現

「起こらないから奇蹟っていうんですよ」

Kanon中、最も印象的なフレーズの一つ「奇蹟」。

何割かのKanonプレイヤーはKanonのテーマは奇蹟であるという見方をしている。
それは正しいと雪駄は感じる。
ただ、それを主張する人間の多くは奇蹟に対する捉え方というのがいまいちあやふやなため、それは違うんじゃないかという反対意見もまた多い。
この作品で起こっている奇蹟なんて主人公の行動と無関係じゃないか。シナリオ的に無意味なとってつけただけのハッピーエンドじゃないか、というのが反対論者の持論だ。
奇蹟が主人公の行動と無関係だっていうのは、正しい。
だが、その奇蹟が主人公の行動と無関係であること自体はテーマの一部なのだ。
無意味ではない。

Kanonにおける奇蹟とは、主人公がその行動で起こしたものではない。
全て「気づいたらそこにあった奇蹟」である。
象徴的なのがあゆや真琴だ。
本来はそこにいないはずのあゆと会っていた。狐の真琴が人間になって自分に会いに来ていた。
彼女らの存在は、それぞれのシナリオで祐一が気づいた奇蹟である。
他のシナリオをプレイすれば、それに祐一は気づかない。
気づかなければ、彼女らの存在は祐一にとっては奇蹟でも何でもない日常の風景である。
だが、気づかれなくても、それは紛れもなくそこの存在する奇蹟なのだ。
奇蹟というのは一瞬のイベントの事だと思い込みがちだが、あゆや真琴の例を見てもらえば分かるように、そういう物だけでなく、危うい状態で成り立っている「状態」の事を示す場合だってあるのである。
シナリオ別のバッドは、日常の中にあった何気ない存在が状態としての奇蹟だと気づいたときに、その危うい状態が崩れる事=奇蹟がいつか終わってしまう事を恐れ、その存在を見る事をやめてしまうが、やはり「日常」を過ごしていくエンディングである。不幸な「非日常」が訪れるわけではない(舞シナリオに例外有り)。
対するハッピーエンディングは、危うさも終わってしまう事も含めて、日常という物を成立させていた状態としての奇蹟を見つめ続けた結果、奇蹟の終わりともう一つの奇蹟の始まりを見るということである。そして、奇蹟が成立させ、最終的な状態としてそこにあるのもまた「日常」である。
どのエンドも、どのシナリオも結局「日常」から始まり、「日常」に回帰している。裏に奇蹟を内包した「日常」を。
エンドごとに起きている事の差というのは実は殆ど無いのである。
栞のバッドエンド。あれは栞は死んでしまったのだろうか? そんな描写はない。あれは主人公が知らないだけで実際は助かって大事を取って入院してるだけかもしれない。祐一に早く会いたいという気持ちがトゥルーに比べて少ないからわざわざ無理をして学校に来ないのだ、という見方を否定する要素はどこかにあるだろうか?
また、栞はすでにあゆ、祐一と出会った事で自殺を踏みとどまっており、あの時点で死ぬつもりだったがそれをやめて生きる事を望んでいる。結果、二人に会わなければそこで死んでいたはずの栞はゲームの期間中、生きていた。それはすでに奇蹟といえる。よしんば、その後に病に負けて死んでしまったとしても、彼女がそれまで生きた日常は奇蹟以外の何ものでもない(余談だが、栞シナリオラストの栞が救かるという奇蹟、あゆや祐一と出会ったという奇蹟は、状態ではなく、イベントとしての奇蹟である。そして出会いの奇蹟性はその時ではなく、後になって気づく。奇蹟というフレーズを印象的に使用するシナリオだけあって、その扱いもまた他のシナリオより印象的である)。
真琴はすでに存在自体が奇蹟だし、舞もまた祐一と再会しなかったとしても、佐祐理との出会いという奇蹟は起こっているし、佐祐理にとっても舞との出会いは奇蹟だ。あゆもまた生き霊の段階で奇跡だし、姿を消した後も祐一たちが知らないだけで目は醒ましていた可能性は非常に高い。
名雪はあんなことがあってもまだ祐一と自然に接する事ができる、祐一をまた好きになる可能性があるという、その心の持ちようがすでに奇跡である。

もう一度いおう。Kanonにおいて「奇蹟は気づけば確実にそこにある」のである。

バッドでもトゥルーでも、どのシナリオでも奇蹟がそこにあるという事実は全然変わっていないのだ。
ではシナリオごと、エンド毎の違いは何なのかというと、主人公が奇蹟に気づいたかどうか、気づいたならばどの奇蹟に気づいたかという、その点なのである。

ではそのシナリオ・エンドの違いを導き出すものはなんだろうか?
それはKanonのゲーム部分である。

Kanonというシナリオ、システムは一定期間内の何気ないが、奇蹟を内包した「日常」を表現している。
プレイヤーはゲームのプレイ中、祐一という「日常探索ツール」を用いてその裏に隠された「奇蹟」やドラマを探すのを目的とした「ゲーム」を行う。
Kanonは一見するとノベル型としてテーマやメッセージを物語ることを目的としたPC上で動く小説や映画のような作品に見え、ゲーム部分は物語をを選び、ページをめくる作業が少し複雑化しただけの電子小説のように見えるが、その実は何気ない日常という環境を表現した「環境シミュレーションゲーム」なのではないだろうか。
限られた時間というゼロサム資源を管理し、如何に消費するかをプレイヤーが意思決定し、主人公が「日常」という状況から何をどれだけ得るかを目的とする「ゲーム」ではないのだろうか?

余談だが、Kanonが上記のようなゲームだとして、主人公が得る資源を全て用いても、一回のプレイで全て(の日常に隠されたドラマ)を得ることはできない。たった一つのドラマの全容を知ることで資源は底を突く。これは現実、時間というゼロサム的なものを上手く表現し、望んだ全てを得られないリアリティを示しているといえないだろうか。そしてそのリアリティは「日常」を表現する上手い演出になってはいないだろうか?

そしてKanonが環境シミュレーションゲームであるならば、Kanonというトータルでの表現自体には「日常」を表現するというテーマはあっても、種々の掲示板で論議されているようなメッセージ性というものはないのではなかろうか。
「コミックぱーてぃー」が同人誌作成シミュレーション(勿論、エンタテイメントだから面白くデフォルメしたもの)の表現をテーマ、目的とした「ゲーム」であり、根本的にはメッセージを持った物語では無かったのと同様、Kanonもまた(勿論エンタメとしてデフォルメされた)日常の表現を目的とした「ゲーム」であり、メッセージを持った電子小説などではないのではないかと雪駄は提案し、この論考を結びたいと思う。
勿論、ゲームを攻略して得られる個々のドラマに何らかのメッセージ性のようなものがあるのは「こみパ」も「Kanon」も同様だとは思うが、それは要素であって主体ではないと雪駄は考える。

Kanonはメッセージを持った物語などではなく、日常を表現する事をテーマとしたシミュレーション「ゲーム」なのだと。
製作者が表現したかったのはエピソードによって語られるメッセージではなく、ゲームによって表現される日常そのものだったのではないかと。

そしてゲームという表現における独特の演出ファクター、プレイヤーの思考や行動と操作するキャラクタ、ひいては創作された世界との一体感はKanonにおいて見事に表現されている。
祐一は日常に隠されたドラマを見るか見ないかを選択するだけであり――、プレイヤーが実際にマウスで選択肢を選ぶ行為は、それと全く同じ意味を持ってシンクロしているのである。

例)興味の無い話には首を突っ込まない祐一=プレイヤーが興味が無かったからそう選択した。

KanonはONEと同様、極めて高度なバーチャルリアリティを実現させた類希な「ゲーム」であったといえないだろうか。


ところで、Kanonにおける奇蹟とは日常といういう何気ないものを形成している非日常的なバックボーンである。ONEやMOON.において、Keyスタッフは「非日常」を大きく扱い、対比にする事で「日常」の煌きを描いてきた。
Kanonはテーマである「日常」を描く事でその裏に隠されたそれを構成する「非日常」を浮かび上がらせ、さらにその「非日常」でもう一度「日常」を浮かび上がらせる多重表現で「日常」を語った作品であるという見方は穿ちすぎだろうか?

…これだけ持ち上げといてなんなんですが、構造的に良く出来てる事とプレイしてて「面白い」ことは全く別ですよね。
私はKanonを良く出来た作品であると思いますけど、特別面白いとは思ってないです、はい。
だから他人には薦めません。買ったことは後悔してないし、えぐえぐ泣かされたし、好きな作品ですけどね。

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