コン、コン。
二度ノックされた後で、扉が静かに開いた。
「真琴」
秋子さんの声が私の名前を呼んだ。
「あ…はい?」
熱でボーっとしながらも、私はなんとか返事をした。
「あ、いいですから、横になっていて下さい」
「あぅ……」
起き上がろうとする私に首を振って微笑み、秋子さんが枕元にやってくる。
額に当てられた手がひんやりと冷たく、気持ち良かった。
「ごめんなさいね。急に出かけることになってしまって。家の中、誰もいなくなってしまいますけれど」
さっき起き上がろうとした時にずれてしまった布団を直してくれながら、秋子さんが本当にすまなそうな表情を作る。
「あの…、大丈夫だから」
私は慌ててそう言った。
コツン。
秋子さんは、今度は私の額に自分の額を当てて微笑んだ。
少しだけさっきよりあったかくて、そして、いい匂いがした。
「そうですか。おとなしく寝ていて下さいね」
うん、と返事して私は布団を引き上げた。
熱のせいだけじゃなく顔が赤くなっているのが、自分でもわかった。
「あっ、あゆちゃんがお粥作っておいてくれたんですって」
「…あ、あゆが作ったの?」
今度は血の気が引くのがわかった。
次の瞬間、家中に響き渡るような絶叫が聞こえてきた。
「ぎいいやぁあー!! なんなんだよ、この鍋の中の物体は――っ! 秋子さ――ん!!」
秋子さんが、あらあら、と微笑みながら部屋を出ていった。
あぅー。あゆの料理、こわいよぅ…
ぱたぱたぱたぱたぱた……
ドスドスドス……
スリッパを履いた秋子さんの小さな足音が遠ざかっていくのに反比例して、乱暴な足音が近づいて来る。
途中で二つの足音が同時に止まって、話し声が聞こえて来た。
「まったく、あのうぐぅときたら…」
この家で、こんな言葉づかいをするのは一人しかいない。さっきの絶叫の主だ。
そいつと秋子さんの話に耳をそばだてると、どうやら、あゆのお粥の話をしているらしい。
秋子さんが味を調えてるって言ってる。…良かった。
暫くして話が終わり、また一つの足音が遠ざかり、一つが近づいてくる。
バタンッ。
秋子さんが優しく閉めた扉が、今度は乱暴に開かれる。
「あはは、バカしかひかない夏のなんとかってな!」
そいつがベッドで動けない私を見て、嬉しそうに笑った。
ムカ。
「今はまだ、夏じゃないわよぅ…」
バカは祐一だもん…。
憎まれ口を叩こうとしたけれど、上手く舌が回らなかった。
やっぱ、ちょっと、グラグラ。
「俺も、これからあゆと映画に出かけるから。風邪くらいで真琴に付き合ってる暇ないしな」
前売券を買っていた名雪が、急に用事が入って行けなくなった、今日までの映画。
ホントは、あゆじゃなくて、私が祐一と行くはずだったのに。
うー。
「だいたい、マコピーのくせに根性座ってないんだよ。お子ちゃまだから自己管理とか、出来ないんだろう。
食いたいだけ食って、眠りたいだけ眠るなんて、ガキやどーぶつのすることだぞ」
「いちいちうっさいー! もー、真琴は病人なんだから、ちょっとは優しい言葉の一つでもかけなさいよー!!」
そんな風に怒鳴りかえしてやりたかったけれど、やっぱり声が上手く出ない。
あぅー。
元気になったら、今度はもっと酷い悪戯しかけてやる。
そう私は心に誓いながら、精一杯睨んでやった。
「ま、映画は俺とあゆで力いっぱい楽しんでくるからな! 真琴はゆーっくり、寝てな。
そうそう、『あの』あゆが、ありがたくもお前なんかの為にお粥作ってくれたから、腹減ったら遠慮せずに食えよ。美味いから」
そいつは私の視線を軽く受け流しながら、へらへら笑った。
もぅ、本当、治ったら酷いんだから…!
「……」
そのまま、へらへら笑いながら部屋を出て行こうとしたそいつは、急に立ち止まって振り返った。
あぅー、まだなんか嫌がらせ言う気なのー? ゆっくり寝かせてよぅ…
「あ、それと」
枕元に寄って来る。
「ほら」
何かをズボンのポケットから出してひらひらと掲げて見せる。
数字が書いてある…メモ?
「? なにこれ」
キョトンとする私にそいつはぶっきらぼうに答えた。
「携帯のナンバー」
手渡される。
「どうしても辛いって時だけ連絡とってもいいぞ。緊急時以外鳴らしたら、殺すからな」
それだけ言うと、さっさとそいつは部屋を出ていった。
もう振り返らなかったけれど、扉を閉める前に、後ろ向きで、私に手を振って。
「ゆーいち君、遅れるよ〜」
あゆの声が玄関先から響いてくる。
くすり、と私は笑って、そして目を閉じた。
絶対、緊急時以外に鳴らしてやろうと心に決めながら。