身体の傷に風が凍みる。
冬になるといつもこうだ。
つまらない事で喧嘩してしまう。
この季節は食べ物も少ないし、風も寒いし、それに…。嫌な事を、思い出すから。
雪が解けて、風が痛くなくて、何も思い出さずに済む春が恋しい。
早く春が来ればいいのに。
春が来て、ずっと春だったらいいのに。
「おい。ボロボロじゃねえか。どうしたよ」
仲間と喧嘩した後、いつものように丘の外れで傷を舐めていた私に声をかけてきたのは、見慣れない薄汚れたチビだった。確かに私は怪我を負って、奇麗な身体がいささか傷物になっている。だけどそいつよりは奇麗だった。失礼な奴!
「…アンタに言われたかないわよ。そっちの方がずたぼろだわ」
「違いねえや」
自分の姿を省みたそいつは苦笑いして身体の埃を払うと、馴れ馴れしくも私の隣に座った。
「物は相談なんだが」
そっぽを向く私を気にした風も無い。
「ここら辺で食い物にありつける場所といったら…」
うっとおしくなって、私は無視した格好のまま立ち上がる。
「おい、待てって」
聞こえない。そのまま立ち去ろうとするとチビは私の横にぱっと寄ってきた。
「案内してくれんならもう少しゆっくり歩いてくれよ?」
呆れた。
私は立ち止まり、言ってやる。
「いい? ここはアンタみたいな余所者が食事をしていけるような場所じゃないの。昔っから…、ずうっと昔から、この土地の主は決まっているの。アンタみたいな薄汚れたチビが下手にうろついていたら酷い目に会うわよ。とっとと自分の居場所に帰りなさい」
チクリ。
自分の言葉が自分の胸に刺さる。
「…アンタみたいにか?」
「……っ」
刺さった言葉がチビの追い討ちで抉れた。
私は言葉を失う。そう…。私は自分の居場所に帰っている。
「…わ、悪かったよ」
チビは私から目を逸らしながら謝ったが、その謝罪の意図は、きっと違っている。
「いいよ」
私は言った。
「ついてきなよ。私のとっときの場所、教えてあげるから」
…
……
………。
朽ち木から引っ張り出したカミキリムシやクワガタの幼虫を平らげるチビの姿を見ながら、(鼻を噛み付かれて難儀していたのを笑ったのを除いては)私は黙りこんでずっと考えていた。
私の居場所のことを。
「…ぃ、おいって」
チビの声で現実に引き戻される。
「助かった。ありがとよ。はらぺこで死にそうだったんだ」
「…別に。きまぐれだから」
きまぐれ。
その言葉を反芻し、慌てて否定する。
「ううん。そうじゃなくて…」
「…?」
チビは首をかしげた。
「代わりに、私がお腹を空かせていたら助けてくれればいいから」
「人間みたいな事をいうんだな」
「五月蝿いな。私たちの一族だと、そのくらいは考えるわよ。アンタたちみたいに薄情じゃないもの」
「薄情じゃない。自分が生き残る事に誠実なだけさ」
くくっ、とチビは喉を鳴らした。
「でも、分かった。お前が腹を空かせていたら助けてやる。人間の街に降りる事があったらな」
偉そうに胸を張る。
「アンタ、人間の街から来たの?」
「元々は飼い猫だった。だけど、ちょっとばかり賢すぎたんで逃げたんだ」
「自分から?」
「ああ」
「…辛くなかった?」
「賢いから。食い物のありかはいくらでも見つけられるし、ちょっと適当な人間に猫なで声を出して一夜の暖をとることだって楽勝だし…」
チクリ。
また、胸に刺さった刺がうずく。
「ただ、賢すぎたんで同族の顰蹙買っちゃってさ。根城を追い出されて流れてきた。向こうの街からな」
チビは私が見下ろしていた舞とは違う方向を尻尾で差した。
「今度は別の街で上手くやるさ。色々と人間以外のことも覚えたし」
「…そう」
「なぁ、なんだったら一緒に街に降りないか? 上手くすればここより良いもの食べられるし、主とやらに痛い目に合わされる事も無いぜ。恩返しに、人の間での生き方ってやつ教えてやるからさ」
「昔…、昔に降りた事あるよ。人間とも、上手くやってた事、…ある」
私は呟いていた。
「…ふぅん」
チビは目を丸くして私の顔を覗き込んだ。
何か尋かれる前に私は口を開いていた。
「だからかな。仲間に苛められるんだ。アンタ勘違いしてるみたいだから言っておくけど、この丘の主って、私の一族なの。古来から人間たちも恐れている、ね。だから降りる気はないよ」
あの人が戻ってくるまでは。
「そうか。ものみの丘のよーこ…、よーこって人間じゃなくて、妖狐、狐…か」
チビは何事か納得したようにうんうんと肯いていた。
ものすごく頭が良いようだ。下手したら私の一族の長老並かもしれない。
「まぁいいや。気が向いたら降りて来いよ。お前、奇麗だから上手くすれば人間に可愛がられるぜ」
「知ってる。でもいかないんだ。それより嫌な目に会うから」
「…ふぅん。なら、復讐とかしないのか? お前ら、そういう一族なんだろ?」
「誤解よそれは。やろうと思えば出来るけど…、仲間に止められてる。相手ももういない。いなくなっちゃたんだ」
それは人間が作り出した話だ。
不思議な力で人間に災禍を見舞う。
チビはそれを元の飼い主辺りから聞いているらしい。
「そうか」
「でも、いつかまた出会ったら、その時はなにがなんでも復讐してやるけどね」
私は言っていた。
「『さわたりまこと』って人間知ってる?」
「…そいつがお前の復讐相手か?」
チビは急に声のトーンを落として言った。
「ううん。復讐相手が好きだった人間。その姿に化けて復讐してやろうと思って」
大好きな人間に嫌いだと言われる苦しみ、大好きな人との別れの辛さを味あわせてやるんだ…
「そうか」
チビは暫く黙って考え込むように俯いていたが、急に私の顔を覗き込むようにして言った。
「…さわたりまこと。そいつ俺、知ってるよ」
「え?」
「染めてはいないけど、色素が薄くて太陽に透ける長い髪の毛をしていた。それを赤いリボンで…」
「え? ちょ、ちょっと…」
チビは呆然とする私にその沢渡真琴という女性の姿や格好を一通り伝えると、じゃあな、とそれだけを言ってさっと駆けていってしまった。
慌てて走って追いかけるとすぐに追いついたが(歩幅も土地勘も段ちだ)、チビはこっちを見もしない。
そのまま私たちは無言のまま丘と人間の町との境界線まで走った。
「次に俺に会うときは真琴の姿なんだな。腹減ってたら助けてやるよ。じゃ、な」
言ってそのチビの猫は、街の雑踏へとあっという間に消えてしまった。
残された私は、ただ、それを見送っていた。
懐かしい、人間たちの匂いを嗅いでいた。
暫くして帰ろうと街に背を向けたときだった。
その匂いが風に乗って流れてきたのは。
懐かしくて、愛しくて、憎くて、ずっと求めていた、その匂い。
「ねぇ、アンタ、そういえば名前も聞いていなかったけれど…。だけど、すぐにまた会えるよ」
呟きはチビのあいつに届きはしなかっただろう。
だけどそれは私の決意だ。届かなくてもよかった。
私は身を翻し、匂いのした方向へと走っていた。
一瞬だった。もう風はない。
だけど、それはあの人の匂いだった。
あの人の胸の中で嗅いだ匂いだった。
ゆーいちの匂い。
何処かで姿を変えよう。
かつてゆーいちが、ついさっきアイツが教えてくれた「沢渡真琴」の姿に。
そうすれば、ゆーいちは私を見つけてくれる。
大好きな沢渡真琴の姿なら。
私がゆーいちのことを忘れても、ゆーいちは大好きな沢渡真琴になら会いに来るはずだ。
すれ違いでもすれば、あいつから私を探しに来てくれる。
全てを、過去も未来も喪ってしまうけれど、そんなのはどうでも良かった。
ただ、会いたかった。
会って、憎いと言ってやりたかった。
私を捨てた事を後悔して欲しかった。
…会いたかった。
それだけだった。
だから。
今から私は死んでしまうけれど、その次の瞬間には沢渡真琴が立っているはずだ。
それで会えるなら良かった。
熱くなった私の胸を冷ますように、天からは冷たい雪が舞い下りている。
…
……
………。
キキーッ。
深夜の街に、タイヤがアイスバーンとなった路面を引っかく音が聞こえる。
ドン。
…パサ。
何かがぶつかり、舞い上がり、そしてゴミの上に落ちた音がする。
慌てて車は走り去っていく。
…。
犬の死体でも捨てられたかと、傍で寝ていたホームレスが不機嫌そうな顔で「家」から顔を出す。
そこにあったのは犬などではなく、あどけない顔で眠る女の子の姿である。
頭を掻きながら声をかけるが返事が無い。
しようがねえな。
そんなことを呟きながら、ホームレスは自分の予備の寝床にその少女を寝かせる。
しばらく寝顔を見ているが、大きなあくびを一つし、自分の「家」へと戻っていく。
…。
ものみの丘で「チビ」と呼ばれた猫は、丘で出会った気の良い狐の匂いを見つけた。
その匂いを追いかけていくと、ホームレスと呼ばれる人間たちの集落へと辿り着く。
慎重に近づいていく。
朝日が匂いの出所を照らす。
チビは苦笑した。
自分の元の飼い主の亡き娘、沢渡真琴…に似た背格好の少女が眠っていた。
髪の色や服装、頭のリボンは合っている。
だが、肝心の顔がまるで似ていなかった。
(そんなんじゃ、お前の元の御主人様に会ったって意味ねえじゃねえかよ)
(ま、俺には関係ねえけどな…)
人間が飯を食うには金か。
どうやって調達してくるかね…
のちにピロと呼ばれる事になる猫は、一声、少女に呼びかけた。
「よぅ、また会ったな」
全てを捨てて再会を望んだ少女の物語の始まりには相応しい挨拶だ。
だが、全てを忘れた少女はその声の意味を知ることは無い。