「あのさぁ」  七瀬はぼんやりと川を眺めながら言った。 「瑞佳さんって氷上君――もとい、あの折原浩平の何処が好きなの?」 「え? え?」  いきなりそう訊かれて、驚いたように瞬きを繰り返す瑞佳。  だが彼女はすぐににっこりと微笑んで言った。 「優しいから」  その無垢な微笑を横目で見つつ、内心で顔をしかめる七瀬。 (う……可愛いじゃない) 「わたしは――浩平がいないと駄目なの」  瑞佳は夢見るような口調で言う。 「浩平が居ないとわたしは――『みずか』は生きている意味もないの。浩平が居てくれるからわたしは生きていけるの。わたしは、あの人と出会うために生まれてきたのよ……」 「そ……そこまで言う?」  若干たじろいだ表情を浮かべて七瀬が言う。 「わたしはあの人がいないと駄目。浩平だけが『みずか』を構ってくれるの。浩平がいなかったら、わたしはひとりぼっちなの。わたしは、わがままで要らない子だから、浩平だけがわたしを拾ってくれるの。わたしは――」  瑞佳はひたすらそう繰り返す。ひたすら淡々とした口調で―― (――そうか)  七瀬はふと思い至った。  それは呪文だ。彼女が彼女自身にかけた呪文。浩平の存在なくしては、自分は一歩でさえ未来に進めない――彼女はそう自分に言い聞かせてしまっているのだ。  どうしてそんな風に彼女が考えるようになったのか……詳しいことは分からない。知らない。だが、自分という人間の存在を、肯定できなかった末に、その意味を他人に求めようという考え方は、七瀬にも覚えがあった。  他ならぬ七瀬自身が、そういう考え方をしていた時期が在ったからだ。 「他の人じゃ駄目なの?」  そう尋ねると瑞佳はきょとんとした表情で瞬きした。 「他の人?」 「他の、優しい人が――長森さんを構ってくれる人が現れても、長森さんは折原が居ないと駄目なの?」 「……そんな人、いないよ」  瑞佳は当然――といった口調でそう言う。 「浩平だけがわたしを構ってくれるの」 「どうしてよ。他の人だって貴女を好きになってくれるかもしれないじゃない」 「でも浩平だけなんだもの」  瑞佳の口調は変わらない。まるでごくごく当たり前の常識を告げているかのように、迷いのない口調だった。 「――あのさ。もしも――もしもよ?」  一瞬、七瀬は躊躇する。  自分はひょっとしたらこの瑞佳という娘の息の根を止めるような一言をこれから言おうとしているのかもしれない。  だが―― 「じゃあ折原が死んじゃったりしたら、瑞佳はどうするの?」 「………」  瑞佳が不思議そうな顔で黙り込む。  何を言っているのか分からない――そんな表情だ。 「折原が居なくなったら、瑞佳が生まれてきた意味は無くなるの? その瞬間に瑞佳の人生って、全然無意味になるの?」 「…………そんなこと、ない」  瑞佳は――どこかぼんやりした口調でそう言う。 「だって。浩平が死ぬ筈ないもの」 「どうして?」 「浩平は死なないから」 「だから、どうして死なないの? 折原も人間でしょう? だったら死ぬことだってある筈じゃない。事故とか。病気とか」 「でも浩平は死なないんだもの」  うわごとを呟くかのように――眼の焦点を曖昧にしたまま瑞佳が言う。  恐らく、彼の死というものを受け入れない事で、彼女は自分が存在している意味が喪失してしまう事を避けているのだろう。彼女は浩平が居てこその長森瑞佳であると自分で決めてしまったのだ。  だから浩平は死んではならない。 「――結局さ」  七瀬は溜め息をついて言った。 「瑞佳は折原が好きなんじゃないんだよね」 「――え?」  瑞佳が困惑の表情を浮かべる。 (折原浩平って人は――結局、記号なのよね)  そんな事を七瀬は思う。  自分に優しくしてくれる人。自分を構ってくれる人。結局――彼女はそういう条件に浩平という名前を当てはめているだけに過ぎない。浩平個人を見ているのではなく、ただ自分の記憶の中で、一番自分に優しかった人、自分が辛い時に一番慰めてくれた人を、一種の象徴として用いているだけなのだ。  だから誰でも良い。自分を構ってくれる人。自分の存在に意味を与えてくれる人。自分を見捨てないで居てくれる人。そういった誰かであれば、彼女にとっては『浩平』たりうるのだ。 「楽がしたいだけでしょう?」 「え? ええ?」  意味が分からず瑞佳は表情を不安げに歪ませる。 「楽よね、何も考えずに『自分は浩平のために生きている』とか思うの。すごく分かり易いじゃない。色々選ばないといけない時だって、悩む必要ないし。誰かに身も心も捧げちゃうのって、実はとっても楽」  七瀬は苦笑した。 「逆に言ったらさ。捧げさせてくれる人なら――自分を拒絶しない人なら、誰でもいいんだよね、そういう場合。でもそれって、誰かを好きになってるのとは違うんじゃない? 相手の人は、自分が楽をするための道具でしかないもの」 「え? でも――でも」 「それってさあ。結局、自分一人で居るのと変わらないじゃない。自分と考えが違って、感覚も違って――でも、そういう誰か他人と一緒に居るから楽しいんじゃない。どっちかがどっちかのために存在してるとか、誰かが誰かと出会うために生まれてきたとか――それって言葉だけ見てたら美しいけどさ。結局、自分の行動とか判断の責任を全部誰かに押しつけてるわけだし。そういうのって、実際にはすごく――」  一瞬言いよどむが、それでも七瀬は続けた。 「すごく気持ち悪いよ」